常識について思うこと

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言葉と自分の重み付け

2009年07月08日 | 人生

-あの人の言葉は重みが違う-

こんな言い方があります。人生経験を積まれた方、苦労された方の言葉というのは、その裏側にあるストーリーや思いが非常に強く、それだけ重みがあるというのは、間違いのないところでしょう。

一方で、言葉の重みは、聞く人が決めるものでもあります。相手から発せられる一言、一言について、どれだけのことを感じられるのかは、聞く人の側に、どれだけ自分の人生と向き合ってきたか、苦労をしてきたかとも深く関係しています。またそのことは、常日頃、自分が一言、一言にどれだけの重みを持たせているかとも密接な関わりがあるとも言えるでしょう。自分の言葉を重く考え、それを慎重に使っている人は、聞いた言葉についても、それだけの重みを持って受け止めることができるからです(「他人は自分の鏡」参照)。

つまり、聞く言葉も、発する言葉も、それらの重みは全て、自分自身の言葉の重みと同等であるとも言えるわけです。従って、人の話を聞いていて、その言葉に重みを感じられない人には、早計に「相手が軽い」、「相手に重みがない」などと決め付けず、一応、以下のチェックを繰り返してみることをお勧めいたします。

①言葉を発する人に重みがない?
②その言葉を聞く自分に重みがない?

安易に結論を出すべきではありませんが、常にこれを繰り返し、問い直してみることです。①と②の間を繰り返しているうちに、いろいろなことが見えてくるのではないかと思います。

ちなみに、私がアニメを含めた子供向け番組をたくさん見てしまう理由のひとつには、そうした世界にあるストーリーや台詞(言葉)に大きな意味を見出しているからです。現実世界に束縛された人の発想では、「普遍的なもの」の表現が難しくなりますが、子供向け番組の場合、現実世界のしがらみから解き放たれた世界観の中で、純粋に「普遍的なもの」を表現できたりします。それらは表現方法等の問題から、一見、軽く見えてしまうかもしれませんが、逆に内容としては、とても重いとも言えるのです。そして私としては、そこには、これからの時代を生き抜くためのヒントが数多く隠されており、それらから学ばない手はないと考えています。

例えば、「それいけ!アンパンマン」というアニメがあります。「それいけ!アンパンマン」は、その作風からしても、幼児向けであることは明らかです。しかし、それが即ち「低レベル」、「低質」を意味するものではないでしょう。アンパンマンの必殺技は、お馴染み「アンパーンチ!」ですが、それだけがアンパンマンの強さではありません。ご存知の方も多いかもしれませんが、アンパンマンが、その必殺技を繰り出す前に、ピンチに陥ることが多々あります。そんなとき、彼が復活するには、ぐにゃぐにゃになったり、欠けてしまった顔(アンパン)を取り替えなければならず、それにはジャムおじさんをはじめ、多くの仲間たちが助けてくれなければなりません。こうした仲間との良好な関係は、一朝一夕では成立せず、常日頃から多くの仲間たちに優しく接し、慕われているアンパンマンだからこそ成し得るのです。これは現代を生きる人間たちにとって、とても強烈なメッセージを秘めているのであり、また、そうしたストーリーがあるからこそ、アンパンマンの仲間を思う一言、一言が活きてくるのだと思われます。

これは単純に「アンパンマン」を一例にとって、簡略化した話ですが、凡そ「低レベル」、「低俗」に見えるような作品においても、何かしら、そうしたメッセージを受け取ることはできるのではないかと考えます。そしてそれは、視聴している側が、いかに人生の厳しさを経験し、そこからのメッセージを汲み取る力があるかにかかっていると言えるのです(ただし、最近では、番組の商業主義的傾向が強まっていく中、そうしたメッセージ性が、かなり失われてきている作品が多くなっていることも否定できません)。

こうした類の話に対して、頑なに「所詮、子供向けの低レベル番組」、「オタク向けの低俗コンテンツ」といった具合に、拒絶する見方もあるでしょう。実際に、これらの分野に関して、頭ごなしに否定的な意見を述べられる方がいらっしゃるのも事実です。それらは人それぞれの感性ですし、そう言い切れるだけの信念をお持ちであるのであれば、それはそれで、大変立派なことであると思います。

しかし、そういう方々に対しては、やはりそれでも、ひとつの視点として、これだけは申し上げておきたいと思うのです。

-あらゆる言葉の重みは、自分の重みによって決まる-

アニメ等、子供向け番組に出てくる言葉の重みにも、それは通じることではないかと思います。

《おまけ》
ニュースはさらりと見る」という記事を書きました。「さらりと」ということは、ある意味で「ニュース」に出てくる言葉を軽んじているわけであり、上記のロジックで読み解けば、それは私自身を軽んじていることを意味することになります。また、このブログの中では、一部のテレビ番組や映画作品等について、クオリティの低下(重みの低下)を取り上げていることもあります。そうしたことから、私自身が「重みを感じていないものがある」ことは事実なので、それをもって、私が自分自身の重みを疑わなければいけないという指摘もあろうかと思います。それはそれで、正当な論理だとは思います。ただ私の場合には、上記本文の問い①と②の繰り返しの果てに、ある結論を導き出しています(その結論については、このブログ全般を通じて述べております)。そういう意味で、特段、私は自分の重みについて疑っておりませんが、もし異議があるというのであれば、それは是非、そうした番組や作品の制作に携わってらっしゃる方々から、直接お話をお伺いしたいと思います。

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