突厥攻柔然。北齊撃突厥遷柔然。是時柔然衰、突厥始強大。
西魏宇文泰、廢其主欽、而立其弟廓。欽遇弑。
西魏遣柱國于謹、伐梁入江陵。梁主焚古今圖書十四萬巻、歎曰、文武之道今夜盡矣。乃出降。或問、何意焚書。曰、讀書萬巻、猶有今日。尋被殺。在位三年。改元者一、曰承聖。
西魏取襄陽、徙梁王詧于江陵、使稱帝、屯兵守之。是爲後梁。臣于西魏。王僧辯・陳覇先、奉晉安王、稱制于建康。貞陽侯淵明、先是爲北齊所獲。至是以兵納之。王僧辯奉歸建康稱帝。陳覇先殺僧辯、廢淵明、立晉安王。是爲敬皇帝。
突厥、柔然を攻む。北斉、突厥を撃って柔然を遷(うつ)す。是の時柔然衰え、突厥始めて強大なり。
西魏の宇文泰、其の主欽を廃して、其の弟廓(かく)を立つ。欽、弑に遇う。
西魏、柱国(ちゅうこく)于謹(うきん)を遣(や)り、梁を伐って、江陵に入らしむ。梁主、古今の図書十四万巻を焚(や)き、歎じて曰く、「文武の道、今夜尽きぬ」と。乃ち出でて降る。或ひと問う、「何の意あって書を焚く」と。曰く、「書万巻を読めども猶今日有り」と。尋(つ)いで殺さる。在位三年。改元すること一、承聖と曰う。
西魏、襄陽を取り、梁王詧(さつ)を江陵に徙(うつ)し、帝と称せしめ、兵を屯(たむろ)して之を守る。是を後梁と為す。西魏に臣たり。王僧辯・陳覇先、晋安王を奉じて、制を建康に称せしむ。貞陽侯淵明、是より先、北斉の為に獲(え)らる。ここに至って兵を以って之を納(い)る。王僧辯、奉じて建康に帰り、帝と称せしむ。陳覇先、僧辯を殺し、淵明を廃して、晋安王を立つ。是を敬皇帝となす。
突厥 トルコ系遊牧帝国、六世紀後半、唐に征服された。 柔然 モンゴル系の遊牧民国家555年突厥に滅ぼされた。 柱国 官名。
突厥が柔然を攻めた。北斉は突厥を撃って柔然を馬邑川(山西省北部)に遷した。柔然はこの時すっかり衰え、突厥は強大になっていった。
西魏の宇文泰が、国主の欽を帝位から逐い、欽の弟の廓を立てた(554年)欽はほどなく弑殺された。
西魏は柱国の于謹を派遣して梁を伐って江陵に攻め入った。梁の国主元帝蕭繹は、図書十四万巻を焚き(剣を折って)歎息して「文武の道今夜尽きぬ」と言って城から出て降伏した。ある人が「どうして書を焚かれたのでしょうか」と聞かれて「万巻の書を読んでも結局今日という日を迎えたではないか」と答えた。そして間もなく殺された。在位三年、改元すること一、承聖といった。
西魏、襄陽を攻略して、梁王蕭詧を江陵に移して帝を称えさせ、兵を駐屯させて保護した。これを後梁といい、西魏に臣従した。王僧辯と陳覇先は、晋安王の蕭方智を奉じ、建康で勅命を出させて代わって政治をおこなった。
貞陽侯の蕭淵明が、これより前に北斉に捕虜になっていたが、警護の兵とともに送り返されてきた。王僧辯は淵明を奉じて建康に帰ると淵明を皇帝と称させた。ところが陳覇先は王僧辯を殺し、淵明を廃して晋安王方智を立てた。これが敬皇帝である。
西魏宇文泰、廢其主欽、而立其弟廓。欽遇弑。
西魏遣柱國于謹、伐梁入江陵。梁主焚古今圖書十四萬巻、歎曰、文武之道今夜盡矣。乃出降。或問、何意焚書。曰、讀書萬巻、猶有今日。尋被殺。在位三年。改元者一、曰承聖。
西魏取襄陽、徙梁王詧于江陵、使稱帝、屯兵守之。是爲後梁。臣于西魏。王僧辯・陳覇先、奉晉安王、稱制于建康。貞陽侯淵明、先是爲北齊所獲。至是以兵納之。王僧辯奉歸建康稱帝。陳覇先殺僧辯、廢淵明、立晉安王。是爲敬皇帝。
突厥、柔然を攻む。北斉、突厥を撃って柔然を遷(うつ)す。是の時柔然衰え、突厥始めて強大なり。
西魏の宇文泰、其の主欽を廃して、其の弟廓(かく)を立つ。欽、弑に遇う。
西魏、柱国(ちゅうこく)于謹(うきん)を遣(や)り、梁を伐って、江陵に入らしむ。梁主、古今の図書十四万巻を焚(や)き、歎じて曰く、「文武の道、今夜尽きぬ」と。乃ち出でて降る。或ひと問う、「何の意あって書を焚く」と。曰く、「書万巻を読めども猶今日有り」と。尋(つ)いで殺さる。在位三年。改元すること一、承聖と曰う。
西魏、襄陽を取り、梁王詧(さつ)を江陵に徙(うつ)し、帝と称せしめ、兵を屯(たむろ)して之を守る。是を後梁と為す。西魏に臣たり。王僧辯・陳覇先、晋安王を奉じて、制を建康に称せしむ。貞陽侯淵明、是より先、北斉の為に獲(え)らる。ここに至って兵を以って之を納(い)る。王僧辯、奉じて建康に帰り、帝と称せしむ。陳覇先、僧辯を殺し、淵明を廃して、晋安王を立つ。是を敬皇帝となす。
突厥 トルコ系遊牧帝国、六世紀後半、唐に征服された。 柔然 モンゴル系の遊牧民国家555年突厥に滅ぼされた。 柱国 官名。
突厥が柔然を攻めた。北斉は突厥を撃って柔然を馬邑川(山西省北部)に遷した。柔然はこの時すっかり衰え、突厥は強大になっていった。
西魏の宇文泰が、国主の欽を帝位から逐い、欽の弟の廓を立てた(554年)欽はほどなく弑殺された。
西魏は柱国の于謹を派遣して梁を伐って江陵に攻め入った。梁の国主元帝蕭繹は、図書十四万巻を焚き(剣を折って)歎息して「文武の道今夜尽きぬ」と言って城から出て降伏した。ある人が「どうして書を焚かれたのでしょうか」と聞かれて「万巻の書を読んでも結局今日という日を迎えたではないか」と答えた。そして間もなく殺された。在位三年、改元すること一、承聖といった。
西魏、襄陽を攻略して、梁王蕭詧を江陵に移して帝を称えさせ、兵を駐屯させて保護した。これを後梁といい、西魏に臣従した。王僧辯と陳覇先は、晋安王の蕭方智を奉じ、建康で勅命を出させて代わって政治をおこなった。
貞陽侯の蕭淵明が、これより前に北斉に捕虜になっていたが、警護の兵とともに送り返されてきた。王僧辯は淵明を奉じて建康に帰ると淵明を皇帝と称させた。ところが陳覇先は王僧辯を殺し、淵明を廃して晋安王方智を立てた。これが敬皇帝である。
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