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「集団自決訴訟」の第二回控訴審を9日に控え、沖縄の宮古島で、反日のシンボルともいえる「慰安婦の碑」が建立された。
「集団自決」と「慰安婦」は教科書記載にも絡む「反日」を象徴する問題だが、問題の本質が「軍の関与」というあいまいな言葉で「悪逆非道な日本軍」へと摩り替えられる点で両者は同じ根を持つ。
「慰安婦の碑」建立へ 心体の傷いえず(2008.9.7)
涙ながらに証言する朴順姫さん=6日、宮古島市平良の宮古島マリンターミナル
【宮古島】宮古島市民や日韓の研究者らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史を伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」を12カ国約600の個人・団体からの賛同を得て同市上野野原に建立する。同会によると同様の祈念碑建立は国内初。建立前日の6日、同市平良で証言会があり、満州へ強制連行された元朝鮮人慰安婦が涙ながらに自身の悲惨な体験を語った。
証言したのは1939年冬―45年秋の約6年間、日本軍の慰安婦として満州に強制連行された韓国人の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)=ソウル市。祈念碑建立に合わせ「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」の呼び掛けに応じ、初めて海外で証言した。高校生を含め、多くの市民が聞いた。
韓国の平安南道元山で生まれた朴さんは16歳の時に強制連行された。当時について「隣町に住む友達の家へ遊びに行く途中で日本の憲兵2人に『こっちに来い』と言われた。そのまま日本人の部屋に何日間か閉じこめられ、列車で中国へ連行された」と説明した。
満州では「着いた日からたくさんの日本人が(慰安所に)並んでいた。私は(性的)経験が無く、苦しくて反抗すると、軍人が私を包丁で刺した。今も傷跡が残る。一般兵も将校も来た」とつらい体験を告白した。
慰安所の生活は「6年間、外に出られず、どこにいるのかも分からなかった。外を見ることを許されたのは、1週間に1回、子宮の検査で病院に行く時だった」と振り返る。
朴さんは1945年に慰安所を飛び出した。「帰るための列車に乗ると妹に似た人がいた。名を呼ぶと、(妹は)びっくりして顔を見た。そこで(妹も)強制的に連れてこられて慰安婦にされたことを知った」。朴さんの父は娘たちが慰安婦にされたことを知って怒りのあまり、4日後に亡くなったという。
最後に日本政府へ向けて「生きている間に心からの謝罪と公式な補償をしてほしい」と訴えた。
会場からは勇気ある証言に拍手が送られ、証言を聞いた宮古高1年の奥平彩芽さん(16)は「(同年代のころに連行されたことを聞いて)ショック。あらためて戦争の恐ろしさを感じた」と語った。(古堅一樹)
◇
>強制連行された韓国人の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)
さすが、ウソの証言で世界旅行をするお方、行く先々で歓迎されるからなのか、それとも裕福な暮らしをしているのか高齢(85歳)にはとても見えない。
「心体の傷いえず」とは、
とても思えない健康な風貌。
写真で見る限りご、20歳は若く見えるがまさか年齢もウソではないでしょうね。(笑)
かつて朝日新聞が捏造した「従軍慰安婦」の強制連行説は、大体こんな風になる。
≪日本軍が朝鮮半島の女性たちを「強制連行」して「性奴隷」にしていた≫
結局、この「慰安婦問題」は、さまざまな検証を経て、 朝日新聞が捏造した真っ赤なウソであることがが明らかにされている。
「慰安婦」は自分の意思や親の困窮の為女衒(ぜげん)に売られた女性が大部分であり、日本軍が組織的に強制連行したり、拉致した例はない。
そもそも上記記事の「韓国挺身隊問題対策協議会」も、韓国人が戦時中、女子学生が工場等で勤労奉仕した女子挺身隊を、その文字から誤解して「挺身隊=慰安婦」と捏造したのだ。
「従軍慰安婦」を正確に表現すると、「戦地売春婦」が正しい。
韓国の学者でも良心的学者はこのように語っている。
ところがここに来て、なぜか今度は沖縄の宮古島でで突如このように火の手があがるのか。
沖縄は組しやすしと見て、日本に「慰安婦記念館」でも建設するつもりなのか。
宮古島に「慰安婦の碑」が建立される理由は、戦時中宮古で、慰安婦の姿を目撃した証人がいたからだという。
バカバカしい。
「従軍慰安婦」問題のポイントは、慰安婦がいたかどうかではなく、慰安婦を「強制連行」したかどうかの問題である。
結論は「強制連行はなかった」
一方、軍が利用したという点を捉えれば「軍の関与」はあった。
だからと言って「強制連行」はいうまでもなく、「性奴隷」の事実などは論外である。
「宮古島に慰安婦がいた」という事実が、
「慰安婦を強制連行して性奴隷にした」とすり変わる。
得意の手口のキーワードが「軍の関与」。
「集団自決があった」という事実が、
「軍命令でやった」とすりかわる手口と全く同じである。
とにかく、理屈はどうあれ「悪逆非道の日本軍」の記事がマスコミに流れれば、係争中の裁判の援護射撃になる。
これも一種の「場外乱闘」なのだろう。
当日記でも過去に従軍慰安婦の分類で実に86回もエントリーしている。(自分でもビックリ!)
読むのが面倒な方は、要領よくまとめてあるのでこのサイトがお勧め。⇒「従軍慰安婦」
なお、「慰安婦の碑」に刻まれた碑文は読者の太平山さんからご報告頂いているので下記エントリーをご参照下さい。
上記エントリーのコメント欄で太平山さんが「韓国挺身隊問題対策協議会」について詳述されているのでご参照下さい。
沖縄を「従軍慰安婦」の恨みの碑で埋めようとする、反日・韓国グループに反対する方、
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こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。
一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。
捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。
それではまた。
元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)
1.連行された時の状況
植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。
2.「慰安所」での生活
満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。
管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。
朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。
3.帰還した際の状況
管理人のうち一人が突然、「急いで非難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく非難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。非難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。
帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。
妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。
3.解放後の生活
故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。
そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。
60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。
4.現在の状況
朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。
海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。
2002年挺身隊協提供聞き取り
元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール
1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし
証言内容
(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。
(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。
証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。
以上
証言内容
(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。
(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。
証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。
以上
こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。
しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。
今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。
会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。
地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。
まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。
宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。
それではまた。
言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。
小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。
それではこれにて失礼。
詳細なレポートありがとうございます。
保守陣営が気を許している間に宮古を「恥さらしの島」にする魂胆ですかね。
慰安婦の父が怒りで四日後に死んだとか、妹が喘息でアル中になったとか、これも全て日本軍のせいだから補償せよとでも言うのでしょうか。
報道を見ていると「慰安婦を目撃した」ということがキーワードになっているようですが、その時代に売春婦がいても何の不思議も無いことで、彼らの主張で言えば,現在も多数いる売春婦も死ぬときは「無念の死」にして「売春婦の無念の碑」を建立するつもりでしょう。(笑)
しかし、これを放置するとこれが一人歩きして「歴史」になっていくから怖いですね。
上記コメント欄のレポートは貴重な資料ですので、記事として転載させていただきました。