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末次一郎氏の功績振り返る 一学会がシンポ
歴代首相の指南役で、沖縄県の祖国復帰運動や北方領土返還運動などに尽力した、故末次一郎氏の教えを勉強する「末次一郎先生に学ぶ会(一学会)」(会長=森高康行)は17日、浦添市内で「国際協力と沖縄から目指す日本の再建」と題してシンポジウムを開催した。政治学博士のロバート・D・エルドリッヂ氏とシンバホールディングスCEOの安里繁信氏が登壇し末次氏の功績を振り返り、現在の沖縄に必要なテーマなどについて議論した。
(沖縄支局・川瀬裕也、写真も)
台湾の国家承認が対中抑止に エルドリッヂ氏
「祖国復帰」という奇跡起こす 安里繁信氏
末次氏は戦後、引き揚げ学生らによるグループ「学生互助会」を立ち上げ、シベリア抑留から帰国した人々への支援活動や、海外で戦犯として服役していた人々の減刑・帰国のための活動を展開した。その後、沖縄返還運動や青年海外協力隊(JICA)創設など、国内外で大きな功績を残し2001年7月に死去した。
末次氏の沖縄復帰運動についてエルドリッヂ氏は、「米軍はもともと沖縄を半永久的に統治しようとしていた」と指摘し、末次氏が「沖縄県は日本の教育、日本の文化圏の一環としていられるように」と活動を続けたことが日米共同会議を動かし、佐藤栄作首相(当時)の対米交渉につながっていったと説明。「末次先生の役割は本当に大きかった」と評価しながら、末次氏のような国内外の「架け橋となる人材」を育てることで、沖縄が直面しているさまざまな問題が解決していくと思うと持論を述べた。
この点について安里氏は、「(沖縄が)統治されてから27年もの間、祖国復帰を願い続けられたことがどれだけ尊いことか」と前置きし、末次氏が学校教員に国旗を送り続けたことに触れた。「日の丸を手にした先生たちが、『祖国復帰を諦めないで』『俺たちは日本人なんだ』と子供たちに訴え続けてくれた」と振り返り、政治の議論だけではなく「民衆を巻き込んで(復帰に向かって)いく力が沖縄の本当の力だ」とした上で、「復帰は末次さんが起こした奇跡だ」と強調した。
一方で安里氏は、現在沖縄が抱える「危機的な現状」として、沖縄県民を先住民族であるなどとして分断を生もうとする流れについて「沖縄ナショナリズムだ」と強い言葉で批判した。「オール沖縄」の枠組みの中で「日本対ウチナーンチュ」の対立構造が新聞報道などで文献化され歴史に残っていくことが「沖縄の未来を担う子供たちにどれだけの影響を与えていくのか」と危機感を表明。「対立よりも共通点を探し未来を導き出していく(末次氏のような)懐の深いリーダーが必要だ」と熱く語った。
また石垣市の尖閣諸島を自国領だと主張する中国の問題についてエルドリッヂ氏は、1971年6月の沖縄返還協定の際、「尖閣諸島の施政権と領有権を含めた主権が自動的に日本に返還されるはずだったが、米国が中立政策をとってしまった」ことが発端となったと分析。年々軍事力の増強を進める中国を念頭に、「このまま解決しなければ将来、尖閣が非常に危ないことになる」と警鐘を鳴らした。
さらに、台湾と中国の関係について、「残念ながら、今の日米安保では台湾は守られない状態だ」と指摘。最近日本国内で「台湾有事=日本有事」との認識が定着し始めたが、それだけでなく、軍事的に台湾を守るためには「日本政府による台湾の国家承認しかない」と主張した。「世界120カ国が台湾を認めたら(中国に対して)強い抑止力となる」と訴えた。
この問題に関連して安里氏は、離島にシェルターを建設しようとするセメント業界と自民党の動きについて「きな臭い」と一喝。「(政府が)本当に離島防衛を考えるのであれば、食料備蓄基地をまず最初に造る必要がある」として、「『自民党が言っているから』『アメリカが言っているから』ではなく、今何が必要かをもっと研究して、民間から声を上げていくべきだ」と訴えた。
主催者の森高会長は、「末次なら今の沖縄、今の国政を見て、どう考えるかを確認できるひとときとなれば」とあいさつした。シンポジウム開催に先立ち、会場近くに建つ末次氏の胸像の清掃も行われ、参加者らは末次氏の功績と沖縄に対する強い思いを確認し合った。
【おまけ】
歴代首相の相談役・故末次一郎氏(白石町出身) 戦後の日本「正しい姿に」
末次氏は情報戦の要員を養成した日本陸軍中野学校二俣分校の出身。陸軍少尉で終戦を迎え、中曽根康弘氏ら歴代首相のブレーンを務めた。
手記は陸軍の便箋やメモ帳に残され、45年10月~48年1月に執筆されたとみられる。後半部分は日記のような内容も多い。遺族が東京都内で保管していたものを共同通信に開示した。
45年10月に記した「あの日の憶い出」では、8月15日前後を回顧。「『敗戦』、そんな筈はない。俺達が今迄やって来たのは、何のためだ」「『一億特攻』、『国家総力戦』(中略)今迄聞き馴れた言葉は、総べて虚言の一個の言葉にしか過ぎなくなった」と振り返った。「死、生。生なれば、如何に生くるべき」と自問をつづっている。
同じ時期の「雑感」と題された冊子には、米進駐軍により様変わりした街の様子を憂い「私達は敗れたるが故に、卑屈になっては絶対にいけない」と書いている。
末次氏と親交があった平和・安全保障研究所の西原正副会長(国際政治学)は「敗戦直後の混乱の中、ここまで日本の再建に目を向けられた人は少なかったはずだ。戦争で亡くなった人への思いや、敗戦国となった日本を何とかしなければいけないという気持ちが、戦後のさまざまな活動に駆り立てたのではないか」と推察する。
末次氏の長女森山裕子さん(69)は「父は生前、多くを語らなかったが、戦争で失ったものを取り返すことを使命として生涯をかけた。手記からその思いを強く感じた」と話している。【共同】
末次一郎(1922~2001年) 杵島郡福富町(現白石町)出身。佐賀商業学校を卒業後、陸軍少尉で終戦を迎えた。戦後は引き揚げ者や東京裁判の戦犯支援に取り組み、青年海外協力隊の設立にも尽力。沖縄返還で民間運動の中心的役割を果たす一方、北方領土返還運動ではソ連(現ロシア)政府内に太い人脈を築いた。安全保障問題研究会を主宰し、故中曽根康弘元首相らのブレーンとしても知られた。平成になって海部、橋本、小渕の各政権の相談役を務めた。
戦後の領土返還運動に尽力 幅広い人脈、交渉の「架け橋」
故末次一郎氏は戦後、沖縄や北方領土の返還運動に尽力した。関係者の話からは、民間人として幅広い人脈を築き、交渉の「架け橋」となってきた姿がうかがえる。
1952年発効のサンフランシスコ平和条約で沖縄が米施政権下に置かれた後、本土復帰の機運を高めるため、末次氏は日の丸を現地に送り、自ら何度も訪れた。日米関係を研究する歴史家のロバート・エルドリッヂ氏は「『本土の人間は沖縄を忘れていない』というメッセージを送り、米国の対応を気にする日本政府ができないことを続けた」と評価する。
64年に首相に就いた佐藤栄作氏が沖縄問題に本格的に取り組み始め、末次氏は助言役を担った。事務局長を務めた「沖縄基地問題研究会」の議論は「核抜き・本土並み」を掲げた佐藤氏の基本方針の下地となり、69年のニクソン米大統領(当時)との返還合意につながったとされる。
エルドリッヂ氏は「末次氏は、陸軍中野学校仕込みのノウハウで情報を収集し、米国側とも共有することで信頼関係を築いた。話し合いによる相互理解を目指し、本土と沖縄、米国の架け橋の役割を果たした」と話す。
北方領土問題にも足跡を残した。4島の一括返還を主張。主宰する安全保障問題研究会で「日ロ(旧日ソ)専門家会議」を開き、ロシア(旧ソ連)の政府有力者や研究者との関係を構築して交渉環境を整えた。
日本の外務省や歴代首相とのパイプも太く、袴田茂樹・青山学院大名誉教授(現代ロシア論)は「民間人でありながら日本政府に影響を与える人物として、ロシア側も末次氏に一目置いていた」と語る。ロシア側から要人が訪日した際には丁重にもてなし「人間的な交流が活動の原点にあった」としている。【共同】