狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

■余録、沖縄「集団自決」の大ウソ、本土風の名前■

2024-02-01 04:45:15 | 政治

 

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■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

富原盛安(82歳・南城市)

これは平成22年から令和4年まで「の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

美しき未来を描ける術ありやデジタルの世に人はどうなる

不眠とは夜寝ることが出来ぬ事だったら昼間寝れば良いだけ

国守る修羅場に立てるウクライナ主婦も手にする防衛の武器

            ★

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前 2008-03-09

 

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」・・ニーチェの言葉

ひとつの出来事も見る人の立場、解釈により異なる。

■本土風の名前■

沖縄タイムスを先頭に左翼勢力が必死に捏造しようとする一つの「物語」(解釈)はこうだ

・・・日本軍は残虐非道だった・・・、村人は今でも彼ら日本人を憎んでいる・・・彼らの来島に反対する!

だがこの物語を覆す証言や証拠は、偏向マスコミの主導ではない。

残虐非道な日本軍人の証言が、渡嘉敷村民主導で行われたと聞くと驚く人は多い。

そのきっかけにもなると思われるのが村民たちが、戦後頻繁に行った「改姓」である。

自分の子供に命名する場合、殺人犯と同じ名前を命名する人はほとんどいないだろう。

初めて「集団自決」問題に触れる人を理解困難にさせるのは集団自決実行に際して重要な立場にあった村のリーダー(村長、助役、兵事主任等)が戦後ほとんど改姓し、本土風の姓に改姓していることである。

沖縄の戸籍制度は戦前から沖縄県として日本の戸籍制度で行われており、米軍占領下でも日本の戸籍制度を引き継いでいた。

従って、現在でもそうであるが、よっぽどの理由がなければ改姓は出来なかった。

ところが「集団自決」のあった渡嘉敷島、座間味島に限ってやたらと改姓が多い。

これは米軍の猛爆を受けてほとんどの戸籍が消失してしまい、新しい戸籍を作るときについでに改姓したと考えるのが一般的である。

ところがここにもう一つの大きな謎が残る。

左翼勢力の喧伝するように村人が「憎むべき日本軍」と考えているのが事実なら、何故改姓の際憎むべき「本土風の姓」に改姓したのか。

例えば渡嘉敷村長・古波蔵⇒戦後、米田に改姓

渡嘉敷村職員・新城⇒戦後、富山に改姓(手りゅう弾を配ったとされる)

渡嘉敷村村長 玉井 喜八

他にも吉川、源など戦後本土風に改姓した島人は大勢いるし、当日記も過去にこれに触れた。

■村民と元軍人の交流・・・全く異なる二つの情景」■

集団自決のあった悲劇の島渡嘉敷と座間味。

そこで「軍命による集団自決」が行われたと沖縄タイムスは報じる。

だが、これは沖縄タイムスの解釈に過ぎない。

この二つの島の住民達は戦後慰霊のため島を訪れた元軍人達にどのように接したか。

それを象徴する一つの情景がある。

沖縄タイムスの解釈はこうだ。

島の慰霊祭に訪れた元軍人を島の住人が港で取り囲み、「何しに来た、帰れ!」と面罵する情景。 

1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について検証してみよう。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去った。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言している。

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、

33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいる。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしているが、赤松隊員と村民が深い信頼関係で結ばれている記述されている。手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内でのみ読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている。

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

 

つい最近では1月25日、同じ情景が座間味埠頭で藤岡教授の調査団に対して行われた。(沖縄タイムス記事)

この調査団には元軍人の皆川氏や知念氏が加わっており、「憎悪に燃える住民VS残虐非道の元軍人」の構図がマスコミが期待する通りに展開された。 

残虐非道の“者”ともいえる元軍人がおめおめと島を訪れるという象徴的な「物語」は大江健三郎の『沖縄ノート』で作られた。

島の慰霊祭に訪れた赤松元隊長を空港で待ちうけ「何しに来た! 帰れ!」と面罵する「村人」の物語である。

「座間味埠頭のトラブル」でもそうだが、何故純朴な村人たちが元軍人の行動日程を正確に把握してマスコミ同伴で待ち受けていたかについてはさて置こう。

その一方全く異なる元軍人と村人たちの交流シーンがある。

戦後何回と無く島をを訪れた元軍人グループと住民が再開を喜び和やかに交流する全く別の情景である。

ただ、前者の「帰れ!」の抗議文を突きつけるシーンは必ず多くのマスコミの影が付き纏い逐一というよりむしろ誇大に報道されるのに対して、後者の住民と元軍人との和やかな交流シーンを報道するマスコミは皆無である。

『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

そこに写っているのは憎んでいるはずの元軍人と村人の約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影 渡嘉敷港埠頭にて)

渡嘉敷島の元防衛隊員や地元夫人たちに囲まれて、穏やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行。昭和59年撮影、 

この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

地元マスコミが決して報じることの無い「住民と日本軍の関係」は再度引用する宮平さんの証言でも語られている。

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆住民と日本軍との関係は「最高」

(略)座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。

井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと…  

宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。  

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2 コメント

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本日の沖縄タイムス投稿欄 (カウンター58)
2024-02-01 10:24:50
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オピニオン面に一般投稿8本(児童生徒の「ぼくも私も」など除く)。

「平和の教訓 沖縄戦学び続ける」の名護市・奥平孝一さん(56)は、1月13日に続き今年2回目の掲載。
「沖縄史に若手研究者の新視点」の京都市・敦賀昭夫さん(70)は、1月9日に続き今年2回目の掲載。
「自民党の派閥政治 けじめ必要」の那覇市・上原賢三郎さん(80)は、1月15日に続き今年2回目の掲載。
「ガジュマル盆栽 もっと自由に」の横浜市・礒部伸樹さん(77)は、昨年9月13日以来の掲載。
「三つの『休め』の効用さまざま」の豊見城市・當銘学さん(69)は、昨年12月31日以来の掲載。
「新風感じた県立芸大生の演奏」の千葉県・福山啓子さん(72)は、昨年11月8日以来の掲載。
「世界で起こる戦争 次世代に平和継ぐ努力を」の石垣市・玉城光枝さん(77)は、2021年1月31日以来の掲載。
「イライラ解消法」の豊見城市・大城奈月さん(42)は、2020年9月13日以来の掲載。
 
カギカッコは投稿欄における見出し。


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返信する
Unknown (amai yookan)
2024-02-01 11:18:23

>「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だである」・・ニーチェの言葉

ひとつの出来事も見る人の立場、解釈により異なる。

*      *  

 冒頭にニーチェの引用が入るが、沖縄で「集団自決」を語る際の「著者の気遣い」は相当なモノで、読者への気遣いには、胸打つモノが有る。

● その点、昨日チエックしたQAB「復帰50の物語・・」QAB 2023/12/30 10:10AM再 は何とも押し付けがましー番組だった

・ この中でインタビューを受けた「新川明」氏の「復帰への矛盾として、言い出した事は、以下↓

【祖国復帰運動への矛盾】として

・異なった歴史
・戦前に差別や酷い目に遭った
・何故こんな日本に復帰するのか?  それに続き、

  【沖縄の民意の無視】

・辺野古基地・県民投票の無視
・米軍と自衛隊による「軍事基地化」は、「当時ここ迄進むとは想像できなかった」← これってマヌケ?

・ 民意?何時の事言ってんの、もうあれから幾歳月? 過去の遺物をいつまでも、、(「悔しかったら・もう一回「県民投票とやらを遣ってみられたら」=「だれも投票に行かん」わ!)

● 戦争を起こさせない為の「抑止力」への考察ゼロですな~ひょっとして

 【抑止力を語ることは、現在沖縄のタブー】?なのか?ナ

● こんな「1ミリも進歩しないサヨクの化石」みたいな者を採り上げ・祭り上げて「視聴者をミスリードしようとする手口」は悪意この上ない!

🔴 これに対して与那国町「糸数健一町長」の有事に際しての住民避難に対する考察には「実務行政」の最たるもので素晴らしーものだった

*** あれ?これって今の「県政の写し絵」***

🔴 正に「過去の遺物 VS 現在の実務家」の対決だった。
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