goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 楊震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。 

2011-08-09 10:53:26 | 十八史略

太尉楊震自殺。震關西人。時人稱之曰、關西孔子楊伯起。教授生徒。堂下得三鱣。都講以爲、有三公之象。取以進曰、先生自此升矣。後嘗爲郡守。屬邑令、有懐金遣之者。曰、暮夜無知者。震曰、天知。地知。子知。我知。何謂無知。令慚而退。及爲三公、時宦者及上乳母王聖用事。皆有請託。震不從。又數以近習爲言、共構之。策収印綬。遂死。葬之日、名士皆來會。有大鳥、高丈餘、至墓前俯仰、流涕而去。

太尉の楊震自殺す。震は関西の人なり。時人(じじん)之を称して曰く、関西の孔子は楊伯起、と。生徒に教授す。堂下に三鱣(さんせん)を得たり。都講以爲(おも)えらく、三公の象(しょう)有りと。取って以って進めて曰く、先生此れより升(のぼ)らん、と。後嘗て郡守と為る。属邑の令、金を懐にして之を遣(おく)る者有り。曰く、暮夜(ぼや)知る者無し、と。震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。何ぞ知る者無しと謂うや、と。令慚(は)じて退く。三公と為るに及んで、時に宦者及び上の乳母(にゅうぼ) 王聖、事を用う。皆請託有り。震従わず。又数しば近習を以って言を為し、共に之を構(かま)う。策して印綬を収む。遂に死す。葬るの日、名士皆来り会す。大鳥有り、高さ丈余、墓前に至って俯仰(ふぎょう)し、流涕して去る。

太尉の楊震が自殺した。楊震は関西の人である。当時の人は震のことを「関西の孔子楊伯起」と呼んでいた。学問を教授していたが、ある日講堂の下にこうのとりが三匹のかわへびをくわえてきた。都講は、これは楊震が三公になる瑞兆に違いないと思い、それを捕まえて楊震にすすめて言った「先生はこれから出世なさるでしょう」と。その後果たして郡の太守になった。ある夜、県令の一人が金を懐にやって来て、賄賂としてさし出して「深夜でだれも知る者はいません、どうぞお受け取りください」と言うと、楊震は「天知る。地知る。子知る。我知る。どうして知る者無しなどと謂えるのか」県令は恥じ入って去った。やがて楊震は太尉になった。そのころは宦官や安帝の乳母の王聖が権力をふるっていて、身内の引き立てを頼んできたが、震はことごとくはねつけた。そのうえしばしば側近の宦官たちを退けるように進言したので、宦官たちは結束して無実の罪に陥れた。安帝は免官の書を下して三公の印綬を取り上げた。そして震は死を選んだのであった。葬儀の日、名士はすべて会葬に訪れた。そのとき一丈余の大鳥が舞い降り天を仰ぎ、地に伏して涙を流して飛び去って行った。

太尉 三公の一、軍事の長官。 楊伯起 伯起はあざな。 三鱣 川蛇。こうのとりが三匹のかわへびをくわえて講堂に集まったという故事によって鱣堂(講堂)、鱣序(教室)の語ができた。 都講 塾頭。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿