狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

暴走!沖縄県教委の反乱 八重山教科書問題

2011-10-17 18:47:26 | 八重山教科書採択問題

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八重山教科書問題に関して、筆者は騒動の発端となった慶田盛竹富町教育長のことを始めのうちは「ヒットラーも顔負けの独裁者」と書いた。

ところがその後の県教委の独裁的な教科書採択への介入を目の当たりにし、慶田盛氏に勝る「ヒトラー」は県教委であると断じた。

そのエントリーを一部抜粋引用する。

           ☆

≪何の法的権限もない井戸端会議(地区教委協)が、多数決で気に入らない教科書の採択を否決し、お気に入りの教科書を新たに採択した。

しかも違法性をチェックすべき審判役の県側が、これを法的に有効とみなすと、お墨付きを与えた。

2011年9月8日は、沖縄で民主主義と法の秩序が死んだ日である。

これは沖縄県民の恥辱として永遠に語り継ぐべき出来事である。

八重山教科書:地区教委協 育鵬社版採択せず

沖縄タイムス  2011年9月8日 19時38分 

 八重山地区の中学校公民教科書採択問題で、石垣、竹富、与那国の3市町の全教育委員でつくる地区教育委員協会(会長・仲本英立石垣市教育委員長)は8日、多数決で「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版を採択しないことを決めた。

          ☆

「発狂新聞」の面目躍如で、舞してこれを伝える沖縄タイムスの号外がこれ

>>電子号外育鵬版不採択 八重山3教委、多数決で

          ☆

当日記は慶田盛竹富町教育長のことを「ヒトラーも顔負けの独裁者」と命名した。

だが、本物の独裁者は別にいることがわかった。

県教委である。

八重山日報によると、事実誤認の情報を根拠に玉津会長を「指導」していたというから、「民主主義」と「法の秩序」を真っ向から否定する本物の独裁者は「県教育委」ということになる。

慶田盛氏は、当初から県のお墨付きを得ながら無法者のような発言を繰り返していたということだ。

県の強権的「指導」の違法性を指摘された狩俣義務教育課長の「必要最小限度の『交通整理』」というコメントは、独裁者の面目躍如とも言え、例えていえば次のようになる。

交通規則を無視し交差点に暴走してきた「慶田盛・自動車」と、交通ルールを守って交差点に進入した「玉津・自動車」が衝突し、交通が混乱した。駆けつけた警官はルール無視の「慶田盛・車」に交通違反の切符を切るべきところを、交通の混乱を避けるための「交通整理」という名目で、あろうことか交通規則を守った「玉津・車」に違反の切符を切り、「慶田盛・車」の暴走には目をつぶった

当初から「審判役」としての県側が同席することに疑念を持ってはいたが、これほどあからさまな「ごり押し」を衆人監視のうちに堂々と行うとは、さすがに筆者にも想定外であった。

関係者の話によると「井戸端会議」は、プロ市民が押しかけ、まるで数を頼んだ「集団リンチ」のような様相だったという。 

協議会での採択時に「無記名投票」にしたのは、「記名投票」にすると、氏名が公表され狭い地域社会では「村八分」の恐れがあると書いた。 

ところが発狂新聞は、育鵬社に投票した委員の実名を公表するという卑劣手段に訴え、その結果、育鵬社に投票した委員の家にはプロ市民団体が夜討ち朝駆けで抗議の罵声を浴びせ、最終的に「井戸端会議」の衆人監視の多数決では翻意したと聞く。≫

            ★

慶田盛竹富町教育長は「ヒトラー」の例えと同様に、そのルール破りの言動を「暴走」と批判された。 だが、10月16日の法定期限を一ヶ月以上経過しても閣議決定による国の指導を真っ向から否定したまま沈黙を守り続ける県教委に全国の批判の目が集中してきた。

当初、慶田盛氏に付けられていた「暴走」という冠詞も、沖縄県教委いに付けられるようになった。

 【安藤慶太が斬る】
止まらぬ沖縄県教委の暴走 八重山教科書問題が教えることとは
 沖縄県石垣市と竹富町、与那国町からなる八重山採択地区協議会で育鵬社の公民教科書が採択されながら、竹富町が不採択として違法状態が続いている問題は依然膠着(こうちゃく)状態が続いている。この間、一番あきれたのは沖縄県教委の対応だった。政府の法解釈に従わず県議会でもおかしな答弁をしている。実質的な指導は何もない。明らかに恣意(しい)的な行政としか思えないのである。

 「(9月)8日の採択決議こそが沖縄県としては有効だ」

 これが県教委トップによる答弁だが、若干経緯を補足する。育鵬社を協議会で選び、石垣市と与那国町が各教委に持ち帰って採択をした。にも関わらず、竹富町は協議会の決定に従わず、別の教科書を採択した。これが事の発端である。

 採択地区は同じ教科書を使わねばならない。そのことは教科書無償措置法に定められていて、その規定に基づいて協議会が設置、選定作業をしていたのだが、竹富町の「反旗」で無償措置法に抵触する状況が生まれた。それで、県教委は指導に乗り出すのだが、県教委が収拾策として持ち出したのは3市町教委の教育委員全員による珍妙な話し合いだった。それが9月8日というわけだ。


すでに決着した法的評価


 ちなみに与那国町教委3人の教育委員の育鵬社への賛否は2対1。石垣市教委5人の教育委員の賛否は3対2だ。竹富町教委は0対5。従って3教委が教委の意思を持ち寄って判断すれば育鵬社が採択されるが、教育委員全員で採決すれば育鵬社採択は覆るーという計算だ。そんな露骨で底意が透けて見える横暴を石垣、与那国とも容認できるはずはない。だが、県教委は9月8日の3市町教育委員全員による協議を提案、強行した。冒頭のせりふは県教委トップの大城浩教育長が9月28日の県議会で、協議の場の法的有効性を強調した場面である。

 もっともいくら沖縄県教委がそう強調してもこの協議の場に関する法的評価はすでに決着している。それは、はじめの協議会には法的瑕疵(かし)がなく有効であるが、9月8日の協議の場は無効だというものだ。これが文部科学省はもちろん、日本政府の正式見解である。

 県教委のいう協議の場が無償措置法13条4項の規定に基づく、協議の場として正当性をもつためには、石垣、与那国、竹富の3教委が9月8日の協議を法律に基づく協議の場とすることに合意しなければならない。


ダメなものはダメ


 ところが、そういう合意などないのである。何せ、協議の場の議事録をみると、出席した教育委員全員の多数決に強引に諮り「合意はあった」としたからである。横暴極まれりである。

必要な合意というのはあくまで当事者である3教委の意思で合意しなければならない。教育委員全員の多数決で「合意しました」とやってもダメである。石垣と与那国の教委としての意思表示としては「無効だ」と言っている。当事者でもない県教委がいくら合意があるといい張ってもやはりダメなものはダメである。

 しかし、沖縄県教委の暴走は止まらない。メンツなのか、育鵬社不採択運動を繰り広げる運動団体への気兼ねなのかはわからないが、沖縄県教委は自分たちの指導のおかしさ、至らない点を正すどころか、ますますおかしな対応を始めるのである。

 私自身、今まで都道府県教委のダメぶりはいろいろ見てきた。が、今回の沖縄県教委の対応は私が見る限り、史上最低最悪である。


恐ろしいほどの頼りなさ


 例えば三重県教委もまるでダメな教育委員会の典型だった、と思う。学校現場での破り年休や鉛筆年休が発覚、公金支出が問題になった時も腰を据えて正すことはできなかった。

広島県教委も問題だらけだった。国旗国歌正常化の動きを長年にわたってきちんと正すことなく放置してきたからだ。北海道や山梨県もそうだった。どこまで行っても組合との癒着構造を断てずにいて、現場の校長を見殺しにしてしまう。今、北海道教委は頑張って、北教組との癒着を断とうと努力はしているのだが、常に組合は既得権維持を図ろうと持ちかけ、それに手を打つ教委幹部が現れる。恐ろしいほど頼りないのである。


国の法解釈を否定するひどさ


 兵庫県や福岡県、大分県などこれまであちこちの教育委員会を見ていて「これで地方分権などやったら大変なことになってしまう」という懸念を抱いた。また都道府県教委への唾棄する思いを何度も味わった。

 都道府県教委自体が教育をダメにしているのは何も沖縄県だけの話ではない。ただ今まで例示した「ダメな教委」への思いというのは、基本的に頼りないことに原因があって、教育行政をつかさどる機関として「もっとしっかりしてくださいよ」という気分だった。一応、何が正しくて、何が間違っているのか、ということを教委としては理解はしている。だが、沖縄県教委の今回の対応は他の教委とは少し様相が異なる。もはや教育行政をつかさどる機関としての限界を超えていると思えてならないのだ。自分たちの見解が正しく、国の法律解釈まで否定しているのだ。

大体、政府の法令解釈は思いつきで出てきた類ではない。閣議決定された政府見解である。閣議決定された見解が覆った前例は皆無に近い。それだけ、法制上の検証が事前になされるのであって、県教委の教育長はそうしたことをしっかり認識して発言しているのだろうか。沖縄独自で法令解釈があるかのような答弁自体、不可解だ。政府見解と真っ向から異なる法令解釈を議会で開陳した以上、もう後戻りはできない話だ。間違いが確定した時点で本来なら責任が問われるべき話だ。


形振り構わぬ採択介入


 行政機関として非常につたない気がしてならないが、県議会も沖縄のメディアもそういう大切な点から目を背けている。

 今回の採択で見えてきたのは都道府県教委が裏で市町村教委を誘導したり、妨害しながら育鵬社の教科書を遠ざけようとしている姿である。これは育鵬社を採択すると、左翼が騒ぎ出すから、左翼が騒げば、仕事が増え、収拾が大変である、だから事無かれ主義に基づき、無難な教科書を選ぶのだとそう思っていた。

 しかし、八重山採択地区に対する県教委の行動を見ていると、これほど形振り構わないものかと思い知らされた。またこうした採択介入が県教委の主体的な意思でむしろ積極的に遠ざけている気がしてならなかった。

 そしてもうひとつ。採択をめぐっては教職員の意見や県教委事務局の意思を反映した採択にすべく、さまざまな仕掛けがあることも同時に考えさせられた。国の指導というものがいかに頼りないものか、地方はすでにそういう文科省の指導力の欠如を見抜いている。正常化に向けた文科省の指導を頭から聞き入れずに足元を見ているのだ。地域主権などといった言葉を不用意に振りかざす民主党の無責任で、どれほど教育に禍根がもたらされるか。真剣に憂慮する次第だ。

(安藤慶太 社会部編集委員)

               ★

沖縄県教育委に対し、

これ以上の恥さらしは止めよ!

即刻、竹富町教育委を指導せよ!

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4・オカッパの少年の謎を追って!

2011-10-17 06:48:38 | オカッパの少年

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本稿は以下のエントリーの続編です。 初めての方は順序通り呼んだ後のほうが分かりやすいですが、飛ばし読みしても大意はわかります。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

オカッパの少年の謎を追って!

続・オカッパの少年の謎を追って、

3・オカッパの少年の謎を追って 沖縄タイムスがスルーした理由は?

             ★

ドキュメンタリ作家上原正稔さんが米公文書館から発掘した沖縄戦の記録フィルムを都合のいいように切り貼りしてデタラメなナレーションをつけた記録映画があたかも「沖縄戦の真実」とでも言わんばかりの体裁で沖縄各地で放映されている。 記録フィルムの偏向した監修者たちを見れば如何にその記録映画がイデオロギーで歪曲・改竄されているかは一目瞭然である。

「オカッパの少年」の写真も上原さんが創設した一フィートフィルム運動の成果として発掘され、それが太田昌秀著「これが沖縄戦だ」の表紙に使用され、全県的に有名になり、それを偶然見た大城盛俊氏がそれは自分だと名乗り出た。

「オカッパの少女」が実は70代半ばの老人だったというセンセーショナルな報道は、琉球新報、沖縄タイムス、八重山日報で報道され、朝日新聞の一面トップを飾るほど有名になった。

筆者は琉球新報が2007年、初めてこれを報じた時から大城氏が「オカッパの少女」であることに疑念を持って、大城氏のそれまでの発言と大城氏について断片的に記された書籍を調べ上げたが、疑念はますます募るばかりであった。

本稿は、その時の疑念を綴った文を、一部加筆したものである。

新たな疑惑が浮上■  
 大城氏の引退を報じる朝日新聞の二枚の写真で、更に新たな疑惑が湧いてきた。確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。

だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。

果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

沖縄は出版の盛な県である。 特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。

例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほどである。そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられ、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。

しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。

そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。同書には大城少年に関して次のような記述がある。

<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。>(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)
 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。

写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。

細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。
怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>とある。
これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。
<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底、見えない。
これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、さもなくば「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

続く

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