相変わらず Chicago 派の理論だった。
世界が競争社会なわけだから、日本もそれに適合できるような構造改革を、というものだ。
それは一選択肢であり、悪いとは思わない。ただし政策として実行する場合、どうしても process-managing が必要になる。
自由競争で一番問題なのは、ルールの安定である。
競争である以上自分が勝てるルールがいい。
どうやっても勝てないと思えば、暴力でねじふせられているに等しい。当然反社会的な行為を誘発する。
そして大衆の多くが一握りのひとの富に貢献する格好でしかないなら、近世を通り越して中世と同じである。
そう主張して民衆を扇動すれば、中央政府はその役割を実行できずルールはなくなる。
Said が知識人を非難するのは、本来そうした偏りある社会を是正するのが知識人の役割なのに、完全にそうしたシステムの保護者に廻るだけでなく、大学などの Institutions に組み込まれて、次の世代の選択肢を限定していくからだ。
そうしたら誰が「世の中のシステム自体におかしい」をつきつけるのだ。
室町のときは、そうした中央に、個人がついていかれなくなった意思表明として一揆があった。
国は、直接個人を統治はしない。日本の場合百姓の集団単位として「惣」があり、それが守護のもとに置かれて、中央に繋がる。そのつなぎ目がほつれて、「惣」を守っていた地侍が新たな信長や秀吉のもとでのシステムにあぶれて反乱をおこした(秀吉は完全に中間のつなぎ目の役職を廃そうとした)。
戦後日本は、その守護や惣が果たしていた役割を会社がしていた。
会社を通して中央組織と個人が結びつくのである。
しかし会社が生き残るために、という理由で、ここ十数年リストラし、また雇用もしなかった。
「リストラ」とは本来「構造改革」のことだが、日本では、ほとんどの場合が単なる「解雇」で、換言すれば、中央から個人が引き剥がされた格好になる。
自殺者が毎年3万以上が十数年間というのは、ベトナム戦争以上の惨禍であり、昨今の犯罪増加と合わせて、本来なら中央に個人がついていく必要はないと考えてもおかしくない。
室町なら、その引き剥がされた連中は、自分の命しか売るものがなくなって「足軽」となって暴れだして存在感を示したが、現代ではみな死んでいった。
いかに現代の人間がある選択されたシステムのなかにしか生きていないことがわかる。
民主主義とは、本来民衆が主役のはずである。現代の不幸は、その主役を主役にいさせるべきはずの知識人が統制側にいる(エリートと称して)ことが当たり前というイデオロギーがあることだ。
しかし一国の経済(経済といってもここでは生活と置き換えた方がいい)を考える場合、大部分を占める民衆が不幸であるなら国自体が健全になれるはずがない(竹中さんはその民衆に競争をせよ、という、ガンバレ、と。もちろん可能性がないわけじゃないだろうが、なかなかうまくいくわけではない。また重要なことは民衆はそういうことを望んでいるのではない)。
ではその民衆が求めていることは、またその不安とは何か。
Krugman の論説によると、アメリカも同じ傾向がみられる。
アメリカ経済は、最近の四半期はGDP4.9%成長だが、その実質的な富は投資などの大衆とは無縁のところにある。特に日常品の物価は跳ね上がっていて、Thanks Giving の七面鳥は去年の1.1割高だった。失業率は低いままだが、こうしたインフレと年金額が2001年から減少し始めていることが最も多い所得者層に不景気と先行き不安を感じさせている、という。つまり日常物資の物価高と、年金の受給額の減少が問題だというのである(ただしKrugmanは一方で本当の物価高の恐ろしさはまだ知らないといっている、これから結果が出る、と)。
僕はこれでは言い当てていないと思う。
結局血税を払っているのに最低ラインの確保がなされない可能性があることだ。つまり中央との結びつきを決めさせたのはまさに生活の安定のはずなのにそうでないということだ。つまりSafety Net がほしいのだ。
僕は誰かさんたちのようにすぐ弱者救済を、といっているのではない。
ソ連が実験してわかったように全員に分配するだけの食糧はないのだ。競争はある程度避けられない。
その競争を生き抜くための福祉機関として国家に属しているのだ。
しかしその暗黙の期待を踏みにじられるのだとしたら、どうして国家に属していられよう。
もちろんその理由だけで国家を離れる決断はできないが、その決断を迫られるような気配が年金額減少と物価高から感じられるから不安なのだ。
といっていざ競争といってもみなが勝てるわけではない。また努力でナントカなるわけでもない(努力をすればなんとかなるのならなんて素晴らしい世界だろう!)。そしてもともと参加を促されているゲームにはすでに勝者がいる(これのどこが自由競争なんだ!)。
したがって竹中さんがいう構造改革はいくつもあるが民衆もよい方向に向かっていると感じられるものから始められなければならない。それが明治以来続いている中央政府のリストラだ(ここでの「リストラ」は「クビ」という意味ではない)が、ここにも既得権益者がいて、なかなか進展しない。
一民衆として知識人の竹中さんに骨折って惜しかったのは、まさにこの部分だったし、Safety Net を可能にする税制だった。
追伸:Toyota、Detroitへ(Bostonglobe)