狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「恥さらしの祈念碑」宮古島に建立 強制連行された性奴隷 

2008-09-09 07:47:42 | 従軍慰安婦

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沖縄タイムスの歴史観がお粗末なものであることを計らずも暴露したような「慰安婦」に対する恥さらしな記事です。

いや、お粗末というより無知だね。

無念の死 記憶後世へ/宮古島市に「慰安婦」祈念碑【社会】
 【宮古島】太平洋戦争中に、朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、戦後も苦難に満ちた人生を生きる元慰安婦らの記憶を後世に伝えようと、宮古島市上野野原で七日、慰安婦の祈念碑が建立された。除幕式で参加者らは戦争のない世界の実現へ向け「平和運動の出発地にしよう」との思いを新たにした。(伊集竜太郎)

 碑文は「慰安所」が沖縄には百三十カ所、宮古島には少なくとも十六カ所あったことなどを記録。「彼女たちの記憶を心に刻み次の世代へ託します」と誓った。

 慰安婦の出身国十一カ国と、戦禍の中で女性への性的虐待があったベトナムの計十二カ国の言語で平和希求の思いが書かれた。三つの祈念碑のうち、中央の碑には慰安婦が好きだったという桔梗の花が刻まれた。

 除幕式には、中国に強制連行された韓国出身の元慰安婦、朴順姫さん(85)や慰安所の存在を証言した住民らも参加。朴さんはアリランの唄を涙を流しながら歌い、「安らかに眠ってください」と、アリランの碑へ献花した。

 昨年、日韓の合同調査団が同市内で、地元住民から慰安婦の置かれた状況などを聞き取りした。

 証言者の与那覇博敏さん(75)が被害の事実を後世に伝えようと祈念碑建立を提案、所有地を無償提供した。

 今年二月に市民や日韓研究者らで「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」(尹貞玉、高里鈴代、中原道子共同代表)を発足。十二カ国から約六百の個人・団体が賛同し、碑建立に取り組んだ。

 洗濯帰りの慰安婦が休んでいたのを与那覇さんが目撃した場所の目印として、祈念碑の手前に「アリランの碑」と名付けた岩が置かれた。

 与那覇さんは「小五のころ、この近くに日本軍の慰安所があった。その事実を知っている者として後世へ残す責任の重さを感じている。この場所を平和運動の出発地として活動していく」と決意を語った。祈念碑横に「平和の森」を五年以内に建設予定という。

 参加者は当時、慰安婦が口ずさんでいたというアリランの唄を歌い、桔梗の花を献花して、故人の霊を慰めた。 (沖縄タイムス)

                                               ◇

>朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、

全国紙では使用されなくなった「強制連行」や「従軍慰安婦」の文字が平気で踊るのが沖縄タイムスの特異な歴史観。

それに「無念の死」と意味深な見出しになっているが、これを書いた伊集記者は、強制連行された従軍慰安婦軍の命令で自決させられ無念の死をとげたたとでも言いたいのだろうか。

普通の人間なら誰しも死ぬときは無念だろうが。

同じ記事を報道するのにも琉球新報は、さすがに「慰安婦」と記して「従軍」ははずしているし、

「強制連行」も「強制」をはずして記している。

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の...(2008.9.8)

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の祈念碑除幕2008年9月8日 【宮古島】日韓の研究者や宮古島市民らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史などを伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」の除幕式を同市上野野原で開いた。同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。
 碑は3種類。「女たちへ」と題した碑文は、戦時中の女性への性暴力の悲惨さや平和の大切さを訴えた。その両脇の碑文に日韓やタイ、ベトナムなど12カ国語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世の中を祈ります」と記した。宮古島で「朝鮮人慰安婦」が歌っていた「アリラン」を伝える「アリランの碑」も建立された。
 碑建立は、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の学生、洪允伸(ホンユンシン)さんらが2006―07年、宮古島で「慰安婦」に関する証言の聞き取りを地元住民の協力を得て実施したことなどがきっかけ。
 証言者の一人、与那覇博敏さん(75)が自らの所有地で、小学5年生ごろに「慰安婦」を目撃した場所を建立地として提供することを申し出た。日韓の研究者らも賛同し今年2月に建てる会を発足、寄付を募った。
 除幕式は伊志嶺亮市長や宮古での「慰安婦」の様子を証言した住民、韓国から満州へ連行された元「朝鮮人慰安婦」の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)らも参加し碑に献花。宮古高校吹奏楽部の演奏で「アリランの歌」を斉唱した。
 建てる会の尹貞玉(ユンジョンオク)さん=「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表=は「世界各国からここへ来て平和を考える場所になることを願う」、与那覇さんは「この場所を平和への活動の出発点にしたい」と呼び掛けた。(古堅一樹)(琉球新報)

                   ◇

沖縄タイムスの伊集記者と琉球新報の古堅記者を比較すると、どっちもどっちだが、この記事に関する限り琉球新報は比較的まともで、沖縄タイムスは「慰安婦問題」では歴史に無知であることを晒している。

一事が万事で、沖縄タイムスの集団自決へ対する歴史観も、この程度のもだとあきれ返る記事だ。

>同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。

こんな恥さらしの碑を建立するのは宮古島以外に例が無いのは当たり前のこと。

恥を知るなら即刻「大恥晒しの碑」を撤去し、宮古の良識を示すべきであろう。

宮古島の「慰安婦の碑」に関して情報を頂いた太平山さんが、実際に「慰安婦の説明会」に参加され、詳しいレポートをコメント欄に投稿されているので、保存資料として下記に転載させていただきました。

                   ◇

 

①公開   反戦平和暴力団 2008-09-08 12:03:42 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔人さま

こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。

一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。

捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。

それではまた。
 
②公開   元慰安婦証言 2008-09-08 18:28:08 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 

元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)

1.連行された時の状況

植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。

2.「慰安所」での生活

満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。

管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。

朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。

3.帰還した際の状況

管理人のうち一人が突然、「急いで避難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく避難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。避難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。

帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。

妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。

3.解放後の生活

故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。

そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。

60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。

4.現在の状況

朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。

海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。

    2002年挺身隊協提供聞き取り


元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール

1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)  
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし  

 
③公開   元慰安婦証言(2) 2008-09-08 21:20:09 太平山 
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
 会場での証言

証言内容

(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。

(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。


証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。

以上
 
 
④公開   残念無念 2008-09-08 22:27:53 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔神さま

こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。

しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。

今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。

会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。

地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。

まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。

宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。

それではまた。

 

狼魔人さま

言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。

小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。

それではこれにて失礼。
 

 

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29 コメント

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馬鹿馬鹿しい (モノ言うサラリーマン)
2008-09-09 12:42:57
宮古島いいところなんですけどねぇ。まったく宮古島に似合わない。馬鹿馬鹿しいも程がありますね。今度宮古島に行ったら蹴ってこようと思います。
返信する
現地調査 (太平山)
2008-09-09 13:00:22

現地調査

宮古島の聞き取り調査で調査団が当時の地元出身の日本軍将校(82歳)から得た証言として慰安所前には兵隊が長い列を作っていたと云うのがありました。これを第一級の関係者証言のように取り上げるのですが、その意図がよく分からなかったのですね。慰安所があったのは周知の事実だし何をそんなに騒ぐのだと思っていましたが、おそらくは「長い列を作っていた」というのを強調したかったのではと考えています。

私は最初、地元出身の日本軍将校と聞いて??でした。年齢を聞いてああこれは幹部候補生のことだと理解したのですね。年齢からすれば最初で最後の昭和生まれの兵隊さんです。昭和20年4月の徴兵ですからわずか四ヶ月の経験しかありません。(宮古島での徴兵は昭和19年10月の徴兵が最初でした)

それを将校と云いますから笑ってしまいますね。初年兵も初年兵です。その初年兵が慰安所に行くことはまずありえません。上官の使役で行ったと言いますが果たしてどうでしょうか。父から聞いても慰安所など見たこともなかったと言っていましたから。当時はとにかく飢えてしょうがなかったと述懐していました。実際に栄養失調で亡くなった方はそれこそ多数でした。戦死者の8割方がそうではないでしょうか。慰安所どころではなかったのですね。

今回の慰安所場所というのは野原の司令部壕の近くですから、高級将校用の慰安婦だった可能性が高いです。それならば食料に関しては兵よりはるかに恵まれた条件にあったことが考えられます。一人の慰安婦が相手できる人数としては一日に10人~20人程度と言われていますから、長い列を作っていたというのも嘘ですね。あの地元出身の将校?の証言も検証する必要があります。

長い列を作っていたというのは千田夏光の「従軍慰安婦」に拠ったものではないでしょうか。その解説に高木俊朗の次の言葉があります。

「日本軍の占領地には、慰安婦という家があった。その前には、兵隊が長い列を作って、順番を待っていた。慰安所の中の粗末な部屋には、慰安婦がいた。本書『従軍慰安婦』には、兵隊の列が三キロメーターに及んだこともあるという。

その長さの列には、三千人以上がならぶ。女の人は十人であったから、一人の慰安婦が一日で、三百七十人以上の男と接したことになる。これは異常な情景である。しかし、これが皇軍といわれた日本軍の管理のもとにおこなわれた。」

これを信じること自体が異常ではないのか、千田夏光、高木俊朗正気か!と怒鳴りたいですね。特に高木俊朗氏は陸軍報道班員として従軍しインパール、抗命、知覧などを著しただけに罪作りな人です。

それではまた。







返信する
証言 (太平山)
2008-09-09 15:06:12

狼魔人さま

証言者の証言内容を文書と実際に聞いたものと比較すると、幾つかの疑問点があります。まずは強制連行された年齢が16歳と19歳、慰安婦経歴が6年と5年となっております。

(1) 1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする

*終戦は1945年ですから5年間日本軍「慰安婦」生活をするというのは間違いです。5年~6年の慰安婦生活が正しいとすれば16歳で強制連行されたという1938~1939年が正しいですね。1937年に盧溝橋事件が勃発します。

(2) 会場証言(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
*ここで「民間人も来た」と言っていますね。軍の慰安婦であればありえないことです。文書には民間人という文言はありませんでした。

(3) 友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。

*特にこれには疑問を持っています。憲兵はスパイを取り締まるのが任務の一つで少女を拉致することはいくら何でもありえません。また慰安婦を管理するはずがありません。憲兵隊は軍の警察ですからね。慰安婦に関わることはありえないのです。「朝鮮人1人」とありますからそれが女衒ではないかと考えています。

以上証言を読んでみましたが何か作られたという感じが否めません。現在の感覚からすれば大変苦労したと思われるでしょうが、日本人慰安婦にしろ、当時はそのような状況がごく一般的に見られました。

戦後になっても貧しい家庭の長女が売春婦になるのは珍しくはありませんでした。そしてそれに同情こそすれ蔑視するという風潮は少なかったですね。私は朝鮮人慰安婦よりもこと挙げもせず、黙って死んで行く日本人慰安婦こそ国は救済すべきだと痛切に感じています。マスコミはもっともっとそれに目を向けるべきです。日本人慰安婦こそ本当に哀れではないですか。








返信する
キチガイにペン (狼魔人)
2008-09-09 17:30:42
モノ言うサラリーマンさん

慰安婦問題に抵抗力の無い地域を狙って、ウソをばら撒いていくのでしょうね。

今度いったら、本島に蹴ってやってください。



太平山さん

「慰安婦問題」のプロの連中が乗り込んで、宮古島洗脳作戦を展開しているのでしょうか。

ご指摘の行列の出来る売春宿の話とか、年月の辻褄の合わない部分とか、民間人が行列にいたとか、洗い出せば矛盾点はナンボでも出てきますね。

仰るとおり、千田夏光や高木俊朗の妄言の影響だと思われます。


>千田夏光、高木俊朗正気か!

彼らが正気のはずはありません。

キチガイにペンとは彼らのことです。

>私は朝鮮人慰安婦よりもこと挙げもせず、黙って死んで行く日本人慰安婦こそ国は救済すべきだと痛切に感じています

仰るとおりです。

百歩譲って朝鮮人慰安婦に哀悼の碑を建立することを是としても、宮古島に建立する理由は微塵もありません。 朝鮮人慰安婦がいたというだけで建立する理由にはなりません。

自分の国で建立すべきです。

おっと、キチガイにペンの大物を一人忘れていました。

大江健三郎!
返信する
Unknown (狼魔人)
2008-09-09 17:34:34
モノ言うサラリーマンさん

訂正です。

×本島に蹴ってやってください。⇒○本当に
返信する
何故に (太平山)
2008-09-09 23:41:45

狼魔人さま

遅くからこんばんは。以下の質問ですが

>「慰安婦問題」のプロの連中が乗り込んで、宮古島洗脳作戦を展開しているのでしょうか?<

それは判りませんが祈念碑は一応建立しましたので第1段階の目的は達せられたのではないでしょうか。その後どう出てくるのか?予断は許しませんが。

今さっき小林よしのりの「挑戦的平和論」を読みましたが、あっと!驚いたのがありましたね。私が考えていたものがそのまま描かれていたものですから唸りました。

実はあの証言会に伊貞玉(ユンジョンオク)教授と中原道子教授の発言があります。私が認識を根本的に変えたという発言ですね。紹介しようかと思っていましたが、胸糞が悪くなる言葉ですので躊躇しました。これはもう少し整理して明日紹介しましょう。

冒頭の質問に戻りますが、小林よしのり氏によりますと、現在慰安婦問題というのは下火になっているそうですね。言われて見れば確かにそうです。だからでしょうか宮古島にやって来たのは。

なぜ宮古島なのか?慰安婦の証言は沖縄本島でも石垣でも得られたはずなのに。その理由の一つは市長が共産党系の革新市長だということがまず挙げられます。次に市民運動が盛んであること、識者や教員等がそれを牽引しています。保守の力が絶対的に弱いですね。

そして宮古人の特性として慰安婦問題や防衛問題をはじめとする政治問題に全く関心がないことがあります。沖縄本島では小林よしのり氏を招聘して講演会を開いていますね。お隣の石垣市では石垣青年会議所などが中心となって佐藤守閣下を招聘して各地で講演会行っています。リーダーは「誇りある沖縄」の砥板さんでしょうか。意識が高くリーダー格の人材が豊富ですね。

また日本全国からの観光客が多いのも沖縄本島、石垣島の特徴です。色々な人の目がありますからそこではなかなか活動はできにくいのではないでしょうか。

宮古島にやって来たのが、安倍晋三、中川昭一議員を呑んだあの悪名高き女大蛇(うわばみ)のバウネットジャパンと韓国挺身隊問題対策協議会とは誰が予想できたでしょうか。何の因果か疫病神が来たようなものです。追い払う方法はないものでしょうか?

それではこれにて失礼します。


返信する
写真 (モノ言うサラリーマン)
2008-09-10 07:25:28
ここに写真がありました。
http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/709516/
こんな豪華なものを作るなんて。
税金を返して欲しいです。
返信する
Unknown (damedakorea)
2008-09-10 15:26:22
TBありがとうございました。
何故かIzaからTBできないようです。
すみません。
返信する
回答 (太平山)
2008-09-10 15:43:58
「モノ言うサラリーマン」さんブログの紹介ありがとうございます。

そのブログにおける2,3の質問に私が答えましょう。

Q1.宮古島市市民は祈念碑建立の事を知っていたのか、あるいは多くの市民が賛同したのか?

A. 答えは否!です。全く判りませんでした。完成後の新聞報道で初めて知りました。唐突で寝耳に水といったのが実感です。多くの市民がそうです。情報が公開されないものだから賛同するしない以前の問題です。秘密裏に建立されたと言っても過言ではありません。


Q2.国税で建立されたのか?
A2. それは否でしょう。国税には会計検査が入ります。世界各地の賛同により建立されたとありますが、それが寄付金を意味するものかは分かりません。

Q3.宮古島には兵員は何名いたのか?
A3.守備隊は約3万人で純然たる戦闘兵士は2万人弱。残りは兵站、後方支援隊の軍属などです。当時の宮古島住民の人口は5万~6万人、内、約1万人は島外へ疎開しています。

以上




返信する
語録(1) (太平山)
2008-09-10 16:02:58
伊・貞玉(ユンジョンオク)教授語録

・私は日本におろかな希望を持った。NHKの番組に暴言を浴びせるのが現状であった。

・現在でもアフガン、イラク、グルジアとおろかな戦争は無くならない。

・日本政府の本質的な謝罪がない。

・慰安婦問題では日本が公式謝罪をしない、賠償しない。
・次善策(国民基金のことか?)で新たな政策とはならない。
・国民基金は被害者告発を止めさせるためのもの、あるいは(日本に)免罪府を与えたかのような印象を与えるものである。

・被害者が黙ることは国民的危機である。

・総理大臣の名が入ったお詫びの手紙が来たがそれは飽くまでも総理大臣個人であって国家の正式謝罪とはならない。

・国民基金という名目で巧妙に謝罪や補償を逃れようとしている。

・国民基金を持ち出したのは常任理事国になりたいという当時の日本政府の背景、思惑があった。本質的な謝罪にはならない。

・国民基金を受け取ったら韓国の支援者を裏切ることになる。

・今でも当時は韓国歴史の中で最も暗い時代でくびきを負った時代です。

・歴史の主人公は独立運動を行った戦士だけではない。ハルモニ達も歴史を背負った女性として、歴史の主人公として位置づけし尊重する。決して忘れない。

*( )内は私
*国民基金:女性のためのアジア平和国民基金



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