沖縄の県外疎開の実体2008-09-23
■「日本軍は住民を守らなかった」
「日本軍は住民を守らなかった」・・・・これは戦後77年経過した現在でも沖縄の新聞が米軍反対運動をするときのキーワードになっている。 だが戦時中と言えども、当時の日本の法体系でいえば、住民(民間人)を守るのは警察であり、外国の侵略から自国を守るのが軍隊だった。したがって県民を戦渦から避けるため県内外に疎開を要請する場合も、軍は一旦県知事に協力を要請し、県知事が県警の機動力を利用して、疎開を実行した。 その際県知事は軍に協力を依頼し、軍はあくまで側面から県警を協力するという法体系だった。
■苦し紛れ、安仁屋教授の「合意地境」軍命論
当時の沖縄が戒厳令下にあったなら、軍が直接県知事に命令できただろう。 だが、我が国に於ける戒厳令は昭和11年の226事件以降発令されていないし、勿論沖縄も例外ではなかった。このよう法体系の下で、軍が民間人に「自決命令」など出せるはずもない。 その点を追及された「軍命派」の理論的指導者の安仁屋政昭沖国大名誉教授は、苦し紛れに「合意地境」なる概念を持ち出して、戦時中の沖縄は「準戒厳令」即ち「合意地境」の下にあったと主張したが、何の法的根拠もなく「反軍命派」に一蹴されてしまった。
その点「沖縄県民斯く戦えり」の電文で有名な太田実中将は、当時の我が国の法体系を熟知していた。
太田実海軍少将が万感の思いで東京の海軍次官宛てに打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。
注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。
◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
《大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文
昭和20年6月6日付け
「沖縄県民かく戦えり!」
「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」
沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。
県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。
敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。
しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。
残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。
しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。
所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。
看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。
更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。
要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。
食料は六月一杯を支えるだけしかないという。
沖縄県民はこのように戦った。
沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。》
太田中将の電文は、最後の「沖縄県民かく戦えり!」「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」の部分だけが有名だが、冒頭部分は太田中将が軍と民間(県知事)との法体系の違いを熟知していた証拠であり、県知事の頭越し」に報告せねばならぬ状況を次のように説明している。
《沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。
県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。
敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。》
つまり、沖縄県民の現状を報告するのは本来県知事の任務だが、県の通信網が壊滅状態なので、止む無く太田中将が「県知事の代理」として、この電報を送った・・・と「越権行為」の説明をしている。」
■特攻隊長だった梅澤少佐と赤松大尉
「日本軍は住民を守らなかった」について、もう一つ誤解されていることがある。梅澤赤松両隊長の任務は「特攻」であり、守備の為の武器弾薬等は装備していなかった。したがって「守ろうと思っても守れなかった」というのが実情である。
赤松隊長や梅澤隊長のことを「守備隊長」と記している文があるが、正確に言えば「守備隊長」は間違いであり、特攻隊長或いは戦隊長が正しい。特攻とはいっても、慶良間島の場合、ベニヤ板で作った特攻艇マルレは、出撃前米軍による「鉄の暴風」のような艦砲射撃の集中攻撃を受け、事実上、住民を守るどころの騒ぎではなく、住民を守ろうとしても守れなかった。これが実態である。
ところが、沖縄タイムスや琉球新報の報道を見ると日本軍は住民を守るどころか、住民殺戮のため沖縄にやってきたような印象を受ける。
沖縄配備の第32軍の中でも映画などの影響で沖縄では特に評判の悪い長参謀長が県民の県外疎開に真っ先に動いていた事実は沖縄ではほとんど知られていない。
■昭和19年12月の「県民大会」■
昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。
大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。
けふ大詔奉戴日 軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。
昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。
ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。
米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て
お題目で獣性偽装 野望達成で手段選ばぬ
泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。
座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来た。
では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。
■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■
大本営と沖縄配備の第32軍は、昭和19年の夏からが沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていた。この歴史的事実に沖縄メディアは全く目を閉ざし「日本軍は住民を守らなかった」など報道するのは、反日運動のためのスローガンにすぎない。
戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。
日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。
ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。
第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。
そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。
■県民疎開は大本営の発想■
昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。
同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、長勇少将はその一月前の7月1日に沖縄に着任し、真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。
既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。
沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。
大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)
緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。
今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。
当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。
現在のような平和な時代の後知恵で、「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的に協力で不可避であったと『鉄の暴風』は主張するが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にしても県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。
■軍命の「悪用」
戦時中に、よく言えば「利用」され、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉がある。
実際には命令は発せられていなくとも、また軍に命令する権限がない場合でも、沖縄県民は当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。
例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。
県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した。
当初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した。
だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。
『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。
≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。
しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略)
かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、部落、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫
沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。
学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。
家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。
「軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。
むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。
どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。
学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた。
軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、戦後は左翼勢力によって悪用されている。
以下は当時の法体系を示す世界日報記事の引用です。
軍・行政が住民疎開に尽力
「南西諸島守備大綱」で詳細な指示
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軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。
一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する。
〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである〉
戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した。
着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。
六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった。
ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。
タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている。
「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない」
また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。
専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである。
こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。
実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。
(編集委員・鴨野 守)(世界日報掲載:6月29日)》
軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」
■「軍官民の共生共死」、苦し紛れの「軍命論」
「集団自決」論争でよく喧伝される「軍官民の共生共死」という造語で、軍の自決命令の根拠にする人がいるが、第32軍は1944年夏の沖縄配備以前から一貫して県民の県外疎開を指導してきた。
だが何事にも行動の遅い県民気質も有って疎開は軍の思惑通りは実行されず、結局1944年の10・10空襲以来、那覇港には県外疎開を希望する県民が殺到し、船舶不足もあいまって子どもたちだけでもと、九州各地に疎開させている。 そして疎開に成功したした子どもたちはほとんどが無事で戦後帰郷を果たしている。
1945年4月の米軍上陸後も早い時期に軍の指導で北部に疎開した住民は比較的戦争被害は少なかったが、最期まで軍を追って南部に逃げた住民が最も戦争の被害が多かったことは周知のことである。
沖縄の県外疎開の実体
■沖縄ではあまり知られていない「県外疎開」の実体■
第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった県民の県外疎開を閣議決定させるという素早い動きをしていた。
緊急閣議決定で法的根拠は得たが、県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。今の時代で安易に想像するように、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であり、当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
当時の沖縄の状況は新聞の扇動報道に乗せられた各民間団体の宣撫活動で巷は沸き立っていた。県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
民間人への命令権限の無い第32軍は、県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力が適任と考え担当部署を警察部と定めた。
平和な時代の後知恵で、軍の命令は絶対且つ不可避であった、と主張する勢力があるが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全確保のための県外疎開にしても、県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。
■県外疎開が進まなかった理由■
県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍の思うようにうまくは実施できなかった。
その第一は、沖縄の地理的要因であった。 当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは重大事件で、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていたため、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がましだという風潮も阻害要因であった。東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が九州各県に海路で疎開することは一大決心を要した。
次に疎開実施を阻害したのは泉県知事が軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示したことである。「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無いといった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
疎開は不要という空気は、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にもその風潮はあった。軍の指令がうまく行きわたらない地方の部隊では、軍が沖縄でがんばっているのにわざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言をするものもいた。
遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。 何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。
サイパンでは米軍の投降勧告で集められた日本人の老人や子供にガソリンがまかれ火を点けられたり、呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性が裸にされ、トラックで運び去られたという証言が記録されている。
当時の沖縄には南方帰りの県人が多く、大本営がサイパン陥落の直前に県外疎開を準備し始めた状況から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は想像できる。
沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の3分の1にあたる10万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州4県と台湾に決まった。
■沖縄戦の本質■
沖縄戦記には軍の側から見た戦略的な「戦史もの」、そして住民の側から見た「証言もの」と、多数の出版物があるが、軍と住民の間に立って「軍への協力と住民の安全確保」という二律背反の命題に挑んだ地方行政側の「戦記」は極めて少ない。
次の引用は本土復帰当時の公使・日本政府沖縄事務所長・岸昌氏が荒井紀雄著『戦さ世の県庁』の序文で沖縄戦の本質を語った文の抜粋である。
<戦争を遂行するために、「戦争」から国民ー非戦闘員を護るために、どのように準備をなし、どのような行動をとるべきか。 平時を前提として制定されている地方制度に何らかの特例を設けるべきか、非常の措置を行うためにどのような組織・権限ーそして特別規定が必要であるか。 すべてこのような問題に直面し、実際に回答を出さざるを得ないもの、それが沖縄県であり、沖縄県で遂行された「戦争」であった。>
沖縄戦当時、島田叡県知事と共に、県民の安全確保に努力した荒井退造警察部長(現在でいえば県警本部長)の長男の紀雄氏が、父退造氏が軍と住民の間に立つ文官として沖縄戦を戦った様子を、多くの資料・証言を基に記録したのが『戦さ世の県庁』である。 戦火により多くの県政関係の資料が消失・散逸した中で同書は現在望みうる最高の記録と思われる。
■軍司令官vs県知事■
泉守紀氏が第22代官選沖縄県知事の辞令を受けたのは、昭和18年7月1日のことである。 丁度同じ日付で荒井退造氏も沖縄県警察部長の辞令を受けている。
まだ戦火を受けていない昭和18年の沖縄の夏は、のどかな町の風景とは裏腹に、県庁幹部が一新され、来るべき沖縄戦を予知してか県庁内外に何時にない緊張が走っていた。そんな空気の中、泉新知事は、沖縄防衛の第32軍が翌年3月に沖縄に着任すると、軍との対立を深め、修復不可能なものとなっていく。(野里洋著「汚名」)
そして政府は昭和19年7月7日の閣議決定で「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄県の県外疎開を沖縄県に通達したが、泉知事は公然とこれに反対したと言われている。
当時の沖縄県の状況を称して、戒厳令に近い「合囲地境」の状態であったので軍の命令は不可避であり、県や市町村の命令も軍の命令であるという意見は、泉知事の第32軍への反抗で、軍が県民疎開の実施に苦慮している状況をみれば、それが机上の空論であることが明らかである。
県民の疎開については、第32軍は法的には直接住民に命令を出せないので県の協力が必須であったが、泉県知事のかたくなな反抗に困り果てた結果、昭和19年1月31日に軍司令官統裁の参謀会議で「沖縄県に戒厳令を布告、行政権を軍司令官が掌握し、知事を指揮下に入れる」と検討したが、実行に移されることはなかった。
■県外疎開に水をかける「街の情報屋」■
その頃の沖縄県民の県外疎開に対する無関心振りを、当時の那覇警察署僚警部で戦後琉球政府立法院議長を務めた山川泰邦氏は自著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)で次のように述べている。
<だが県民は、襲いかかってくる戦波をひしひしと感じながらも、誰も必勝を疑わず、その上無責任な街の情報屋は、「まさか、沖縄に上陸するようなことはあるまい」と勝手な気炎を吐いたため、これが疎開の実施に水をぶっかけるような結果になった。それに、当時海上は潜水艦が出没して、既に2回にわたり集団疎開船が撃沈され、多数の犠牲者を出したために、「どうせ死ぬなら、海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」と疎開の声に耳をかたむけようとしないばかりか、はては疎開を命令で強制された場合のことを心配する始末だった。>
勇ましい情報を垂れ流し、県民疎開の実施に水をかけていた「街の情報屋」が誰であったかを山川氏は特定していないが、当時の新聞報道やその他の史料から推測すると、県民疎開を発案した軍や協力依頼されていた行政側ではないことは間違いない。 そして決起大会の壇上で抜刀して檄を飛ばしていた「軍人より軍人らしい民間人」と「街の情報屋」の姿がここで重なってくる。 戦後、琉球政府時代になって活躍した著名人の中にも、当時は民間団体の責任者として県民を扇動していた人物が多くいたという。そのような雰囲気では県外疎開などは県外逃亡と見なされ軍の思惑とは裏腹に県外疎開に水をかけていたのだろう。
■軍は住民を守ろうとした■
島田知事は泉知事とは対照的に軍と緊密に協力し県外や県内北部への疎開など県民の安全確保に全力をそそいだ。 後の沖縄県の調べでは県外疎開は昭和19年7月から翌年3月まで延べ187隻の疎開船が学童5,586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする資料もある)を疎開させ、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。
翌年3月の米軍上陸前という重要な時期に県内外の疎開が円滑に行かなかったのが、後の沖縄戦での「軍民混在」という住民巻き添えの悲劇に至った伏線になっている。
軍を悪と見なす現代の感覚で、軍と県の対立といえば聞こえはよいが、泉知事は、軍の方針の県民疎開に反対し、住民もその風潮に煽られて疎開に必要を感じていなかった。 現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定されたことと、それが軍の発議で行われたことは確認できる。(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」)
「軍は住民を守らなかった」という左翼勢力のスローガンからは想像も出来ないが、昭和19年の夏に沖縄に着任した第32軍の司令官と参謀長は、沖縄が戦地になることを予見し、且つ「県外疎開」の法律の不備を危惧して、大本営の発議により着任前に「閣議決定」に持ち込むという早業を行った上で、後顧の憂いを極力小さくして沖縄に着任していたのである。
戦場地域の行政
沖縄戦を通じて言えること、軍隊(陸軍)と言えども士官クラスは殆どが士官学校出身で戦時法律に精通しており、軍服を着たキャリア官僚と言われるほど頭脳明晰だった。
軍事史学会副会長の原剛氏によると、沖縄戦を巡る「戦場地域の行政責任」は次のように説明されている。
「実際に、米軍が上陸する二カ月前の1945年1月に軍司令官・参謀長・各部長・幕僚などが集まり、戒厳令に関する検討を行っているが、結局は戒厳令の宣告を大本営へ具申するに至らなかった。
このため、第三十二軍司令官は、戦場地域の住民の避難・保護についての責任を形式的には持たないことになり、あくまで県知事に責任に責任があるという形式が貫かれていた。」(『沖縄戦「集団自決」の謎と真相)
沖縄戦に際して、軍は戒厳令について検討はしたが執行はせず、行政責任は最後まで県知事に委ねられた。
原剛防衛研究所戦史部客員研究員「沖縄戦における集団自決について」は資料集として文末に記録してある。
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』は、那覇10・10空襲を含む沖縄県民の大量民間人虐殺の事実を知りながら、「人道的米兵」「残虐非道な日本兵」を現在でも主張し続けている。
県民は『鉄の暴風』の呪縛から一刻も早く目覚めるべきである。