校内研究会があった。授業を参観してご指導をいただく講師の方のために子どもたちの後ろに席を設けた。会場の席まで案内したが、その席には着かず、子どもたちの顔が分かるように教室の前方側面に移動し、授業を参観された。授業中は、子どもの反応を見ながら、メモされていた。そして、授業後には、教師の発問に反応する子どもたちの表情や話を元に指導をされた。
我々の仕事は、子どもを育てることだ。その子どもの反応を的確につかむことで、子どもの変化をつかむことができる。そして、指導がよかったのか、悪かったのかは、その子どもの反応でわかる。立ち位置を変えることで、子どもの見え方も違ってくる。講師のこの姿勢から、育てる教師としての構えを教えて頂いた気がする。
この立ち位置を変える行為は、意図したものではない。無意識に体が動いてしまうのだ。何をみたいかを明らかにし、意図して繰り返し動いているうちに自然と身についていくものだ。
水泳指導の折りに子どもより先にプールに入り、子どもの前に立って指導をする姿、縦割の小グループで活動している時には、それぞれのグループを回りながら、取り組みの様子を観察する姿、全校集会では、後ろから見るのではなく、子どもの横から子どもの顔を眺めながら注意を促す姿、授業中に子どものノートの記述を見ながら机間指導をする姿等多くの場面で育てる教師の立ち位置を変える姿を見つけることができる。
指示をするだけでも子どもは動き出す。しかし、その活動の様子を丁寧に見届け、変化を見つけることで自分の指導をふり返ることができる。だから、反応を見る立ち位置は、とても大事になる。
聞く指導をする場合でもそうだ。教壇の中央に立って子どもに「聞きなさい。」と指示することもあるが、話し手の後ろに回り、聞き手が話し手に注目しているかどうかを確認できる位置に立つこともある。一番遠い聞き手の後ろに立ち、話し手の声の大きさを確認できる位置に立ったり、落ち着きのない子どもの側に行き、聞き方がよくなるように体の向きを変えられる位置に立ったりと教室を動き回ることもある。教師の立ち位置を子どもたちが意識することで、教師の意図を子どもたちが理解し、自らの聞き方を意識することができる。教壇に立ち、聞かない子どもに注意ばかりしている教師とは違い、この方が子どもにもわかりやすい。
教師に向かって話をしている子どもは、仲間を意識していない。教師に応えようとしているから自然と教師の方を向いて話をするのだ。これは自然な反応である。意図をもって、教師が話し手から遠くに移動するだけで、声の大きさを変えたり、聞き手を意識させたりすることができる。自然な動きでは、子どもは育たない。それは、すでにできていることで育っていることだ。意図しているから、その意図にそって子どもが変わるのだ。これが子どもを育てることになる。
立ち位置を変えることで、その教師の意図が見えてくる。どこに立つことがよいというのではない。子どもへの指導の効果を上げようとする構えが、どこに立てばよいのかという立ち位置を決めるのだ。子どものどんな姿を見たいのか、子どもをどんな姿に変えたいのか、その構えが明確になれば、教師の立ち位置が決まる。立ち位置を固定していては子どもが見えない。板書をしなければならないという固定観念が立ち位置を黒板に近づけてしまう。今大事な指導は何かを考え、柔軟に立ち位置を変えられるかどうかは、教師の考え一つだ。本当に板書をしないと子どもを育てることはできないのだろうか。立ち位置を変えることに全力を尽くす機会があってもいいのではないだろうか。
我々の仕事は、子どもを育てることだ。その子どもの反応を的確につかむことで、子どもの変化をつかむことができる。そして、指導がよかったのか、悪かったのかは、その子どもの反応でわかる。立ち位置を変えることで、子どもの見え方も違ってくる。講師のこの姿勢から、育てる教師としての構えを教えて頂いた気がする。
この立ち位置を変える行為は、意図したものではない。無意識に体が動いてしまうのだ。何をみたいかを明らかにし、意図して繰り返し動いているうちに自然と身についていくものだ。
水泳指導の折りに子どもより先にプールに入り、子どもの前に立って指導をする姿、縦割の小グループで活動している時には、それぞれのグループを回りながら、取り組みの様子を観察する姿、全校集会では、後ろから見るのではなく、子どもの横から子どもの顔を眺めながら注意を促す姿、授業中に子どものノートの記述を見ながら机間指導をする姿等多くの場面で育てる教師の立ち位置を変える姿を見つけることができる。
指示をするだけでも子どもは動き出す。しかし、その活動の様子を丁寧に見届け、変化を見つけることで自分の指導をふり返ることができる。だから、反応を見る立ち位置は、とても大事になる。
聞く指導をする場合でもそうだ。教壇の中央に立って子どもに「聞きなさい。」と指示することもあるが、話し手の後ろに回り、聞き手が話し手に注目しているかどうかを確認できる位置に立つこともある。一番遠い聞き手の後ろに立ち、話し手の声の大きさを確認できる位置に立ったり、落ち着きのない子どもの側に行き、聞き方がよくなるように体の向きを変えられる位置に立ったりと教室を動き回ることもある。教師の立ち位置を子どもたちが意識することで、教師の意図を子どもたちが理解し、自らの聞き方を意識することができる。教壇に立ち、聞かない子どもに注意ばかりしている教師とは違い、この方が子どもにもわかりやすい。
教師に向かって話をしている子どもは、仲間を意識していない。教師に応えようとしているから自然と教師の方を向いて話をするのだ。これは自然な反応である。意図をもって、教師が話し手から遠くに移動するだけで、声の大きさを変えたり、聞き手を意識させたりすることができる。自然な動きでは、子どもは育たない。それは、すでにできていることで育っていることだ。意図しているから、その意図にそって子どもが変わるのだ。これが子どもを育てることになる。
立ち位置を変えることで、その教師の意図が見えてくる。どこに立つことがよいというのではない。子どもへの指導の効果を上げようとする構えが、どこに立てばよいのかという立ち位置を決めるのだ。子どものどんな姿を見たいのか、子どもをどんな姿に変えたいのか、その構えが明確になれば、教師の立ち位置が決まる。立ち位置を固定していては子どもが見えない。板書をしなければならないという固定観念が立ち位置を黒板に近づけてしまう。今大事な指導は何かを考え、柔軟に立ち位置を変えられるかどうかは、教師の考え一つだ。本当に板書をしないと子どもを育てることはできないのだろうか。立ち位置を変えることに全力を尽くす機会があってもいいのではないだろうか。