常識について思うこと

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困難から逃げないこと

2006年10月30日 | 人生

「若いときの苦労は買ってでもしろ」

若いうちはやり直しがきく。たくさんの苦労をすることは、その人の肥やしとなり、将来必ずいいことがあるものです。まさに、そのとおりだと思います。人間の成長は、いかに苦労するかにかかっていると思います。人間は困難に直面したときに、それから逃げずに真正面からそれを克服することで強くなり、成長します。苦労するということは、困難を避けずに向かっていき、克服するという意味です。

しかし、このことは若い人に限ったことではありません。人生には常に困難があります。若いときに限らず、年をとってもまったく同じでしょう。人生とは、絶えず直面する困難から逃避せず、それを乗り越えていかなければならないという試練の連続なのです。

徳川家康は、「人生とは重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし」という名言を残しています。人生を生きている間は、常に苦労を背負う。これには、老いも若きも関係ないのです。生きている間は、絶え間なく苦労をしていく。苦労から解放されるときは、人生を全うして死ぬときだけであるということでしょう。

しかしそれにもかかわらず、「若いときの苦労は・・・」と、安易に大人が言ってしまうのはどうでしょうか。この言葉の裏返しとして、年をとったら苦労はそこそこ、あるいはしなくてもよい、といった意味にもとれてしまいます。こうしたニュアンスが含まれているとしたら、これは大人の傲慢だと思うのです。人間は、一生をかけて、困難から逃げない姿勢をとり、成長を続けなければなりません。

人間はある程度、社会的な地位を獲得すると、それなりの生活ができるようになってしまいます。そうすると、そこに安住しがちになり、敢えて苦労をしようとはしなくなります。「若いときには苦労をしてきたけれども、きちんとそれなりの生活ができるようになったし、もうそろそろ苦労はしなくてもいいかな」と安心をし、妥協をしてしまうことで、目前に困難があっても、敢えてそれに取り組もうとはしなくなってしまうのです。このように自分の今の生活を守ろうとすることで、困難から逃げてしまい、結果として苦労をしなくなるわけです。そこで、人間の成長は止まってしまいます。

人間の成長過程のなかで、「己の限界を知る」ということは、非常に重要です。苦労をすると、己の限界を知ります。そのとき人は、二つの選択肢を迫られます。

ひとつめは、限界のある己の無力さを知り、自らの存在意義を否定するという選択肢です。このことは、自分を卑屈な人間であると決め付け、人生を粗末に生きるという結果を生みます。そのことで、自らが不幸となり、その人と関わる周囲の人たちにまで不快感を与え、他人まで不幸にしてしまいます。そして、自らが存在意義を失っているわけですから、もったいないところに命を使い、自滅していく道を進んでいってしまいます。

ふたつめは、ひとつめと同じように限界のある己の無力さを受け入れつつ、その自分を救ってくれる他人に感謝し、その存在を敬い、周囲の人々に助けてもらうという選択肢です。苦労は、単に苦しいだけでなく、他人に対する「ありがたい」という言葉の意味を体験することができ、それを通じて他者とつながる喜びを感じることができます。さらにこうした困難を乗り越えることが、生きがいとなり、喜びとなり、幸せとなります。このような生き方は、人間としての幸せな人生を築いていくために、必要なことであると思います。(「生きがいと幸せ」参照)

人間として生きている私たちは、不完全な存在であり、前者の選択肢をとることもあります。しかし、人間として、きれいに生きていたいと思う私たちは、後者の選択肢をとりたがっているはずです。

そして、後者の選択肢をとれたとき、人は素直に他人の言葉に耳を貸すようになり、それを真摯に受け止めるようになることができると思うのです。これがまさに、人間の成長です。

たとえば、普段何気なく聞いていた曲だったのに、苦労をして、思い悩んでいるときに、ふとその曲を聴くと、その歌詞が心に触れ、大きな感動を覚えるといったことがあります。これこそがまさに、素直に心を開いた瞬間であり、苦労をしているからこそ、心から感じることができる「気付き」であり、成長なのです。自分の存在を否定し、卑屈になってしまっていては、この「気付き」はありません。困難に立ち向かおうと、頑張るからこそ、自ずと周囲に対して目が開き、耳が澄み渡り、それまでの自分が持っていた固定観念を打ち破り、成長することができるのです。

先日、ある方とお話をしました。彼は、非常に大きな成功を収めているビジネスマンであり、今もさらに大きな成長を続けています。その彼曰く、とにかく苦労をしたそうです。これまで、本当に言い知れぬ不安や寂しさで、泣き叫んだことも何度もあったけれども、それらにすべて打ち勝って、今の自分があるということでした。自分の強さを磨き続け、今でも困難や苦労があるごとに、そのような試練を与えてくれた神様に感謝をすると言っていました。

いくつかの宗教で苦行を強いるのは、己の限界を知り、周囲への感謝の念を抱くことの大事さを気付かせると共に、そうした人間としての成長を通じて、その人が救われていくことが真理だからです。このことは、宗教に入らなければ救われないのではなく、自分がきちんと困難に立ち向かい、現実から逃げなければ、自ずと救われていくことを意味しています。大事なことは、自分自身の心の持ち方です。(「頼るべきは「自分」」参照)

大人になったからといって、困難に立ち向かうことを諦めてはなりません。社会の構成員である一人一人が、困難から逃げない姿勢を持ち続けられれば、世の中はもっともっとよくなっていくはずです。

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