狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

金城重明がメディアに初登場1970年3月27日。…

2024-02-01 12:05:17 | 政治

 

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              ★

日本一知名度の有る地方新聞記者と言えば捏造新聞沖縄タイムスの阿倍岳記者であるが、阿部岳記者の上司である沖縄タイムス編集局長が宮城栄作氏とは、今日まで知らなんかった。

「軍靴の響き」などと寝言を言っているので、よく顔を覚えて欲しい。

高まる軍事の足音~沖縄から見える日本の危機(宮城栄作さん)【The Burnnig Issues】

                   ◇

 

■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の3月26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果
 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。

一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。

赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。

この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。

■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。 

後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。

ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を強引に免責している。

沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。

■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場

この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。

過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

 

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。

金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

≪1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。

金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。

金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。 

「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
れで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))

上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。

しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。

銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。

では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。

渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。

ところが想定外の事が起きた。

金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。

これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。 

この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。

「合計何人殺しましたか」

しかし、金城は沈黙して、答えない。

そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。

今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。

「証人がいいたくないことを、それ以上問い詰めるな」と。

この裁判長が介入した場面について、秦郁彦は曽野綾子との対談で、こう述べている。

「これは、全裁判を通じての決め手かと思った。 要するに金城牧師は、一種の「殺し屋」だったということ、しかも彼は他の人も殺したのを今までかくしていたんですよ。 それを認めちゃった。 ですから、彼の証言は、すべて当てにならないということにもなります。彼はその後も集団自決は軍の命令と声高に叫び続けているのです。偽善者の典型ですね。」(『「沖縄集団自決」の謎と真相』)

歴史の専門家の秦郁彦が「勝負あった」と感じたこの場面で、秦は金城重明が偽善者の典型と見抜いたのだ。秦は慰安婦問題で詐欺師・吉田政治の嘘を現地調査で嘘と証明した実証的歴史家として知られている。

一方、作家の曽野綾子は金城重明の印象をどう見ていたか。

曽野は、「自分は勘だけはが良い方だ」と断りながら金城牧師の初めて会った時の印象は「なんて変なひとだろう」と思ったという。

曽野が金城牧師に面談し時、金城が「一人の人間は地球より重いとイエスが言われた通り」と述べたので、同じクリスチャンの曽野は「イエスはそんなことおっしゃっていません」と反論した。曽野は、金城が牧師でありながら聖書もよく読まずに聖書を平然と間違って引用する態度を見て、信用できない人という印象を受けたという。 曽野は金城に面接取材した時も「この方は後で『そんなことは言ってなかった』と言われそうだと思った」ので、金城重明の証言だけ特別に録音していた。

金城重明に関しては歴史の専門家の秦郁彦も作家の曽野綾子も期せずして慰安婦問題の詐欺師・吉田政治と重ねて偽善者の印象を持っていたようだ。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」などと弁明しながら肉親や他人を殺害し、その一方で「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と自己弁するのは責任転嫁の典型であり、吉田政治と同様の詐欺師と言われても仕方がない。

 さらに金城重明は「軍の命令」を証言するには不適格な人物と言える発言をしている。

2007年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのだ。

証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)

金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。(「Viewpoint  August 2008」よりー太字強調は引用者) 

 仮に「自決命令」が事実だったらどうなるか。

自決命令を出した相手が生きてウロウロしている姿を発見したら、命令した日本軍は、「命令違反」として即座に射殺するか斬殺するだろう。

ところが『鉄の暴風』が「鬼の赤松」と決めつけた赤松大尉は、実際は傷の手当ばかりか、薬の世話までしてくれたのだ。

玉砕で死んだと思われていた赤松隊長に会った時の状況を金城は後にこう語っている。

一緒に死ぬはずが、どうして生きているのか。裏切られた思いが出てくるわけです。実は私は赤松隊長に山の中で偶然二度あっているのです。一回目会った時は硬い表情で、一言も話さなかったのですが、二回目に会った時は『われわれは、大本営に報告しなければいけないから、生き残らなければならないんだ』と、言っていました」(『僕の島は戦場だった』佐野眞一著)

結局、赤松隊長は生き残った金城重明を見ても、追加の命令は出していない。軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であったことを自白したに等しい。

 

■軍命令はすべて推論■

軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。

結局、金城証言のどこを見ても「体験者」としての証言ではあっても「軍命を聞いた」証人ではない。

琉球新報によると「軍命あり」と断定する部分は次の点だ。

①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。

②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。

③軍から手りゅう弾が配られた。 

琉球新報の論理に従えば、村長が独断で自決命令を出すのはありえないので、軍から命令が出たに違いないということ。

「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」

これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、金城氏が集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。

■耳打ち「それが軍命だった」ー伝聞の又伝聞■

ところが元々論拠があやふやな金城の軍命説を補強するために、被告側は渡嘉敷出身の吉川勇助氏の証言を法廷で金城の推論の補強に使った。

少し長いが、伝聞による金城重明の証言を補強する証言が、更なる伝聞であるというデタラメな「軍命」証言を知る意味で、以下に全文引用する。

≪吉川勇助さん -上- (2007年6月14日沖縄タイムス朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 渡嘉敷島。西の御嶽と日本軍の北山(にしやま)陣地の谷間。一九四五年三月二十七日、米軍上陸後、各地に避難していた住民が、軍命でフィジガー、後に第一玉砕場と呼ばれる場所に集められた。

 

 住民は家族や親族、集団ごとにまとまっていた。当時六歳で、母親と妹と来た新崎直恒(69)。グループには手榴弾がなく、知り合いの集団に加わった。その輪には直恒らが「皆から、とても信頼をされている人」と話す、当時十五歳で役場職員の吉川勇助(78)がいた。

 

 勇助の家族で七、八人、直恒らも合わせると、輪は合計二十人になっていた。輪には勇助が二発、兄が二発、計四発の手榴弾があった。「役場に集められてもらった。一つはあまりに旧式だと、村長に九七式という新しい型に換えてもらった」と説明する。

 

 米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。

 

 役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。
 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。
 それが号令となった。フィジガーのあちこちで、手榴弾がさく裂した。バン、バン、バン。勇助の輪でも手榴弾を爆発させようとしたが、すべて不発だった。
 しかし、周りでは血だらけの遺体、手や足が吹き飛ばされた人、悲鳴、泣き声、地獄図だった。
 そのうちに、生き残った者たちが生き地獄を逃れようと、群れを成し北山陣地を目指し始めた。
 勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。
 村長の傍らで一部始終を目撃した勇助は「住民が勝手に死ぬことはあり得ない。村長に伝えられたのは軍命だった」と語気を強めた。=敬称略(編集委員・謝花直美)》

 

吉川氏によると村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令(らしきもの)が伝えられ、村長が号令をかけた事実だけは判明する。

しかし金城氏は軍の命令を直接聞いていない。 しかも、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い。

金城氏は伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。

推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格である。文学の世界では興味深い逸話でも、これが法廷での証言のもなると法廷を混乱させるだけである。

おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音で、その伝聞の伝聞さえ爆音で聞き取れなかったのだ。

このような状況での「耳打ちを目撃」した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格な証言者なのである。

■究極の「軍命」-縦の構造

元々曖昧だった金城重明の「軍命」を、補強する意味の吉川勇助の「耳打ち軍命説」が登場するに及び、軍命説が総崩れの様相を呈してきた。曽野綾子や星雅彦が現地で聞き取り調査した結果「軍命があった」というコメントは一度も聞いていないという。のだから当然の結果である。

しかし、ここで登場するのが裁判の被告人が語る究極の「軍命」だ。2007年11月9日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷した。

大江は、「軍命令はあったと考えている」「(『沖縄ノート』の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えた。

日本軍の縦の構造とは、命令系統が縦割り社会という日本軍組織の特徴を意味し、軍隊の最高司令官が下した訓示などに「決死」とか「玉砕」などの文言があれば、それは「自決命令」を意味することであり、現場の隊長の個々の「軍命」など必要ない、という極めて乱暴な主張である。

 
コメント

■余録、沖縄「集団自決」の大ウソ、本土風の名前■

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■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

富原盛安(82歳・南城市)

これは平成22年から令和4年まで「の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

美しき未来を描ける術ありやデジタルの世に人はどうなる

不眠とは夜寝ることが出来ぬ事だったら昼間寝れば良いだけ

国守る修羅場に立てるウクライナ主婦も手にする防衛の武器

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マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前 2008-03-09

 

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」・・ニーチェの言葉

ひとつの出来事も見る人の立場、解釈により異なる。

■本土風の名前■

沖縄タイムスを先頭に左翼勢力が必死に捏造しようとする一つの「物語」(解釈)はこうだ

・・・日本軍は残虐非道だった・・・、村人は今でも彼ら日本人を憎んでいる・・・彼らの来島に反対する!

だがこの物語を覆す証言や証拠は、偏向マスコミの主導ではない。

残虐非道な日本軍人の証言が、渡嘉敷村民主導で行われたと聞くと驚く人は多い。

そのきっかけにもなると思われるのが村民たちが、戦後頻繁に行った「改姓」である。

自分の子供に命名する場合、殺人犯と同じ名前を命名する人はほとんどいないだろう。

初めて「集団自決」問題に触れる人を理解困難にさせるのは集団自決実行に際して重要な立場にあった村のリーダー(村長、助役、兵事主任等)が戦後ほとんど改姓し、本土風の姓に改姓していることである。

沖縄の戸籍制度は戦前から沖縄県として日本の戸籍制度で行われており、米軍占領下でも日本の戸籍制度を引き継いでいた。

従って、現在でもそうであるが、よっぽどの理由がなければ改姓は出来なかった。

ところが「集団自決」のあった渡嘉敷島、座間味島に限ってやたらと改姓が多い。

これは米軍の猛爆を受けてほとんどの戸籍が消失してしまい、新しい戸籍を作るときについでに改姓したと考えるのが一般的である。

ところがここにもう一つの大きな謎が残る。

左翼勢力の喧伝するように村人が「憎むべき日本軍」と考えているのが事実なら、何故改姓の際憎むべき「本土風の姓」に改姓したのか。

例えば渡嘉敷村長・古波蔵⇒戦後、米田に改姓

渡嘉敷村職員・新城⇒戦後、富山に改姓(手りゅう弾を配ったとされる)

渡嘉敷村村長 玉井 喜八

他にも吉川、源など戦後本土風に改姓した島人は大勢いるし、当日記も過去にこれに触れた。

■村民と元軍人の交流・・・全く異なる二つの情景」■

集団自決のあった悲劇の島渡嘉敷と座間味。

そこで「軍命による集団自決」が行われたと沖縄タイムスは報じる。

だが、これは沖縄タイムスの解釈に過ぎない。

この二つの島の住民達は戦後慰霊のため島を訪れた元軍人達にどのように接したか。

それを象徴する一つの情景がある。

沖縄タイムスの解釈はこうだ。

島の慰霊祭に訪れた元軍人を島の住人が港で取り囲み、「何しに来た、帰れ!」と面罵する情景。 

1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について検証してみよう。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去った。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言している。

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、

33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいる。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしているが、赤松隊員と村民が深い信頼関係で結ばれている記述されている。手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内でのみ読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている。

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

 

つい最近では1月25日、同じ情景が座間味埠頭で藤岡教授の調査団に対して行われた。(沖縄タイムス記事)

この調査団には元軍人の皆川氏や知念氏が加わっており、「憎悪に燃える住民VS残虐非道の元軍人」の構図がマスコミが期待する通りに展開された。 

残虐非道の“者”ともいえる元軍人がおめおめと島を訪れるという象徴的な「物語」は大江健三郎の『沖縄ノート』で作られた。

島の慰霊祭に訪れた赤松元隊長を空港で待ちうけ「何しに来た! 帰れ!」と面罵する「村人」の物語である。

「座間味埠頭のトラブル」でもそうだが、何故純朴な村人たちが元軍人の行動日程を正確に把握してマスコミ同伴で待ち受けていたかについてはさて置こう。

その一方全く異なる元軍人と村人たちの交流シーンがある。

戦後何回と無く島をを訪れた元軍人グループと住民が再開を喜び和やかに交流する全く別の情景である。

ただ、前者の「帰れ!」の抗議文を突きつけるシーンは必ず多くのマスコミの影が付き纏い逐一というよりむしろ誇大に報道されるのに対して、後者の住民と元軍人との和やかな交流シーンを報道するマスコミは皆無である。

『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

そこに写っているのは憎んでいるはずの元軍人と村人の約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影 渡嘉敷港埠頭にて)

渡嘉敷島の元防衛隊員や地元夫人たちに囲まれて、穏やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行。昭和59年撮影、 

この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

地元マスコミが決して報じることの無い「住民と日本軍の関係」は再度引用する宮平さんの証言でも語られている。

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆住民と日本軍との関係は「最高」

(略)座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。

井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと…  

宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。  

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