太田進研究室

太田進研究室の日々の出来事やその時に感じたことを記録していきます。また家庭での生活もつれづれに書いていきます.

研究スタート2 2002-2004 in LA

2011-05-22 | 研究留学回想録
 (以下は、薄れ行く研究留学を忘れないように自分でメモしている内容です。)

 USCでの研究は、Viconを使用しての3次元動作解析をまず自分一人で計測できるようにすることが課せられた。以前にも書いたが、使用したこともなく、関ったことがない分野の機器を英語のみで覚えていくのはかなり苦労した。ただ、USCで別途マニュアルがあり、それを見ながら進めていくと確かに機器はそのように動いてくれた。その後、健常者の通常歩行を計測してその再現性の練習に入った。一緒に研究をした同僚はかなり丁寧にマーカーを貼っていた。歩行の角度やモーメントの各方向の再現性はどの程度であるかは実感できた。その感覚は今も役立っている。

 さて、USCでの研究はViconを使用してのACLの予防に関する研究と膝蓋骨の可動性の機器の開発とその使用に関する研究を行った。日本で作成した機器を見せて検討したが、今後は新しいコンセプトで作れないかと言うことになった。日本で作成したものは、脛骨に機器を装着し膝蓋骨の側方可動域を計測するものであったが、Bossから大腿骨を基点にして計測ができないかということであった。膝蓋骨は大腿骨上を移動するため確かにその方が適切と感じた。アイデアは、比較的すぐに浮かんだが、問題はそれを作成することであった。日本であれば、義肢装具の会社に協力を依頼していろいろなアイデアのものを作成して頂いたが、今度はそうは行かない。自分が不器用であることは、自分が一番知っている。さて、どうしたものか。その後のホームセンター通いと製作の苦労へと続く。

研究スタート 2002-2004 in LA

2011-01-22 | 研究留学回想録
 いよいよ2002年6月からUSC(南カリフォルニア大学)のバイオメカニクスラボで研究生活スタート。緊張の初出勤。Bossと話をして(理解は半分以下)、その後再度学内を案内してもらった。そして昼のFaculty meeting(USCのDepartmento of Biokinesiology and Physical therapyのスタッフ会議)で、紹介をしてもらった。その後、挨拶をするように言われ、1分ほどの挨拶をした。皆さん"welcome"と握手をしてくれた。とてもしゃべれませんでした。

 さて、何からしたらよいのか。日本では臨床経験しかなくバイオメカの研究には強い興味は持っていたものの、経験なし。のち研究留学紹介で使用したスライドにも記載した”4つのない”。研究経験、学位(多くの人は博士を取った後に留学)、英語能力、お金(自腹での家族留学)。

 まず、パートナーとしてPhDの学生であるアメリカ人のSamとSusanを紹介してもらい、特にSusanは私の世話係と任命されたようだ。歩行の3次元動作解析の再現性に関する論文から読むように言われた。その後は、Bossの論文を研究室内で読むことをした。そこで、研究室内に来た人には、片っぱしから挨拶をして自己紹介をした。もちろん相手の名前を聞いた。予想通り相手の名前がリピートできず、手帳にスペルを書いてもらった。後にこの行為が、早くLabやその周辺の方々とコミュニケーションを取れた一助となったことを自覚した。しかし、たまたまlabに顔を出した人にも名前を聞いていたので、その人には迷惑であったと思う。

 SusanにViconという3次元動作解析システムを初めて紹介してもらった。2002年当時はまだそんなに日本にはなかったと思う。私が知らなかっただけかもしれないが。現在は理学療法士の養成校の施設基準になっているので多くの施設で何らかの3次元解析装置はある。はじめて、Viconの説明を受け、関節の角度や関節にかかる力がグラフで出され、また動きがビジュアルでしかも骨格モデルとして表され、まさにクールと感動した。これからこの操作を覚え、使用していく楽しさと理解できるかの不安が入り交じった。

 Susanは、ACL(膝関節前十字靱帯)損傷の予防に関する研究をしていた。今では日本でも多くの予防プログラムが研究されているが、やはりアメリカの方が進んでいた。カリフォルニアは女子サッカーが盛んで、ACL損傷も日本では、女子バスケットが受傷率の高いスポーツとして挙げられるがあちらではサッカーであった。たしかに、NikeのCMなどでも女子サッカー選手が出ていた。女子サッカーはとてもメジャーなスポーツであった。今後はSusanの研究に便乗する形でACL損傷予防に関する研究をすることとなった。そこに日本での臨床経験から思っていた自分のアイデアを入れて行えた。とてもラッキーであった。

 さて、Viconの使用方法をもちろん英語で受けた。Susanは、少し説明すると"Make sense?"と聞いてくる。30%ぐらいしかわからない。Noというといつまでも進まないし、Yesというと次に行ってします。とにかく、Yes or Noでは返答せず、今言ったことはこう言うことか?と聞き、このように理解したと自分がわかったことを口にして進めて言った。Susanも私の英語能力を十分理解し効果的であった。しかし、”Make sense"は、その後も続き(もちろん優しく教えてもらい感謝しているが)、自分の中では怖い響きとなっている。


英語学習 2002-2004 in LA 2

2011-01-15 | 研究留学回想録
 前回の研究留学回想録は本日のタイトル1であったので、2として留学自体の英語学習を振り返る。

 留学中滞在したLAのPasadena。そのアパートの歩いて15分ほどにあるPolyという語学学校に数週間通った。半日のコースでGrammar, Vocabulary, Pronunciationなどのコースから2つ選ぶことができた。1ヶ月ほどボスの好意で通わせてもらったが英語はあまり伸びなかった。その後、Labでの研究が始まった。

 研究で始まり、しばらくしたからあまりに英語が伸びないので悩み夜間開講している英会話に参加した。格安であったが、やや治安が悪いところであった。内容もお粗末であった。英語を喋る機会を増やすつもりであったので、それでも仕方が無いと思ったが、語学学校のピンきりを感じた。

 2年間の間の残り半年ほどからか、研究生活に少し余裕ができ、家内がその少し前から行き始めた語学学校に可能な範囲で参加した。なぜなら、家内がその語学学校に行き始めてから急に英語が伸びたからだ。これはまずいと感じfollowした。

 コースはアドバンスで、その内容はこんな感じであった。まず、先生(Bill)が、What is going on in the world?と聞き、とにかくニュースなら何でも良いので答える。Billは、政治家の秘書をしたことがあるそうで、政治の話も良くしてくれた。そのおかげでテレビのニュース、特に政治の話が分かりやすくなった。その後は、5-10分程度の英文を順番に読んでその後自分のわからなかった単語を質問でき、そしてすぐに何が書いてあったか内容を聞かれる。また、定期的にプレゼンをしなければならなかった。家内は2週間に1回ほどしていて、その準備を家でよくしていた。発表は30分で質疑応答が30分。たしかに、これを繰り返していれば英語が伸びると感じた。私も自分の研究の話やBillや他の男子学生(日本人男性はいなかった)の要望で日本人女性にモテる方法というタイトルで完全な自分の主観で話をした。今も、プレゼンと質疑応答が英語学習の大変良い方法と思っている。

 さて、何人か知り合った日本人の学生で、日本に帰国した人もいた。英語力が伸びると思ったが、殊の外、伸びずにこんなにお金を使うのはもったいないといった感じであった。半日、語学学校で英語の勉強をして、午後からは日本レストランでアルバイト(?:学生ビザでは働けないはず) など。日本人とルームシェアしていて午後からはずっと日本語を使用。日本にいて、アルバイトをして、そのお金で気合を入れて駅前留学しても同じではと言っていた。

 自分も最初の3ヶ月はあまりに英語が伸びずに焦った。メールで皆から英語はしゃべれるようになった?とよく聞かれ、まずいと思った。結果として、留学して英語がぜんぜん伸びないのでは大変まずいと思って勉強をした。結局、それで伸びたような(少しですが)気がした。

 Billからは最後にProgress Evaluationをもらった。必要なことは、Vocabulary, Vocabulary, Vocabularyとコメントをもらった。少し英語ができるようになると、その後たしかにVocabularyが重要であると実感する。

 まとめると、英語学習にはプレゼンと質疑応答。さらに伸ばすにはVocabulary。

 帰国して7年になろうとしている。Vocabularyは増えるどころが激減した。しかし昨年末に英検準1級を受けた。8月に受けることを決め10月に受けた。そこでも私にはVocabularyが最重要と感じた。2ヶ月で意外と覚えることができ、ぎりぎりでパスできた。しかし、また忘れてきている。維持は難しい。しかし初めてこのような英語検定を受けて勉強したことが良かった。継続には定期的に試験を受けることと感じた。


英語学習 2002-2004 in LA 1

2010-11-19 | 研究留学回想録
 留学の回想録を本ブログの目的の一つにしていたが、最近全く書いた覚えがない。

 2002年4月アメリカに渡り何とかLAでの生活の準備ができた。準備には10日ほど費やした。さて、その頃より近所の語学学校をネットで探し、また教会などの無料のサービスもあることがわかった。しかし、せっかくLAに居るのに無料にこだわり、十分に英語を学べないのも本末転倒と思った。家族としては貴重な時間なのでお金も大事だがそこはあまりけちらないこととした。

 USCのボスには、少し時間をもらい語学学校に行った。Pasadena city collegeのクラスをとろうとplacement testも受けたが、車が必要で自分が車を使用した時に、家内が行けなくなってしまうので、結局Pasadenaの我々のアパートから徒歩15分ぐらいのLake avenueにあるPoly language institute にした。今は場所が変わったようである。

 できない英語で、入学の説明を受け、英語で英語の勉強を初めてした時はさっぱり分からず、これで英語の勉強はできるのだろうかと思った。またなぜ他の国から来た人は英語を勉強にきているのにこんなにしゃべれるのかと不思議だった。日本人は30%ぐらいはいた記憶がある。もちろん若い人ばかりであった。我々はコロンビアから来たカップルと韓国人の女性と親しくなった。特にその韓国人の女性とは、親しくなり彼女も結婚をしていて、家族の付き合いが始まった。昨年アメリカに行った時も彼らにあった。

 さて、留学時代の悪戦苦闘の英語学習はこのPolyからスタートした。

自動車事情2002-2004 in LA 2

2010-07-26 | 研究留学回想録
 アメリカでは、自動車事情、特に道路は利用しやすかったことを思い出します。日本人でも普通に日本で車を乗っている人であれば、ナビさえ誰かにしてもらえば、十分運転できると思います。ただ、左ハンドルのためなれる必要はありますが。
 
 まず、何と言ってもフリーウェイが発達していて、ただでどこへでも行けるという感覚。乗り降りも難しくなく、3・4車線あるところが多く速い車は、勝手に抜かしていくので後からプレッシャーをかけられることはあまりありませんでした。多くの枝分かれがありますが、分岐を間違えても無料ですので一度おりてUターンするだけのことです。ただ、サービスエリアがないので、トイレはフリーウェイを降りてファーストフード店に入ります。まず、フリーウェイの出入り口にはそのような店があります。最初は、サービスエリアがなくて困りましたが、慣れればさほど気になりませんでした。

 日本の高速道路も名前がついていますが、時々迷うことがあります。アメリカは、番号になっいて、東西南北で分岐が記されています。そのため例えば次は10をNorthとか、5をSouthとか考えていれば分岐点でも迷いにくく、日本のように分岐点でこちらは何とか道でどこどこ方面と書かれても慣れたとこなら良いですが、その地名を知らないと瞬時に判断するのは至難の業と思います。いつも日本で思うのは、外国人の人にはわかりにくいだろうなということです。

 また、車線が多いためできるのですがCar poolといって2人以上で乗っている車が走ることができる車線があり、夫婦の時は良く利用しました。基本的に、すいていますが、1車線なので速い車が来ると圧迫感を感じます。

 アメリカにいる時には、日本も高速道路が無料化されればと思っていましたが、実際にはそのような動きが出て、実際に考えると2車線では渋滞がひどく難しいような気がします。