「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

拙ブログ「『踏絵』としての福島原発事故」への学生メールに鼓舞され触発されて

2015-04-27 23:44:54 | 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
拙ブログの今日の更新は盛岡のホテルに投宿後アップしたものだが、
それについて、ゼミ生からメールが届いた。

彼の解釈は、「二酸化炭素低排出、原発至高説にまんまと乗せられてしまっていた
国民自身の恥ずべき歴史教訓としての踏み絵」というもの。

これはこれで素晴らしい見識だと思うが、彼のメールに鼓舞され、また触発されて、
さらなるイメージが膨らんできた。

彼には、そして彼の同期生である4年ゼミ生にも、以下の主旨の返信を出した。

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「踏絵」という言葉を思いつくまで、それなりの時間がかかったのだが、
その言葉が出てきた瞬間、「あぁ、言いたかったのはこういうことだったのだ」と思った。

小村が思ったことは、
「モノを考え続けるか、それとも、モノを考えることを止めるのか」、
その「踏絵」だった。

国道6号は、今は誰でもが通れるようにはなったが、
国内外の被災地をそれなりには見ている「旅の坊主」であっても、
「出来れば通りたくない」「見たくない」と、思うような場所だった。

オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という本を知っているだろうか。
アマゾンで書評を見てもらえばよいのだが、レビューの中に、たとえばこのような一節がある。

「自分より高次の何事か・何者かに奉仕の念を持って判断・行動し、
他人に対してより自分に対して多くを求め、課している生き方」

小村は、このような存在でありたい、と思っている。

そう思い、自分に言い聞かせている小村であるが、
それでも、この国道6号は、「出来れば通りたくない」「見たくない」と思わせる場所だった。

そこで弱気が出てしまった己に対しての「がんばれ」という意味での「踏絵」
そう考えてもらえれば、とも思う。

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こういうゼミ生に恵まれていることに感謝したい。
「踏絵」を迫られた時には、決然と選ぶ自分でありたい。


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