狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

戦陣訓の大ウソ

2024-06-02 16:31:33 | 政治
 
 

 

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メモ 

 

昨日、2024年6月2日付の沖縄タイムスオピニオン欄に次のタイトルの読者の声が掲載された。

「集団自決」の背景に戦陣訓 比嘉順子(69歳)うるま市

内容は省略するが『「集団自決」は日本軍の命令だった』

根拠は「戦陣訓」だったというのだ。

殆どの読者は約80年前の敗戦後に書かれた「鉄の暴風」の内容を詳しく記憶している読者は少ない。

「裁判(大江・岩波訴訟)」で、元軍人側が敗訴したので「軍命」が裁判で確定したと誤認しがちだ。

だが、事実は違う。

勿論戦陣訓も真っ赤なウソだ。

続・戦陣訓の神話2009-11-02

集団自決、戦陣訓の神話-マスコミが作った戦後の後知恵

2023-07-09 04:36:22 | 資料保管庫
 

 

◆「ビルマの竪琴」という映画を見た。



大戦末期のビルマ。

ビルマからタイへ逃れようとしていた井上部隊は、 そこで戦争の終結を知り、 イギリス軍に降伏し、 捕虜収容所へと送られることになる。

疲れきった隊員達の心を唯一慰めるのは、 水島上等兵の奏でる美しい竪琴の音色。そんな中、 未だに徹底抗戦を続ける友軍を説得する任務を水島が任されることになった。

しかし、 彼の説得は受け入れられず、 友軍部隊は全滅する。

1人生き残った水島はおめおめと原隊に戻る事が出来ず、そのまま姿を消してしまう。

やがて収容所に着いた井上隊は、 そこで水島とよく似た僧侶に出会う。

「水島、一緒に日本に帰ろう」と捕虜収容所の柵の中から呼びかける戦友達の声に寂しそうに顔をそむけて立ち去る僧衣の水島の姿が印象的。

彼は、 戦死した日本軍の霊を慰めるため故国への帰還を拒絶してビルマに残ったのだ。

彼が帰国を拒否してビルマに残った心境は何だったのか。

投降説得に失敗して友軍を全滅させてしまい、ただ1人生き残ってしまったことだった

そう、「恥ずかしながら」生き残ってしまったのだ。

 

◆横井軍曹や小野田少尉そして水島上等兵は「仲間」が全滅し自分だけが生き残ったことに「恥ずかしながら」或いは「申し訳ない」という心境だったと推測できる。

だが、彼らが一つだけ救われるのは「仲間」が全滅したのは、敵であるアメリカ軍の攻撃による戦死だったことである。

ところが「全滅」から生き残りながらも救われない人々がいた。

◆沖縄慶良間島の「集団自決」を生き残った人達である。

彼らの「仲間」は敵米軍の攻撃による戦死ではない。

敵ではなく、日本人同士お互いの手で親兄弟、或いは知人縁者を「全滅」させたのだ

「恥ずかしながら」生き残ったや「申し訳ない」では済まされない。

深淵な「贖罪意識」を胸に秘めて戦後を生き抜かねばならなかった。

例え戦時中で敵に取り囲まれ無差別攻撃を受けたパニック状態の出来事だとは言え、戦後の贖罪意識は消えることはない。

自分の手にかかって「全滅」した「自決者」のことを考えると、理由はともあれ集団自決体験者が「贖罪意識」に駆られるの当然のことだろう。

「集団自決体験者」の「贖罪意識」に巧妙に入り込んだのが、左翼学者集団の「反日思想」である。

「残虐非道の日本軍」という左翼の扇動に集団自決の生き残りの人々が引き込まれていくのは自然の成り行きであった。

結果として「集団自決軍令説」が形作られていく。

「体験者達」は「軍の命令で仕方なく」親兄弟、知人縁者を手にかけたと主張することで、心の奥に潜む「贖罪意識」は少しは緩和されたのだろう。

これに「援護法」の適用の問題が絡み、更に問題を複雑にしていく。

                      ◇

■戦陣訓に拘束力はなかった―司馬遼太郎

1972年4月、グアム島の生き残りの横井さんが帰国した時、マスコミは「恥ずかしながら生きて帰った」と言う発言に対し、

マスコミは、それまであまり聞かれることがなかった東条英機作「戦陣訓」という「点」と「横井さんの帰還」という点を強引に線で結んで一つの「面」を創造し報道した。

それは「生きて虜囚の辱を受けず」の精神に横井は縛られていたかのような報道だった。

集団自決の「戦陣訓神話」が誕生し瞬間であった。

ところが、自らも陸軍にいた司馬遼太郎氏は戦陣訓について、こうのべている。

戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」と。

司馬氏は、自らが理解できない出来事(横井氏の帰還)に明確な原因と結果を求めたがるマスコミの姿勢を批判した。

では、実際のところ、戦場での「戦陣訓」の拘束力はどうだったのだろうか。

学徒出陣し、戦車兵となった司馬氏が書き残している。

1972年のことだ。当時、元陸軍軍人の横井庄一が、グアム島で「発見」され、帰国した。 

司馬は横井について、いくつかの新聞社からコメントを求められた(大正生まれの『故老』=新潮文庫『歴史と視点』収録)。

同じ元軍人として、敗戦から27年間も潜伏していた兵士の心理を聞こうとしたのか、新聞社の質問者は司馬に「戦陣訓」の影響では、と問いかけた。 

問われた司馬は《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった。 《たかだか一省の大臣という役人が、法規を作るならともかく、孔子やキリストもしくは当時の天皇のように道徳をつくりだすような権能を持っていいものであるかどうかについては、これが刊行されたころすでに無言の批判があった》』、「司馬遼太郎」が「《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。

しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった」、と「戦陣訓」を軽視したようだ。

また司馬氏は戦陣訓について今でいえば生徒手帳の校則の記載があるように当時の軍隊手帳の戦陣訓は載っていたが、ほとんど読まなかったという。

同じく陸軍経験のある山本七平氏も戦陣訓については次のように明言し、戦陣訓の影響は戦争を知らない戦後の人々の後知恵であると喝破している。

<たとえば横井さんが出て来たとき、すぐにその原因は戦陣訓ということになり、私自身も取材を受けたが、私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。>(「私の日本軍」より)

陸軍経験のある多くの作家が戦陣訓について、司馬遼太郎氏と同じようなことを書き残しているが、安岡章太郎氏は前記山本氏を補足して次のように解説している。

≪ 戦陣訓に戻っていえば、私自身も一年半の軍隊生活で戦陣訓を強制的に講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。
 しかるに現代のマスコミは、なぜ戦陣訓を重視したがるのか?それは山本氏も言うように、戦陣訓は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。」≫

ちなみに戦陣訓は東条英機が首相になる前の陸軍大臣のころ公開されており、陸軍に反発する海軍には無視されていた。

戦陣訓を集団自決の「軍命説」の根拠にするのはNHKなど戦争を知らないマスコミが強引にこじつけた戦後の後知恵という山本七平氏の意見が正鵠を射ている。

陸軍や海軍に無視されていた戦陣訓に沖縄の民間人が縛られて集団自決をしたという説は、今では笑い話になっている。

                      ◇

◆「沖縄慶良間島の集団自決は軍の命令或いは強制によるものだ」と、主張する勢力は、これまでの論争の中で「軍命があった」という客観的証拠や、証言が無いと分かると戦術を変更し、「軍命の有無は問題ではない」と論点をすり替え始めた。

その論点すり替えの論拠が、

「軍官民共生共死」、「皇民化教育」、そして「戦陣訓」という三つキーワードであった。

ところが今回文科省が出したとされる指針によると、

「日本軍だけが住民に「集団自決」を強制したと読み取れる表現を事実上、禁じている。 一方で「集団自決」が自発的な死ではなく、住民が「『集団自決』せざるを得ない状況に追い込まれた」ことは認め、その「背景・要因」を詳細に記述するよう促している。」(「軍だけが強制」禁止/文科省指針 全容判明 )

つまり、文科省指針は、これまで「軍命あり派」が「命令、強制」の根拠にしていた「軍官民共生共死」や「皇民化教育」といった左翼用語を使用しても(背景・要因)、日本軍だけが「集団自決」を強制したと読み取れる表現を禁じたのだ。

「軍命あり派」にとっては表現上非常に困難な立場に追い込まれたことになる。

>沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。

沖縄在住の戦史研究家・奥茂治氏は「沖縄では戦時中といえども戦陣訓の『生きて虜囚の云々』は殆ど知られていなかった」と証言している。

「生きて虜囚の・・・」が初めて沖縄で知られるようになったのは、
昭和19年頃沖縄で放映された戦意高揚のニュース映画のアナウンサーの声で、初めてそんなものがあるのだと知られるようになったと言う。

そういえば、物故した筆者の父も生前、晩酌等などで御機嫌の時、戦時中に「教育勅語」を暗記した例は話していたが「戦陣訓」の話を聞かされた記憶は無い。

                    ◇

■横井庄一さんと共に戦陣訓は蘇った。

戦陣訓の「生きて虜囚の・・・」が亡霊のように甦ってきたのは戦後30年近くたって日本国民を驚かした横井庄一さんや小野田さんの帰還により、主として朝日新聞を筆頭にした左翼マスコミによって作り上げられた「後知恵」であり、捏造された歴史認識である。

そしてひとたびマスコミを通じて一人歩きを始めた「後知恵」は、一つの「歴史認識」として左翼学者の「歴史解釈」に多大な影響を与えた。

沖縄の左翼学者は横井さんや小野田さんの例と同じく、「歴史事実」である「集団自決」(点)と「戦陣訓」(点)の間を強引に線で結び、「沖縄戦において戦陣訓は住民にも浸透していた」という戦後の後知恵で次の結論をひねり出した。

「軍命による集団自決」、

つまり「嘘の歴史」をでっち上げたのである。

 

「付記」

戦陣訓の本訓その二 第八「名を惜しむ」項

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。


【意味】
「恥を知る者は強いものだ。ふるさとの親類や家族の体面を考えて、(軍規に反して略奪や暴行などを行い)(憲兵に)捉えられてて収監されたり、死んでまでも罪人として扱われるような行動をしてはならない。」

「虜囚」は囚人であり、犯罪者の意味を持つ。

「俘虜」は捕虜の意味を持つが犯罪者の意味はない。

虜囚と俘虜という似た意味を持つ言葉を等式で結び、「犯罪を犯すな」と「捕虜になるな」とを同じ意味に捉えるのは捏造である。

確かに、「生きて虜囚・・・」と言ってはいるが「生きて俘虜・・・」とは言っては居ない。

【追記】

■五木寛之は軍人勅諭を暗記した

先日NHKラジオで聞いた作家の五木寛之のインタビュー番組で、戦時中の朝鮮の平壌の想い出話が出た。

その中で「小学校時代、教育勅語と軍人勅諭は必死になって暗記したので、今でも復唱できる」といった談話があったが、「戦陣訓」は話題にもならなかった。

当時の小学校には配属将校が軍事教育をしていたというが、軍人さえ良く知らないという「戦陣訓」が、教練の中にないのも当然だったのだろう。

戦時中の沖縄の学校で、将来軍人を目指す秀才達が必死になって「軍人勅諭」を暗記した逸話が県立ニ中(現在の那覇高校)の卒業生の文集に記録されている。

だが、ここでも戦陣訓の話は出てこない。

そもそも「教育勅語」も「軍人勅諭」も「勅」の字が付くので分かるとおり天皇陛下のお言葉(勅語)を文字化したものである。

従って当時の学生が「勅諭」や「勅語」を暗記しようと努力した気持ちは当時の時代背景から判断してもよく分かる。

ところが一方の「戦陣訓」は臣民である東条英機が発令したもので、軍人ならともかく、これを一般住民が必死に暗記したとは考え難い。

ましてや「戦陣訓」を自決命令と捉える「戦陣訓軍命説」は、戦後マスコミが作り上げた神話にすぎない。

沖縄の場合でも、当時のエリート高であった県立二中(現那覇高校)や県立一中の中でも当時の憧れであった士官学校への進学を希望する秀才達が競って暗記したのは「軍人勅諭」であった。

一般の小学校で「戦陣訓」を叩き込まれたという沖縄マスコミの論調は真っ赤なウソであることが分かる。

 

■那覇高校の大先輩も軍人勅諭を暗記した

以下の文は関東在住の「城岳同窓会(二中・那覇高同窓会)会報」よりの引用である。

城岳同窓会会報 第五号

座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る
日時:平成14年7月22日 場所:如水会館(東京・神田)

 
(略)

軍人勅諭を全文暗記したつわもの

北村:先生の話が出たところで、宮良(小宮)君関連のエピソードを一つ紹介しましょう。
 四年のとき教練の赤嶺先生(アカンミー)から「一週間以内に軍人勅諭を全文暗記して来い」との指示がありました。覚えてくる奴はまず居るまいと前文と忠節、礼儀の項だけを覚えて授業に臨みました。案の定、覚えきれた者はなくほぼ全員が失格。しかし、ここに居る宮良(小宮)君ただ一人が全文を正確に暗誦し遂げました。
 さすがのアカンミーもそこまでは期待して居なかったのでしょう、宮良君の熱意と頭の良さを口を極めて称賛していました。私は海軍に入ってからも軍人勅諭を全文暗記している人に出会ったことはありませんでした。

司会:皆さんの中には軍人学校に進学された方もおられますが、どう言う動機で受験されたのか。北村さんの場合はどうだったのですか。

北村:私の場合は、海軍の佐久間艇長殉職の記録に感銘を受け,どうしても潜水艦に乗りたいと思って、海軍兵学校を志望したのですが視力が0.3で駄目、結局は海軍経理学校を選択しました。入校して驚いたのは中学四年修了の"坊や"から3浪の"おじさん"までが混在しており、5歳の年齢差があったことです。訓育の標準は概ね一浪に合わせてあったので身体未成熟の四年修了や五年修了の連中は付いていけず随分苦労していました。幸い私は二中時代に柔道と「まちまー町廻い」で鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳など、激しい訓練もそう辛いとは思いませんでした。

金城重栄氏をNHKが無理やり引っ張り出した印象の番組に関する過去記事NHK特番の感想 【重要付記】あり!を、補筆して以下に引用する。

2009年6月22日放映のNHK、「“集団自決”戦後64年の告白~沖縄 渡嘉敷島から」を途中からしか観てなかったので、コメントを避けていたが、知人の録画を見せてもらった。

予想通りとはいえ、過去に何度も登場した金城重栄、重明兄弟の手垢のついた「証言」を繰りかえしただけの陳腐かつ安易なな番組構成にコメンの必要もないと思ったのだが・・・。

保存記録として感想を記しておく。

全編を通じて、昨年8月29日放映の≪九州沖縄スペシャル“集団自決”~沖縄渡嘉敷島 兄弟の告白~≫の焼き直し番組で、唯一の変化は、兄の重栄氏が認知症になりかけて、現在は一人渡嘉敷を離れて那覇で入院生活を送っていること。

証言の主役は兄・重栄氏であったが、認知症で記憶を失いかけた重栄氏に、NHK担当者が無理やり用意した証言を言わそうとしているという印象であった。

同じ年の2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」も、金城重栄、重明兄弟が証言者として登場している。

実はNHKが渡嘉敷島の集団自決特集の為取材を始めた頃、渡嘉敷出身の知人から次のような連絡が入っていた。

<NHK取材班は渡嘉敷島在住でで軍命があったと証言するのは、金城重栄氏と吉川嘉勝氏と数人の取り巻きしかいないが、また金城兄弟ではないだろうね>と。

予想は的中し、重栄氏が口にしていない文言も、ナレーションで勝手に「補作」していたし、戦陣訓の文章を画面にアップで映して「生きて虜囚の云々」の部分に光を当てて、アナウンサーが朗読し「これが重栄さんにとっての軍命だった」とナレーションを入れていたが、吉川嘉勝氏は何故か登場しなかった。

何のことはない。 これでは認知症の老人をNHKスタッフが取り囲んで予定した証言を言わそうとしているのが画面からミエミエではないか。 

それも上手くいかないので、戦陣訓の文言を画面に映し、「これが彼にとっての軍命だった」とは、NHKもとんだ猿芝居演出したものだ。

 

参考までに昨年6月放映ののNHK番組を見た感想引用するとこうなっている。

<同番組を見た感想ですが、特に目新しい証言はなかったが、

次の2点は、既知の事実とはいえ、天下のNHKが放映したということで重要な意味を持つ。

①父親殺害の告白

これまで金城重明氏は「親兄弟」という表現で母親と弟、妹を殺害したことは繰り返し告白してきたが、父親のことは逃避行中はぐれてしまい、どこかで不明死したと述べていた。

それが雑誌『WILL』増刊号でジャーナリストの鴨野守氏が、父親も殺害した事実をレポートしたため、隠せないと思ったのか今回の番組では父親殺しもカミングアウトした。

数ある集団自決の証言では、一家の主が年寄りや女子供を殺害したという例はあるが、壮年の父親をその子供が殺害したという例は未だないし、少なくとも筆者は知らない。

金城兄弟が、「親兄弟を手にかけた」といいながら、長いこと「父親殺し」を隠していた理由は一体なんだったのか。

勿論、番組ではこれには触れていない。

更に兄弟は、自分の親弟妹だけではなく、他の村人も数多く殺害している。

②金城重明氏は島で毎年行われる戦没者慰霊祭には一度も参加したことはなく、
島に住む兄の重栄氏は慰霊祭の日を避けて一人でそっと参拝していた

これも知る人ぞ知る事実ではあったが、今回NHKが本人たちに取材した結果、確実な情報となった。

この事実から、二人が渡嘉敷島では村八分状態であることがわかる。

遺族としては、敵である米軍の攻撃で死んだのなら諦めもつくが、同じ村の兄弟に自分の肉親が殺害され、しかも加害者が揃って生きている事実には耐えられないのであろう。

村人の突き刺さるような怨嗟の視線を背に受けると、金城兄弟としては、何が何でも「軍の命令だった」と言い続けなければ、戦後生きてはおれなかったのだろう。

すくなくとも、6人家族のうち、兄弟二人で、残りの四人を皆殺しにしたのなら、計算上は四人分の「援護金」が遺族である兄弟二人に支給されていることになる。(未確認)

自分の手で殺害した父母弟妹の「遺族援護金」を金城兄弟が受けているとしたら・・・・・・・・、

どんなことがあっても、軍に責任転嫁しなければ生きてはいけなかったのだ。

 
                    ◇
 
金城兄弟の「軍命あり論」は裁判でも否定されているので、ここでは詳しく述べないが、その破綻した「軍命あり論」を繰り返し放映しなければならないほど、軍命あり論派は追い詰められてきたのかと感じるような中身の無い番組だった・・・これが番組を見ての偽らざる感想である。
 
【付記】
 
渡嘉敷出身の知人から「NHK特番」を観た感想をいただきましたので、紹介します。
 
数少ない「軍命あり派」のなかでも出たがり屋といわれる元教師の吉川嘉勝氏が画面に出なかったのが不思議なようです。
 
やはり、早い時期に現地聞き取り調査をした星雅彦氏の告発が影響したのであろうか。
 
太字強調は引用者。
 
兄弟の周りにいる殺された人たちの親族、あるいは殺されかけた人たちが、あえて口からださなかったこと「惻隠の情」を加害者の側が無視して、呪縛から逃避し自己を正当化するためマスコミに登場(利用)したことは、地域においては受け入れられないと思います。
那覇で暮らす弟の方は創り上げた環境の中で生活できるからまだ良い方で、島で暮らす兄の方は自己主張すればするほど、地域の人たちから離れていくことになると思います。

NHKはかなり前から2週間に1度程度は来島していたようですが、何をしていたのでしょうか?
あれだけ力を入れてあの程度の内容では、逆に驚きです。証言で登場した方達もでたがりで理由ありの人だけで、「あの人だったら言うだろう」と思います。
それにしても、吉川弟が画面に出なかったこと、あれだけの取材で彼らに都合の良い新しい証言が一つとして無かったことは、やはり命令なんて聞いた人はいなかったことの究極の
証明だと思います。

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★★❸東京会裁判と『鉄の暴風』、マッカーサーの免罪符

2024-06-02 08:34:57 | 政治

 

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東京軍事裁判と『鉄の暴風』、マッカーサーの免罪符

本書のメインテーマの一つだが、極東軍事裁判(東京裁判)と『鉄の暴風』との関係について述べてみよう。 

しかし戦勝国が敗戦国を裁いた東京裁判と敗戦国日本の一地域沖縄、それも離島で起きたローカルな沖縄戦記を結びつけるのは、いささか強引すぎるという意見もあるだろう。

米国を主力にした連合軍対日本軍の戦争を、複雑なジグソーパズルに例えると、『鉄の暴風』が言及する集団自決事件は、一見小さくはあるが、重要なピースでである。つまり、そのピースをはめ込むと、日米戦争全体の図柄が非常にわかりやすく見えてくる。

東京裁判と『鉄の暴風』には大きな類似点がある。

しかもこの大きな類似点こそが、この二つの「事件」の裏で大きな利益を得た者を炙り出すことになる。

『鉄の暴風』が主張する「集団自決は日本軍の命令」というプロパガンダは、「残虐非道な日本軍」を糾弾するという意味で、東京裁判と地下茎で繋がっており、最初から結論ありきのマッカーサーの復讐心を満たす、と同時に米国の戦争犯罪(ジェノサイド)を隠蔽する目的で行われた。

そう、二つの「事件」は米国に対する免罪符だったのだ。

東京裁判という法廷の体裁をした免罪符と一方で『鉄の暴風』という「沖縄戦史」の体裁をした免罪符だ。

■米国のおこなった戦時国際法違反、住民虐殺

ところがマッカーサーの意に反して、東京裁判で被告側の弁護人になった米国陸軍のベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、東京裁判の違法性を指摘した。

ブレイクニー弁護人は、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた。(以下の発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった)

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言、1947年3月3日にも、イギリスとソ連のパリ不戦条約違反を主張するとともに、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。

連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は、日本政府をその権力下に置く最高権力者として知られている。

東京裁判というと判事の一人パール判事のみが話題になるが、最高権力者マッカーサーに敢然と立ち向かった米陸軍の若い弁護人がいた事実を日本人は忘れてはいけない。

■マッカーサーは米軍統治下の初代民政府長官/ユースカーの初代長官

マッカーサーはGHQの最高司令官であったが、その一方米軍統治下の琉球民政府(USCAR ユースカーと略称)の初代民政府長官でもあった。 

沖縄県民ですらその事実を知る者は少ないが、マッカーサーは、米軍統治下の沖縄のユースカー初代長官であった。

その後米民政府長官は高等弁務官呼称され、独裁者として知られたキャラウェイ陸軍中将は三代目の高等弁務官である。

沖縄の米軍による統治機構は、1945年3月26日、米海軍が座間味島に上陸した時、ニミッツ布告を発布して米海軍元帥チェスターニミッツ提督による琉球統治から米軍政府、米民政府と目まぐるしき統治機構を変えていく。

そしてニミッツはマッカーサーとGHQ最高司令長官の座を争うが、結局マッカ―サーがGHQ最高司令官になる。

1945年3月26日に慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は太平洋艦隊司令長官・太平洋区域司令官兼米国軍占領下の南西諸島及びその近海の軍政府総長チェスター・ニミッツアメリカ海軍元帥の名、で米国海軍軍政府布告第1号「権限の停止」(いわゆるニミッツ布告)を公布した。

つづいて沖縄本島に上陸した1945年4月1日にも同名の布告を公布、4月5日には読谷村比謝に軍政府を開設した。

つまり沖縄戦で当初沖縄を占拠したのはニミッツ海軍元帥だったが、マッカーサー陸軍元帥との権力争いに敗れ、GHQ最高司令官の座をマッカーサーが得ることになる。

マッカーサーはその輝かしい軍歴の中で、唯一敗北を喫したのがフィリッピンの戦いである。 マッカーサーはコレヒドールの戦いで日本軍に敗北し、部下を残したま敵前逃亡するという屈辱に甘んじた。 マッカーサーは世論を気にする人物であり、実際オーストラリアからフィリッピンに戻った時の有名な写真も世間に拡散するため数回取り直したと伝えられている。

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マッカーサーは、フィリピンで何万人もいる部下たちを見捨てて敵前逃亡をしたような形になったのが、よほど悔しかったのだろう。
脱出先のオーストラリアで、マッカーサーは何度となく次の言葉を口にしたといいる。

“I shall return.”
「私は必ず戻る。」
 

フィリピン駐屯時マッカーサーの補佐官をしていた アイゼンハウアーは、その後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくが、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったどころじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したと伝えられている。

マッカーサーの千両役者顔負けの演技は、日本上陸の際、サングラスにコーンパイプを片手に厚木飛行場でバターン号ステップを降りる姿で日本国民の心を鷲掴みにした。

マッカーサーは建前上、敗戦国日本に民主主義と自由を流布させる公言したが、内心は自分にフィリピン脱出の屈辱を味合わせた「軍国主義国日本」に対する復讐心に燃えていた。

日本を、二度と立ち直らせないため財閥解体、公職追放、焚書などを行い最終的には法的根拠のない東京裁判で、東条英機以下計7名のA級戦犯を絞首刑に処て、復讐の目的を達することになる。

■マッカーサーが刷り込んだ自虐史観の原点
終戦後、米国は日本人を洗脳して大東亜戦争についての罪の意識を植 え付けるマインド・コントロール政策を行った。

その目的は「日本の軍国主 義者が国民をだまして侵略戦争を始めたので、その罰として連合国から大空襲にあい、かつ原爆まで投下されてしまった」という贖罪意識を刷りこむことであった。これは東京裁判が、国際法的にも倫理的にも正当であるとのプロパガンダでもあった。

かくして、「日本の指導者には重大な戦争犯罪の責任がある」という虚構が築きあげられていった。
その中で生まれた贖罪意識は、潔い反省の心を持つ日本人の中で自虐史観となって現れた。

そして自律的に増幅と再生産を重ねて現在に至っている。ここでマッカーサーの指示で発刊された『鉄の暴風』の日本軍断罪と重なってくる。



■日本人の長所を取り込んだWGIP 贖罪意識


そうした洗脳政策は、 WGIP(War GuiltInformation Program=戦争罪悪感・情報計画1)と名付けられた 。
Guiltとは“(自らが)有罪であることを意識する”ことを意味する。
米国がこれほど熱心に「自分達は悪くない、悪いのは日本だ」と連呼せんばかりに躍起になったのは、この大戦に至った経緯と大空襲、及びそれに続く原爆の投下について、かなりの後ろめたさを感じていたからに違いない。また日本の戦力と抵抗の激しさにかなりの恐怖感を持っていたに違いない。


WGIPを策定するにあたって、米国は日本研究の論文を収集し、かつ新たに何人もの学者に委嘱して、日本人の心情及び文化全般について研究プロジェクトを発足せしめた。
GHQは、こうした日本研究の成果を十分に活用してWGIPを策定した。日本人の遵法精神、潔い謝罪傾向、謙虚な反省、贖罪精神、共同体の関係性重視(友好と穏便の重視)、等々の長所を極めて巧妙に取りこんだ。それが良心的な日本人の心にうまく食い込んで、自発的な自虐史観として出現した。但し、愛国心につながる可能性のある“仇討”や“お家再”などの伝統的心情は徹底的に排除した。日本が再び世界に強国として登場してくることを阻止するためだ。

■ WGIPの実施

江藤淳・慶応義塾大学教授(当時)は、その著書『閉された言語空間』 (平成元年)の中で、「大東亜戦争は実際には日本国と米国が主導した連合国の間の戦争であったにもかかわらず、これを日本の“軍国主義者”対“国”の対立の中で生まれた侵略戦争であった」という虚構を植え付けようとするものであったと指摘した。WGIPは、日本の敗戦も、無差別爆撃による非戦闘員の大量殺戮も、更には原爆投下も、すべて日本の軍国主義者の責任であって、米国はこれを懲らしめたのであるから何の責任もない、という図式を日本人に植えこもうとしたのだ。

 1945年8月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が、厚木の海軍飛行場に、愛機「バターン号」で来日した。コーンパイプにティアドロップ型のレイバンサングラス。彼のトレードマークは、露骨なまでに威圧的だ。彼はあたりをじろりと一瞥し、復讐を誓った。

「かつて日本には、フィリピンで煮え湯を飲まされた」

 マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官としてフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。

 このときマッカーサーは「I shall return(俺は必ず戻ってくる)」と言い残していたが、ついに本当に戻ってきた。さあ、この日本人たちに、復讐してくれよう。

 マッカーサーは、ハリー・S・トルーマン大統領からGHQ(連合国最高司令官総司令部)の最高司令官に任命されていた。GHQはポツダム宣言の執行のためにつくられた連合国の機関で、米英中ソ仏など戦勝国一一ヵ国で構成する「極東委員会」の下に設置されていた。

 任務は、その極東委員会が決定する日本占領政策を執行すること。ただ実際には、GHQメンバーの大半がアメリカ人だったため、事実上、アメリカ政府の意向に基づいて行動する機関であった。

 マッカーサーが日本統治で採用した方式は「間接統治」。これはドイツで行った「直接統治」(GHQが直接命令する形)と違いGHQが日本政府を「形だけ」残し、それを裏から操るというものだった。

そもそも占領統治とは、GHQに主権を握られている状態であるため、日本の重要政策は「すべてGHQに決められていた」のだ。だから一見、民主的に見える選挙も首相の選出も、一連の民主的な政策も、「日本だけで決めた」ものは皆無であり、日本国憲法の制定はその典型である。

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トランプ前大統領が有罪評決に「政治的迫害だ」控訴表明

2024-06-02 04:34:01 | 政治

 

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