タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

麓のない山登り

2020年09月18日 | 山歩きから
予報通り雨になりました。裏山歩きをキャンセルしてブログの更新です。長文になりますが、最後まで読んで頂けると幸いです。

     

昭和33年に創刊された山の雑誌「アルプ」です。この雑誌はタカ長の青春とともにありました。

早くから定期購読していたタカ長は、この雑誌から多くのことを教えられたことは間違いありません。しかし、何をどのように教えられたか、と問われると具体的に答えることは出来ません。空気のようにタカ長にしみこんでいったのかも分かりません。

昭和58年2月、アルプは300号をもって終刊を迎えます。その終刊号に「麓のない山登り」(川崎精雄・日本山岳会会員・著述業)と言う一文があります。

近頃の日本の山は、どこも核心地帯まで立派な道路が通じてしまった。私たちの山登りは、今や「麓のない山登り」である。

    
                二軒小屋駐車場を出発して登山開始

いつの頃からかタカ長も「麓のない山登り」を意識するようになりましたが、それが川崎精雄のこの一文によるものかどうか、自分でも分かりません。

これを読むとタカ長など麓のない山登りの時代から登山人生が始まっているようにも見えます。でも、自分の時代しか知らないタカ長には、麓のある登山をしていたような認識も持っています。

そのように思いつつ、先人が残した紀行文など読んで、彼らが自分の麓を持っていることを羨ましく思っています。

昔のことばかり書くのは気が引けるが、あの頃の山登りにあっては、麓は山頂にも等しく欠くべからざる存在であり、場合によっては主題でさえあった。だから山男は、それぞれおのれの愛する麓を持った。上高地、細野、八ッや那須の裾野、梓山、栃本、清水、藤原、等、等。そこを通過するだけでは気が済まず、出来れば滞在して、逍遥し山を眺め、そこの情趣を満喫したものだ。(川崎精雄)

    
タカ長たちが登った至仏山。鳩待峠まで車で行ったので、この山は「麓のない山登り」です。

 

北側から尾瀬を目指す登山者にとって檜枝岐は大切な麓でした。しかし、そのことを知ったのは先人たちの紀行文によるもので、タカ長は檜枝岐に行くチャンスに恵まれないままこの歳になってしまいました。

    
              二軒小屋駐車場へゴールイン

広島の登山者がこよなく愛した恐羅漢山の麓の古屋敷や二軒小屋。

そこは麓の町戸河内から内黒峠を越えたところにある集落なので、川崎精雄が言う「」と言えるのかどうか、タカ長には分かりません。

しかし、少なくともサンパチ豪雪までの古屋敷は、タカ長たち広島の登山者には大切な「麓」であったと思っています。

    

恐羅漢山にスキー場が出来て、山はすっかり変わってしまいました。今はどんなにひいき目に見ても、麓のある山とは言えなくなりました。

10月10日、その麓のない恐羅漢山の麓を歩く予定です。お世話をお願いしたのは「同窓会のような山登り」の言いだっしぺの歌姫さんやganchanさんたちです。

    
            先日登った羅漢山も麓のない山になりました。

当日、どこをどのように歩くかは未定ですが、どこを歩いても内黒峠にある加藤武三の碑を訪ねるつもりです。

この一文を書いていたら、この内黒峠も広島の登山者には恐羅漢山の麓のように思えてきました。

    

前方に砥石郷山や恐羅漢山を見ながら下りる峠道ですが、青春のころの記憶にはこのような風景はありません。ほとんどの場合、内黒峠を夜越えていたからかも分かりません。

漆黒の内黒峠を越えて、遠くに古屋敷の灯りを見た時の、ホッとした安堵感は今でも鮮明に覚えているのですが、、、、、、。

    

その「同窓会のような登山」には加藤武三のお嬢さまも参加されます。タカ長にとって加藤武三は雲の上の人なので、一緒に山登りをしたことがありませんが、お嬢さまはタカ長の母校の先生をされていたこともあり、身近な存在なのです。

当日は内黒峠にある加藤武三の碑を訪ねるつもりででしたが、お嬢さまが参加されるのなら絶対に行かないといけません。偶然と言えば偶然ですが、翌日は加藤武三の命日だそうです。

    
               恐羅漢山のスキー場を見ながら二軒小屋駐車場へ

そのようなこともあって、いつも以上に楽しみにしている10月10日の登山です。
お天道様、この日だけは晴天にして下さいよ。


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