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米軍統治下の沖縄で敗戦を迎えた中学生たちは、学校の授業で日米戦争の事を、どのように教えていたか。
米国は「自由と民主主義」を軍国主義の日本に普及させるためやってきた「正義の集団」連合軍の一翼を担っている、と教わった。 そして、敗戦国日本は日独伊の枢軸国のメンバーで、悪の枢軸国、つまり専制軍国主義国家と教わってきた。
米軍は『鉄の暴風』を出版する前に、米軍の出版許可を必要とし、手始めにラジオ放送による川平アナウンサーの朗読で、一般県民の洗脳に取り掛かった。
マッカーサー率いるGHQの占領政策は、公職追放に絡む日本の「非軍事化」であった。だが切り札はもう一つあった。
それは民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。
これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。
言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、占領軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。
GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。
20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。
■「真相はこうだ」の沖縄版が「鉄の暴風」だった。
12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。
CIE(※)の手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。
アメリカの中央情報局。正式名称は「Central Intelligence Agency」。国防総省(ペンタゴン)、国家安全保障会議などとともに1947年の国家安全保障法によって設立された。第2次世界大戦直後の東西冷戦状況のなかで,それまで陸・海軍などが個別に行っていた情報収集・諜報活動を統合。大統領の直属機関として、対外政策の決定に必要な秘密情報を提供することを任務としている
放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。
ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。
2つの懸念が出てきたからだ。
1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。
もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。
こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。
文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。
GHQ司令長官マッカーサーは、日本で行った「公職追放」は沖縄では実施しなかった。ところが後でわかったことだが、実は沖縄でも「公職追放」の影響を受けていたが、次の理由で「公職追放」実施を免れた。
マッカーサーは沖縄を永久占領し、米国の領土にする予定であった。
マッカーサーは沖縄を永久占領するため、これまで米軍統治下にのみ流通していたB軍票を米国本土と同じドルに切り替えた。
■「コーンパイプの煙幕」が半世紀後の中学生の精神に食い込んでいった。
マッカ―サのコーンパイプの「魔のけむり」による催眠効果は沖縄の中学生に持続していた。
「コーンパイプの魔のけむり」が、ボディブローのようにきいてきた時--アメリカという名の巨大な生き物が、日本の精神文化の隅々にまで浸透し、この島国の社会全体を被いつくしてしまった時でもあったのだ。
フィリッピンでは日本軍の猛攻に敗北、部下を残して敵前逃亡を余儀なくされたマッカーサーが日本に初めて第一歩を刻むとき、マッカーサーは復讐の怨念に燃えていた。復讐の証拠は彼が日本軍に煮え湯を飲まされフィリピンのバターン地方の名を冠した「バターン号」にその怨念が表れている。
マッカーサーは武器は拳銃一つすらも帯同せずレーバンのサングラスを着用、コーンパイプを手にバターン号から着陸用の階段を一歩降りて、辺りを睥睨した。
その姿は歌舞伎で大見えを切る千両役者そのものであった。後でわかったことだがマッカーサー程他人の目を気にする人物もめずらしい。
■上司マッカーサーから「演技」を習ったアイゼンハワー副官」
7年間に渡ってマッカ―サの副官を勤め後の上司のマッカーサーを抜いて米国大統領になったアイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、次のように上司を褒め称えている。「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。
■マッカーサーから「演技」を学んだアイゼンハウワー
その一方、アイゼンハウワーはマッカーサーの影の部分も指摘している。連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。
アイゼンハワーの陸軍士官学校の成績は平凡で、卒業時、164人中61番だった。もし彼が旧帝国陸軍の軍人だったら、うだつのあがらない平凡な存在だったであろう。
一方、陸軍士官学校を一位で卒業した誇り高きマッカーサーは、歴史の節々で有名な「殺し文句」を、後世に残している。
ここで日本でもよく知られているエピソードを紹介しよう。
先ず、フィリピンでの対日戦争を指揮したマッカ―サが日本軍の猛攻に敗北しオーストラリアへ敵前逃亡した時、誇り高きマッカーサーは面目丸潰れになった。
そこでマッカーサーは従軍記者を相手に次のような大見えを切った。
I shall return (必ずや私は戻るだろう)
この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の中で数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。
また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。
敵前逃亡で面目を潰したマッカーサーは、オーストラリアに逃亡し、再度フィリピンに上陸したとき、「I shall return.」を身をもって証明した。
この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。 マッカーサーが上陸した地点では桟橋が破壊されており海中を歩いて上陸するしかなかったが、この時撮影された写真を見たマッカーサーは、海から歩いて上陸するという劇的な情景の視覚効果に着目し、再び上陸シーンを撮影させた。
アメリカ国立公文書館には、この時に船上から撮影された映像が残されており、その中でマッカーサーは一度上陸するものの自らNGを出し、戻ってサングラスをかけ直した後、再度撮影を行う様子が記録されている。
マッカーサーの巧妙な占領政策は、表面では自由と民主主義を標榜しながら、実際は、「言論弾圧」、つまり「焚書坑儒」を実施した。
マッカーサーは日本占領に際し、数多くの占領政策を実施したがその詳細はここでは立ち入らず、最も日本に影響を残し現在でもその後遺症を引きづっている政策は、「公職追放」である。
公職追放が戦後約70年経過しても、依然として日本人の心をむしばみ続けている事実を知ったら、当事者のマッカ―サは「日本人は精神的に13歳」と呟いて仰天しただろう。
■自由と民主主義を普及する正義の戦争
連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、
戦争犯罪人の処罰
▽非軍事化
▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。
中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。
これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。
だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。
GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。
「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」
× × ×
占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きく舵が切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需となったからだった。
× × ×
GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。
これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。
言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。
GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。
20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。
12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。
『アメリカの鏡 日本』
抄訳刊行にあたって
【占領が終らなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない】
(ダグラス・マッカーサー(1949年8月6日付書簡)
この本の原著『Мirror Àmericans:japan』がアメリカで出版されたのは、日本の敗戦後三年目、1948年(昭和23年)であった。
翻訳家・原百代氏はヘレンミアーズより原著の寄贈を受け日本での翻訳出版の許可を求めた。しかし、その望みは断たれた。翻訳出版不許可の決定が下されたのだ。
マッカーサーは上記書簡の中で、「私はいかなる形の検閲や表現の自由の制限も憎んでいるから、自分でこの本を精読したが、本書はプロパガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化できない」と述べている。
そして米軍の日本占領が終了した翌年の1953年(昭和二十八年)、原氏の翻訳は『アメリカの反省』として出版された。
大東亜戦争をはじめとする近代日本の戦争は「野蛮で凶暴な侵略者」の日本と「自由と平和の守護者」米英露と中華連合国の戦いっていう単純化された歴史では無かったということです。学校で歴史を教えてる教師や「戦争法案」とかレッテル貼する政治家はこういう本を読んでるのかな?欧米流で合法的な国家運営をしようとしていた日本が、桁違いに凶暴な西欧帝国主義国家の狡猾さに翻弄されたってことでしょう。無慈悲な殺戮に斃れた我らの祖父母は無念でしょう。何故勝てない戦争をしたのか知りたい人は読みましょう。
ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。その後、琉球上訴裁判所首席判事を経て1953年に又吉康和市長の死去に伴う那覇市長選挙に出馬し当選。首里市や小禄村の合併を実現させ、比嘉秀平主席の急死に伴い1956年に琉球政府行政主席に就任した。
援護法と沖縄戦 沖縄タイムス『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくられた
2024-02-10 07:06:33 | 政治
沖縄タイムス『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくり上げられた
狼魔人日記の推論
沖縄タイムス社の見解(沖縄の証言-沖縄タイムス刊)
豊平良顕、座安盛徳氏らが沖縄戦記編纂のプランを立てたのが1949年5月、三ヶ月で資料を収集し。三ヶ月で編集したということになっている。
(新聞五十年 380頁には五月にプラン、11月に脱稿とあり)
ちなみに座安盛徳氏は後に沖縄タイムスの専務知なる営業畑の人物で、沖縄の米軍幹部に強力な人脈を持つ。
疑問
① 月刊タイムスを発行するための紙ですら米軍政府の目を誤魔化しながら工面していた時代に、新聞社が独断で売れるかどうか分からない単行本の発刊に取り組むものだろうか?
② 紙面や初期の月刊タイムスが手書きで、活字自体が無い時代に社をあげて取り組むというリスクはかなり大きい。(資金力が無かった)創刊間もない新聞社が取り組めるのか?
③ 米軍政府による事実上の検閲が厳しいなかで、独断で企画したというのであれば、出版許可が下りるという保証は無い。
④ 紙上の連載がなかった『鉄の暴風』が検閲を受けるのは脱稿して翻訳した後だが、400数十頁の分量になる原稿に投じる余裕があったのか?
⑤ 当時の新聞は2頁立て、月間購読料が30円(新聞のつぶれる日)の時代に、『鉄の暴風』一冊200円売りの本を1万冊、(朝日新聞社と2万冊)売値で200万円となるが、この資金調達のめどがどうして立ったのか?(株主も居ないのに)
⑥ 脱稿し、英訳はしてはあるが、シーツ長官の出版許可が下りていないものを、朝日新聞社に発行を依頼する権限があったのか?
⑦ 当時、売れている本ですら2千冊の時代に2万冊の発行を契約出来るのか?(権限・財力)
⑧ 出版を持ち込んだ朝日新聞からは「出版パニックで今頃戦記ものは駄目ですよ」と剣もほろろに断られるが、一週間もたって座安の宿舎には朝日新聞社からじゃんじゃん電話が入ってきた。行ってみれば前回とは違って今度は下へも置かぬ丁寧な対応で、出版しましょうと豹変する。GHQから強い指令があったと推測される。
時系列
日付 内容
1948年6月28日 ハウトン大尉(情報部長)が川平朝申の留守中に座安等を呼びその場で沖縄タイムスの発行を許可、目的はうるま新報に対抗させる為(新聞五十年 363頁)。とあるが本当は、うるまの社長に就任した瀬長亀次郎が米軍政府にたてつくようになってしまったからである。
同日 うるま新報には知らせず、ドル交換の特報を教える。
6月29日 正式に新聞が発行される前に異例の号外を出す。
1948年7月1日 沖縄タイムス発行
1949年X月~5月 鉄の暴風のプランを立てる
同年 6月~8月 聞きとり等により資料収集
同年 7月 ゼネレーター事件(タイムス以外の新聞社が検挙される)
同年 7月23日 グロリア台風
X日 台風により保管してあった大量の紙が濡れたという理由で沖縄タイムスにのみ格安(無料)でその紙が提供する
同年 9月~11月 編集及び監修、翻訳
同年 10月 シーツ長官着任
同年 12月 翻訳済み
1950年3月29日 有村海運の船にて上京(新沖縄民報の空路は間違い)
同年 5月2日 マッカーサー総司令官と会見
同年 5月6日 沖縄タイムス紙に上記内容を掲載
同年 5月X日 米軍政府内が騒然となる、『座安は何を告げ口したのか』
尚、沖縄では、終戦から1950年頃まで、米軍軍政下で民間貿易が禁止されていたが、実際には、台湾ルート、香港ルート、本土ルートで広く密貿易が行われており、米軍も生活必需品を扱う密貿易を強くは取り締まらなかった。
【おまけ】
12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました。
読者の皆様へ
『沖縄「集団自決」の大ウソ』の増刷が完成しました。ご注文次第発送できます。ご注文の方は下記要領でお申し込みください。
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沖縄タイムスの古い記事の紹介です。
沖縄タイムス1998年1月6日 朝刊 6面>
忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。
翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。
入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。
取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。
写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)
◇
上記記事で有黙すべきは、「『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行った」というくだり。
『鉄の暴風』が沖縄タイムス独自の企画ではなく、米軍の企画を沖縄タイムスが代行したという情景がよみがえる。
発行権を有するシーツ司令長官は『鉄の暴風』は読み物とは面白いと周囲に購読を勧めるが、結局発刊を拒否する。
そこで座安専務一行は上京してマッカーサーの発行許可のお墨付きを得て、初版は朝日新聞から発行される。
発刊後、シーツ長官は病気を理由に沖縄司令長官を辞任し、米本土で軍関係の私立学校の校長などを務めるが、シーツ長官が『鉄の暴風』の発刊を拒否した理由は不明である。
<1998年5月26日 朝刊 6面>
人物列伝 沖縄 戦後新聞の足跡(21)
マッカーサー元師と会見
座安盛徳(10)
特ダネで現地米軍けん制
活字印刷にもめどつける
ガリ版刷りでスタートした沖縄タイムスが活字印刷に移行したのは、創刊一周年を目前に控えた一九四九(昭和二十四)年六月五日の第五十六号から。ガリ版刷りでは六千部までが限界で、それ以上は原紙が切れたり、写りが悪くなったりするので、新たに原紙を切らなければならない。活字印刷への移行は避けられない状況だった。
この活字印刷移行にめどをつけたのも座安盛徳だった。その年の五月、奄美大島名瀬市の印刷会社「自由社」を営む重江国雄が、沖縄で一旗揚げたいと活字と印刷機を持参した。その話を聞いた座安は「場所は提供するから機材を利用させてくれ」と申し入れ、沖縄タイムス社屋内に印刷所を設け、共同経営するという方向で話をまとめた。
平版印刷機二台と活字八万個が持ち込まれ、創刊一年もしないうちに紙面を一新したのである。
こうして次々と設備を充実させる中、翌五〇(二十五)年五月二日、座安は東京で米極東軍司令官マッカーサー元帥への会見に成功する。同年五月六日の沖縄タイムスは特ダネとして一面で大々的に報道、社説でも扱っている。随行記者などいないから、記事を書いたのはもちろん当時専務の座安自身である。
その日の紙面によると、沖縄新聞界代表の座安は、日本本土への視察旅行中、一週間前から申し込んでいた会見が許可され、約一カ月も前から交渉していた北部琉球代表の笠井大島副知事、有村大島産業社長、久保井大島農業会長の三人とともに五月二日午後七時から三十分間、第一相互ビル六階の総司令部司令官室で沖縄人として初めてマッカーサーに会見した。通訳は田上中尉。
(座安特派員発)というクレジットの付いた本記で座安は次のように書いている。
「田上中尉に導かれて司令官室に入ると、マッカーサー元帥は身軽く椅子(いす)を立って急ぎ足に一行を迎え温顔をほころばせ一人々々とかたい握手を交わし遠来の労をねぎらいながら椅子をすすめた。かくてマ元帥は会見劈頭(へきとう)『沖縄復興はどうなっているか』と質問したが、これに対し一行から『シーツ長官赴任以来希望をとり戻して明るい気持で復興にまい進している』旨答えると、如何(いか)にも満足の態でアイシーを連発し『米国及び米国民は琉球の復興と平和と経済的独立を希望し多大の関心を有(も)っている』と語り、更(さら)に語をついで、食糧事情はどうか? 被服、住家はどんな状態か…、六カ月前とはどうか…、戦前とはどうか…、日本の経済事情との比較は…生活物資はどちらが多いか…、等々…矢継ぎ早に質問を発した」
さらに座安は、自分が見たマッカーサーの素顔を次のような雑感記事にまとめている。
「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして歯に衣を着せないで実情を訴えた。記者が『終戦以来太平洋の悲劇は沖縄人だけで背負った形で前途頗(すこぶ)る悲観していた、今日ではゼネラルシーツの赴任によって希望をとり戻し明るく復興にまい進している、この際元帥のメセージを』と云えば『君は僕と話しているから、それを書けば一片の紙切れにすぎないメッセージなど、どうでもよいではないか』と軽く打込んで一本参らすなど、すっかり父親の意地悪にベソをかかされた形で、いよいよ思い切り甘えてみたくなった」
かつて鹿児島で一人何役もこなしながら、発行していた郷土雑誌『沖縄』で見せたあの語り口そのままの文章ではないか。沖縄朝日に入社後四年で新聞記者から営業、経営者に転身した座安が記者として、その文章を見せた極めて珍しい例だろう。その行間に本来は、やはり経営者よりも活字人間を目指していたと見るのは、読みすぎだろうか。
記事の最後に座安はこう書いている。
「尚(なお)別れに際して元帥は是非一度は沖縄にも行きたい、有力者が上京の際には訪ねてもらい度(た)い等と語り、グッドバイ、グッドバイを連呼して握手を交わし部屋の入口まで一行を見送った」
その言葉の通り、マッカーサーはその年の暮れには、いわゆるスキャップ指令(琉球列島米国民政府に関する指令)で改称された米国民政府の民政長官を兼任、沖縄を訪れている。
このマッカーサーとの会見。実は座安にとっては、ほかの所用を兼ねた上京だった。四九年五月に編集プランが立てられて以来、牧港篤三、大田良博が取材、執筆、十一月に脱稿した沖縄戦記『鉄の暴風』の出版を朝日新聞に依頼しようと上京したのだった。
前年の末に沖縄と本土間の正式渡航が開始されたばかりで、それも沖縄の米軍政府と在日米軍への面倒な手続きを必要とした。新聞社員の本土派遣は認められず、座安の渡航申請も「印刷業代表の本土視察」という名目でパスしたのだった。
ところが座安の上京はこれだけでもなかった。出版の協力依頼のほかに本土で輪転機を探してこようという魂胆があり、事実年内に北海タイムスからマリノニー式輪転機を購入するめどをつけたのだった。一度の上京で三つも大きな仕事をこなし、一線記者並みに記事も書いたのである。
座安のマッカーサー会見について高嶺朝光は『新聞五十年』(沖縄タイムス社)で次のように振り返っている。
「マ元帥が会見に応じたのは、沖縄からはるばるやってきた業界代表と聞いて、宣撫(せんぶ)工作にでも利用できると思ったのだろう。また、座安君が会見によるプラス…たとえば沖縄現地米軍へのけん制…を計算に入れていたのは間違いない。それから数日後、私は米軍政府に呼び出され、係官の質問を受けた。『ほかの新聞から抗議が来ている。新聞代表でもないのに、座安氏がマ元帥と会ったのはけしからんと言っている。本当に新聞代表として上京したのか』。私が『代表などとは言っていない。単なる印刷業の視察だ』と答えると『そうだろうな』と係官、はじめてホッとした顔色を見せた。ほかの新聞社から抗議をうけたのは、座安君を新聞代表として渡航を許可したミス…と係官は思ったのかもしれない。それ以上に座安君のマ元帥との会見で一番驚いたのは沖縄現地米軍で、座安君が何か告げ口でもしなかったかと、あわてたようだった」(敬称略)(編集委員・真久田巧)
『鉄の暴風』が裏付け調査のないデタラメな噂話の類で埋められていることは多くの研究者によって明らかにされているが、そのデタラメな取材の証言者を米軍の協力でかき集め、執筆者に引き合わせる大きな役割りを果たしたのが沖縄タイムス創業者の一人である座安盛徳氏だと言われている。
沖縄タイムス専務の座安盛徳氏は、後に琉球放送の社長もなるマスコミ人だが、そのユニークな性格は文筆で活躍するというより、巧みな交渉力で絶対的権力を持っていた米軍上層部の信頼を一手に集め、不足していた新聞用紙やその他の物資の調達に力を発揮していた。
上記引用文にもあるとおり、米軍との交渉は全て座安氏が仕切り、当然『鉄の暴風』の出版、執筆にも大きく関わっていた。
『鉄の暴風』は豊平良顕氏が監修で、執筆は牧港篤三、太田良博となっているが執筆のほとんどは、戦前からのベテラン記者である豊平、牧港の両記者を差し置いて、入社したての記者としては素人同然の太田氏が行っている。
『鉄の暴風』の執筆には執筆者が自ら取材することはなく、会社側、つまり専務で米軍の信頼の厚い座安氏が米軍を通じてかき集めてきた話をそのまま面白おかしく書き綴ればよかったのだ。
ここで『鉄の暴風』のデタラメさを端的に示すのが太田良博記者による山城安次郎氏の取材である
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