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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

汚染米 悪代官と越後屋

2008-09-19 07:22:28 | 県知事選

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犯罪には加害者と被害者がある。

ネズミ講のように加害者と被害者の間に多くの紹介者が介在すると、被害者と加害者の区別が付かなくなる。

被害者でありながら同時に加害者。

被害者の振りした加害者。

講が大きくなればなるほど複雑になり、被害、加害の見分けが難しくなる。

 

汚染米問題も悪代官の農水省と越後屋だけなら分かりやすいが、彼らと消費者との間には数多くの口利き屋が介在し、どこまでが加害者でどこからが被害者なのかわかり難い。

 

事故米苦に?社長自殺-社名公表の夜に【広陵のナカガワ】  (2008.9.18 奈良新聞) http://www.nara-np.co.jp/n_soc/080918/soc080918a.shtml

photo
重い空気に包まれた中川さんの会社と自宅=17日、広陵町中

 米粉加工販売会社「三笠フーズ」(大阪市)による汚染米の流通先として公表された広陵町中の米穀販売会社「ナカガワ」の中川収一社長(54)が16日夜、自宅で自殺したことが17日、分かった。

 香芝署によると、16日午後11時50分ごろ、中川さんが自宅2階の寝室でドアノブに掃除機の電気コードをかけて首をつっていたのを長男(28)が見つけて119番通報した。中川さんは香芝市内の病院に運ばれたが、約45分後に死亡が確認された。同社は三笠フーズによる事故米の流通先として農林水産省が16日に公表していた。遺書は見つかっていないが、同署は事故米問題を苦にしての自殺とみている。

 同署の調べでは、中川さんは16日午後1時30分ごろにも、自宅にあった農薬で自殺を図り、家族が119番通報した。けがはなく診察を受けた病院から帰宅したが、駆けつけた同署員に「4日ほど前から死のうと思っていた」と話し、マスコミが取材に来ていないか気にしていた様子だったという
。(略)

                     ◇

自殺した奈良県の米穀会社社長は三笠フーズからの汚染米を仕入れて流通先の一つだが(間に一社介在)、汚染米であることは知らなかったという。

自殺の社長、中国産を国産と出荷 汚染米流通先の会社(9/18)

 だとしたら被害者になるわけで、何も自殺する理由はないと思うのだが。

どうやら自殺の理由は「汚染米」ではなかったようだ。

食の安全を脅かす問題が続出しているので、ミソクソ一緒くた(失礼)に論じがちだが、今回の汚染米と産地偽装は似て非なるものである。

米穀販売会社の社長の男性(54)が、中国産のもち米を国産と説明して奈良県の米菓製造業者に出荷していた。

それが、三笠フーズの流通先を農林水産省が調べる中で発覚したらしい。 飛んだところで「別件」が発覚したわけだ。

だが、これは産地偽装であり汚染米とは別の問題である。(結果的に汚染されている可能性もあるが)

自殺した社長は夜も眠れなかったのだろうが、悪いヤツほどよく眠る。

いずれにせよ死ぬことはないと思うのだが、映画でも悪代官と越後屋が自殺することはない。

「私は悪くない」とシラを切っていた白須農水事務次官が辞めるらしい。

熾烈な競争を勝ち抜いて事務次官にまで勝ち上がった連中は、しぶといのだけがとりえだと思っていたのだが、あっさり辞意を表明した。 傷口が小さいうちに辞めておかないと退職金にも影響すると見たのだろうか。

白須(シラス)だけに白州(シラス)に引きずり出されてシラを切るのは、いかにもシラジラシイとでも思ったのだろうか。(スミマセン)

白須農水次官が辞意 太田農相は認めない意向

その前に、太田農相、お前が何故辞めぬ!

という声が聞こえそうだが、

レイムダック内閣の大臣の首を取ってもガス抜きになるだけで大した意味がない。 

どうせ放って置けば野垂れ死にする運命だから、しばらく生卵でも投げて国民の怒りの標的に晒して置けばよい。

それに悪代官にうってつけの面構えでいえば白須事務次官も太田大臣には負けている。

やはり悪代官といえばこの顔でしょう。

記者会見する太田農相=16日午前、農水省記者会見する太田農相=16日午前、農水省

 

越後屋はこれ。 

事故米転売問題で謝罪する冬木三男・三笠フーズ社長=大阪市北区梅田で2008年9月6日午前10時56分、竹内紀臣撮影
事故米転売問題で謝罪する冬木三男・三笠フーズ社長=大阪市北区梅田で2008年9月6日午前10時56分、竹内紀臣撮影

 

そして、悪代官と越後屋といえばやはりこの場面が。↓

 三笠フーズ社長が農政事務所元課長を接待 - 社会ニュース : nikkansports.com

 

農水省が一番悪いと書いたが、事務次官と大臣(いずれ辞任)の首を斬って済む問題ではなく農水省の構造の問題を放置してチョンチョンでは困る。

詳しくは

一番の悪は農水省! 越後屋より代官が悪いに決まっている!

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コメント (7)

「琉大事件」はタイムスへの巨大ブーメラン

2008-09-18 07:15:41 | 未分類

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 2008年09月16日【朝刊】 政治 

第一次琉大事件 米が圧力/...(09月16日)

第一次琉大事件 米が圧力/県公文書館に派遣教授の手紙
「軍諜報部隊が関与」/大学側、調査へ

 一九五三年に平和運動にかかわり謹慎処分を受けた学生四人が問題を学外集会で公表し退学となった「第一次琉大事件」に関し、処分の背景に当時沖縄を統治していた米国民政府(USCAR=ユースカー)や米軍諜報部隊(CIC)による圧力があったことを示す文書が見つかった。県公文書館が所蔵する「ミシガン州立大学支援事業関係資料」の中に含まれていた。ミシガン側代表が米国民政府に情報提供をしていたこと、「CICはかかわっていたが黒子に徹していた」などの記述があった。識者は「アメリカの圧力があったことが裏付けられた」「占領者の意図でつくられた大学で、米関係者が背後で暗躍する状況が分かる」と指摘する。(謝花直美)

 文書は、ミシガン州立大派遣教授団(ミシガン・ミッション)のラッセル・ホーウッド団長が、五三年五月十三日付で同大のミルダー学部長へ送った手紙。ミシガン州立大は、米陸軍省との契約で、五一年から琉大支援のために教授陣を派遣していた。

 手紙は、五二年六月から琉球大学内に「危険分子的」な活動が見られたことを端緒に、五三年の「第一次琉大事件」に対する大学側の対応が、「東洋人の意思決定の難しさ」「(米国民政府が)強力な意見を述べたが、助言は役立てられなかった」「断固たる対応をとらなかった」として批判。このような琉大側の態度が「大学と大学に関わっている米国人をひどく傷付けた」と記している。

 その過程で、第一次琉大事件の学生が学外のメーデーで問題を訴えた時に「大学当局と米国民政府はこの四人の学生について、もっと踏み込んだ措置を取るべきだと感じました」と記述。米国民政府も問題の動向に関心をよせ重い処分を求めていたことが分かる。

 当時は沖縄の企業で労働争議が多発、米軍側は徹底的な反共政策をとり、メーデーを強く警戒していた。実際に琉大は教職員全員を集めた会議の後に四人の退学を発表している

 「私(ホーウッド)は黒子に徹し、アドバイザー的な役割を果たした。そして(米国民政府民間情報教育部)ディフェンダファー氏に絶えず情報を知らせていました」と、派遣団と米国民政府が緊密に連携していたことも分かる。

 また「CICは、この問題にかかわっていましたが、これまで黒子に徹していました。(琉大副学長の)安里(源秀)氏、ディフェンダファー氏とCIC代表が今夜、会議を持つ予定です。ディフェンダファー氏は(今回の問題で)これからしなければならないことについて述べるつもりだと言っていました」と記述。CIC、米国民政府という米側が、琉大の対応が不十分であるという見方をしていたことが分かる。

 第二次琉大事件の処分を撤回した調査委員会の委員長を務めた新里里春琉球大学副学長は「あの時の理解では(大学側の第一次事件の処分は)合法であるという見解だった。そのため二次事件だけを調査対象にした。(今回のように)後から出てきた資料があるとすればあらためて事実関係を調べる必要がある」と話した。

[ことば]

 第一次琉大事件 1953年、原爆展、沖縄の「日本復帰」を訴える小冊子を作った学生ら4人を、琉球大学は謹慎処分にした。学生らが大学の対応について労働者の祭典「メーデー」で批判したため、大学当局は4人を退学処分に。56年に「反米的」なデモや文学活動をしたとして学生を退学・謹慎にした第二次琉大事件は、米側の圧力があったとして琉大が2007年になって処分を撤回している。

                                               ◇

現在の感覚で過去を評価すると歴史の真実を見誤る。

このごく当たり前のことを繰り返して、沖縄タイムスは歴史を見誤ってきた。

1950年代の沖縄で琉球大学に米軍の圧力があった?

圧力があって、当たり前でしょう。

当時は現在のような「国立大学」ではないのですよ。

沖縄タイムスが「琉大事件」を取り上げ、特集記事を連載しているが、これは地元新聞の有意義な企画であると一応評価していたのだが・・・。

一昨日の一面と社会面のトップを飾った大見出しには、

一体何事が起きたのかと一瞬我が目を疑った。

第一次琉大事件 米が圧力/...(09月16日)

当時の沖縄を知るものにとっては周知の出来事で、何を今さら一面トップを大見出しで飾るネタではないはずだ。

証拠の手紙が見つかった?

それはそれで結構なことで、予想通りの史料ゆえ淡々と報道すれば済むこと。

大方の予想と反する史料が発見されたのならともかく、たかが手紙で一面トップは騒ぎすぎでしょう。

それに「米軍の圧力」を騒げば騒ぐほど沖縄タイムスにとってブーメランとなることに、謝花直美記者は気が付かないのだろうか。

琉大事件のあった1950年前後の沖縄で「米軍の圧力」を度外視しては何事もことは進まなかった。 

当時は発令されたばかりの「二ミッツ布告」の強い影響下にあり、そもそも琉球大学そのものが「米国民政府布令第30号『琉球大学』」(1950年5月22日) に基づいて設立された「布令大学」ではなかったのか。

そんな大学で、米軍に反抗したら処分されるのは当時を知る人なら誰でも知っていたはず。

「布令」という言葉は当時の沖縄人にとって「泣くこと布令には勝てぬ」というくらいで、

どんな民主的な決定でも「布令」一枚で反故に出来る強力なものであった。

「布令」で弁護資格を得た弁護士(現在でも有効で活躍中)には、しばしば「布令弁護士」という自虐的枕言葉が付けられた。

そう、沖縄タイムスも「布令新聞」であった。 

布令と二ミッツ布告の呪縛 沖縄タイムスのねじれた思い

 

沖縄タイムスの『鉄の暴風』が発刊されたのが1950年であることを考えると、

その時代の「米軍の圧力」を強調すればするほど、

『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダであることを強調することになる。

この特集シリーズが終わったときは『鉄の暴風』の内容も米軍の圧力で捏造したと白状するつもりなのだろうか。

 2008年09月16日【朝刊】 社会 

透ける占領者の意図/「琉大を支配の道具に」/識者、歴史問い直す必要
 第一次事件の時に琉球大学に在学し、第二次事件では沖縄タイムス記者として取材したジャーナリストの新川明さんは「米国民政府やミシガンミッションも絡んでいたことは想像できたが、アメリカの圧力があったことがこの資料で裏付けられた」と話す。

 第一次事件の元学生らの処分について「琉大当局の処分理由は(学生が守るべき規則である)『学生準則』違反だったが、その適用はあいまいだった。問題なのは、違反だったとしても、それが除籍という最も重い処分に値したのかどうか」と指摘。「米軍の圧力という第二次事件の場合と本質は全く同じ。大学当局は第二次事件の名誉を回復する時に、第一次事件の当事者も回復すべきだった」とする。

 それは当事者のためだけにとどまらず「沖縄を含め、日本全体が、たとえば戦後史をとっても、過去の自らの犯した歴史的な出来事に対し、批判的に振り返って、正しく受け止めようとする姿勢が弱い。琉大事件を考えることは、大学という場所がありきたりの言い方ではあるが、真理を探究する場所であり、歴史をとらえ直す場であるという意味からも必要なことだ」と意義づけた。

 沖縄戦後史研究者の新崎盛暉沖縄大学名誉教授は、
「この文書は、占領者の意図をもってつくられた大学のもとで、ミシガンミッションや米国民政府などの状況と、学生の状況、占領とは何かを映し出している。当時、琉大では限られた人間で会議をしていてもすぐ後にも皆知っている状態だった。その時代の琉大で後ろに(米軍関係者が)暗躍している状況が分かる」と文書を分析する。

 島ぐるみ闘争の中で社会的支援があった第二次琉大事件に比べ第一次琉大事件は「いわゆる沖縄の暗黒時代といわれる一つ前の時代で、時代とのかかわりが見えない状態で起こった」と強調。「米側は琉大を軍事植民地を支える中堅官僚づくりのため、本質的な支配のための道具としてつくった。しかし、知識や教育を与えると目的とは違う人間が出てくるその中で反乱者が出てくる。(植民地、占領下では)思考を持っている人間はそこでしか学ぶ場がなく、自分の手でその場を変えていこうとする」と、当時の学生たちの動きを説明する。

 「学生処分については琉大側が主体的に処分した。しかし、学生処分をするために(学生準則まで)つくらされたのは意識していない。だからこそ(第一次事件も)処分を撤回しないといけない」とした。

                     ◇

透ける占領者の意図/「琉大を支配の道具に」/識者、歴史問い直す必要 ?

透けるも何も、

最初からミエミエの「琉大を支配の道具に」であり、

「沖縄タイムスを支配の道具」にしたことも占領者の意図であった。

そして、その結晶が『鉄の暴風』だったのですよ、タイムスさん。
 

 

 【おまけ】

ニミッツ布告「米国海軍軍政府布告第1号」 [口語訳]

米国軍が占領した南西諸島及びその近海の居住民に告げる

日本帝国の侵略主義並びに米国に対する攻撃のため、米国は日本に対して戦争を遂行する必要が生じた。かつ、これら諸島の軍事的占領及び軍政の施行は、我が軍の戦略の遂行上並びに日本の侵略力を破壊し、日本帝国を統括する軍閥を破滅させる上で必要なことである。

治安維持及び米国軍並びに居住民の安寧福祉を確保する上で、占領下の南西諸島中本島及び他島並びにその近海に軍政府の設立を必要とする。

ゆえに、本官、すなわち、米国太平洋艦隊及び太平洋区域司令官兼米国軍占領下の南西諸島及びその近海の軍政府総長である、米国海軍元帥シー・ダブリュー・ニミッツはここに次のように布告する。

一 南西諸島及び近海並びにその居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任は、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥である本官の権能に帰属し、本官の監督下に部下指揮官によって行使される。

二 日本帝国政府の全ての行使権の行使を停止する。

三 各居住民は、本官又は部下指揮官の公布するすべての命令を敏速に遵守し、本官下の米国軍に対して敵対行動又は何事を問わず日本軍に有利な援助をせず、且つ不穏行為又はその程度如何を問わず治安に妨害を及ぼす行動に出てはならない。

四 本官の職権行使上その必要がない限り居住民の風習並びに財産権を尊重し、現行法規の施行を持続する。

五 今後、すべての日本の裁判所の司法権を停止する。ただし、今後命令があるまで、当該地方における軽犯罪者に対し、当該地方警察官によって行使される即決裁判権は持続する。

六 本官または本官の命令によって解除された者を除く全ての官庁、市庁、及び町村又は他の公共事業関係者並びに雇用人は本官又は特定された米国軍士官の命令の下にその職務に従事しなければならない。

七 占領軍の命令に服従し、平穏を保つ限り居住民に対して戦時必要以上の干渉をしない。

八 今後、布告、規則並びに命令は、本官又は本官を代理する官憲によって逐次発表され、これによって居住民に対する我が要求又は禁止事項を明記し、各警察署並びにに掲示される。

九 本官又は本官を代理する官憲によって発布された本布告、他の布告並びに命令又は法規等において、英文とその他の訳文の間に矛盾又は不明の点が生じた時は、英文をもって本体とする。

 

※一九六六年九月二十四日施行の高等弁務官布令第五六号改正三号によって廃止。

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続・強制された富山証言 もう一つの富山眞順手記

2008-09-17 07:15:14 | ★集団自決
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集団自決の証言を検証する場合、証言者を縛る「呪縛」を斟酌しなければ事実の解明を誤ると述べた。

『証言を阻む南の島の呪縛』

一方、マスコミ取材による「証言」という「呪縛」を離れ、

人の目に触れる機会の少ないミニコミ冊子などに寄稿された「証言者」の随想には、

「呪縛」を解き放たれた「証言者」の本音が語られている。

この随想に表れた富山氏の本音は、心ならずも不本意な証言をさせられ、真実を墓場に持ち込んだ富山氏の我々に対する「伝言」が含まれている。

読者の松五郎さんの言葉を借りつと、次のようになる。

氏の心中を察すれば、親しい共同体との折り合いを優先させたぎりぎりの選択であったのかも知れません。無責任なことを言い残したまま何も語らずに逝くより、後世の者に強いシグナルを遺してくれました。このシグナルには、沖縄タイムスを信用せずに「富山の口外した証言の信憑性」を疑いなさいよという強いメッセージを感じます。≫

 

戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。

地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した(親兄弟を死に追いやった)「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせるシーンであり、

このような「旧軍人VS遺族」という対立構図があってこそ報道価値がある。

「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではないのだ。

京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。

「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

 

『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

そこに写っているのは、憎みあっているはずの元軍人と渡嘉敷村民約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影)

この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。

                                    ◇

富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。

呪縛を解かれた富山氏の「伝言」を読み取ってみよう。

同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。

                     ◇

富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行)から ※(29日)等()書きは挿入

 略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
 私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。
 イシッピ川の高淵に全員集まったところ私の命令はここまでだったから、ここから先は斥候兵の方と敵情調査に行きなさいと私が言うと、中隊長が「道が判らないから加工場まで誘導してくれ」と云うので将校斥候の方々を私が更に加工場まで案内した。
 私達が加工場に到着した時米軍の大きな輸送船が港から出航していった。運動場は米兵の飯盒炊事の後が燃えているので油断がならず、敵に撃ち込まれる場合は騒がずに私について来れば絶対弾に当たることはないからと指示をしました。私の考えは撃ち込まれたらイシッピの河川づたいに戻るつもりでした。ところで神祐丸加工場はダイナマイトで爆破されて、ここにはカンメンポ食料が納められて、食えるカンメンポが散乱しているので私が集めていたら、将校斥候長の方が敵襲と言うので、運動場をすかして見ると村中の和牛が鼻綱を切って運動場にかけ込んでいた。当時、村の繁殖牛は百頭以上に繁殖していた。私の家には父が飼育している和牛が3頭もいました。
 米兵隊と思ったら牛でしたので安心したのか「あなたはここに休んでおけ、私達は内を捜索して来るから」と云うので休んでいると、甘い臭いが漂うので手さぐりをするとカルピス瓶をつかまえた。あたりには米軍の非常食や煙草、お菓子等があったので背負袋に詰めた。すき腹にカルピスの原液を飲んだ甘さは生涯忘れません。
 暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、
部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
 
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら
、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
 赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略

                     ◇

この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、

「富山証言」の1年前に書かれた手記(随想)と同じように「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。

いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。

後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。

吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。

なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明

更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。

 ⇒続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。

 
 
                                                 ◇

 

【おまけ】

 

原告準備書面(4)全文2006年9月1日

3 手榴弾配布=軍命令説の破綻

渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の8月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。

富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。

被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。

同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。

米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。


関連エントリー:

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 悲劇を呼ぶ濃密な人間関係
 

 

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強制された富山証言 旧軍人との交流を記す手記発見!

2008-09-16 06:43:27 | ★集団自決

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故富山眞順氏が、平成元年6月発行の村老人クラブ連合会の記念誌に「記念誌発刊によせて」と題する随想文を寄稿している。

富山氏といえば戦時中渡嘉敷村の兵事主任していた新城眞順(戦後富山に改姓)氏のことで、戦後、手榴弾は軍が配布したという「富山証言」をしたとされる人物である。

「集団自決訴訟」の被告側証言として「軍命を示す手榴弾配布説」で裁判のキーマンともなる人物でもある。

「住民に自決命令として手榴弾を渡した」ことを証言する人物なら生き残った軍人たちとは敵同士になるものと考え勝ちだが、手記にはそのような「自決命令を命令した軍」への憎しみは微塵も感じられない。

これは昨日エントリーの玉井村長の手記でも同じことが言える。

富山氏の随想には、流布する言葉とはうらはらに本土旅行などを通じて、遺族会の会員が旧赤松隊員のお世話になっていた様子が記されている。

ここにも沖縄タイムス等地元マスコミが決して報道することのない「集団自決遺族」と旧軍人たちの交流がある。

一方、集団自決の生き残りである金城重明兄弟は、島の戦没者慰霊祭にも参加しないで村八分状態にあるのも集団自決問題の皮肉な一面である。

「集団自決訴訟」の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」。

これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。

その結果出てきたのが、被告側が唯一「物的証拠」の根拠とする「手りゅう弾軍命説」。

⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」

 

「手りゅう弾軍命説」の破綻!兵事主任富山真順の悲しい嘘

                 ◇

 

以下、富山眞順氏の手記を引用します。

 

渡嘉敷村老人クラブ連合会「創立20周年記念誌」平成元年6月発行 より富山眞順 元会長の手記


記念誌発刊によせて    元連合会長 富山 眞順

 先輩の与那嶺勲氏より、渡嘉敷村老人クラブ連合会長の要職を引き継いだ当時、足腰が立つまで頑張って、素晴らしい団体に総てを纏めて賞賛される事を考えて会長を引き受けた。就任してみると思ったより楽しい会で、計画どおり会員の皆様が活動して呉れるので、実に充実感が一杯でした。
 就任の年、母の日に渡嘉志久海岸で屋外観察会を催した。出席の皆様に生涯忘れられぬ母に日になるよう、たがをはずしてモーアシビにしようと呼びかけた其の大会で、通りかかった国立沖縄年青年の家所長、着任早々の井澤所長は参加を希望なされたので、皆で歓迎したら、先生、本根の隠芸は出るや、独唱は出すや、お酒は喜んで戴くやで、とてもお喜びになられた。会員もツクイ(作り)酒小でたがをはずしていた。
 先生は、その恩返しに「西山温泉の夕べ」を催し、老人クラブは招待を受け、草津温泉の花を取り寄せて風呂を焚き草津節の民謡に乗っての招待。草津温泉一度はおいでとメロディーは続く、西山温泉は生涯の想い出で、現在も続いているのは井澤先生の申し送りでなかろうか。村の老人クラブにしては、楽しい夕べであり長寿につながる快況であり、厚くお礼申し上げます。
 総会の集会の時間励行の徹底に就いては、他の組織では見られぬ快況であり、時間励行は他組織団体の模範である。各自の自覚性は素より、責任感と会運営の指導者に依るその行動は永代過去あるべきで益々の発展を願うものです。
 私が在任中に県社会教育の主催で公民館活動実績発表大会があった。私は会の運営実績発表を組織で集合時間を決定したら、定刻前に集合を完了して、定刻にはきちんと開会出来ると発表したら反響が大きく、関係者から質問攻を受けてなっとく行くまでご説明を申しあげたことがある。実に素晴らしい村民性であると発表した。改善を図らねばならない事は、男性が集会に尻込みすることである。是は第一次的には女性と一緒に踊れない、第二次はまだまだ野良仕事に出向く都合もある。現在は70歳までは働き盛りのためである。指導者の善導をお願いしたい。
 在任中観光旅行も想い出の一つである。沖縄市在の東南植物楽園を廻り、海洋博後や国頭村老人クラブとの交流などありました。
最も想い出深いのは、九州旅行である。旅行が決定したので、ご迷惑と思いましたが、近くの大分市中央通りで大きなホテル経営の佐伯氏に、ハガキで一目逢いたい。老人クラブを案内していると通知していた処が、佐伯さんの指示で樋口梅雄氏が原鶴のホテルで迎えられて、全員にお土産や色々寄贈があり、大宴会でした。
別府へ行くと四国建設社長の谷本小次郎氏がレストランで迎えていた。連下政一氏、福山市池田幸政氏、岡山市等地獄廻りを済ませてホテルに着くと佐伯さんの奥様や長男を同伴して、素晴らしいお酒等御持参して大歓迎を受け生涯忘れぬ想い出となりました。
広島の高橋正登氏からは、風邪でこれないとのことで多額の餞別が届いてほんとに泣けた。翌日は佐伯氏の車で草千里から阿蘇火山まで追いかけ懇談がつきなかった。戦友はほんとに懐かしい者である。同行の会員も満足したと思う。
村議会も漁協長も終了したら、又戻って皆と共々活動に精を出したいと思っています。
世界一の長寿村を御祈念して、渡嘉敷村の老人クラブの益々のご繁栄を念願申しています。

注 1.富山眞順…旧姓新城、1917年2月生まれ、戦中は渡嘉敷村役所兵事主任・帝国在郷軍人会渡嘉敷分会長。渡嘉敷村職員その後議会議員、村漁協組合長を経て1999年12月没享年83歳
   2.読点、句点は適宜補った。

                    ◇

■富山証言は誰かに強制されたウソの証言である■

文中登場する人物(赤字)は戦時中渡嘉敷島に駐屯していた赤松隊長の部下たちであるが、

とても自決を命令した「鬼の赤松」の部下である「残虐非道な軍人たち」には思えない。 

「富山証言」は『渡嘉敷村史・通史編』に記され「軍の命令」「軍の関与」の根拠となっていが、

この『渡嘉敷村史・通史編』は、1990年に発刊されており、「富山証言」の内容は「軍命」を正当化するために誰かに強制されて書かれたものと見られる。

その理由は、上記の手記は「富山証言」(1990年)の1年前の1989年(平成元年)に書かれており、手記にある次のような部分を読むと、

富山氏が自分の意思で「富山証言」をしたとは到底考えられないからである。

「・・・佐伯さんの奥様や長男を同伴して、素晴らしいお酒等御持参して大歓迎を受け生涯忘れぬ想い出となりました」

広島の高橋正登氏からは、風邪でこれないとのことで多額の餞別が届いてほんとに泣けた」

「翌日は佐伯氏の車で草千里から阿蘇火山まで追いかけ懇談がつきなかった。戦友はほんとに懐かしい者である。同行の会員も満足したと思う」

「親兄弟を殺害するする」ような「自決命令」を出した旧軍人たちとその遺族が、

このように「生涯忘れぬ想い出」とか「泣けた」とか「懇談はつきない」「同行会員も満足」といった最大級の信頼、親密さをもって交流できるものだろうか。

この手記の1年後に、ある意図を持った何者かに強制されて不本意ながら「軍命説」の富山証言」をしたと考えるのが自然である。

富山氏が「真実」は語らず「墓場まで持ち込んだ」ことは島の後輩(源哲彦氏)に語っていた。(再掲文末の■口をつぐんだもう一人■で詳述) 

この後輩はバリバリの「軍命あり派」であるだけに、逆に「墓場まで持ち込んだ」(富山証言はウソ)には信憑性がある。

 

◆以下再掲です。

真相を墓場まで持ち込んだ二人

最近の沖縄のマスコミ記事は「集団自決」論議から「歴史わい曲」、更に「教科書検定」そして「教科書検定撤回を求める県民大会」へと大きくスライドをしている。

新聞論調では、この問題の唯一の論点である「軍命の有無」は敢て避け、強制死と軍命の有る無しとは関係ないと乱暴なことを言い出す始末だ。

そんな状況で「集団自決」の犠牲者の数を持ち出したら、

集団自決があったのは紛れも無い事実であり、「犠牲者の数など問題ではない」とでも言いかねない。

「南京大虐殺」で「大虐殺」が論破されると、虐殺があったのは紛れもない事実であり「人数の問題ではない」という連中の理屈と共通である。

だが、本稿では敢て何故犠牲者の数が定まらないのかという点について、触れて見たい。

そこには「犠牲者の数」にまつわる「善意」と「悪意」の二つの顔が見え隠れする。

                    *

■犠牲者の人数は不確定■

「集団自決」は親、兄弟、親戚、そして隣近所の顔見知りという極めて近しい人間関係の中で起きた。

それだけに生き残った人々の心理の葛藤は体験しない人の想像を超える。

その一方、それだけ緊密な人間社会の中で起きた悲劇なら、被害者の実数は正確に把握されてしかるべきだろう。

だが、公表されている被害者数は必ずしも一定ではない。

その人数の定まらない理由も『鉄の暴風』にあった。

確たる証拠も無いまま『鉄の暴風』による「隊長による自決命令」という伝聞記事が一人歩きしたため、住民のつながりも深く調査も容易なはずの集団自決者の数は次の如く出典によって異なる。

①「鉄の暴風」⇒渡嘉敷島329人、 座間味島⇒52人

②「住民処理の状況」(沖縄南方連絡所勤務、馬渕総理府事務官執筆)⇒渡嘉敷村103人、 座間味村155人

③「沖縄作戦講和録」(陸上自衛隊幹部学校発行)⇒渡嘉敷村329人、 座間味村284人

小さな島で、しかも住民同士のつながりの緊密な地域の「事件」にしては数字のばらつきが激しい。

その秘密は島民しか知らない「特殊事情」にあった。

                     *

■玉井元渡嘉敷村長の提案■

昭和54年、渡嘉敷島の戦跡碑が建立された。

その碑文のことで兵庫県の赤松隊長の自宅に、当時の玉井喜八渡嘉敷村長、曽野綾子氏そして赤松対戦友会の谷本小次郎氏が集まった。

「世界日報」の鴨野記者が谷本氏から聞いた話を「月刊ビューポイント」 より引用する。

≪集団自決の数をどうするか、という話題になった時、玉井村長が「315人でお願いします」と発言した。 「それはまたどうしてですか」と谷本氏。彼は渡嘉敷の自決現場を見ていない。 戦後、慰霊のために訪問した時、「せいぜい多くて100人集まるのがやっとではないか」という印象を抱いていた。

玉井村長はこう語ったという。「昭和27年までに亡くなった人の数が315人だからです。 厚生省は(援護法がスタートする)27年まで入れてよい、と言いました。 白玉の碑には、27年までに亡くなった315人の名が刻まれています」

戦時中またはその前後に死んだ村人であれば、自決者でなくとも一人でも多くの村民を助けたい。 その「善意」が次第に、自決者の数を膨らませていったのであろう。 

膨らむ数字は、日本軍の残虐性の証拠としたいと考える者たちの筆で、喧伝(けんでん)された。

真相を知る村人らは、ひたすら沈黙を守った。  軍の関係者もまた、沈黙を続けた。 ただただ左翼文化人、学者、反基地運動家がこれを利用したのである。≫

                     *

■墓場まで真相を持っていく■

昭和54年、赤松隊長の自宅で自決者の人数を相談した当時の玉井渡嘉敷村長(故人)は元琉球政府職員照屋昇雄さんの証言にも登場する。

「真相を知る村人らは、ひとすら沈黙を守った」と鴨野記者が記するように、真相を知る村人の代表格である玉井村長も、その後沈黙を守ったまま故人となった。

そう、真相を知る村人たちは真相を「墓場の中まで」持って行ったのだ。

だが故玉井村長とともに「真相を墓場の中まで持って行こう」と誓い合ったもう一人の男がいた。

事実の隠蔽に自責の念に駆られた元琉球政府援護課職員の照屋昇雄さんである。

産経新聞への照屋さんの長い証言の中から玉井村長に関する部分を次のように証言している。

 ≪--赤松元大尉の反応は


 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った

 --住民は、このことを知っていたのか

 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」

 --あらためて、なぜ、今証言するのか

 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
産経新聞【2006/08/27 東京朝刊から】 ≫
 
 
■口をつぐんだもう一人■
 
更にもう一人「真相を墓場の中まで」持って言った男がいた。
渡嘉敷島の「集団自決」で手りゅう弾を配ったとされる兵事主任の富山真順氏である。
 
富山証言を元に「村史」には「軍命令があった」と記述されているが、真実は何も語らず、真実は自分の胸に秘めたまま墓場の中まで持ち今だのだ。
 
ちなみに富山証言の「手りゅう弾を住民に二個ずつ配り、一発は敵に、残り一発で自決せよ兵器軍曹が訓示を述べた」は『渡嘉敷村史・通史編』に記され「軍の命令」「軍の関与」の根拠となっている。
 
だが、この『渡嘉敷村史・通史編』は「集団自決」の実に45年後の1990年に発刊されており、富山氏の証言内容は「軍命」を正当化するために書かれたものと見られる。((世界日報 2007年 9月8日)
 
この経緯を富山氏から直接聞いた渡嘉敷在住の源哲彦氏が9月1日の沖縄タイムス「論壇」で次のように述べている。
 

≪戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。

②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。

このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)

 

富山助役、玉井村長など真相を知る村人は「真実」は何も語らず「墓場まで」持って言った。

そして、真実は村人ではなく当時聞き取り調査をした照屋昇雄さんの勇気ある証言で明らかになったのだ。

巷に溢れている「軍命令」は真実ではない。

 

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コメント (1)

狂死する老女 昭和45年3月26日、那覇空港での出来事

2008-09-15 07:48:48 | ★集団自決

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渡嘉敷島の戦隊長赤松元大尉が、渡嘉敷島で行われる25周年めの戦没者慰霊祭に参加すべく、那覇空港に降り立った昭和45年3月、空港で展開された“沖縄の青年たち”と赤松氏とのいざこざについて大江健三郎氏は『沖縄ノート』で次のように記している。

《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである

◆実際に現場に立ち会ったと思われる人物の書いた「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社)には次のような過激な表現もある。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/48129761.html

「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社=P150ーP153)

赤松元隊長は、住民329人が死んだ集団「自決」の下命人として、遺族がまとめた 戦記にその名をとどめてきた元大尉である。
その男が、戦後25年たった春ひょっこり沖縄にやってきた。
渡嘉敷島で行われる「自決」者たちの慰霊祭参列のためだという。
ところが、彼は那覇空港でたいそう手荒な出迎えを受けることになった。

「何しに来たか!帰れ」

「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」

「渡嘉敷島のあるおばあさんは、赤松がきたら発狂するから来てくれるな、と言って いるんだ」

「帰ってくれ。慰霊祭にでてもらいたくないし、あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

男を取り巻いたのは教員、歴史家、キリスト教牧師、平和運動家ら50人。
「虐殺者、帰れ!」
と書いたのぼりが立ち、抗議のシュプレキコールが夕闇迫る空港 ターミナルに響いた。

厳しい追及に男は終始口をつぐんでいたが、抗議の人たちの口から「軍国主義」「日本の右翼化」という言葉が飛び出すと、

「わたしのところは平和だし、、、、わたしが来島したからといって、、、、」と切 り出した。

この一言が、取り巻いた人たちをいっそう刺激した。沖縄は戦後このかた他国の軍事 基地に圧迫され、事件・事故の絶える事がない,「平和」とはおよそ無縁の島である。
その人たちを前にして「私のところは平和だし、、、」と言ってのけるヤマトンチュ とは何だろう。

・・・・・・

「彼が島に来たら発狂する」老女さえいる渡嘉敷島の人たちがこの元守備隊長に求め ているのは、「以前のままの赤松」からの脱皮であり、久米島の人たち同様、真摯な 反省と謝罪、そして軍の論理の放棄である。(P150ーP153)

引用終了

 

何と、赤松元大尉が渡嘉敷島を訪問したら島の老女が発狂するというのだ。

あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

空港で待機した左翼集団が「県民」を代表していないことは同行の沖縄タイムスは百も承知のはずだがそれは伏せて、敢えて県民の遺族代表のように報じた。(後述)

このような捏造された「物語」が次々と一人歩きして島の住人たちは赤松元大尉を「発狂するほど憎悪している」という神話が地元新聞を通じて沖縄地元の人々さえ「鬼の赤松」を信じるようになっているのである。

だが、実際は空港に集結した「団体」の中に渡嘉敷島の人は一人もおらず、島の外部の「民主団体」だったことは昨日エントリーの村長の手記が物語っている。

 

◆昭和45年3月の那覇空港での出来事を客観的に記した『Media Watch: 悪意の幻想 ~ 沖縄戦「住民自決命令」の神話』から引用して当時の状況を振り返って見る。http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog472.html

(前略)

■7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」■

昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺 族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席 しようと那覇空港に降り立った。  空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤 松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰 れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」 と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は 「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。  結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達 は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。  那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で 赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言っ た。  

責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。 大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が かかるんだ。言えない。[『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』,p38]  ≫

冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けら れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて 同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が かかるからだった。  遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔 のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁 明もせずに過ごしてきたのだった。

 

■8.「悪意の幻想」と闘う裁判■

 赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」 と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ ート』にこう書いている。

人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の 巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが う。かは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の 余地をこじあけるたに、過去の事実の改変に力を尽くす。 ・・・  このようなエゴサントリック(JOG注:自己中心的)な希 求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、 かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお りがきたとみなしたのだ。[『沖縄ノート』,p210]  ≫

さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事 実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として 赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはと どめがない」のは大江氏自身である。  現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見 てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴 風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾 することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと した「悪意の幻想」の産物なのである。  この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本 国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対 する裁判が闘われているのである。[4] (文責:伊勢雅臣)

引用終了

  

 ◆草莽崛起さんは更に詳しくこう記している。http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-1023.html

 やがて赤松元大尉の耳にも、シュブレヒコールが聞こえる。「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」 聞こえて来るのはシュプレヒコールばかりではない。

「今ごろ沖縄に来て何になる!」

「県民に謝罪しろ!」

「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」

赤松氏は立ち止まる。直立不動の姿勢になり、彼は人々の怒号にさらされた。

 那覇市職労の山田義時氏が、(★)抗議団平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部)を代表して「渡嘉敷島の集団自決と虐殺の責任者赤松元陸軍大尉の来県に抗議する」という抗議文を読み上げる間、元大尉はじっと無言で立ちつくす。 (★渡嘉敷島の住民は一人もいなかったー引用者注)

 やがて朗読が終わり、抗議団から再び声があがる。

「三〇〇人の住人を死においやった責任はどうする」

「罪のない住民をスパイ容疑で惨殺したのにオメオメと来島できるか」

そこでやっと赤松元大尉は口を開く。

「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった。捕虜になった住民に死刑を言い渡した覚えもない。」

このような那覇での抗議のため、赤松元大尉は渡嘉敷島には渡れなかった。その渡嘉敷島での様子は、『琉球新聞』

に次のように書かれている。

この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。

赤松元隊長が本島まで来ていることを知らされても、『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない

と言った言葉が返ってくるだけ。本島でくり広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二五回忌の慰霊祭-」

この新聞記事は、実に正直に、島民達が抗議団体の人達よりも冷静に、赤松隊の慰霊祭出席を受け入れていることを報道している。それはそうであろう。

命令はなかったのだから。そして、関係者は皆、放っておいて欲しかったのだ。

しかし『沖縄タイムス』は、こう書く。

・・・赤松氏の来島によって戦争の傷跡が鋭くえぐり出された。『いまさら傷にふれても仕方がない』と遺族の人達は言う。しかし筆者は、遺族にとっては酷な言い方であろうが、あえて言う。

傷痕から目をそらせず凝視してほしい。血を吐くような苦痛を伴うだろうが、その痛みに耐えてほしい。身悶えするような苦悩をするだろうが、それと真剣に戦ってほしい。

なぜなら、そこからしか真の反戦平和の思想は生まれてこない。戦争の傷痕こそ反戦闘争の原点であるから。(後略)」

真実より何より、反戦闘争ありきなのがよくわかる。ちなみに、曾野さん以外の多くの人が取材もせずに赤松元大尉の糾弾記事を書けたのは、元となる三つの資料があるからで、そのうちの一つはこの沖縄タイムス社編の『鉄の暴風』である。

このような「反戦」活動に熱心な、抗議団体やジャーナリスト、作家達が、赤松元大尉だけでなく、真実を知りながら口にできない島民の方々のことも苦しませてきたのだ。

引用終了

 

◆そして、その当時の渡嘉敷島の村長はこのような手記を書いていた。(昨日のエントリーより抜粋)

遺族会発足当時を想ふ     

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


(前略)  渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し
村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 

 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。(略)

                   ◇

巷間流布する「神話」が、いかにデタラメであるかを知る上で、「昭和45年3月26日の那覇空港での出来事」は後世、メディアリテラシーの絶好の教科書として永遠に語り継がれるだろう。

発狂しそうになった老女は「赤松夫人や赤松元大尉の部下が大挙島を訪れた」のを知って、

「たたりじゃ!」とでも叫んで、

きっと狂死したのでしょうね。(爆)

 

【おまけ】

自分たちに都合の悪い人物が、島を訪れようとすると、ビラを配って「帰れ!」と罵り、いかにも島の「民意」のような素振りを演ずる・・・・それを沖縄タイムスが記事として報道。

どこかで見た光景だと思ったら、タイムスはこんなことをしていた。

沖縄タイムスさん!誤報事件の教訓って?

これもメディアリテラシーの教科書して永久保存版だね。

 

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コメント

渡嘉敷島玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない

2008-09-14 08:02:54 | ★集団自決

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昨日(13日)の午後。

宜野湾海浜公園近くのRホテルに300人余の警察官が集結した。

宜野湾海浜公園といえば昨年「11万人」集会が開催されたことで一躍全国区でその名を知られた公園である。

「11万人」集会1周年を目前にして海浜公園に近いホテルに300人余の警察官が集まったとなると、

スワッ!、ホテルに武装した過激派が立てこもったのか!

ご安心あれ。

昨日は同ホテルで友人のご子息の結婚披露宴が行われ、新郎新婦が二人揃って現役の警察官。

で、その同僚の友人たちが祝福の為集結、もとい、参席した次第。 勿論私服でですよ。

沖縄の結婚式は本土のそれに比べて大人数を招待するのが常だが、昨日は約500人の来賓で沖縄でも大規模の部類に入る盛大な結婚式であった。 

来賓の大部分は新郎新婦の同僚だったので、少なくとも500名中300名以上の警察官が一箇所に集結したもの。

新婦は剣道の高段者の美女で、

新郎は空手の達人でオムツの時から知る好青年。

若い二人の警察官夫婦の誕生で、我々の日頃の生活も安心して過ごせる。 

おめでたくも喜ばしい話である。

来賓挨拶に立った友人の一人が言った。

「二人にとって、残された親孝行は・・・」

「一日も早く孫を作ることです」

同感である。

古人いわく「蒔かぬ種は生えぬ」

日々奮励努力せよ!

                  ◆

「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、

実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。

大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。

沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用します。

地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)

沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 

沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。

玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、

下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。

                    ◇

 

終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想

 


遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


 戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
 昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
 焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
 建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
 学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
 西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
 移設場所を港の北側、を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
 
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
 戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
 かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。

注 1.西山は北山のこと。
  2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
  3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
  4.句点、読点は適宜補った。

 

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一番の悪は農水省! 越後屋より代官が悪いに決まっている!

2008-09-13 07:38:38 | 県知事選

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満座の中にクサイ奴が数人いる。

皆がクサイと騒ぎ出した。

一番クサイ奴が二番目にクサイ奴を糾弾する。

「お前、クサイぞ!」

一番クサイ奴が二番手を告発して、自分は何食わぬ顔!

自分はクサクないというアリバイ作りか。

三笠フーズなど2社告発=事故米転売で農水省-ベトナム産米を国産米と虚偽

農水省よ、お前が一番クサイ!

告発されるべきは、お前なんだよ!

 

 沖縄タイムス社説

[汚染米転売]【09月12日】

頭を下げれば済むのか

 カビ毒や残留農薬に汚染された「事故米」が、食用として転売されていたのだから恐ろしくなる。

 消費期限の改ざん、殺虫剤が混入した輸入ギョーザ、産地偽装など、食の安全を脅かす事件が頻発する中での今回の事故米流用、転売だ。

 この国の食の安全に対する信頼と企業のモラルは崩壊寸前にあると言うしかない。

 米粉加工販売会社・三笠フーズが、二〇〇三年度から本年度までに国から購入した事故米は約千七百七十九トン。

 転売が分かっている米の中には、有機リン系の「メタミドホス」が混入した約二百九十五トンの中国産米がある。

 発がん性のカビ毒である「アフラトキシン」の混じったベトナム産も約三トンあったという。いずれも非食用で、工業用のりなどの原料として使われるものだ。

 それが焼酎の原料に利用され、菓子の材料として使われていたのだから深刻だ。

 輸入米で最も安いのは一トン当たり約七万円。事故米は一万円以下であり、事故米転売で約六万円の利ざやが稼げることも背景にあるようだ。

 冬木三男社長は「経営が厳しくて」と転売理由を述べたが、そこには消費者への視線はひとかけらもみえない。

 しかも二重帳簿を作り、工業用のり加工会社が受け取ったことを示す伝票も偽造。農水省の立ち会い検査の際は、工業用の袋に詰めていたというから悪質だ。

 警察には流通経路や転売の手口を徹底的に解明するよう求めたい。

 検査に当たった農林水産省の対応も腑に落ちない。 

 同省は〇三年から五年間で九十六回検査に入っている。いずれも抜き打ち検査ではなく、検査日を知らせていたというから何をかいわんやだ。

 これでは企業側に「隠蔽工作をしてください」といっているようなものではないか。不正を見抜けなかったのは当然である。

 農水省は発覚当初「健康には影響がない」とし、転売先を公表しないとしていた。

 だがメタミドホスが混入した中国製ギョーザを食べた子どもが中毒症状に陥り重体になったのは最近のことだ。アフラトキシンも最悪の場合は死に至る可能性があるという。

 非公表の姿勢が、逆に食品業界に不安を与えたのは間違いない。同省の「食の安全」に対する危機意識の足りなさにはあきれるしかない。

 農水省から事故米を購入している企業は三笠フーズを含めて十七社だ。うち、愛知県内の事故米取引業二社の不正転売も明らかになっている。

 転売による影響は焼酎メーカーから菓子メーカーにまで拡大。末端では病院の食事や学校給食にも用いられていたことが判明している。

 一方で、焼酎や菓子メーカーが商品回収や廃棄費用で窮地に陥っていることも見過ごしてはなるまい。政府が売った輸入米による企業被害は理不尽であり、救援には国が率先して当たるべきだろう。

 それが国の責務であり、このような企業を守っていく制度を早急に築く必要がある。
 
                   ◇
沖縄タイムス社説に咬み付くのが当日記のネタなのだが、汚染米に咬み付いたこの社説には咬み付きようがない。(今日13日付けで「学校給食」は「保育所の給食」と訂正記事を出している)
 
だが、一言だけ文句を言わしてもらうと、タイムスは、三笠フーズを筆頭に、関わった企業は批判しているが、農水省への批判は大甘の上辺だけ。
 
≪五年間で九十六回検査に入っている。いずれも抜き打ち検査ではなく、検査日を知らせていたというから何をかいわんやだ≫
 
この唯一のタイムスの批判に対して、農水省の白須敏朗事務次官は一昨日(11日)の記者会見で次のような開き直り発言をしている。

   「立ち入り(検査)が不十分であったということを私申し上げているわけです。ただ、そのことによって、それが私どもに責任あるというふうに今の段階では考えているわけではございません

そもそもタイトルの「頭を下げればむものか」は企業に向けての言葉と思うが、農水省の親玉は頭を下げるどころか「責任はない」と開き直っているではないか。
 
タイムスは検査のいい加減さを突いてはいるがこの問題の構造的部分には完全にスルーを決め込んでいる。

こいつが一番の悪だ!

悪代官と越後屋を比べたら悪代官の方が悪いのは当然だろう。

 


で構造的問題とは?
 
次の3点である。
 
①農水省は汚染米が糊等の工業用として販売していたというが、工業用に使用されていないのを知っていたのではないか。
 
②ミニマム・アクセスでは国民を欺いている。
 
③食用として輸入した米が食用に適しなかったのに何故返品しなかったのか。
 
 
①に関しては次の記事を読めば足りる。
 
 「工業用糊に限り販売」 農水省の説明は大ウソだった(9/11J-CAST)
 農薬や毒カビに汚染された「事故米」が食用として出回っている事件で、農林水産省の説明に大きな疑惑が浮上している。農水省は「事故米」を、工業用糊や、木材の合板や修正材の接着剤の原料使用に限り販売を許可していると説明していたが、実は、国内では接着剤などの原料に米を使用することは殆どないことがわかった。使い道のない米を穀物業者に販売していた形になり、今後農水省の責任が厳しく追及されるのは必至だ。

糊に使うのは「事故米」でなくタピオカや小麦

 問題を起こした三笠フーズの場合も「工業用糊加工品」に用途を限定することを条件に販売したという。しかし、工業用糊メーカーの大手ヤマト、不易糊工業、住友3MにJ-CASTニュースが取材すると、いずれも、澱粉糊のうち「米を原料にしているものはない」という答えが返ってきた。また、「米を原料に糊を作っているメーカーがあるという話は聞いたことがない」のだという。ちなみに澱粉糊はヤマトがタピオカ、不易糊工業はコーンスターチを原料にしている。
 また、森林総合研究所によれば、合板を作る際や、修正材に使う接着剤の原料に小麦を使う例はあるものの、米を使ったものは見たことがないそうだ。工業用糊や接着剤に使われないとなると、「事故米」を工業用糊などに使用を限定、という農水省の「前提」が全く崩れてしまう。
 「三笠フーズ」を発端とする今回の「事故米」の食品使用問題では、2008年9月10日に、新たに食品・資料販売会社「浅井」(名古屋市)、肥料製造会社「太田産業」(愛知県小坂井町)が米穀の仲介業者に転売していたことが発覚。食用に転用されている可能性が強まっている。
 今回の「事故米」は、日本政府が世界貿易機関(WTO)のルールで輸入を義務づけられたミニマムアクセス(MA)米で、年間約77万トン輸入している中の一部。農水省のホームページには、
 「MA米によって国産米の価格・需給に影響を与えないよう、加工用中心の輸入・販売を行うなどの措置を講じている」と書かれている。

「何でも工業用に回すというわけではありません」

 08年9月10日のテレビ朝日系「報道ステーション」では、東北の穀物業者が匿名でインタビューに応じていた。
 「農政事務所からカビの生えた270キロの米があるという話があり、食用以外なら何でも処理していいと。それで、堆肥にするということで私が買った。(事故米は)手を出す人がいないので、お金にならない」
穀物業者に直接の依頼があるのは驚きで、それだけ「汚染米」の使い道は少なく、在庫が膨らみ、農水省は頭を痛めていた様子がうかがえる。
 農水省の報道担当はJ-CASTニュースに対し、「三笠フーズ」に「事故米」を販売したのは「三笠フーズ」が工業用穀物も扱っていたため、契約通りに加工すると考えたからだと話した。しかし、「事故米」が工業用糊としては需要がないのでは、と指摘したところ、これまでの農水省の発表やJ-CASTニュースの取材に答えたこととニュアンスが一変した。
 「台風で水に浸った事故米は食用としてすぐに出荷するように、事故米も臨機応変に、何でも工業用に回すというわけではありません」という理解不能の説明だった。食用に転売される可能性にうすうす気が付いていた、といわれても仕方がないような対応だ。
 

②に関してはこれ

MA(ミニマム・アクセス)米の輸入義務」は大ウソ http://www.nouminren.ne.jp/dat/9903/99032201.htm

これに関してはマスコミはミニマムアクセスとは義務であるように報じているが、売り手が「買ってください」とお願いし「出来るだけ買いましょう」と協力する程度のもので義務ではない。
 
昨日(12日)の「みんもんたの朝ズバッ!」では、みのもんたが「米が余っているのに何で輸入するのか」と疑問を述べるとコメンテーターの浅野史郎が「義務だから仕方ない」とデタラメの解説をしていた。
 
 
③に関して、今頃になって、アリバイ作りにこんなことを始めたが、何で汚染米と分かった時点で返品しなかったのか!
 
 
民間会社なら不良品を仕入れたら担当者は責任問題なので、当然返品するだろうし、返品でこうむった損害も賠償の対象になる。
 
相手国に「いい顔」をしようとして放置した典型的なお役所仕事だが、国のトップは「相手の嫌がることはしない」と言っていたのだっけ。
 
同じ日の「朝ズバ!」でみのが「農水省は、購入した外国に汚染米をなぜ返品できないのか?」と疑問を呈したが、TBS解説委員の杉尾秀哉が「買ってしまったものは返せないようですよ」と又してもデタラメの解説をしていた。
 
 
さて、農水省を中心にした三笠フーズ等の犯罪集団は一体何の罪で壊滅させれば良いのか。
 
巨大詐欺と殺人未遂あたりか・・・。
 
 
「おまけ」
 
太田農水相のことを悪代官ヅラと書いたが、又こんなことを言っている。
 
 汚染米「人体に影響ないのでじたばた騒がぬ」太田農水相
朝日新聞 
≪農薬などに汚染された米が流通していた問題について、太田農林水産相は12日の日本BS放送の番組収録で「人体に影響がないことは自信をもって申し上げられる。だからあんまりじたばた騒いでいない。ただ、これでいいというわけではない」と述べた。

 

 

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金城氏の偽証濃厚! 父親殺害で

2008-09-12 07:13:34 | ★集団自決

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「集団自決裁判」が実施される日の前後には、必ずといっていいほど応援団の「場外乱闘」の記事が出てくる。

この先生は高裁どころか最高裁の判決を待たずに「集団自決は軍によって死を強制・誘導されたもの」と「軍命令」を結論付けてる。

こんな先生に洗脳される生徒がかわいそうだ。


 沖縄史、若者に照準 新城俊昭教諭・沖縄歴史研究会代表 (2008.9.9) カメラ

沖縄の若い世代や本土の多くの人々に琉球・沖縄をよく知ってほしい」と話す新城俊昭教諭=宜野湾市の宜野湾高校

 沖縄の歴史教科書や副読本づくりに取り組む新城俊昭宜野湾高校教諭(沖縄歴史研究会代表)が、中学生以上の若い世代向けに「ジュニア版琉球・沖縄史―沖縄をよく知るための歴史教科書」を作成している。(略)

新城教諭は「沖縄だけで戦争があったと思っている子どももいる。(1931年の満州事変に始まる)15年戦争からの流れが分かるようにしている。『集団自決』ではその悲惨さを伝えるために金城重明さんの手記を引用した」と説明。(略)

                    ◇

この方の歴史観は日本が憎くてたまらぬ「恨みの歴史」のようだ。

歴史の授業で「方言札」をわざわざ取り上げ、沖縄の識字率の向上に努めていた当時の明治政府への憎悪を煽る理由はどこにあるのだろう。(「クイズで学ぼう 琉球・沖縄の歴史」新城俊昭著)

授業で引用するという金城重明氏の手記がウソまみれで、法廷での証言にも「偽証罪」の可能性があるということも授業で話してほしいもの。

金城重明氏の「偽証罪」を追及した世界日報の記事を以下に引用します。

                   ◇

NHKの沖縄戦集団自決特集で兄が明言 「父に手を掛けた」

金城氏の偽証濃厚に

picture 支援者が掲げる「沖縄戦の真実を判決に」の横断幕の中央に立つ沈痛な面持ちの金城重明氏(中央)=平成19年9月10日、福岡高裁那覇支部前(敷田耕造撮影)
 NHKが八月二十九日放送した沖縄戦集団自決特集番組で、渡嘉敷島に住む金城重栄氏(81)が「(弟と二人で)僕たちは両親も弟もみんな、その場で殺してしまった」と明言した。この発言により、沖縄戦集団自決訴訟で昨年九月十日、福岡高裁那覇支部での所在尋問(出張法廷)で、「父とはぐれた」「父には手を掛けていない」と語った弟の金城重明・沖縄キリスト教短期大学名誉教授の発言が偽証である可能性が濃厚となった。「自ら手に掛けることが家族への愛」という、これまでの説明も説得力を失ったと言える。
(編集委員・鴨野 守)

 この番組はNHK沖縄が制作し、「九州沖縄スペシャル“集団自決”~沖縄 渡嘉敷島 兄弟の告白~」と題して二十九日午後八時から四十三分間、九州・沖縄で放送された。
 番組では当時十代だった金城兄弟のインタビューを核にして、当時の軍国主義教育、「天皇陛下万歳」の声、手榴弾を叩く音が、「兄弟にとって“自決命令”だった」という結論を導いたもの。だが、駐留していた日本軍が住民に自決命令を下したかどうかは不明としている。
番組で注目すべきは、兄の重栄氏が集団自決に関して、より踏み込んだ発言をしている点だ。NHKは今年二月一日も「ドキュメント沖縄 “集団自決”63年目の告白~家族を死に導いた兄弟の告白~」を放送。この時ナレーターは、金城氏の家族が豪雨の中、住んでいた阿波連から集合を命じられた七キロ先の西山に向かう場面に触れ、「途中、父親とはぐれ、十八歳と十六歳の兄弟は幼い妹と弟の手を取って歩き続けました」と語る。
  さらに、集団自決の場面でも、ナレーターは「父親とはぐれていた二人にとって自ら手を下すことだけが家族への愛でした」との説明を付けている。
  ところが、二十九日の番組で重栄氏は明確に「僕たちは両親も弟もみんなその場で殺してしまって…」と語る。取材記者が、「どういうふうにしてですか」と問うと、「家族の首を絞めて殺したんですよ」と、その様子を話した。
  その後で番組ナレーターが「当時、重栄さんは六人家族。集団自決で家族四人を手に掛けた」と語り、父、母、九歳の妹、四歳の弟の名前を読み上げて、二月放送のものを事実上、訂正する形となっている。
  テレビカメラを前に、虚偽で「家族に手を掛けた」と語る人間などいない。兄のこの証言で、弟・重明氏の法廷証言の信憑性が一気に薄らいだ格好となる。
  昨年、那覇で行われた出張法廷で、弟の重明氏は「父親は離れて、おりません。
ですから(家族に)手を下す人はいないわけです」「父は(自決現場となった)西山までたどり着いたと思うが、まだ未明でしたので、そこではぐれた。眼病で、夜(の移動)は非常に困難したためはぐれてしまった」として、父と離れ離れになったと強調。父を手に掛けたとする重明氏本人の証言が掲載された本の記述についても、「全然間違ったことを書いてある」と全面的に否定した。
  自ら家族に手を掛けることが「家族愛」と重明氏は説明してきたが、父親を手に掛けたことを近年否定してきたのは、父親まで手に掛けたことがあからさまになることへの後ろめたさからなのか。そこには心底「家族愛から手に掛けた」と断言できない心の葛藤があったのだろうか。
  法廷での証言は、裁判長が宣誓の趣旨を説明、証人が偽証をした場合罪に問われることもあると告げられ、宣誓書にもサインする。関係者は「刑事事件で偽証すれば、検察官が偽証罪で起訴するが、民事ではほとんど起訴はない。だが、証言の信憑性を低下させることは確かだろう」と語った。控訴審第二回口頭弁論は今月九日、大阪高裁(小田耕治裁判長)で開かれる。(世界日報)

                 ◇

関連エントリー:NHK集団自決番組が「軍命」で自爆

 

『李登輝元総統 沖縄ご講演参加ツアー』のご案内         ~本会会員のみ歓迎レセプションに参加可~

 ご案内のように、来る9月23日、李登輝元総統は沖縄・宜野湾市で「学問のすゝめと日本文化の特徴」と題した講演を行います。つきましては本会からも多くの方に聴講していただきたく、ここにご案内申し上げます。

 参加方法は下記の2通りです。どちらかご都合のよい方をお選び下さい。
 ◆『李登輝元総統 沖縄ご講演ツアー』に参加する(羽田空港発着) → 日程詳細/お申し込み
   ・ツアーには歓迎レセプションへの出席も含まれています。
   ・李元総統のお出迎えからお見送りまでを含めたFコースと、リーズナブルなAコースの2種類をご用意。
   ・その他の空港発着をご希望の場合は現地参加をご選択下さい。その際、現地までの航空券はご自身の手配となります。
   ・歓迎レセプションへの出席は本会会員のみとなります。非会員の方は、同時に入会案内をお送りいたしますのでご入会をお願いいたします。

 

■■李登輝沖縄講演会のお知らせ■■

 ◆ お申し込み 【締切 9月16日】
   ・歓迎レセプションへの出席は本会会員のみとなります。非会員の方は、こちらから同時に入会をお願いいたします。
   ・前売り券のみのご購入は、沖縄県内の下記書店でも可能です。詳細は下記までお問い合わせ下さい。
    球陽堂書房(那覇店:098-951-3456 西原店:098-882-9280)

                  ◇
 

◆「学問のすゝめと日本文化の特徴」講演会開催について

 今般、中華民国(台湾)民選初代総統・農学博士・李登輝氏を招聘して、標記講演会を下記の通り開催致します。

 22歳まで「日本人」として育ち、日本人以上に日本を愛する李登輝博士は、自らは台湾の民主革命を指導する一方で、戦後日本社会の精神的荒廃を嘆き、日本文化や日本精神の再興を願って「日本人よ、誇りを取り戻そうではないか」と、熱く訴えていることでもつとに有名です。今回初めて沖縄を訪れる李登輝博士には、学問のすゝめ、日本文化の特徴、日本および沖縄人の生き方などについて、日本語で、縦横に語って頂く予定です。

 各位におかれては、この機会に、李登輝博士の講演会に参加され、博士の熱意に触れて頂くようご案内申し上げます。 

 敬具

 2008年8月13日
 李登輝博士「学問のすゝめ」講演会実行委員会
 実務責任者 琉球大学教授 永井 獏(實)


■日 時:2008年9月23日(火/秋分の日)午後3:00-5:00(2:30開場)

■場 所::沖縄コンベンション劇場

〒901-2224 沖縄県宜野湾市真志喜4-3-1
TEL:098-898-3000 FAX:098-898-2202

■入場料:1,000円(当日2,000円)、学生はいずれも半額
なお、当日午後6:30よりラグナガーデンホテルにおいて「李登輝博士歓迎レセプション」(参加費10,000円、同伴者5,000円)を開催予定。

■主催
李登輝博士「学問のすゝめ」講演会実行委員会
沖縄県九州大学同窓有志会(宮城信勇会長)
(財)南西地域産業活性化センター(當眞嗣吉会長)
NPO琉球大学産学連携研究会(永井獏代表)

■協賛
(社)沖縄県経営者協会(知念榮治会長)
球陽堂書房(山田親夫社長)
リューセロ株式会社(知名洋社長)
(有)沖縄観光速報社(渡久地明社長)

■後援
沖縄県(仲井真弘多知事 知事には来賓出席を要請)
(財)沖縄観光コンベンションビューロー(平良哲会長)
NHK沖縄放送局(熊谷雅宣局長)
沖縄タイムス社(岸本正男社長)
琉球新報社(比嘉辰博社長)

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琉球新報の裏切り報道【追記あり】 金豚よ、お前はもう死んでいる  

2008-09-11 07:19:56 | ★集団自決

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 昨日の当日記で、沖縄タイムスは、「集団自決訴訟」第二回控訴審」で、大江側が提出した「新証言」を一面の大見出しで飾ったと書いた。

この「垣花証言」については昨日述べたような議論に耐えない噴飯モノだとかいたが、新聞の一面に大見出しで出た以上見過ごす訳にもいかず、不本意ながら噴飯モノである理由を書き連ねたのだが・・・。

何と、新報新報はタイムスが一面に書いた「新証言」を完全にスルーして一言も触れてもいない。(爆)

さすがに井戸端会議のウワサ話を記事にしたのでは新聞としての沽券にかかわるとでも思ったのか。

原告側の「新証言」(宮平証言)はしっかり報じているのに。

ここにきて、琉球新報が裏切った?

 判決は来月31日 岩波訴訟控訴審 2008年9月10日 
【大阪】沖縄戦中、座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、両島に駐留していた日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの記述は誤りだとして、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏らが「沖縄ノート」著者の作家大江健三郎氏と版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた裁判の控訴審第2回口頭弁論が9日、大阪高裁(小田耕治裁判長)で行われた。双方が意見を陳述して結審した。判決は10月31日に言い渡される。
 一審同様、控訴審でも隊長命令の有無で争った。原告、被告が新たな証言を提示したが、一審での双方の主張の対立構図や一審判断を大きく揺るがすことはなかった。
双方とも今後、新たな書面を出す方針もないため、同高裁は早期に審理を打ち切ったとみられる。
 
原告の梅澤氏側は「自決命令」を否定する梅澤氏の主張を裏付ける証拠として、「集団自決」発生前日、自決用の弾薬を求める住民代表と梅澤氏のやりとりを軍伝令の立場で聞いていたと証言する同村の宮平秀幸氏の証言などを新たに提出した。それに対し大江氏・岩波側は宮平氏の証言について「矛盾点が多い」と疑問を呈し、信用性がないと指摘した。
 大江氏・岩波側は高校歴史教科書の「集団自決」に関する記述で「軍強制」の事実を削除した2007年の教科書検定意見は、その後の教科書各社による訂正申請への対応を通じて修正前の検定の立場に戻ったと主張した。これに対し、梅澤氏側は「軍命令・強制を否定した文科省の立場は一貫している」と反論した。

                                              

>双方とも今後、新たな書面を出す方針もないため、同高裁は早期に審理を打ち切ったとみられる。

今回の新報報道は珍しく、タイムスに比べて冷静に報じている。高裁が早期に結審に持ち込んだ理由はこんなとこだろう。

この裁判の発端が沖縄タイムスの『鉄の暴風』である以上、タイムスがこの裁判の当事者であり、その報道が被告大江側のプロパガンダ報道になるのはともかく、琉球新報まで横並びでプロパガンダ報道することに呆れていたのだが。

琉球新報も目が醒めた? まさかね。

原告の梅澤氏側は「自決命令」を否定する梅澤氏の主張を裏付ける証拠として、「集団自決」発生前日、自決用の弾薬を求める住民代表と梅澤氏のやりとりを軍伝令の立場で聞いていたと証言する同村の宮平秀幸氏の証言などを新たに提出した。それに対し大江氏・岩波側は宮平氏の証言について「矛盾点が多い」と疑問を呈し、信用性がないと指摘した。

まぁ、被告側としては当然イチャモンをつけるだろうが、お仲間の新報に完全無視されるよりはマシでしょう。

【追記】

その被告側のイャモンは藤岡信勝教授の意見書で木っ端微塵に粉砕されている。

9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回(結審)(09/10)
藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2(09/10)
藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2(09/10)

藤岡教授は数々傍証により、宮平証言ほど信憑性のある証言はない、と見事に検証している。

宮平氏の記憶力の確かさについては、藤岡教授も意見書の中で舌を巻いているが、筆者も同氏に何度か面談した印象では普通の人間の想像をはるかに超える記憶力の持ち主であることは間違いない。

【追記】終了

新報は第二か控訴審で争われて論点として「文部省の立場」を挙げている。

大江氏・岩波側は高校歴史教科書の「集団自決」に関する記述で「軍強制」の事実を削除した2007年の教科書検定意見は、その後の教科書各社による訂正申請への対応を通じて修正前の検定の立場に戻ったと主張した。これに対し、梅澤氏側は「軍命令・強制を否定した文科省の立場は一貫している」と反論した。

司法の独立を考えれば、行政機関である文部省の判断が判決に影響すると考えるのはおかしいが、そんな青い理屈はそっちのけで、両陣営とも「文部省の立場」は自分と同じ立場だと言い争っているのだが、

事実はどうなっているのか。

こうなっている。

⇒「独断と推論の判決② 真実相当性」、

文部省の立場が争点! 集団自決控訴審 真実相当性も

                 ◆◆

大江健三郎被告について、

 大江よ。お前はもう死んでいる 独断と推論の判決・最終章

というエントリーをした。 

突然話が飛ぶが、金正日が重病説が流れているが、もう既に死んでいるという。

「金豚よ、お前はもう死んでいる!」

と引導を渡しているのは北朝鮮研究の専門家・重村教授なので「井戸端会議のウワサ話」と一蹴するわけには行かない。

重村教授によると、

≪(金豚に関して)03年9月9日から10月20日まで動静が消えていた。このころ死亡したとみられる。死亡が事実だとすれば、04年5月に当時の小泉純一郎首相(66)が2度目の訪朝の際に握手した「金総書記」は、影武者だったことになる。≫

ん? ということは小泉元首相は、第一回目は本物と二回目は影武者と握手したことになる。

それで気が付かなかった?

これも考えられないね。

詳しくは以下。

 金正日総書記、既に「死んでいる」? (1/2ページ)

2008.9.11 05:05
金正日総書記、既に「死んでいる」?
2004年5月、訪朝した当時の小泉純一郎首相(右から2人目)と握手する金正日総書記。本物? 影武者?=平壌(代表撮影)【フォト】

 北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記(66)が重病ではないかとの観測が世界を駆けめぐっている。9日に首都平壌で行われた建国60年の行事に姿を見せなかったためだ。脳卒中説が有力だが、北朝鮮ウォッチャーの早大国際教養学部・重村智計(としみつ)教授(62)は「脳卒中で倒れたのは影武者」と指摘。では今、金総書記はどこに!? 重村教授が北朝鮮最大のタブーの真相を語った。

【続きを読む】

                    ◇ 

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集団自決控訴審 新証言が二件!判決は10月末

2008-09-10 08:44:34 | ★集団自決

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沖縄の新聞はウェブ記事の更新が遅いので、とりあえず時事通信記事。

控訴審判決は10月31日=沖縄戦自決訴訟が結審-大阪高裁
太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に集団自決を命じたと記述され名誉を傷つけられたとして、元日本軍守備隊長らが「沖縄ノート」の著者大江健三郎さんと岩波書店を相手に出版差し止めや損害賠償を求めた訴訟の控訴審が9日、大阪高裁で開かれ、結審した。小田耕治裁判長は判決言い渡しを10月31日に指定した。
 原告側は「教科書検定で文部科学省が従来の立場を変更し、軍の強制がなかったと判断している」と主張。大江さんの記述には正当性がないとして一審判決の取り消しを求めた。
 大江さん側は「検定意見は再修正されて元に戻っており、一審判決の根拠は維持されている」として控訴棄却を求めた。
 一審大阪地裁は3月、命令自体は認定しなかったが、集団自決に旧日本軍が深くかかわっており「元守備隊長の関与が十分推認できる」として名誉棄損を否定した。(2008/09/09-17:46)

                     ◇

今日の沖縄タイムス朝刊の「集団自決訴訟」関連の見出しの紹介。

 6面に控訴審の「論点一覧表」を掲載して、合計四面を「集団自決控訴審」に費やしている。

◆一面左トップ

<「玉砕命令」で新証言>

「集団自決」訴訟で結審   大阪高裁判決10月31日

 

◆28面(社会面)左トップ

<県民運動「再構築を」>

一審判決の維持焦点

棄却求め高裁に署名提出

市民団体、累計二万3000人

 

◆29面(社会面)トップ

<軍命記述へ決意新たに> 
「集団自決」控訴結審

政治目的提訴に反発

支援者集会 原告新証言も批判

                  ◆

当初の予想では10月末に結審、12月中旬に判決言い渡しかと思ったが、予想以上の早い展開に終わった。

昨日の口頭弁論でで原告側は、「梅澤さんは忠魂碑前に集まった人々に解散を命じたという宮平証言や、それを補強する別の新証言等を提出している。

これに対抗するように被告側も新証言として垣花証言なるものを提出したが、

宮平証言に対抗すべく、急ごしらえで「でっち上げ新証言」の感は否めない。

両陣営の新証言者を一言で言えば、原告側の宮平さんは当時現場にいた「目撃証言」であることに対して、

被告側の垣花証言は戦後63年経って唐突に出てきた「伝聞証言」であるということである。

宮平証言については、藤岡信勝拓大教授が詳述されているのでこれを参照下さい⇒http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu7_miyahira.html

一方の垣花証言とは、

座間味島で三役に次ぐ要職だった郵便局長が、「集団自決」の話題になるといつも、「米軍が上陸したら、足手まといにならないために、村の幹部は住民を玉砕させるように命令されていた」と話していた。1945年2月ごろ、村三役が郵便局長ら要職者をを密かに集め、打ち明けたということだった。>(沖縄タイムス)

論評するに値しない伝聞証言だが、新聞に活字として掲載され、一面トップに<「玉砕命令」で新証言>と大見出しを出されては、これに触れないわけにはいかない。

座間味島の集団自決に関しては『座間味村史』をはじめ、『母の遺したもの』、『潮だまりの魚たち』。沖縄タイムス謝花記者の『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか 』 など「軍命あり派」が出した出版物が数多く出版されているが、この「新証言」は一切登場していない。 

「軍命の有無」に関わる重大発言を郵便局長が隠していたということも不自然である。

三役から郵便局長が「命令を伝え聞いた」とされる2月は、米軍の座間味上陸は軍民共に想定外のいことであり、その時期での玉砕命令はありえない。

座間味住民が米軍の艦砲射撃で混乱を始めるのは翌3月の23日からであり、集団自決は25日から26日の未明にかけて行われている。 

2月頃の座間味島は米軍上陸など夢想もしていないのどかな島で、その時期に住民に「玉砕命令」が出ているとしたら住民の一人くらいは、三役や村の幹部から直接聞いた人がいるはずだが直接聞いた人は皆無である。 

人間の生死を分ける重要な命令が「村の三役から伝え聞いた」というのも不自然であるが、今回の垣花証言はその「伝え聞いた命令」を更に伝え聞いたというのだから、タダの噂話を法廷に持ち込んだわけで、厳格な裁判長なら「法廷侮辱」で罰されるようなシロモノである。

何よりも「郵便局長は三役と同じ村の要人だった」というが、村の要人は三役をはじめ校長を含む全員が産業組合壕で自決している。 

三役に次ぐ要人なら、郵便局長は何ゆえ要人の家族が終結した産業組合壕にいなかったのか。 要人全員が自決しているのに、何ゆえ生き残ったのか。

郵便局長が生き残ったのが悪いと言うのではない。 

「垣花証言」がデタラメだというだけのことである。

                    ◇

蛇足ではあるが、宮平証言に関して3月25日深夜から26日未明にかけての宮平一家の行動を述べるとこうなる。

無差別に降り注ぐ艦砲射撃を避けながら、自分の家の壕に向かったが、その前に宮平家に分宿していた兵隊さんが、万が一の時は訪ねなさいと言っていたことを、母貞子が思い出した。

自分の壕へ行く前に整備中隊の壕に行き、内藤中隊長、池谷少尉、木崎軍曹、落合軍曹、藤江兵長の5人と会うことが出来た。 

そこで昨夜(25日)の村の幹部と梅澤中隊長とのやり取りや、忠魂碑前で村長が解散命令をしたことを話すと、「軍の命令なんか出ていない、死んではいけんぞ。連合艦隊が逆上陸してきたら、万が一救われるチャンスもあるから、家族ひとりでも生き残りなさい」と言われ、食料を分けてもらった。 

顔なじみの木崎軍曹たちがその時一家に言った言葉を、母の宮里貞子さんは後に次のように証言している。

 <「こっちは兵隊のいる場所だから、あなた方は上のほうに逃げなさい。もし玉砕の必要があったら、自分たちが殺してあげるから、けして早まったことをしてはいけないよ」と、すごい口調で言ったので、それではできるだけ逃げようとということになったのです>(座間味村史)

 後になって兵隊が言ったとされる「殺してあげる」という母の証言を、宮平氏は既に亡くなっていた母に代わって、次のように訂正している。

整備中隊の壕の前で、「兵隊さんに殺してもらう」と言おうというのが母と姉の案でしたから、私が代弁してそう言いましたが、兵隊さんの方から「殺してあげる」とは言っていません。>(平成20年3月18日-「つくる会Webニュース」)

平和な時代の感覚でいえば、「殺してあげる」という表現は穏やかではなく、「集団自決論争」で、これを「軍命令の証拠」だとする「軍命あり派」もいるが、

仮にそう言っていたとしても顔見知りの兵隊が「早まったことはするな(死んではいけない)」という意志を強調する意味で使ったことは文脈からみて明らかであり、むしろお世話になった宮平一家に「自決するな」と忠告した証拠になる。

一家が第2中隊の壕のところまで戻って来ると、爆撃が激しくなり、その壕で一時避難をして、約40分程の束の間の休息を取った。

第2中隊の田村中尉が、自分たちは今から斬りこみに行くので残った食料は持っていきなさいと、金平糖、ミカンの缶詰、黒糖アメをもらった。 この兵隊さんたちは、敵陣地に斬り込み、皆戦死してしまったことは後で知った。

                   ◇

一審判決の再審理だけでも原告勝訴以外あり得ないと考えてるが、作日提出の宮平証言と、それを補強する他の方の新証言が更に原告勝訴に拍車をかけるものと確信する。

控訴審判決は原告勝訴と思う方

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【追記】11:50

沖縄タイムス記事です。

「集団自決」訴訟結審/「玉砕命令」で新証言
 大阪高裁/判決10月31日
 沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、著作に命令を出したと書かれて名誉を傷つけられているとして、座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍の元戦隊長とその遺族が、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏(73)と発行元の岩波書店に、出版の差し止めや慰謝料などを求めている訴訟の控訴審は、大阪高裁(小田耕治裁判長)で九日に開かれた第二回口頭弁論で結審した。判決は十月三十一日午後二時に言い渡される。

 被告の大江・岩波側は「『米軍が上陸したら軍の足手まといにならないために、村の幹部は住民を玉砕させるよう軍から命令されていた』と、当時の座間味島の郵便局長が話していた」とする、元村議会議員の垣花武一さん(78)の「新証言」を証拠提出した。

 座間味島の戦隊長だった梅澤裕氏(91)の命令を否定する根拠の一つとして、原告側が提出していた座間味島住民の証言は、本人のこれまでの証言内容や実母を含めた他の体験者の証言と、重要な部分で大きな食い違いがあるとして、信用性を否定した。

 垣花武一さんの証言について原告の元戦隊長側は、これまで語る機会があったのに、沖縄県史や座間味村史などの証言録には一切記録されておらず、内容の重要性に照らして不自然と反論。座間味島住民の証言については、新しい歴史教科書をつくる会の会長で拓殖大教授の藤岡信勝氏の「意見書」を提出、被告側の指摘に反論した。

 同日の弁論で被告代理人秋山幹男弁護士は「座間味島や渡嘉敷島に駐留していた日本軍は、米軍上陸の際は捕虜になることなく、住民に自決するよう指示・命令していたことは明らかと指摘。最高指揮官だった戦隊長の意志に基づかないことはありえず「集団自決」は隊長命令によるものというべきである、と述べた。

 原告代理人の徳永信一弁護士は、「集団自決」は米軍の無差別攻撃や皇民化教育のほか、家族愛や戦陣訓、いざという時のために渡された手りゅう弾などの複数の要因があり、軍命令という単純な理解はできないと主張した。

 一審大阪地裁はことし三月、「集団自決に軍が深く関与したのは認められる」と指摘。請求を棄却した。

                    ◇


弁護士が自論を主張する論拠を、「明らか」とか「ありえず」とか「べきである」といった理屈にならない論拠を平気で述べるのが、この裁判の被告側の特徴である。

 

秋山幹男弁護士は「Aが犯人である」を主張し、その論拠を、

「Aが犯人であることは明らか

「Aが犯人でないことはありえず

「Aは犯人であるべき」で通すらしい。

へー、今時こんな弁護士もいるんだ!

ビックリ!

軍命記述へ決意新た/支援者集会【09月10日】
「集団自決」控訴審結審/政治目的提訴に反発/原告新証言も批判
【大阪】「『自決』は軍命以外にはない」。沖縄戦をめぐる「集団自決」訴訟控訴審が結審した九日、被告側の支援者らは大阪市内で集会を行い、決意を新たにした。第二回弁論の中で原告側が、提訴の狙いは、名誉棄損を求めるだけでなく「政治的な目的もある」と発言したことにも反発。「もう一度原点に立ち返り、昨年の県民大会決議の実現を目指そう」と声を上げた。

 岩波書店編集部長の岡本厚さんは、原告側が軍命を否定するために持ち出した座間味島住民の新証言について「ほかの島民や昔の自分の証言と矛盾している。つじつまを合わせるためにうそを重ねている」と批判。

 一橋大学名誉教授の中村政則さんも「証言の重要性に気づき、自分たちの考えに合う証言を探したが見つからず、『新証言』にこだわったのではないか」と分析した。

 一方、原告側が弁論の中で、今回の提訴には、軍命で「集団自決」は起きたとする考え方を放置させない、という政治目的を併せ持っていると“表明”したことへの批判が聞かれた。

 社会科教科書懇談会の石山久男委員長は「(原告側は)検定で軍命の記述が削除されたことで目的の一つが達成されたことを認めた」と驚きを隠さなかった。

 沖縄の「平和教育をすすめる会」の山口剛史事務局長は、教科書検定意見撤回を求める県民大会から一周年を迎える九月二十七日に那覇市内で約二百人規模の集会を計画していると説明。運動の盛り上がりの必要性を訴えた。

 教科書記述の再訂正申請に向けた動きについて、教科書執筆者の坂本昇さん(東京都)は「教科書会社は文部科学省との関係をこれ以上悪化させなくないという思いがある。早めに取り組みたいが、どの程度できるか各社で検討中」と難しい現状を明かした。

                    ◇

>教科書検定意見撤回を求める県民大会から一周年を迎える九月二十七日に那覇市内で約二百人規模の集会を計画していると説明。

「11万人」集会の一周年記念集会に、僅か「約二百名」の集会とは、・・・・・・・。

桁が違う、いや、少なくとも、二桁は違っても二万人は集まらなきゃ・・・。


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コメント (2)

「恥さらしの祈念碑」宮古島に建立 強制連行された性奴隷 

2008-09-09 07:47:42 | 従軍慰安婦

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沖縄タイムスの歴史観がお粗末なものであることを計らずも暴露したような「慰安婦」に対する恥さらしな記事です。

いや、お粗末というより無知だね。

無念の死 記憶後世へ/宮古島市に「慰安婦」祈念碑【社会】
 【宮古島】太平洋戦争中に、朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、戦後も苦難に満ちた人生を生きる元慰安婦らの記憶を後世に伝えようと、宮古島市上野野原で七日、慰安婦の祈念碑が建立された。除幕式で参加者らは戦争のない世界の実現へ向け「平和運動の出発地にしよう」との思いを新たにした。(伊集竜太郎)

 碑文は「慰安所」が沖縄には百三十カ所、宮古島には少なくとも十六カ所あったことなどを記録。「彼女たちの記憶を心に刻み次の世代へ託します」と誓った。

 慰安婦の出身国十一カ国と、戦禍の中で女性への性的虐待があったベトナムの計十二カ国の言語で平和希求の思いが書かれた。三つの祈念碑のうち、中央の碑には慰安婦が好きだったという桔梗の花が刻まれた。

 除幕式には、中国に強制連行された韓国出身の元慰安婦、朴順姫さん(85)や慰安所の存在を証言した住民らも参加。朴さんはアリランの唄を涙を流しながら歌い、「安らかに眠ってください」と、アリランの碑へ献花した。

 昨年、日韓の合同調査団が同市内で、地元住民から慰安婦の置かれた状況などを聞き取りした。

 証言者の与那覇博敏さん(75)が被害の事実を後世に伝えようと祈念碑建立を提案、所有地を無償提供した。

 今年二月に市民や日韓研究者らで「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」(尹貞玉、高里鈴代、中原道子共同代表)を発足。十二カ国から約六百の個人・団体が賛同し、碑建立に取り組んだ。

 洗濯帰りの慰安婦が休んでいたのを与那覇さんが目撃した場所の目印として、祈念碑の手前に「アリランの碑」と名付けた岩が置かれた。

 与那覇さんは「小五のころ、この近くに日本軍の慰安所があった。その事実を知っている者として後世へ残す責任の重さを感じている。この場所を平和運動の出発地として活動していく」と決意を語った。祈念碑横に「平和の森」を五年以内に建設予定という。

 参加者は当時、慰安婦が口ずさんでいたというアリランの唄を歌い、桔梗の花を献花して、故人の霊を慰めた。 (沖縄タイムス)

                                               ◇

>朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、

全国紙では使用されなくなった「強制連行」や「従軍慰安婦」の文字が平気で踊るのが沖縄タイムスの特異な歴史観。

それに「無念の死」と意味深な見出しになっているが、これを書いた伊集記者は、強制連行された従軍慰安婦軍の命令で自決させられ無念の死をとげたたとでも言いたいのだろうか。

普通の人間なら誰しも死ぬときは無念だろうが。

同じ記事を報道するのにも琉球新報は、さすがに「慰安婦」と記して「従軍」ははずしているし、

「強制連行」も「強制」をはずして記している。

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の...(2008.9.8)

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の祈念碑除幕2008年9月8日 【宮古島】日韓の研究者や宮古島市民らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史などを伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」の除幕式を同市上野野原で開いた。同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。
 碑は3種類。「女たちへ」と題した碑文は、戦時中の女性への性暴力の悲惨さや平和の大切さを訴えた。その両脇の碑文に日韓やタイ、ベトナムなど12カ国語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世の中を祈ります」と記した。宮古島で「朝鮮人慰安婦」が歌っていた「アリラン」を伝える「アリランの碑」も建立された。
 碑建立は、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の学生、洪允伸(ホンユンシン)さんらが2006―07年、宮古島で「慰安婦」に関する証言の聞き取りを地元住民の協力を得て実施したことなどがきっかけ。
 証言者の一人、与那覇博敏さん(75)が自らの所有地で、小学5年生ごろに「慰安婦」を目撃した場所を建立地として提供することを申し出た。日韓の研究者らも賛同し今年2月に建てる会を発足、寄付を募った。
 除幕式は伊志嶺亮市長や宮古での「慰安婦」の様子を証言した住民、韓国から満州へ連行された元「朝鮮人慰安婦」の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)らも参加し碑に献花。宮古高校吹奏楽部の演奏で「アリランの歌」を斉唱した。
 建てる会の尹貞玉(ユンジョンオク)さん=「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表=は「世界各国からここへ来て平和を考える場所になることを願う」、与那覇さんは「この場所を平和への活動の出発点にしたい」と呼び掛けた。(古堅一樹)(琉球新報)

                   ◇

沖縄タイムスの伊集記者と琉球新報の古堅記者を比較すると、どっちもどっちだが、この記事に関する限り琉球新報は比較的まともで、沖縄タイムスは「慰安婦問題」では歴史に無知であることを晒している。

一事が万事で、沖縄タイムスの集団自決へ対する歴史観も、この程度のもだとあきれ返る記事だ。

>同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。

こんな恥さらしの碑を建立するのは宮古島以外に例が無いのは当たり前のこと。

恥を知るなら即刻「大恥晒しの碑」を撤去し、宮古の良識を示すべきであろう。

宮古島の「慰安婦の碑」に関して情報を頂いた太平山さんが、実際に「慰安婦の説明会」に参加され、詳しいレポートをコメント欄に投稿されているので、保存資料として下記に転載させていただきました。

                   ◇

 

①公開   反戦平和暴力団 2008-09-08 12:03:42 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔人さま

こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。

一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。

捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。

それではまた。
 
②公開   元慰安婦証言 2008-09-08 18:28:08 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 

元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)

1.連行された時の状況

植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。

2.「慰安所」での生活

満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。

管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。

朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。

3.帰還した際の状況

管理人のうち一人が突然、「急いで避難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく避難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。避難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。

帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。

妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。

3.解放後の生活

故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。

そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。

60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。

4.現在の状況

朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。

海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。

    2002年挺身隊協提供聞き取り


元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール

1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)  
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし  

 
③公開   元慰安婦証言(2) 2008-09-08 21:20:09 太平山 
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
 会場での証言

証言内容

(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。

(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。


証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。

以上
 
 
④公開   残念無念 2008-09-08 22:27:53 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔神さま

こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。

しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。

今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。

会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。

地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。

まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。

宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。

それではまた。

 

狼魔人さま

言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。

小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。

それではこれにて失礼。
 

 

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コメント (29)

先代の武蔵川理事長は名理事長だった!

2008-09-09 05:54:55 | 県知事選

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横綱としては無敵を誇った北の湖も、理事長としては無能をさらけ出してしまった。

名選手必ずしも名コーチたりえず。

名横綱必ずしも理事長たりえず。

名理事長でなくとも、普通の理事長も務まらなかった。

新任の武蔵川理事長は横綱三重の海の時代は地味な横綱だった。

先代武蔵川親方は、現役時代の最高位は前頭筆頭にすぎなかったが、その有能な組織管理能力を買われて、第4代理事長に推挙され、歴代でもっとも有能な理事長として評価されている。

相撲協会という大所帯を仕切るには、現役時代の強さに関係なく、管理能力の有無で理事長を決めるべきだと思う。

「理事長代行を…」迷走の果て、北の湖理事長お粗末辞任劇写真付き (9月9日 03:20)

新旧理事長らが出席して開かれた記者会見(8日午後、両国国技館で)=関口寛人撮影

 日本相撲協会を6年半も率いた北の湖理事長の辞任劇は、「潔さ」とはほど遠い結末だった。さらに、新理事長誕生も、相次ぐ辞退者の果てに決まった互選の結果だ。時津風部屋の傷害致死事件以降、不祥事が相次いだ大相撲が迷走した背景には、協会幹部たちの無責任体質があった。

 2力士の大麻吸引が疑いようのない事実であることが報告された理事会。その直後、北の湖理事長が全理事を前に、トップとしての考え方を示した。

 「私は少し休んで、代行を立てたい」。言葉の意味が読み取れず、一瞬、理事会の場が静まり返った。審判部長の放駒理事(元大関魁傑)から、「それは、どういうことか」と問われた理事長は、「公職を休み、理事長代行を置きたいということだ」と答えた。

 さらに、放駒理事が追及したという。「理事長の判断は大きい。あなたは、理事長をやるのか、辞めるのか、どちらかだ」

 この直後、北の湖理事長が辞任を申し出た。別の理事らが言う。「覚悟はあったということだろうが、あまりにお粗末」「休職などあり得ない。もっとたたかれるだけだ」――。幕内優勝24回、横綱在位は史上最多の63場所。幼少から「怪童」と呼ばれ、挫折を知らなかった「大横綱北の湖」の名声が地に落ちた。

 ◆後任、たらい回し◆

 相撲協会の迷走は、これにとどまらなかった。北の湖理事長が「後任には武蔵川理事を」と言及したが、理事たちがこれを却下。続いて、後継候補の名が次々と挙がったが、放駒理事は断り、53歳と年が最も若く1期目の九重理事(元横綱千代の富士)は、「経験が浅い」と辞退した。再発防止検討委員会の委員長で、最も強く後任に推された伊勢ノ海理事(元関脇藤ノ川)は、「心臓に不調がある」と断った。

 結局、武蔵川理事が候補となり、互選は全会一致で終わった。ある理事が、自省を込めてつぶやいた。「全員一致の武蔵川新体制といえば聞こえはいい。だが、実情を知る者ほど、火中の<RB>栗</RB><RP>(</RP>くり<RP>)</RP>は拾わない。これが、今の相撲協会だ」

 昨年夏、朝青龍の無断帰国騒動の余波が覚めやらぬ中、時津風部屋の傷害致死事件が発覚した。親方衆の多くが北の湖体制の崩壊を予想した。

 だが、理事長は辞職の選択肢を捨てた。

 「世間の厳しい声は分かっている。しかし、だれがオレの後を継ぐ。皆、自分のことしか考えない。身勝手じゃないか」。捨てぜりふのように言い放った。

 時津風部屋の兄弟子3人の逮捕が、目前に迫った今年2月、相撲協会の役員改選が行われたが、北の湖理事長に代わろうとする候補者はゼロ。粛々と続投が決まり、責任追及は立ち消えになった。

 相撲界改革への取り組みは、これまでもあった。65歳定年までの親方職を保証される年寄名跡(通称親方株)は現在も、1億円を下らない額で売買され、名跡取得に奔走する若手親方も多い。1996年には当時の境川理事長(元横綱佐田の山)が、二子山親方(元大関貴ノ花)の親方株の売買による所得の申告漏れ事件などを受けて、親方株の協会一元管理をルール化しようとした。

 しかし、親方衆が猛反発し、理事長らに撤回を申し入れて、断念させた。我が身に降りかかる火の粉を払うときは一致団結し、面倒なことには首を突っ込まない。これが親方衆の体質を示している。

 107人の親方衆が、今こそ一致団結し、真剣に相撲界再建を論じなければ、国技崩壊も覚悟すべき時にきているといえる。

 ◆旧態依然の切符販売◆

 大相撲の本場所は東京3場所と大阪、名古屋、福岡の3場所の計6場所。相撲人気は回復傾向にあり、特に土曜、日曜日は前売りが完売し、当日券も売れて「札止め」も多い。

 だが、深刻な問題も内包している。東京場所での切符販売を請け負うのが「相撲茶屋」と呼ばれる国技館サービス。現在は国技館内に20店が軒を連ねる。主要な収入源となる升席販売では、土俵に近い「升席A」は完売するが、土俵から遠いB、C升は厳しい。こうした売れ残り切符は、一定の基準で相撲協会が買い取っている。しかも、お茶屋の経営者たちは、高齢化が進んでいるが、後継者もいない。販売方法も旧態依然。お土産や飲食とのセット料金で経営を賄う。

 ◆一門は「派閥」◆

 相撲部屋と親方衆の大半は、出羽海、二所ノ関、時津風、高砂、立浪の5系統の一門に所属し、一門は「政党の派閥のようなもの」と例えられる。

 かつては一門ごとに地方巡業などの興行を打ち、生活資金の基本となった。しかし、給与制度が確立された現在は、同じ一門の力士が連合げいこを行う程度で、生活面の連合体意識は薄れている。だから、各一門の利益代表としての理事候補の意義は希薄だ。

2008年9月9日03時20分  読売新聞)
                 
                     ◇

 

大相撲大麻疑惑:武蔵川理事長が会見「しっかりやらねば」

                         

 外国人力士の活躍に支えられていた日本相撲協会は、結局外国人力士の不始末に振り回され、遂には理事長辞任にまで追い込まれる事態になった。

北の湖理事長の辞任は遅きに失した。

当日記は去年の9月12日付けで既にこのように書いていた。

朝青龍騒動 北の湖理事長の醜態

ここで理事長の資格として大横綱である必要はない、組織を統率できる能力があれば名理事長になれる例として、最高位が前頭に過ぎなかった13代武蔵川(前1・出羽ノ花)理事長のことを書いた。

急遽新理事長に選任された武蔵川親方の先代である。

新理事長は先代武蔵川の理事長としての手腕を承知しているはずなので、先代を見習って奮励努力してほしい。

以下は「朝青龍騒動 北の湖理事長の醜態」の抜粋を再掲。

長引く「朝青龍騒動」に北の湖理事長は一回も記者会見を開くことなく高砂親方に全てを丸投げしている。

先日開幕した大相撲秋場所の恒例の協会挨拶でも「朝青龍問題」には全く触れることなくファンの不評を買った。

>杉山氏らによると前日10日、協会関係者に呼ばれて「北の湖理事長の要求」として取材証の返還を求められた。

ところが何も言わざるの理事長も自分の批判と取れるものへの対応は素早いということか。

相撲を愛する情熱という点では、北の湖理事長より杉山元アナのほうが勝ると筆者は見る。

奇しくも杉山さんは北の湖理事長の生まれた年にNHKに入社している。

何しろ北の湖理事長がまだオムツの取れない頃から大相撲の実況放送に情熱を燃やしていたのだ。

自分を批判するものを個人の感情で報復するとは、北の湖理事長は自らの無能振りを朝青龍によって晒す結果となった。

名選手必ずしも名監督にあらず、とはよく言われることだが、

北の湖理事長は現役時代名横綱とは言われたが史上最低の迷理事長に成り下がったようだ。

戦後歴代の大相撲協会理事長を列記すると次のようになる。

相撲協会の歴代理事長http://www2.tba.t-com.ne.jp/tamaro/newpage2-23.htm

初代 広瀬正徳
2代 常ノ花
3代 双葉山
4代 出羽ノ花⇒13代武蔵川親方
5代 栃錦
6代 若乃花
7代 佐田の山
8代 豊山
9代 北の湖

初代の陸軍軍人は除いて、2代目と8代目を除いて全て横綱、それも名横綱といわれた方々である。

8代目の豊山は大学卒の力士として初めて大関に昇進し、インテリ大関と評された。

当時中卒がほとんどの角界にあって大学相撲出身ゆえの苦労も多かったが、引退後理事長就任した。

2期4年務めて年寄名跡改革問題などで混乱した角界の収拾に当たった。

理事長として最後の場所となった2002年1月場所千秋楽の協会御挨拶では「自分の言葉で御礼を申し上げたい。」と挨拶状を持たずに挨拶し、観客を唸らせた。(ウィキペディア)

もう一人の「非横綱」理事長は大横綱双葉山の後を継い理事長となった4代目の出羽ノ花。

大関どころか三役にもなれなかった前頭止まりの名理事長だった。

奇しくも「朝青龍問題」でマスコミが大騒ぎが始まった今年の7月の末、次のような小さな記事が出た。

市川富美子さん死去(故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長の妻)

2007/07/27-18:17  時事通信

市川富美子さん死去(故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長の妻)

 市川 富美子さん(いちかわ・ふみこ、故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長=元幕内出羽ノ花=の妻、境川尚・元同協会理事長=元横綱佐田の山=の義母)27日死去89歳。東京都出身。告別式は31日午前11時30分から東京都墨田区両国2の8の10の回向院で。喪主は長女恵津子(えつこ)さん。(了)


                     ◇

この記事の市川冨美子さんこそ、元前頭で名理事長と言われた出羽ノ花の奥様だった。

出羽ノ花 は現役時代の現役最高位は前頭筆頭で決して目立つ力士ではなかったが、引退後に本領を発揮し、日本相撲協会理事長となり、大相撲と相撲協会の近代化に貢献、その功績は高く評価されている。

戦前の巡業で満州に行った際に、協会が勧進元に対し言い値をそのまま支払うのを見て愕然とし、経済学や簿記・経理、そろばんを学んで協会の財政運営に貢献した。

以後、協会の金庫番や知恵袋としての活躍が始まった

昭和32年に当時の理事長出羽海親方が国会に呼ばれたが病気により欠席した際には代理で出席、堂々の答弁に議員達から「正に大臣も務まる。あなたの答弁は実に立派だ。

明晰な頭脳とその雄弁ぶりから、“角界の代議士”といわれることもあり、また一方では、「力士になっていなかったら、大実業家になっていたのではないか」という声もある人物である。

もって生まれた才能を勤勉と努力により開花させ、余すところなく発揮した。

大相撲の海外巡業は特にめずらしい事ではないが、その先鞭を付けたのも出羽ノ花である。 

 

相撲協会にに何事も波風が立たないときは北の湖理事長のように無能でも現役時代の威光で何とか置物理事長の役目を果たしただろう。

だが、今回のようにマスコミや、モンゴルという外国のファンも巻き込んでの事件となると現役時代の威光も何の役にも立たない。

出羽ノ花先例に倣って理事長は現役時代必ずしも強くなくても、広く人材を求め有能な人物を理事長にしておれば今回のような無様な対応は免れていただろう。

新弟子希望者が皆無という昨今、相撲協会の将来は決して安閑としたものではないはずだ。

朝青龍の我がままが計らずも大相撲協会の内に潜む問題をあぶりだす結果となった。

雨降って地固まるになって欲しい。

あ、それから杉山元アナには早めに記者証を返したほうが協会のためだと思うがね。

【追記】13日 7;48

大相撲の取材証、杉山元NHKアナに返還…話し合いで解決 (9月12日 19:53)

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「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を反日の島へ!

2008-09-08 08:57:02 | 従軍慰安婦

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 「集団自決訴訟」の第二回控訴審を9日に控え、沖縄の宮古島で、反日のシンボルともいえる「慰安婦の碑」が建立された。

「集団自決」と「慰安婦」は教科書記載にも絡む「反日」を象徴する問題だが、問題の本質が「軍の関与」というあいまいな言葉で「悪逆非道な日本軍」へと摩り替えられる点で両者は同じ根を持つ。

「慰安婦の碑」建立へ 心体の傷いえず(2008.9.7) カメラ 涙ながらに証言する朴順姫さん=6日、宮古島市平良の宮古島マリンターミナル

 【宮古島】宮古島市民や日韓の研究者らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史を伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」を12カ国約600の個人・団体からの賛同を得て同市上野野原に建立する。同会によると同様の祈念碑建立は国内初。建立前日の6日、同市平良で証言会があり、満州へ強制連行された元朝鮮人慰安婦が涙ながらに自身の悲惨な体験を語った。
 証言したのは1939年冬―45年秋の約6年間、日本軍の慰安婦として満州に強制連行された韓国人の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)=ソウル市。祈念碑建立に合わせ「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」の呼び掛けに応じ、初めて海外で証言した。高校生を含め、多くの市民が聞いた。
 韓国の平安南道元山で生まれた朴さんは16歳の時に強制連行された。当時について「隣町に住む友達の家へ遊びに行く途中で日本の憲兵2人に『こっちに来い』と言われた。そのまま日本人の部屋に何日間か閉じこめられ、列車で中国へ連行された」と説明した。
 満州では「着いた日からたくさんの日本人が(慰安所に)並んでいた。私は(性的)経験が無く、苦しくて反抗すると、軍人が私を包丁で刺した。今も傷跡が残る。一般兵も将校も来た」とつらい体験を告白した。
 慰安所の生活は「6年間、外に出られず、どこにいるのかも分からなかった。外を見ることを許されたのは、1週間に1回、子宮の検査で病院に行く時だった」と振り返る。
 朴さんは1945年に慰安所を飛び出した。「帰るための列車に乗ると妹に似た人がいた。名を呼ぶと、(妹は)びっくりして顔を見た。そこで(妹も)強制的に連れてこられて慰安婦にされたことを知った」。朴さんの父は娘たちが慰安婦にされたことを知って怒りのあまり、4日後に亡くなったという。
 最後に日本政府へ向けて「生きている間に心からの謝罪と公式な補償をしてほしい」と訴えた。
 会場からは勇気ある証言に拍手が送られ、証言を聞いた宮古高1年の奥平彩芽さん(16)は「(同年代のころに連行されたことを聞いて)ショック。あらためて戦争の恐ろしさを感じた」と語った。(古堅一樹)

                   ◇


>強制連行された韓国人の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)

さすが、ウソの証言で世界旅行をするお方、行く先々で歓迎されるからなのか、それとも裕福な暮らしをしているのか高齢(85歳)にはとても見えない。

「心体の傷いえず」とは、

とても思えない健康な風貌。

写真で見る限りご、20歳は若く見えるがまさか年齢もウソではないでしょうね。(笑)

かつて朝日新聞が捏造した「従軍慰安婦」の強制連行説は、大体こんな風になる。

日本軍が朝鮮半島の女性たちを「強制連行」して「性奴隷」にしていた

結局、この「慰安婦問題」は、さまざまな検証を経て、 朝日新聞が捏造した真っ赤なウソであることがが明らかにされている。

「慰安婦」は自分の意思や親の困窮の為女衒(ぜげん)に売られた女性が大部分であり、日本軍が組織的に強制連行したり、拉致した例はない。 

そもそも上記記事の「韓国挺身隊問題対策協議会」も、韓国人が戦時中、女子学生が工場等で勤労奉仕した女子挺身隊を、その文字から誤解して「挺身隊=慰安婦」と捏造したのだ。

「従軍慰安婦」を正確に表現すると、「戦地売春婦」が正しい。 

韓国の学者でも良心的学者はこのように語っている。

李栄薫ソウル大教授「従軍慰安婦は売春業」,

 
ところがここに来て、なぜか今度は沖縄の宮古島でで突如このように火の手があがるのか。

沖縄は組しやすしと見て、日本に「慰安婦記念館」でも建設するつもりなのか。

「慰安婦記念館建設を」 元慰安婦の70代女性が主張

 

宮古島に「慰安婦の碑」が建立される理由は、戦時中宮古で、慰安婦の姿を目撃した証人がいたからだという。

バカバカしい。

「従軍慰安婦」問題のポイントは、慰安婦がいたかどうかではなく、慰安婦を「強制連行」したかどうかの問題である。

結論は「強制連行はなかった」

一方、軍が利用したという点を捉えれば「軍の関与」はあった。

だからと言って「強制連行」はいうまでもなく、「性奴隷」の事実などは論外である。

「宮古島に慰安婦がいた」という事実が、

「慰安婦を強制連行して性奴隷にした」とすり変わる。

得意の手口のキーワードが「軍の関与」。

「集団自決があった」という事実が、

「軍命令でやった」とすりかわる手口と全く同じである。

とにかく、理屈はどうあれ「悪逆非道の日本軍」の記事がマスコミに流れれば、係争中の裁判の援護射撃になる。

これも一種の「場外乱闘」なのだろう。

当日記でも過去に従軍慰安婦の分類で実に86回もエントリーしている。(自分でもビックリ!)

 読むのが面倒な方は、要領よくまとめてあるのでこのサイトがお勧め。⇒「従軍慰安婦

なお、「慰安婦の碑」に刻まれた碑文は読者の太平山さんからご報告頂いているので下記エントリーをご参照下さい。

宮古に「慰安婦の碑」!日韓で沖縄を反日基地に

上記エントリーのコメント欄で太平山さんが「韓国挺身隊問題対策協議会」について詳述されているのでご参照下さい。

 

沖縄を「従軍慰安婦」の恨みの碑で埋めようとする、反日・韓国グループに反対する方、

クリックで応援してください。

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コメント (7)

宮古の従軍慰安婦

2008-09-08 08:00:27 | 資料保管庫

 

◆保存用資料

 

反戦平和暴力団 (太平山)
2008-09-08 12:03:42
狼魔人さま

こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。

一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。

捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。

それではまた。

 


元慰安婦証言 (太平山)
2008-09-08 18:28:08

元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)

1.連行された時の状況

植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。

2.「慰安所」での生活

満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。

管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。

朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。

3.帰還した際の状況

管理人のうち一人が突然、「急いで非難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく非難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。非難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。

帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。

妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。

3.解放後の生活

故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。

そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。

60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。

4.現在の状況

朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。

海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。

    2002年挺身隊協提供聞き取り


元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール

1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)  
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし  


元慰安婦証言(2) (太平山)
2008-09-08 21:20:09
 会場での証言

証言内容

(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。

(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。


証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。

以上


残念無念 (太平山)
2008-09-08 22:27:53
狼魔神さま

こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。

しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。

今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。

会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。

地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。

まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。

宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。

それではまた。

 

 

平成攘夷論 (太平山)
2008-09-08 22:48:41
狼魔人さま

言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。

小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。

それではこれにて失礼。

Unknown (狼魔人)
2008-09-09 08:44:34
太平山さん

詳細なレポートありがとうございます。

保守陣営が気を許している間に宮古を「恥さらしの島」にする魂胆ですかね。

慰安婦の父が怒りで四日後に死んだとか、妹が喘息でアル中になったとか、これも全て日本軍のせいだから補償せよとでも言うのでしょうか。

報道を見ていると「慰安婦を目撃した」ということがキーワードになっているようですが、その時代に売春婦がいても何の不思議も無いことで、彼らの主張で言えば,現在も多数いる売春婦も死ぬときは「無念の死」にして「売春婦の無念の碑」を建立するつもりでしょう。(笑)
しかし、これを放置するとこれが一人歩きして「歴史」になっていくから怖いですね。

 

コメント

沖縄戦でメシ食う人々

2008-09-07 09:20:03 | ★集団自決

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人間、機械ではない以上、好調不調があってもおかしくはない。

ここ数日、ブログ更新もしんどいので昨年の今頃はどんなエントリーしていたか調べたら、こんなことを書いていた。

「沖縄戦」に群がるん人々 「集団自決」に「政治的策動が影」? (以下に引用してあります)

なるほど、沖縄には沖縄戦を「政治的策動」というより「メシの種」にしている人物が多い。

彼らは、揃って同じ共通項はで括られている。

「沖縄タイムス史観」という共通項。

そうでなければ「メシの種」に出来ないどころか、沖縄論壇から放逐されてしまう。

沖縄で生きるには「沖縄タイムス史観」は「九条」のようなもので、議論するより信じるものである。

以下手抜きで再掲です。

                    ◇

【再掲】

「集団自決」軍関与削除で検証本 「政治的策動が影」 カメラ  (9/4 10:09)
東京】沖縄戦研究者で沖縄平和ネットワーク代表世話人の大城将保さん(67)が、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)の実相をゆがめようという動きを批判的に検証した「沖縄戦の真実と歪曲(わいきょく)」(高文研)をこのほど発刊した。大城さんは「集団自決」の日本軍関与に関する記述を削除させた文部科学省の教科書検定に対する県民の憤りについて「島ぐるみ闘争の様相だ。政府・文科省は『沖縄のこころ』を甘くみた」と話している。
 同書で大城さんは「
日本軍による住民虐殺」を削除させた1982年の検定に始まる沖縄戦記述の修正・削除の背景に触れ、日本軍の加害行為に対して「『自虐史観』というレッテルをはって歴史のページから抹殺したいとする一部勢力の思想的・政治的策動がたえず教科書検定に影を落としていた」と指摘する。
 県内全市町村議会と県議会が検定意見の撤回を求める意見書を可決し、29日に県民大会を開催するなど、県民世論の高まりについて「沖縄戦は体験者の中で風化していない。戦争体験は『沖縄のこころ』の原点だ。心の傷をかきむしろうという政府の乱暴に対する県民の怒りが爆発した」と語る。
 同時に「県民意識の基層で、心の傷として共有されている沖縄戦体験を話すこと自体苦痛だ。本土では表層的な部分で沖縄を理解できても、心の傷は理解し切れない」と話し、沖縄の「島ぐるみ」の怒りに対し「本土側がどう受け止めるかが問題だ」と強調する。
 座間味・渡嘉敷両島の「集団自決」における「隊長命令」をめぐる大阪地裁の「集団自決訴訟」(岩波・大江訴訟)についても記述。原告の狙いを「愛国心教育のじゃまになる軍国日本の侵略戦争の歴史を修正する必要があった」と同書で指摘する。出身地の旧玉城村(現南城市)など本島南部の戦闘についても記述した。
 「沖縄戦の真実と歪曲」は1800円。県内では今月上旬、書店に並ぶ予定。(小那覇安剛)

 (琉球新報 9/4 10:09)

                    ◇

■沖縄戦に群がるサヨク学者■

何かを行うのにそれを飯の種、つまり職業とししている人のことをプロと呼ぶなら、

プロとして沖縄戦を飯の種にしている学者は多い。

沖縄タイムス、琉球新報を覗き見れば容易に数人の大学教授、歴史家の名を目にすることができる。

作家の肩書きも持つ大城将保氏は歴史研究家という肩書きでいろんな分野で活動している。

>沖縄平和ネットワーク代表世話人の大城将保さん(67)が、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)の実相をゆがめようという動きを批判的に検証した「沖縄戦の真実と歪曲(わいきょく)」(高文研)をこのほど発刊した。

大城氏が代表世話人をする「沖縄平和ネットワーク」は反戦・反基地を標榜する典型的なサヨク集団。http://okinawaheiwa.net/

大城氏は沖縄戦研究者というが、その代表世話人という肩書きから自明の通り、

「大江・岩波訴訟(仮称)」を側面から支援する」運動を進めている人物であり、その出版する「沖縄戦の真実と歪曲」がサヨクプロパガンダに満ちていることは容易に推測できる。

政治的策動が影」

このような偏向学者が著す出版物こそイデオロギーまみれの「政治的策動」が影を落としているのではないか。

NHKが偏向していると言われて久しいが、最近大城氏は、「クローズアップ現代」にも出演している。

大城氏は同番組「“集団自決”62年目の証言 ~沖縄からの報告~ 」に「沖縄県史」編集委員という肩書きでゲスト出演し、反戦平和運動の立場から一方的に日本軍を糾弾した。

沖縄集団自決についての同番組内容が極めて一方的な内容だと、各ブログで取り上げられ良識ある人の怒りを買ったことは記憶に新しい。

NHKが公平を期するかのように反対の立場の意見取材したが、そのほとんどがカットされていた。

以下は某ブログに寄せられた取材を受けた反対派の方のコメント。

よろしかったら御覧ください

自由主義史観研究会の木村と申します。私達は6/21放送の「クローズアップ現代」用の取材依頼を受けました。NHKは‘双方の主張を紹介したい’ということだったので協力しました。が、梅澤元少佐と赤松大尉の無実を主張する私達の意見や証言は、ことごとくカットされておりました。

私達は放送にあわせて急遽、沖縄集団自決特集をアップしました。よろしかったらお読みください。

http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu.html

番組では私達の団体名すらマトモに紹介されなかったので、コメント欄からお知らせする以外に手段がなくなってしまいました。御迷惑でしたら、削除なさってください。最後までお読みいただきまして、有難うございました。≫ 
 
6月21日(木)放送
“集団自決”62年目の証言
~沖縄からの報告~


太平洋戦争で激しい地上戦の舞台となった沖縄。アメリカ軍の上陸後、多くの住民が日本軍から渡された手榴弾などで自決を図った。これまで集団自決は日本軍によって強いられたとされ、教科書にもそう書かれてきた。ところが、この春、高校の日本史の教科書検定で、大きな修正が行われた。集団自決をめぐる記述から「日本軍の強制」に関わる言葉が削除されたのだ。一昨年、起こされた裁判の中で、当時の部隊長が「自分は自決を命令していない」と主張していることなどが、その背景にある。この修正に対して、現地沖縄では、撤回を求める声が相次いでいる。集団自決の実態を掘り起こそうと住民の手で聞き取り調査も始まっている。これまで固く口を閉ざしてきた住民も、ようやく自らの体験を語り始めている。未だ癒えることのない人々の痛み。集団自決を巡って、何が起きていたのか。沖縄戦から62年となるの慰霊の日迎える沖縄から報告する。(沖縄平和祈念公園から中継)
(NO.2431)

ゲスト 大城 将保さん
    (「沖縄県史」編集委員)
 

                 *

 

■沖縄戦をエンタメとして売り出す人々■ 
 

市民を名乗りながらプロのような活動家を「プロ市民」と呼ぶが、        

この方は「集団自決」を芝居にしているし「プロ芝居シー(役者)」といえる。

①1実相一途/北島さん「集団自決」芝居100回超

 

方言をテキストにしたこの方々も沖縄戦に群がる一種のプロなんでしょう。

「集団自決」方言で/8人証言 体験生々しく
 ≪沖縄県立博物館・美術館の開館に先駆け、「『島クトゥバで語る戦世』と若手作家スライドショー」(主催・文化の杜共同企業体、琉球弧を記録する会)が一日、那覇市おもろまちの同博物館・美術館で開かれた。≫
 ≪ テーマを「集団自決(強制集団死)」に絞った「島クトゥバで語る戦世」では、八人の証言者が字幕付きの方言で生々しく戦争体験を語り、会場の共感を誘った。≫

                       

そしてこの方々は学校を巻き込んでDVD製作。

ここでは大城氏は歴史研究家の顔から作家の顔になっている。

③沖縄戦テーマに北島さんと共演/東京・和光小
収益で語り部DVDhttp://www.wako.ed.jp/e/09/taimusu.htm

 ≪都内世田谷区で長年沖縄の平和学習に取り組んでいる和光小学校(行田稔彦校長)が、女優の北島角子さんと沖縄戦を題材にした芝居づくりに取り組み始めた。公演は9月10日に開かれる同校の「沖縄フォーラム」で行われる。また、公演の収益金は沖縄戦の事実を風化させないため、語り部たちの証言を収めたDVD作製に充てる。芝居を演じる6年生は25日、脚本のあらすじに目を通しており、沖縄芝居の第一人者との共演を心待ちにしている。(石川達也)

 同小は一九八七年から「沖縄学習」と題し、六年生の修学旅行を実施。読谷村など沖縄戦の激戦地を訪ね、地元の人たちから当時の様子を学んでいる。そのアレンジをしたのが歴史家で沖縄芝居の脚本を手掛ける大城将保(島津与志)さん。大城さんと和光小の取り組みは、平和学習のモデルにもなった。

 学校側は来年二十周年の節目を迎えることから、新たな試みを企画。大城さんや北島さんの協力を受け、沖縄芝居を実現させることになった。同時に高齢化する語り部たちの生の声をあらためて取材。芝居の収益金でDVD化し、後世に伝える考えだ。

 芝居のタイトルは「ガマの中のキジムナー」(仮称)。ガマの中でおばー役の北島さんと学習旅行に来た子どもたちが、暗闇の中でさまざまな体験をする。大城さんは「沖縄の平和学習で最も子どもたちの印象に残るのが、ガマの暗闇。その中での体験を通して子どもたちの心の変化を映し出したい」と話す。

 脚本は沖縄方言を中心にせりふの調整を図った上で、八月上旬に完成する。大城さんは「今回だけの芝居ではなく、他校の平和学習にも活用できる普遍的な内容にしたい」と語る。北島さんも「和光小のこれまでの活動が好き」と共演を期待している。

 出演するのは六年生約二十人。二十五日に脚本のあらすじを見た星恵輔君と石山尊浩君は「沖縄戦のことは本も読んで勉強している。北島さんと同じ舞台に立てるのがうれしい」と話している。≫

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