【那覇】79年前、6歳の時に沖縄戦を体験した那覇市の喜屋武幸清さん(85)の講話が9日、牧志駅前ほしぞら公民館であった。家族と共に本島南部の激戦地をさまよった喜屋武さんは、現在の糸満市摩文仁の壕で日本兵に銃を突き付けられ、弟妹と生き別れた記憶をたどった。同公民館が開く市民講座の一環。(社会部・城間陽介)

 旧南洋群島のテニアン島で生まれ、沖縄戦前年の1944年に沖縄へ引き上げた喜屋武さん。沖縄戦が始まると祖父母、母、きょうだい4人で避難を始め、南風原の陸軍壕など南部一帯を転々としながら身を隠した。途中、祖父母は砲弾に倒れた。

 移動中に親戚と合流し寝床を共にすることもあった。「牛舎のような場所で腕枕をしてくれた叔母は砲弾の破片が当たって腕がちぎれそうになり、カミソリで切ろうとしても切れない。最後は『水が欲しい』と言いながら息途絶えた」とつらい記憶を語った。

 摩文仁に着くと、目の前の敵は米兵ではなく日本兵に映った。壕に入ろうとすると、日本兵に「泣く子どもは入れない」と銃を突き付けられ、喜屋武さんの母は3歳の弟と0歳の妹を壕の外に連れ出した。母一人で壕に戻ったが、しばらくすると弟が「お母さん」と泣き叫びながら追いかけてきたため、再び母は壕の外へ出て行った。

 「弟たちが戻ってこれないよう壕の入り口をふさいだ。母はどこか離れた岩陰にわが子を置いてきたのかもしれない」と想像する喜屋武さんは戦後長い間、このことを誰にも話すことができなかったという。

 終戦から9年後、38歳の若さで亡くなった母に対し「毎晩のように泣き、死ぬ時まで子に謝っていたと思う。あの時壕の外で弟妹をどうしたのか。生前、母に怖くて聞くことができなかった」と語った。

 一方で、今は当時の出来事を語ることは自身に課された使命だと捉えている。「天国の母が『あなたが話さなければ沖縄戦の地獄が伝わらないでしょう』と背中を押してくれているようだ。120歳になるまで語り継ぎたい」と、戦争の記憶の風化にあらがう考えを強調した。

(写図説明)戦場で弟妹と生き別れた悲劇を語る喜屋武幸清さん=9日、那覇市・牧志駅前ほしぞら公民館ホール

(写図説明)喜屋武さんの話に耳を傾ける参加者