狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

2008-05-12 06:39:16 | ★集団自決

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「集団自決」に登場する人物の血縁、地縁、職縁等による濃密な人間関係を、5月9日のエントリー悲劇を呼ぶ濃密な人間関係で考察したら、多くの方から反響があった。

その中には、「吉川嘉勝氏と吉川勇助氏は実の兄弟である」、という貴重な事実のご教示もあった。

同エントリーで、「軍命派」の先頭に立って、証言の収集、発刊そして各地の講演会と、八面六臂の大活躍の謝花直美・沖縄タイムス論説委員と、

同じく「軍命派」として証言や講演で活躍する吉川嘉勝・元渡嘉敷中学校長は、師弟関係にあると述べた。  そして吉川元校長と同じく謝花氏の特集記事に登場する吉川勇助氏とは親族だと推測した。

二人が兄弟だと想像はできたが、確認出来なかったので、あえて親族としたが、

事情を知る知人から「吉川勇助氏は、吉川嘉勝氏の兄で元防衛隊員です」との情報を得た。

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。(富山眞順手記)

富山氏の「手榴弾配布証言」が「軍命あり説」の根拠とされているが、富山氏は生前、渡嘉敷島の後輩・源哲彦氏に、
 
「真相は墓場の中まで持って行く」と話している。(沖縄タイムス「論壇」源哲彦)

ということは、流布している「手榴弾配布証言」は、富山氏が墓場に持ち込まず、この世に残した虚偽証言ということになる。

富山氏は渡嘉敷島での「集団自決」の後の、3月29から30日にかけての島の状況を次のように記している。

この記述からは、住民を自決に追い込んだ「鬼の赤松」の暴状を汲み取ることはとても出来ない。

≪赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。≫⇒富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行)から 

新城眞順氏も戦後は富山眞順と改名するのであるが、配られた手榴弾で村民を死へと誘導したのが、同じ村民である地元防衛隊員だとしたら、他の村民の(無言の)責めを負わなければならない生き残りこそ富山眞順、吉川勇助両氏等であろう。

この文脈で考えると、戦後、隊長命令説を必死に主張し続けた彼らの心情も理解できる。
 
集団自決の生き残りとは、単に死にきれなかった人を指すのではなく、同じ村民を死へ誘導したり、金城重明氏に代表されるように、村民の死に「手を貸した」人達が多数を占めるということを考慮の上、その証言を検証すべきである。
 
自分で自分の命を絶つということが容易でないことは誰でも想像できる。
 
それが手榴弾等の武器でもあればまだしも、それも無い状況での自殺は鍬や鎌、カミソリやコンボウといった本来人の命を絶つ目的ではない農具等での自殺は更なる困難を伴う。
 
武士の切腹にも介錯(かいしゃく)で自殺者の首を刎ね、苦しみから救う作法があるくらいだ。
 
老人と子供たちが多かったといわれる「集団自決」では、死に切れなかった実行者を介錯(手助け)をした人が数多くいた。
 
それは読谷村の「チビチリガマ」での「集団自決」でも見られたが、同じ読谷村の大湾でも村の長老が子供たちを次々と絞め殺す証言があった。

■「集団自決」に手を貸した人々

5月2日のNHK総合ローカル放送(沖縄のみ)で、「ドキュメント沖縄『米軍上陸の衝撃』」 が放映された。

沖縄戦をアメリカ軍が撮影した120本の記録フィルムの内、未発表の読谷地域に米軍が上陸した状況を撮影したもの。

怯えてパニック状態の老婆を米兵が抱きかかえて救出したり、担架に乗せて運ぶ様子が映し出されている。

収容所らしき場所に集められた中年女性がが久しぶりの再会らしく、お互いの無事を知り感涙に咽びながら抱き合うシーンもカメラは克明に映し出している。

特に注目されたのは小連れの若い(後に27歳と分かる)母親が、カメラに向かってハッキリ映っている映像。

これを見た現在の読谷村民の皆さんが、この方は現在も村にご健在ととの情報を得る。

NHKスタッフが情報を基に現在90歳になるフィルムに映っている母親を訪ねると、元気なオバーちゃんが玄関まで迎えてくれた。

家の中に招き入れられて「元子連れの若い母親」に問題のフィルムを再生して見てもらった。

顔に刻まれた皺はさすがに歳を隠せなかったが、60数年前の若かりし頃の自分の動画フィルムを見てオバーちゃんは小娘のように恥じらい、懐かしみ、そして喜びを表わした。

その後、とてもご高齢とは思えないかくしゃくとした態度で当時の様子をスタッフに語ってくれた。

以下は要旨。

≪昭和20年の4月2日?、米軍の上陸で近隣の住民は大湾の壕に非難した。 壕の外は爆音と米兵上陸の気配で壕の中はパニック状態になり、村のオジー(名前は言わなかった)が「こうなったら死んだ方がましだ」と子供たちを次々と「締めていった」(絞め殺していった)。

親達はなす術がなかったようだが「子連れの若い母」は自分の可愛い子供が、何であのオジーに殺されるのか」と、子供を抱いてその壕を飛び出して、何とか近くの壕にたどり着き親子は死を免れた。≫

その時日本軍は南部に退却しており、大湾の壕には勿論日本軍はいなかったが、村の長老が恐怖によるパニックで誤った判断をしたわけだが、当時の状況でこの長老の行為を一概に責めることは出来ないだろう。

同じ読谷村のチビチリガマの集団自決も日本軍はいなかったが、当時は地域のインテリであった大陸帰りの看護婦が集団のリーダーとして、毒注射による「集団自決」という悲しい判断をした。

同じように「自決の手伝い」は他の「集団自決」で見られる。

大城将保・沖縄県立博物館館長の著書『沖縄戦 民衆のの眼でとらえる[戦争]』にも住民同士が殺しあう凄惨な情景が述べられている。 

座間味島では敵上陸直前に役場の職員が各住民を廻って、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人と子供は忠魂碑前に集合、全員自決せよ」という通達を伝えてあったが、忠魂碑前は砲弾が激しくて集合がかなわず、めいめいの家族で手榴弾、カミソリ、鎌などで自殺を遂げた者が多かった。 ヤマト馬という横穴壕では、住民約20名が1本のロープで絞め殺された。 締めたのは体力のある男性で、ロープの端を杭に結びつけ、1人1人の首にロープを結びつけて一方の端を強く引っ張って絶命させた。 もちろん、自分も死ぬ覚悟ではあったが、20名を始末して最後にのこった自分はどうしても死ぬことができず、放心状態で濠から逃げていった。 また、裏の高月山の中腹にある組合濠には村長、助役以下の村の幹部が避難していたが、敵上陸直後に一斉に自決が行われた。 この濠からは1人の生存者もないので明らかでないが、遺骨の状態から見て防衛隊長持っていた小銃でとどめをさしたものと推測されている。 現場には「村長、助役以下59名集団自決之地」の碑が建っている。 自決者177名。

向かいの渡嘉敷島では隊長西山に終結した渡嘉敷、阿波連(あはれん)部落の住民が日米両軍の狭間においこまれて、恩納(おんな)河原で一斉に自決した。 家族ごとに手榴弾が、くばられていたが、不発弾が多く死にそびれた者たちはコンボウや鍬などで頭を割って凄惨な最後を遂げた。 自決者329人。≫(『沖縄戦 民衆のの眼でとらえる[戦争]』 大城将保著)

読谷村の大湾濠で子供たちを絞め殺して廻った村の長老、座間味島のヤマト馬濠で二十人の一本のロープで絞め殺し本人は死にきれなかった男等々・・・これら多くの住民が自決の「手助け」をした。

これらの体験者は、金城重明氏の例に見られるように、戦後、軍の命令による集団自決だったと主張している。

沖縄在住の作家星雅彦氏によって渡嘉敷島の金城重明氏の「手助け」は次のように記されている。

修羅場と化した西山盆地

一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。 (略)

ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 
 
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 
何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。
ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。 (雑誌「潮」1971年11月号  星雅彦) 

座間味でも多くの村民が同じ村民の「自決」を手伝った様子を、大城将保・沖縄県立博物館館長がその著書で記述しているが、毎日新聞にも次のような記述がある。

≪僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)≫ 毎日新聞 2001.7.5 )                                                 


  

 
大城将保・沖縄県立博物館館長とはこんな人↓


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Unknown (東子)
2012-04-27 08:35:01
中日新聞「捨て石の島No.2」のタイトルは「自決 家族手にかけ」から。
「当時16歳の村役場職員吉川勇助」、「母はひざに乗る6歳の弟嘉勝をかばい、体をかぶせている」とあるから、勇助氏と嘉勝氏は10歳違いの兄弟ということがわかる。

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