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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「恥さらしの祈念碑」宮古島に建立 強制連行された性奴隷 

2008-09-09 07:47:42 | 従軍慰安婦

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沖縄タイムスの歴史観がお粗末なものであることを計らずも暴露したような「慰安婦」に対する恥さらしな記事です。

いや、お粗末というより無知だね。

無念の死 記憶後世へ/宮古島市に「慰安婦」祈念碑【社会】
 【宮古島】太平洋戦争中に、朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、戦後も苦難に満ちた人生を生きる元慰安婦らの記憶を後世に伝えようと、宮古島市上野野原で七日、慰安婦の祈念碑が建立された。除幕式で参加者らは戦争のない世界の実現へ向け「平和運動の出発地にしよう」との思いを新たにした。(伊集竜太郎)

 碑文は「慰安所」が沖縄には百三十カ所、宮古島には少なくとも十六カ所あったことなどを記録。「彼女たちの記憶を心に刻み次の世代へ託します」と誓った。

 慰安婦の出身国十一カ国と、戦禍の中で女性への性的虐待があったベトナムの計十二カ国の言語で平和希求の思いが書かれた。三つの祈念碑のうち、中央の碑には慰安婦が好きだったという桔梗の花が刻まれた。

 除幕式には、中国に強制連行された韓国出身の元慰安婦、朴順姫さん(85)や慰安所の存在を証言した住民らも参加。朴さんはアリランの唄を涙を流しながら歌い、「安らかに眠ってください」と、アリランの碑へ献花した。

 昨年、日韓の合同調査団が同市内で、地元住民から慰安婦の置かれた状況などを聞き取りした。

 証言者の与那覇博敏さん(75)が被害の事実を後世に伝えようと祈念碑建立を提案、所有地を無償提供した。

 今年二月に市民や日韓研究者らで「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」(尹貞玉、高里鈴代、中原道子共同代表)を発足。十二カ国から約六百の個人・団体が賛同し、碑建立に取り組んだ。

 洗濯帰りの慰安婦が休んでいたのを与那覇さんが目撃した場所の目印として、祈念碑の手前に「アリランの碑」と名付けた岩が置かれた。

 与那覇さんは「小五のころ、この近くに日本軍の慰安所があった。その事実を知っている者として後世へ残す責任の重さを感じている。この場所を平和運動の出発地として活動していく」と決意を語った。祈念碑横に「平和の森」を五年以内に建設予定という。

 参加者は当時、慰安婦が口ずさんでいたというアリランの唄を歌い、桔梗の花を献花して、故人の霊を慰めた。 (沖縄タイムス)

                                               ◇

>朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、

全国紙では使用されなくなった「強制連行」や「従軍慰安婦」の文字が平気で踊るのが沖縄タイムスの特異な歴史観。

それに「無念の死」と意味深な見出しになっているが、これを書いた伊集記者は、強制連行された従軍慰安婦軍の命令で自決させられ無念の死をとげたたとでも言いたいのだろうか。

普通の人間なら誰しも死ぬときは無念だろうが。

同じ記事を報道するのにも琉球新報は、さすがに「慰安婦」と記して「従軍」ははずしているし、

「強制連行」も「強制」をはずして記している。

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の...(2008.9.8)

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の祈念碑除幕2008年9月8日 【宮古島】日韓の研究者や宮古島市民らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史などを伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」の除幕式を同市上野野原で開いた。同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。
 碑は3種類。「女たちへ」と題した碑文は、戦時中の女性への性暴力の悲惨さや平和の大切さを訴えた。その両脇の碑文に日韓やタイ、ベトナムなど12カ国語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世の中を祈ります」と記した。宮古島で「朝鮮人慰安婦」が歌っていた「アリラン」を伝える「アリランの碑」も建立された。
 碑建立は、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の学生、洪允伸(ホンユンシン)さんらが2006―07年、宮古島で「慰安婦」に関する証言の聞き取りを地元住民の協力を得て実施したことなどがきっかけ。
 証言者の一人、与那覇博敏さん(75)が自らの所有地で、小学5年生ごろに「慰安婦」を目撃した場所を建立地として提供することを申し出た。日韓の研究者らも賛同し今年2月に建てる会を発足、寄付を募った。
 除幕式は伊志嶺亮市長や宮古での「慰安婦」の様子を証言した住民、韓国から満州へ連行された元「朝鮮人慰安婦」の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)らも参加し碑に献花。宮古高校吹奏楽部の演奏で「アリランの歌」を斉唱した。
 建てる会の尹貞玉(ユンジョンオク)さん=「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表=は「世界各国からここへ来て平和を考える場所になることを願う」、与那覇さんは「この場所を平和への活動の出発点にしたい」と呼び掛けた。(古堅一樹)(琉球新報)

                   ◇

沖縄タイムスの伊集記者と琉球新報の古堅記者を比較すると、どっちもどっちだが、この記事に関する限り琉球新報は比較的まともで、沖縄タイムスは「慰安婦問題」では歴史に無知であることを晒している。

一事が万事で、沖縄タイムスの集団自決へ対する歴史観も、この程度のもだとあきれ返る記事だ。

>同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。

こんな恥さらしの碑を建立するのは宮古島以外に例が無いのは当たり前のこと。

恥を知るなら即刻「大恥晒しの碑」を撤去し、宮古の良識を示すべきであろう。

宮古島の「慰安婦の碑」に関して情報を頂いた太平山さんが、実際に「慰安婦の説明会」に参加され、詳しいレポートをコメント欄に投稿されているので、保存資料として下記に転載させていただきました。

                   ◇

 

①公開   反戦平和暴力団 2008-09-08 12:03:42 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔人さま

こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。

一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。

捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。

それではまた。
 
②公開   元慰安婦証言 2008-09-08 18:28:08 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 

元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)

1.連行された時の状況

植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。

2.「慰安所」での生活

満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。

管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。

朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。

3.帰還した際の状況

管理人のうち一人が突然、「急いで避難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく避難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。避難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。

帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。

妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。

3.解放後の生活

故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。

そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。

60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。

4.現在の状況

朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。

海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。

    2002年挺身隊協提供聞き取り


元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール

1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)  
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし  

 
③公開   元慰安婦証言(2) 2008-09-08 21:20:09 太平山 
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
 会場での証言

証言内容

(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。

(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。


証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。

以上
 
 
④公開   残念無念 2008-09-08 22:27:53 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔神さま

こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。

しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。

今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。

会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。

地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。

まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。

宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。

それではまた。

 

狼魔人さま

言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。

小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。

それではこれにて失礼。
 

 

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コメント (29)

先代の武蔵川理事長は名理事長だった!

2008-09-09 05:54:55 | 県知事選

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横綱としては無敵を誇った北の湖も、理事長としては無能をさらけ出してしまった。

名選手必ずしも名コーチたりえず。

名横綱必ずしも理事長たりえず。

名理事長でなくとも、普通の理事長も務まらなかった。

新任の武蔵川理事長は横綱三重の海の時代は地味な横綱だった。

先代武蔵川親方は、現役時代の最高位は前頭筆頭にすぎなかったが、その有能な組織管理能力を買われて、第4代理事長に推挙され、歴代でもっとも有能な理事長として評価されている。

相撲協会という大所帯を仕切るには、現役時代の強さに関係なく、管理能力の有無で理事長を決めるべきだと思う。

「理事長代行を…」迷走の果て、北の湖理事長お粗末辞任劇写真付き (9月9日 03:20)

新旧理事長らが出席して開かれた記者会見(8日午後、両国国技館で)=関口寛人撮影

 日本相撲協会を6年半も率いた北の湖理事長の辞任劇は、「潔さ」とはほど遠い結末だった。さらに、新理事長誕生も、相次ぐ辞退者の果てに決まった互選の結果だ。時津風部屋の傷害致死事件以降、不祥事が相次いだ大相撲が迷走した背景には、協会幹部たちの無責任体質があった。

 2力士の大麻吸引が疑いようのない事実であることが報告された理事会。その直後、北の湖理事長が全理事を前に、トップとしての考え方を示した。

 「私は少し休んで、代行を立てたい」。言葉の意味が読み取れず、一瞬、理事会の場が静まり返った。審判部長の放駒理事(元大関魁傑)から、「それは、どういうことか」と問われた理事長は、「公職を休み、理事長代行を置きたいということだ」と答えた。

 さらに、放駒理事が追及したという。「理事長の判断は大きい。あなたは、理事長をやるのか、辞めるのか、どちらかだ」

 この直後、北の湖理事長が辞任を申し出た。別の理事らが言う。「覚悟はあったということだろうが、あまりにお粗末」「休職などあり得ない。もっとたたかれるだけだ」――。幕内優勝24回、横綱在位は史上最多の63場所。幼少から「怪童」と呼ばれ、挫折を知らなかった「大横綱北の湖」の名声が地に落ちた。

 ◆後任、たらい回し◆

 相撲協会の迷走は、これにとどまらなかった。北の湖理事長が「後任には武蔵川理事を」と言及したが、理事たちがこれを却下。続いて、後継候補の名が次々と挙がったが、放駒理事は断り、53歳と年が最も若く1期目の九重理事(元横綱千代の富士)は、「経験が浅い」と辞退した。再発防止検討委員会の委員長で、最も強く後任に推された伊勢ノ海理事(元関脇藤ノ川)は、「心臓に不調がある」と断った。

 結局、武蔵川理事が候補となり、互選は全会一致で終わった。ある理事が、自省を込めてつぶやいた。「全員一致の武蔵川新体制といえば聞こえはいい。だが、実情を知る者ほど、火中の<RB>栗</RB><RP>(</RP>くり<RP>)</RP>は拾わない。これが、今の相撲協会だ」

 昨年夏、朝青龍の無断帰国騒動の余波が覚めやらぬ中、時津風部屋の傷害致死事件が発覚した。親方衆の多くが北の湖体制の崩壊を予想した。

 だが、理事長は辞職の選択肢を捨てた。

 「世間の厳しい声は分かっている。しかし、だれがオレの後を継ぐ。皆、自分のことしか考えない。身勝手じゃないか」。捨てぜりふのように言い放った。

 時津風部屋の兄弟子3人の逮捕が、目前に迫った今年2月、相撲協会の役員改選が行われたが、北の湖理事長に代わろうとする候補者はゼロ。粛々と続投が決まり、責任追及は立ち消えになった。

 相撲界改革への取り組みは、これまでもあった。65歳定年までの親方職を保証される年寄名跡(通称親方株)は現在も、1億円を下らない額で売買され、名跡取得に奔走する若手親方も多い。1996年には当時の境川理事長(元横綱佐田の山)が、二子山親方(元大関貴ノ花)の親方株の売買による所得の申告漏れ事件などを受けて、親方株の協会一元管理をルール化しようとした。

 しかし、親方衆が猛反発し、理事長らに撤回を申し入れて、断念させた。我が身に降りかかる火の粉を払うときは一致団結し、面倒なことには首を突っ込まない。これが親方衆の体質を示している。

 107人の親方衆が、今こそ一致団結し、真剣に相撲界再建を論じなければ、国技崩壊も覚悟すべき時にきているといえる。

 ◆旧態依然の切符販売◆

 大相撲の本場所は東京3場所と大阪、名古屋、福岡の3場所の計6場所。相撲人気は回復傾向にあり、特に土曜、日曜日は前売りが完売し、当日券も売れて「札止め」も多い。

 だが、深刻な問題も内包している。東京場所での切符販売を請け負うのが「相撲茶屋」と呼ばれる国技館サービス。現在は国技館内に20店が軒を連ねる。主要な収入源となる升席販売では、土俵に近い「升席A」は完売するが、土俵から遠いB、C升は厳しい。こうした売れ残り切符は、一定の基準で相撲協会が買い取っている。しかも、お茶屋の経営者たちは、高齢化が進んでいるが、後継者もいない。販売方法も旧態依然。お土産や飲食とのセット料金で経営を賄う。

 ◆一門は「派閥」◆

 相撲部屋と親方衆の大半は、出羽海、二所ノ関、時津風、高砂、立浪の5系統の一門に所属し、一門は「政党の派閥のようなもの」と例えられる。

 かつては一門ごとに地方巡業などの興行を打ち、生活資金の基本となった。しかし、給与制度が確立された現在は、同じ一門の力士が連合げいこを行う程度で、生活面の連合体意識は薄れている。だから、各一門の利益代表としての理事候補の意義は希薄だ。

2008年9月9日03時20分  読売新聞)
                 
                     ◇

 

大相撲大麻疑惑:武蔵川理事長が会見「しっかりやらねば」

                         

 外国人力士の活躍に支えられていた日本相撲協会は、結局外国人力士の不始末に振り回され、遂には理事長辞任にまで追い込まれる事態になった。

北の湖理事長の辞任は遅きに失した。

当日記は去年の9月12日付けで既にこのように書いていた。

朝青龍騒動 北の湖理事長の醜態

ここで理事長の資格として大横綱である必要はない、組織を統率できる能力があれば名理事長になれる例として、最高位が前頭に過ぎなかった13代武蔵川(前1・出羽ノ花)理事長のことを書いた。

急遽新理事長に選任された武蔵川親方の先代である。

新理事長は先代武蔵川の理事長としての手腕を承知しているはずなので、先代を見習って奮励努力してほしい。

以下は「朝青龍騒動 北の湖理事長の醜態」の抜粋を再掲。

長引く「朝青龍騒動」に北の湖理事長は一回も記者会見を開くことなく高砂親方に全てを丸投げしている。

先日開幕した大相撲秋場所の恒例の協会挨拶でも「朝青龍問題」には全く触れることなくファンの不評を買った。

>杉山氏らによると前日10日、協会関係者に呼ばれて「北の湖理事長の要求」として取材証の返還を求められた。

ところが何も言わざるの理事長も自分の批判と取れるものへの対応は素早いということか。

相撲を愛する情熱という点では、北の湖理事長より杉山元アナのほうが勝ると筆者は見る。

奇しくも杉山さんは北の湖理事長の生まれた年にNHKに入社している。

何しろ北の湖理事長がまだオムツの取れない頃から大相撲の実況放送に情熱を燃やしていたのだ。

自分を批判するものを個人の感情で報復するとは、北の湖理事長は自らの無能振りを朝青龍によって晒す結果となった。

名選手必ずしも名監督にあらず、とはよく言われることだが、

北の湖理事長は現役時代名横綱とは言われたが史上最低の迷理事長に成り下がったようだ。

戦後歴代の大相撲協会理事長を列記すると次のようになる。

相撲協会の歴代理事長http://www2.tba.t-com.ne.jp/tamaro/newpage2-23.htm

初代 広瀬正徳
2代 常ノ花
3代 双葉山
4代 出羽ノ花⇒13代武蔵川親方
5代 栃錦
6代 若乃花
7代 佐田の山
8代 豊山
9代 北の湖

初代の陸軍軍人は除いて、2代目と8代目を除いて全て横綱、それも名横綱といわれた方々である。

8代目の豊山は大学卒の力士として初めて大関に昇進し、インテリ大関と評された。

当時中卒がほとんどの角界にあって大学相撲出身ゆえの苦労も多かったが、引退後理事長就任した。

2期4年務めて年寄名跡改革問題などで混乱した角界の収拾に当たった。

理事長として最後の場所となった2002年1月場所千秋楽の協会御挨拶では「自分の言葉で御礼を申し上げたい。」と挨拶状を持たずに挨拶し、観客を唸らせた。(ウィキペディア)

もう一人の「非横綱」理事長は大横綱双葉山の後を継い理事長となった4代目の出羽ノ花。

大関どころか三役にもなれなかった前頭止まりの名理事長だった。

奇しくも「朝青龍問題」でマスコミが大騒ぎが始まった今年の7月の末、次のような小さな記事が出た。

市川富美子さん死去(故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長の妻)

2007/07/27-18:17  時事通信

市川富美子さん死去(故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長の妻)

 市川 富美子さん(いちかわ・ふみこ、故武蔵川喜偉・元日本相撲協会理事長=元幕内出羽ノ花=の妻、境川尚・元同協会理事長=元横綱佐田の山=の義母)27日死去89歳。東京都出身。告別式は31日午前11時30分から東京都墨田区両国2の8の10の回向院で。喪主は長女恵津子(えつこ)さん。(了)


                     ◇

この記事の市川冨美子さんこそ、元前頭で名理事長と言われた出羽ノ花の奥様だった。

出羽ノ花 は現役時代の現役最高位は前頭筆頭で決して目立つ力士ではなかったが、引退後に本領を発揮し、日本相撲協会理事長となり、大相撲と相撲協会の近代化に貢献、その功績は高く評価されている。

戦前の巡業で満州に行った際に、協会が勧進元に対し言い値をそのまま支払うのを見て愕然とし、経済学や簿記・経理、そろばんを学んで協会の財政運営に貢献した。

以後、協会の金庫番や知恵袋としての活躍が始まった

昭和32年に当時の理事長出羽海親方が国会に呼ばれたが病気により欠席した際には代理で出席、堂々の答弁に議員達から「正に大臣も務まる。あなたの答弁は実に立派だ。

明晰な頭脳とその雄弁ぶりから、“角界の代議士”といわれることもあり、また一方では、「力士になっていなかったら、大実業家になっていたのではないか」という声もある人物である。

もって生まれた才能を勤勉と努力により開花させ、余すところなく発揮した。

大相撲の海外巡業は特にめずらしい事ではないが、その先鞭を付けたのも出羽ノ花である。 

 

相撲協会にに何事も波風が立たないときは北の湖理事長のように無能でも現役時代の威光で何とか置物理事長の役目を果たしただろう。

だが、今回のようにマスコミや、モンゴルという外国のファンも巻き込んでの事件となると現役時代の威光も何の役にも立たない。

出羽ノ花先例に倣って理事長は現役時代必ずしも強くなくても、広く人材を求め有能な人物を理事長にしておれば今回のような無様な対応は免れていただろう。

新弟子希望者が皆無という昨今、相撲協会の将来は決して安閑としたものではないはずだ。

朝青龍の我がままが計らずも大相撲協会の内に潜む問題をあぶりだす結果となった。

雨降って地固まるになって欲しい。

あ、それから杉山元アナには早めに記者証を返したほうが協会のためだと思うがね。

【追記】13日 7;48

大相撲の取材証、杉山元NHKアナに返還…話し合いで解決 (9月12日 19:53)

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