よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします。
故富山眞順氏が、平成元年6月発行の村老人クラブ連合会の記念誌に「記念誌発刊によせて」と題する随想文を寄稿している。
富山氏といえば戦時中渡嘉敷村の兵事主任していた新城眞順(戦後富山に改姓)氏のことで、戦後、手榴弾は軍が配布したという「富山証言」をしたとされる人物である。
「集団自決訴訟」の被告側証言として「軍命を示す手榴弾配布説」で裁判のキーマンともなる人物でもある。
「住民に自決命令として手榴弾を渡した」ことを証言する人物なら生き残った軍人たちとは敵同士になるものと考え勝ちだが、手記にはそのような「自決命令を命令した軍」への憎しみは微塵も感じられない。
これは昨日エントリーの玉井村長の手記でも同じことが言える。
富山氏の随想には、流布する言葉とはうらはらに本土旅行などを通じて、遺族会の会員が旧赤松隊員のお世話になっていた様子が記されている。
ここにも沖縄タイムス等地元マスコミが決して報道することのない「集団自決遺族」と旧軍人たちの交流がある。
一方、集団自決の生き残りである金城重明兄弟は、島の戦没者慰霊祭にも参加しないで村八分状態にあるのも集団自決問題の皮肉な一面である。
「集団自決訴訟」の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」。
これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。
その結果出てきたのが、被告側が唯一「物的証拠」の根拠とする「手りゅう弾軍命説」。
⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」
◇
以下、富山眞順氏の手記を引用します。
渡嘉敷村老人クラブ連合会「創立20周年記念誌」平成元年6月発行 より富山眞順 元会長の手記
記念誌発刊によせて 元連合会長 富山 眞順
先輩の与那嶺勲氏より、渡嘉敷村老人クラブ連合会長の要職を引き継いだ当時、足腰が立つまで頑張って、素晴らしい団体に総てを纏めて賞賛される事を考えて会長を引き受けた。就任してみると思ったより楽しい会で、計画どおり会員の皆様が活動して呉れるので、実に充実感が一杯でした。
就任の年、母の日に渡嘉志久海岸で屋外観察会を催した。出席の皆様に生涯忘れられぬ母に日になるよう、たがをはずしてモーアシビにしようと呼びかけた其の大会で、通りかかった国立沖縄年青年の家所長、着任早々の井澤所長は参加を希望なされたので、皆で歓迎したら、先生、本根の隠芸は出るや、独唱は出すや、お酒は喜んで戴くやで、とてもお喜びになられた。会員もツクイ(作り)酒小でたがをはずしていた。
先生は、その恩返しに「西山温泉の夕べ」を催し、老人クラブは招待を受け、草津温泉の花を取り寄せて風呂を焚き草津節の民謡に乗っての招待。草津温泉一度はおいでとメロディーは続く、西山温泉は生涯の想い出で、現在も続いているのは井澤先生の申し送りでなかろうか。村の老人クラブにしては、楽しい夕べであり長寿につながる快況であり、厚くお礼申し上げます。
総会の集会の時間励行の徹底に就いては、他の組織では見られぬ快況であり、時間励行は他組織団体の模範である。各自の自覚性は素より、責任感と会運営の指導者に依るその行動は永代過去あるべきで益々の発展を願うものです。
私が在任中に県社会教育の主催で公民館活動実績発表大会があった。私は会の運営実績発表を組織で集合時間を決定したら、定刻前に集合を完了して、定刻にはきちんと開会出来ると発表したら反響が大きく、関係者から質問攻を受けてなっとく行くまでご説明を申しあげたことがある。実に素晴らしい村民性であると発表した。改善を図らねばならない事は、男性が集会に尻込みすることである。是は第一次的には女性と一緒に踊れない、第二次はまだまだ野良仕事に出向く都合もある。現在は70歳までは働き盛りのためである。指導者の善導をお願いしたい。
在任中観光旅行も想い出の一つである。沖縄市在の東南植物楽園を廻り、海洋博後や国頭村老人クラブとの交流などありました。
最も想い出深いのは、九州旅行である。旅行が決定したので、ご迷惑と思いましたが、近くの大分市中央通りで大きなホテル経営の佐伯氏に、ハガキで一目逢いたい。老人クラブを案内していると通知していた処が、佐伯さんの指示で樋口梅雄氏が原鶴のホテルで迎えられて、全員にお土産や色々寄贈があり、大宴会でした。
別府へ行くと四国建設社長の谷本小次郎氏がレストランで迎えていた。連下政一氏、福山市池田幸政氏、岡山市等地獄廻りを済ませてホテルに着くと佐伯さんの奥様や長男を同伴して、素晴らしいお酒等御持参して大歓迎を受け生涯忘れぬ想い出となりました。
広島の高橋正登氏からは、風邪でこれないとのことで多額の餞別が届いてほんとに泣けた。翌日は佐伯氏の車で草千里から阿蘇火山まで追いかけ懇談がつきなかった。戦友はほんとに懐かしい者である。同行の会員も満足したと思う。村議会も漁協長も終了したら、又戻って皆と共々活動に精を出したいと思っています。
世界一の長寿村を御祈念して、渡嘉敷村の老人クラブの益々のご繁栄を念願申しています。
注 1.富山眞順…旧姓新城、1917年2月生まれ、戦中は渡嘉敷村役所兵事主任・帝国在郷軍人会渡嘉敷分会長。渡嘉敷村職員その後議会議員、村漁協組合長を経て1999年12月没享年83歳
2.読点、句点は適宜補った。
◇
■富山証言は誰かに強制されたウソの証言である■
文中登場する人物(赤字)は戦時中渡嘉敷島に駐屯していた赤松隊長の部下たちであるが、
とても自決を命令した「鬼の赤松」の部下である「残虐非道な軍人たち」には思えない。
「富山証言」は『渡嘉敷村史・通史編』に記され「軍の命令」「軍の関与」の根拠となっていが、
この『渡嘉敷村史・通史編』は、1990年に発刊されており、「富山証言」の内容は「軍命」を正当化するために誰かに強制されて書かれたものと見られる。
その理由は、上記の手記は「富山証言」(1990年)の1年前の1989年(平成元年)に書かれており、手記にある次のような部分を読むと、
富山氏が自分の意思で「富山証言」をしたとは到底考えられないからである。
「・・・佐伯さんの奥様や長男を同伴して、素晴らしいお酒等御持参して大歓迎を受け生涯忘れぬ想い出となりました」
「広島の高橋正登氏からは、風邪でこれないとのことで多額の餞別が届いてほんとに泣けた」
「翌日は佐伯氏の車で草千里から阿蘇火山まで追いかけ懇談がつきなかった。戦友はほんとに懐かしい者である。同行の会員も満足したと思う」
「親兄弟を殺害するする」ような「自決命令」を出した旧軍人たちとその遺族が、
このように「生涯忘れぬ想い出」とか「泣けた」とか「懇談はつきない」「同行会員も満足」といった最大級の信頼、親密さをもって交流できるものだろうか。
この手記の1年後に、ある意図を持った何者かに強制されて不本意ながら「軍命説」の富山証言」をしたと考えるのが自然である。
富山氏が「真実」は語らず「墓場まで持ち込んだ」ことは島の後輩(源哲彦氏)に語っていた。(再掲文末の■口をつぐんだもう一人■で詳述)
この後輩はバリバリの「軍命あり派」であるだけに、逆に「墓場まで持ち込んだ」(富山証言はウソ)には信憑性がある。
◆以下再掲です。
最近の沖縄のマスコミ記事は「集団自決」論議から「歴史わい曲」、更に「教科書検定」そして「教科書検定撤回を求める県民大会」へと大きくスライドをしている。
新聞論調では、この問題の唯一の論点である「軍命の有無」は敢て避け、強制死と軍命の有る無しとは関係ないと乱暴なことを言い出す始末だ。
そんな状況で「集団自決」の犠牲者の数を持ち出したら、
集団自決があったのは紛れも無い事実であり、「犠牲者の数など問題ではない」とでも言いかねない。
「南京大虐殺」で「大虐殺」が論破されると、虐殺があったのは紛れもない事実であり「人数の問題ではない」という連中の理屈と共通である。
だが、本稿では敢て何故犠牲者の数が定まらないのかという点について、触れて見たい。
そこには「犠牲者の数」にまつわる「善意」と「悪意」の二つの顔が見え隠れする。
*
■犠牲者の人数は不確定■
「集団自決」は親、兄弟、親戚、そして隣近所の顔見知りという極めて近しい人間関係の中で起きた。
それだけに生き残った人々の心理の葛藤は体験しない人の想像を超える。
その一方、それだけ緊密な人間社会の中で起きた悲劇なら、被害者の実数は正確に把握されてしかるべきだろう。
だが、公表されている被害者数は必ずしも一定ではない。
その人数の定まらない理由も『鉄の暴風』にあった。
確たる証拠も無いまま『鉄の暴風』による「隊長による自決命令」という伝聞記事が一人歩きしたため、住民のつながりも深く調査も容易なはずの集団自決者の数は次の如く出典によって異なる。
①「鉄の暴風」⇒渡嘉敷島329人、 座間味島⇒52人
②「住民処理の状況」(沖縄南方連絡所勤務、馬渕総理府事務官執筆)⇒渡嘉敷村103人、 座間味村155人
③「沖縄作戦講和録」(陸上自衛隊幹部学校発行)⇒渡嘉敷村329人、 座間味村284人
小さな島で、しかも住民同士のつながりの緊密な地域の「事件」にしては数字のばらつきが激しい。
その秘密は島民しか知らない「特殊事情」にあった。
*
■玉井元渡嘉敷村長の提案■
昭和54年、渡嘉敷島の戦跡碑が建立された。
その碑文のことで兵庫県の赤松隊長の自宅に、当時の玉井喜八渡嘉敷村長、曽野綾子氏そして赤松対戦友会の谷本小次郎氏が集まった。
「世界日報」の鴨野記者が谷本氏から聞いた話を「月刊ビューポイント」 より引用する。
≪集団自決の数をどうするか、という話題になった時、玉井村長が「315人でお願いします」と発言した。 「それはまたどうしてですか」と谷本氏。彼は渡嘉敷の自決現場を見ていない。 戦後、慰霊のために訪問した時、「せいぜい多くて100人集まるのがやっとではないか」という印象を抱いていた。
玉井村長はこう語ったという。「昭和27年までに亡くなった人の数が315人だからです。 厚生省は(援護法がスタートする)27年まで入れてよい、と言いました。 白玉の碑には、27年までに亡くなった315人の名が刻まれています」
戦時中またはその前後に死んだ村人であれば、自決者でなくとも一人でも多くの村民を助けたい。 その「善意」が次第に、自決者の数を膨らませていったのであろう。
膨らむ数字は、日本軍の残虐性の証拠としたいと考える者たちの筆で、喧伝(けんでん)された。
真相を知る村人らは、ひたすら沈黙を守った。 軍の関係者もまた、沈黙を続けた。 ただただ左翼文化人、学者、反基地運動家がこれを利用したのである。≫
*
■墓場まで真相を持っていく■
昭和54年、赤松隊長の自宅で自決者の人数を相談した当時の玉井渡嘉敷村長(故人)は元琉球政府職員照屋昇雄さんの証言にも登場する。
「真相を知る村人らは、ひとすら沈黙を守った」と鴨野記者が記するように、真相を知る村人の代表格である玉井村長も、その後沈黙を守ったまま故人となった。
そう、真相を知る村人たちは真相を「墓場の中まで」持って行ったのだ。
だが故玉井村長とともに「真相を墓場の中まで持って行こう」と誓い合ったもう一人の男がいた。
事実の隠蔽に自責の念に駆られた元琉球政府援護課職員の照屋昇雄さんである。
産経新聞への照屋さんの長い証言の中から玉井村長に関する部分を次のように証言している。
≪--赤松元大尉の反応は
「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
--住民は、このことを知っていたのか
「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
--あらためて、なぜ、今証言するのか
「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
産経新聞【2006/08/27 東京朝刊から】 ≫
■口をつぐんだもう一人■
更にもう一人「真相を墓場の中まで」持って言った男がいた。
渡嘉敷島の「集団自決」で手りゅう弾を配ったとされる兵事主任の富山真順氏である。
富山証言を元に「村史」には「軍命令があった」と記述されているが、真実は何も語らず、真実は自分の胸に秘めたまま墓場の中まで持ち今だのだ。
ちなみに富山証言の「手りゅう弾を住民に二個ずつ配り、一発は敵に、残り一発で自決せよ兵器軍曹が訓示を述べた」は『渡嘉敷村史・通史編』に記され「軍の命令」「軍の関与」の根拠となっている。
だが、この『渡嘉敷村史・通史編』は「集団自決」の実に45年後の1990年に発刊されており、富山氏の証言内容は「軍命」を正当化するために書かれたものと見られる。((世界日報 2007年 9月8日)
この経緯を富山氏から直接聞いた渡嘉敷在住の源哲彦氏が9月1日の沖縄タイムス「論壇」で次のように述べている。
≪戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。
このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)
富山助役、玉井村長など真相を知る村人は「真実」は何も語らず「墓場まで」持って言った。
そして、真実は村人ではなく当時聞き取り調査をした照屋昇雄さんの勇気ある証言で明らかになったのだ。
巷に溢れている「軍命令」は真実ではない。