寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 周(しゅうぎ)、申救甚だ至れり

2012-02-16 14:05:20 | 十八史略
敦參軍錢鳳等凶狡。知敦有異志、陰爲畫策、至是敦遂兵武昌、以誅劉愧・刁協爲名。愧・協勸帝盡誅王氏。帝不許。導率宗族、毎旦詣臺待罪。周將入。導呼之曰、伯仁以百口累卿。不顧。入見帝、言導忠誠、申救甚至。帝納其言。醉而出。導又呼。不與言。顧左右曰、今年殺諸賊奴、取金印如斗大繫肘後。既出、又上表明導無罪。

敦の参軍銭鳳(せんほう)等凶狡(きょうこう)なり。敦の異志有るを知って、陰(ひそか)に為に画策せしが、是に至って敦遂に兵を武昌に挙げ、劉愧・刁協を誅するを以って名と為す。愧・協、帝に勧めて尽く王氏を誅せんとす。帝許さず。導、宗族を率いて、毎旦台に詣(いた)って罪を待つ。周(しゅうぎ)、将(まさ)に入らんとす。導、之を呼んで曰く「伯人(はくじん)百口を以って卿を累(わずら)わさん」と。顧みず。入って帝に見(まみ)え、導の忠誠を言い、申救(しんきゅう)甚だ至れり。帝、其の言を納(い)る。酔うて出づ。導又呼ぶ。、言を与(ま)たず、左右を顧みて曰く、「今年諸賊奴を殺し、金印の斗大の如くなるを取って肘後(ちゅうご)に繫(か)けん」と。既にして出で、又表を上(たてまつ)って導の罪無きを明らかにす。

参軍 軍事参与。 台 罪を裁く御史台のこと。 周 1月29日の記事中に周(しゅうがい)と読んだが、訂正します。 伯人 周のあざな。 百口 百人、一族こぞって。 申救 申し述べて助け救うこと。 不與言 他のテキストでは「ともに言わず」とある。 金印 黄金の印、諸侯の印。 斗大 一斗ますほどの大きさ。

王敦には参軍の銭鳳ら凶暴でずるがしこい者が多く、王敦に謀叛の心もちがあるのを察して、密かに敦の為に画策していたが、ここに至って、王敦は武昌で劉愧と刁協を誅するとして挙兵した。劉愧と刁協は王氏一族を残らず誅殺するよう勧めたが元帝は許さなかった。王導は一族を引き連れて毎朝御史台に赴き仕置きを待った。周が参内のため通りかかった。王導は呼びとめて「周どのを煩わして、一族百人の口にかえて、あなたのお口添えをお願いしたい」と言ったが、周は見向きもせずに通り過ぎた。参内して元帝に拝謁すると、王導の忠誠を言葉を尽して申し立てた。帝もその言を受け納れた。周が酔って退出するところを王導が待ちうけて、又声をかけた。周は耳を貸さずに、左右の者に「今年は賊どもを成敗して大きな金印を賜り、肩から吊るすとしよう」と聞こえよがしに語った。しかし、帰ると早速上書して王導の無罪を訴えた。

十八史略 王敦、功を恃んで驕恣なり

2012-02-14 08:30:50 | 十八史略

晉荊州刺史王敦反。初帝之始鎭江東也、敦與從弟導同心翼戴、推心任之、敦總征討、導專機政、羣從子弟、布列顯要。時人語曰、王與馬共天下。敦先領揚州刺史、都督征討諸軍。進爲鎭東大將軍、都督江・揚・荊・湘・交・廣六州諸軍事、江州刺史。尋領荊州。恃功驕恣。帝畏惡之。之引劉愧・刁協爲腹心、稍抑損王氏權。導亦漸見疎外。

晋の荊州の刺史王敦(おうとん)反す。初め、帝始めて江東を鎮(ちん)するや、敦、従弟導と心を同じうして翼戴し、心を推してこれに任じ、敦は征討を総(す)べ、導は機政を専(もっぱ)らにし、群従子弟、顕要に布列す。時人(じじん)語して曰く「王と馬と天下を共にす」と。敦、先に揚州の刺史を領し、征討の諸軍を都督す。進んで鎮東大将軍・都督江・揚・荊・湘・交・広、六州の諸軍事、江州の刺史となる。尋(つ)いで荊州を領す。功を恃んで驕恣(きょうし)なり。帝、畏れて之を悪(にく)む。乃ち劉愧(りゅうかい)・刁協(ちょうきょう)を引いて腹心と為し、稍(やや)王氏の権を抑損す。導も亦漸(ようや)く疎外せらる。

翼戴 盛り立てる。 推心 まごころを披瀝する。 総 統に同じ、統括する。 機政 政治の要、枢機。 顕要に布列 顕官要職に列する。 江・揚・荊・湘・交・広 江(江西)・揚(江南)・荊(湖北)・湘(湘南)・交(交趾)・広(広東)。 都督全軍を統帥し、正す官。 驕恣 驕慢放恣。 見 助辞、・・らる、せらる。

晋の荊州の刺史王敦が元帝に叛いた(322年)。王敦は初め元帝が江東を鎮定するにあたって、従弟の王導と心を一つにして援け盛り立て、元帝もまた真心を披瀝して二人を重用してきた。王敦は軍事統帥し、王導は政治の枢機にあずかった。その従弟や甥は高位顕官に名を列ねた。人々は「王氏と司馬氏が天下を共有している」と語り合った。
王敦はまず揚州刺史となり、征討の諸軍を統括していたが、やがて鎮東大将軍、江・揚・荊・湘・交・広の州軍事都督となり、荊州の刺史にもなった。そのため、功績をたのみ、おごり高ぶって、わがままに振るまうようになった。元帝は次第に王敦を恐れ嫌った。そこで劉愧と刁協を引き入れ腹心の家来とし、少しずつ王氏の権勢を削(そ)いでいった。王導もまた次第に疎んぜられるようになった。


十八史略 鮮卑、骨肉の争い

2012-02-11 11:40:06 | 十八史略
猗盧愛少子、欲立爲嗣、而出其長子六脩、使六脩拝其弟、不從而去。大怒討之、兵敗而遇弑。猗它之子普根、討滅六脩而自立、尋卒。國人立猗盧弟之子鬱律。至是猗它之妻殺鬱律、而立其子賀■。鬱律子什翼犍在襁褓。母匿之袴下、得不殺。

猗盧少子を愛し、立てて嗣(し)と為さんと欲して、其の長子六脩(りくしゅう)を出し、六脩をして其の弟を拝せしむるに、従わずして去る。大いに怒って之を討ち、兵敗れて弑(しい)に遇う。猗它(いだ)の子普根(ふこん) 六脩を討滅して自ら立ち、尋(つ)いで卒す。国人猗盧が弟の子鬱律(うつりつ)を立つ。是(ここ)に至って猗它の妻、鬱律を殺して、其の子賀■(がとく)を立つ。鬱律の子什翼犍(じゅうよくけん) 襁褓(きょうほ)に在り。母之を袴下に匿(かく)して、殺されざるを得たり。

出し 宮中から出す。 猗它 它は施のつくりの部分、仮に它とした。 尋 間もなく。 ■ にんべんに辱。 襁褓 産着、おしめ、転じて乳飲み児の意。

猗盧は末子を寵愛し、後嗣ぎにしようとして長子の六脩を宮中から追い出し、弟を拝礼させようと命じたが、六脩は従わずに去った。怒った猗盧は六脩を討ったが、返って敗れて弑殺されてしまった。猗它の子の普根が六脩を討ち滅ぼして自立したが間もなく死んだ。そこで索頭の人々は猗盧の弟の子の鬱律を立てた。ところがここにきて猗它の妻が鬱律を殺して、自分の子の賀■を立てた。鬱律の子の什翼犍は未だ乳飲み児で母の袴の下に隠されて、殺戮から免れた。

十八史略 拓跋猗盧、王となる

2012-02-09 09:21:53 | 十八史略
初拓跋祿官死。猗盧總攝三部。劉琨與猗盧結爲兄弟。懷帝時、表爲大單于。封代公、帥、自雲中入雁門。琨與以陘北之地。由是盛。嘗爲琨援、大敗劉曜之兵於晉陽。猗盧城成樂爲北都、平城爲南都。愍帝進猗盧爵爲王、置官屬、食代・常山二郡。

初め拓跋祿官(たくばつろくかん)死す。猗盧(いろ)三部を総摂(そうせつ)す。劉琨、猗盧と結んで兄弟と為る。懐帝の時、表して大単于と為す。代公に封ぜられ、を帥(ひき)いて、雲中(うんちゅう)より雁門に入る。琨、与うるに陘北(けいほく)の地を以ってす。是に由って益々盛んなり。嘗て琨の援と為り、大いに劉曜の兵を晋陽に敗(やぶ)る。猗盧、成楽に城(きづ)いて北都と為し、平城を南都と為す。愍帝(びんてい)、猗盧の爵を進めて王と為し、官属を置き、代・常山の二郡を食(は)ましむ。

拓跋 鮮卑族の索頭の長(1月17日参照)力微―悉鹿―綽―弗―禄官―猗盧と続いた。総摂 全てを受け継ぐ。 雲中 山西省内の県名。雁門 山西省の中の郡名。 陘北 井陘の北。 成楽 綏遠省(すいえんしょう)の地名。 平城 山西省の県名。 官属 属官。 代と常山 ともに河北省の県名。

これより前、拓跋の禄官が死に、甥の猗盧が三部を引き継いだ。劉琨は猗盧と兄弟の契りを結び、懐帝に上表して猗盧を大単于にした。やがて代公に封ぜられて、部族を率いて雲中から雁門に入った。劉琨は井陘以北の地を与え、猗盧はこれによってますます盛んになった。ある時、劉琨の援軍となって晋陽で劉曜の軍を大敗させたことがあった。猗盧は成楽に城を築いて北都とし、平城を南都とした。愍帝は猗盧の爵位を進めて王とし、属官を置き代と常山の二郡を食邑として与えた。

十八史略 父母を喪(そう)するが若(ごと)し

2012-02-07 09:48:31 | 十八史略
晉豫州刺史祖逖卒。初逖取譙城、進屯雍丘。後趙鎭戍、歸逖者甚衆。逖與將士同甘苦、勸課農桑、撫納新附。帝以戴淵爲將軍、來督諸軍事。逖以己剪荊棘収河南地、而淵雍容一旦來統之、意甚怏怏。又聞王敦與朝廷構隙、將有内難、知大功不遂、感激發病卒。豫州士女、若喪父母。
鮮卑慕容廆、先是嘗遣使于晉、受帝命、爲平州刺史。至是以爲平州牧・遼東公。

晋の予州の刺史祖逖(そてき)卒(しゅっ)す。初め逖、譙城(しょうじょう)を取り、進んで雍丘(ようきゅう)に屯(たむろ)す。後趙の鎮戍(ちんじゅ)、逖に帰する者甚だ多し。逖、将士と甘苦を同じうし、勧めて農桑(のうそう)を課し、新附(しんぷ)を撫納(ぶのう)す。帝、戴淵(たいえん)を以って将軍と為し、来って諸軍の事を督せしむ。逖、己が荊棘(けいきょく)を剪(き)って河南の地を収めしに、淵、雍容(ようよう)として一旦来たって之を統(す)ぶるを以って、意甚だ怏怏(おうおう)たり。又王敦(おうとん)の朝廷と隙(げき)を構えて、将に内難有らんとするを聞いて、大功の遂げざるを知り、感激し病を発して卒す。予州の士女、父母を喪(そう)するが若(ごと)し。
鮮卑の慕容廆(ぼようかい)、是より先、嘗て使いを晋に遣わし、帝の命を受けて、平州の刺史と為る。是(ここ)に至って以って平州の牧・遼東公と為す。


譙城 河南省の県。 雍丘 安徽省の県名。 鎮戍 守備兵。 農桑 農耕と養蚕。 新附 新たに付き従う。 撫納 受け入れて慈しむこと。 雍容 ゆうゆうと、ゆったりと。 怏怏 不満、楽しまない様子。 感激 強く感じること。 牧 長官。

晋の予州の刺史祖逖が死んだ。初め逖は譙城を攻略し、進んで雍丘に駐屯した。後趙の守備兵で逖に帰順する者が続出した。それは部下と苦楽を共にして、兵士に農耕と養蚕を割り振って行なわせ、新たに帰服した者も手厚く受け入れた。ところが元帝が戴淵を将軍に任命して、諸軍を監督させた。祖逖は、自身がいばらの道を切り開いて河南の地を平定したにも拘わらず、戴淵が何の苦労もせずに乗り込んで来て統率させたので、祖逖は鬱々として楽しまずにいたところ、王敦が朝廷と対立し、今にも内乱にならんとしているのを聞いて、もはや中原を奪回することが絶望的であると悟り、憤激のあまり病を発して死んだのである。予州の人々は自分の父母を亡くしたように悲しんだ。
鮮卑の慕容廆は、嘗て使者を晋に送り、元帝から平州刺史の命を受けていたが、ここに至ってさらに平州の長官として、遼東公に任命した。