ボランティアというものをしたことがない。
ボランティアのような安いギャラで原稿を書いたことは
何度もあるが本当のボランティアは経験がない。
もちろん私にだって人様の役に立ちたいという無償の精神はある。
人呼んでスーパーボランティアである。
行方不明だった男の子をわずか20分で発見して
一躍、時の人となってしまった。
確かに快挙は快挙だがスーパーという表現はどうなのだろう?
ボランティアにスーパーの称号などあるのだろうか?
先日、そんなことを思いながらドキュメンタリーの「情熱大陸」を観たが
うーん、この人はやっぱり凄いと思ってしまった。
地元の大分では人気店だった魚屋を65歳の年にたたんで
世の中に恩返しをしたいと、今はボランティアにのみに専念する日々だ。
活動資金は年金収入だけ、お礼は一切受け取らず
節約を心がけ車中泊をしながら全国の被災地を回っている。
東日本大震災の際は南三陸町で500日にもわたって活動したという。
そんな彼のボランティア哲学を支えているのは
意外にも「世の中なるようにしかならない」という独特の諦観だった。
幼い頃に母親に死に別れて以来、塗炭の苦しみを味わって来た。
その不幸の中で「それならやるだけのことをやろう」と決心したと言う。
私ならとっくの昔にグレてしまっているのに
常にものごとを前向きにとらえる姿はやはりが非凡ではない。
被災地などのボランティアの現場でも
仲間は「尾畑が来ると現場が活気づく」と言い
昔から「神のようだ」とその存在感を絶賛する人は多かったと聞く。
その一方で死に別れた母への思慕は未だに尽きず
78歳の爺さんが「母に抱きしめて欲しい」とポロポロ泣くのである。
スーパーとまで尊敬と称賛をあびる彼の
ボランティアの原点が「母親」だったとは知らなかった。
私もそろそろボランティア年齢に近づいて来た。
世の中の人に恩返しをしたい気持ちはヤマヤマなのだが
そんな余裕が生まれる日は来るのだろうか。