雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Speed 2

2009-12-31 23:08:58 | 音楽
魔裟斗、有終リベンジ!最強引退だ!/K-1(サンケイスポーツ) - goo ニュース

魔裟斗素晴らしかったね。

サワーの方がスピードは相変わらずあったと思うけど、手数とタイミングでかわした。

それからそうした技術的な対応ももちろんだけど、このひとは、イチローもそうだけどやるべきときにやるべきことだけをしっかりとできるひとで、その点に感服する。

魔裟斗もイチローもそういうときはなんというのだろう、自分にしか聞こえない音楽に包まれてほかに何も聞こえないかのようになる。

自分の使命(=やるべきこと)がわかっている人間は時間というかスピードというかコルト・イ・デレチョの問題になるわけだが、そのやるべきこととは「革命」である。

なぜならやるべきことはそれ以前の自分では勝利できなかった相手に勝利することであり、自分に革命を起こさなければならないからだ。

そんな文脈から思い出されるのがベートーベンだ(大晦日だし)。

現在評価されるベートーベンの作品は、1802年前後に難聴になってから、作られた。

音楽家としての時間に制限が設けられたあと自分の使命を自覚したベートーベンは、まさに革命をする人間としての「英雄」を音楽(作品55)にした。

そして第九「歓喜の歌」。

シラーの詩はよく人類平等とか共和主義みたいな解釈をつけられるけど、僕は全くそういう解釈をしない(というか単に僕が以下に紹介するような考え方の持ち主ということなんだろうけど)。

ひとことでいえば、革命を起こした、使命を果たせた「歓喜」だ。

人間にはいろいろ使命というか生きる目的があると思うが、そのシラー+ベートーベンの詩にはふたつのことが書かれている(と思う)。

魂から付き合える人間をみつけることと、革命を起こすことである。

ベートーベンは最終的に後者を選ぶことになった人間だが、前者にも相当入れ込んでいた。

おそらく人類平等みたいな解釈は、

汝が魔力が再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを。
全ての人々は兄弟となる。

というシラーの詩を変更した部分から来るように思うが、僕は、ここには上記ふたつの異なる人生の目的を持つ人間が両方とも人類だと述べているのだと思う。

でなければ、シラーの詩を変更する理由がない(シラーの原詩はご自分で調べてください)。

世も更けたのでこの辺で。

みなさん、よいお年を。

龍馬

2009-12-30 22:05:32 | 文学
昨日の夜、福山雅治主演の『ガリレオ』なるTVドラマをみて感動し、「おれ、来年から福山の髪型にしようかなぁ」といったら、妻に吹き出された。

髪型が同じじゃ、違いがより際立ってしまうじゃないか、というわけだ(僕は見分けがつかなくなるだけだと思うがっ!)。

ストーリーは、愛する女性の不慮の殺人行為を隠すために、別人を殺して殺害自体の時刻を1日ずらす男の話で、とても面白かったわけだが、今日は、『ガリレオ』のことに触れたいのではない。

触れたいのは、福山が主演することになる来年度のNHK大河『龍馬伝』の方だ。

NHKの番宣によるとこれまでとは違う竜馬像だというから楽しみである。

が、福山で「これまでとは違う龍馬像」ができるのだろうか。

というのも福山ではこれまで同様風来坊的且つ達観した目を持った日本でいう意味での「個性的」でカッコいい龍馬にしかならないと思うからだ。

まず「これまでとは違う」ということは、維新を正当化する側の見方から少なくとも逸脱するはずである。

順を追って説明しよう。

龍馬は、当時あった選択肢、倒幕、佐幕、幕府存続3つのうち、佐幕派に属していた。

いってみれば佐幕は日本的な折衷派で、慶喜も孝明天皇も各藩にも存在した当時の世論の代表格だった。

しかし最終的な選択肢は、倒幕と幕府存続という二項対立となったわけだから、倒幕派の力業であったことに疑いはない。

要するに「これまでにない龍馬像」をつくるには、龍馬を殺したのが討幕派だったことを強調した見方になるはず(「してほしい」?)ということだ。

もちろんご存知の通り、龍馬を殺したのは、新選組の2年後に結成された京都見廻組であり、幕府側だが、彼らはいってみれば京都の警察で、龍馬確保は単なる職務に過ぎず、現在の状況に照らしていえば龍馬は、警官2名を当時としては最新鋭の武器である拳銃で殺したお尋ねもののひとりに過ぎない(実際に斬ったといわれる今井信郎などにしてもほとんど記憶はあるまい)。

いってみれば実行犯が誰かによっては龍馬の人物像は変わらず、どのような敵対関係が彼の周りにあったかの方が彼の人物像を換えると思うのだ。

とすると龍馬が邪魔だったのは幕府も倒幕派も同じだが、私見を言わせてもらえば倒幕派の方が龍馬を嫌っていた可能性は十二分にある。

そしてそうした見方がこれまでのカッコイイ龍馬を凡庸にみせる(=これまでとは違う)ことになる。

そうした反龍馬チームの画策に全く気づいていない鈍感か、気づいてはいたが大久保らの周到な作戦に追い詰められた力量不足、になるはずだといいたいわけだ。

僕同様福山にそんな龍馬役は合わない。

僕同様福山では、司馬さんが結論付けたような、日本という国に縛られず、世界を俯瞰し、未来を見据えた龍馬にしかならない。

というより僕にはもともと龍馬なる人物にどうもリアリティがもてない

そもそも龍馬の名が騒がれだすのも、後年で、学者の中には全部岩倉の・・・などと書いているひともいる。

僕が考える龍馬は、自分のやりたいことの勉強には没頭もし、世界の情勢についてもいろいろ知ってはいるが、全体をみたり、プロセス・マネージメントをするなどという輩ではない。ただただ自分が進むべきと信じた道を突っ走る、ある意味鈍感で現実感覚に乏しい男である。

といったらきっと妻は「(福山じゃなくて)あなたがいいじゃない、それなら」というだろう。

全体と部分3

2009-12-27 22:57:47 | 文学
原作を知っている歴史小説が映像化されるとき、気になるのがキャストである。

その点『坂の上の雲』は観る気がしなかった。秋山兄弟も子規も僕のイメージではなかったからだ。

にもかかわらず観る気になったのは、脚本の点検役に、関川夏央の名があったから。

彼が携わっていれば、それなりにみられるものになってるだろうと思った。

といって関川の著作自体はみたことはなかった。ただ司馬さんの対談集などの解説によく登場し、「司馬さんをよく知るひと」という印象があり、よく知っているということは好きなのだろうし、司馬さんを好きなひとに悪いひとは僕以外にいるはずがないから、それだけで好印象だったのだ。

で、今日ちょっと本屋に寄れる時間ができて、関川の『坂の上の雲』について書いている本のページをペラペラとめくった。

司馬さんの作品が元来映像にしにくいのは、雑談につぐ雑談、脱線につぐ脱線で、近代小説の枠組みでみた場合完成しているといえないから、とあった。

なるほど、と思った。

司馬さんの作品の面白さは、小説を書き終えたときにしかみえてこない何かを追っかけているところにあると僕は思う。

歴史上の人物は確かに現在生きている我々より価値があるようにみえる。

我々の多くは、後世他人の口には上らないかもしれないが、秋山兄弟にしても竜馬にしても文字通り「有名」だからだ。

しかしそうであったとしても龍馬も秋山兄弟も自分という人間の総体をその後に何をもたらしたかという観点から総括することはできない。

彼らが歴史上どんなに重要であっても彼らには自分の死後に総括する機会が与えられないからだ(死後があるかわからないわけだから)。

それが現在を生きる人間の特権であり、司馬さんは、あたかもその歴史的重要人物自身になりかわったかのごとく、彼らの人生を屋上から眺めるように総括しようとする。

そのために司馬さんが選択した光ってみえる挿話をどんどん突っ込んでくる。

一見雑談につぐ雑談にみえるその部分は、司馬さんにとってもおぼろにしかみえていない、「小説を書き終えたときにしかみえないもの」への階段なのだ。

ただしその関川の作品は2ページしか読んでないので、関川と一致しているかはわからないが、「脱線につぐ脱線」や「雑談につぐ雑談」という枝葉から、その中心にあるはずの幹を紡ぎ上げることが、僕の個人的な司馬作品の愉しみ方である。

逆にいえば、司馬さんが選んだエピソードがバラバラで独立しているようであればあるほど、そこに面白みがあると考えるわけだ。

国家というか集団もそうだ。

個々は自らの意志で勝手にうごめいているようにみえて、集団全体がひとつとして機能することが望ましい。

そうした集団の望ましい在り方が、『坂の上の雲』の主題だろう。

今日(12月27日)みた第1部のナレーションの終わりでもいわれていたが、『坂の上の雲』に出てくる日本人は、それぞれが目一杯自分の翼で大空を駆け巡り、日本という国を守った。

それが歴史的には日露戦争の勝利、更に限定すれば秋山兄弟に還元されるが、それはふたりが特別だったというより、明治時代の日本の個人それぞれが日本という全体に貢献するようにうごめいたことが奇跡だった(だからこそ無名の子規や漱石が出てくることに意義がある)。

もちろん集団に属す個は集団全体をみながら仕事をすべきだがなかなか難しい。

ましてそうした個人が何人もいたのだから奇跡なわけだ。

もちろん集団全体のことを考えて個人が動くということがあってもそれが結果につながるかどうかは別だから、まさに坂の上まで行っても本来は手が届かない雲にとどいてしまった、というわけで、日本として全く痛快な歴史の1コマだったわけだが、僕の(司馬さんもそうだったと思うが)関(感)心の的はその奇跡に向う。

何がそうした背景にあったのかを知りたいわけだ。

が、その回答は小説には書かれない。司馬さん自身が書いていたと記憶するが、小説を書き上げてからわかることだからだ。

その発見は時々その後発表されるエッセイに書かれることがあるが、僕は少なくとも『坂の上の雲』に関しては読んだ記憶がない。

小説にはおそらく以下のような表面的な特徴しか浮かび上がっていない。

1)明治時代の日本が、自らの危機をあまりに認識していた。
2)死後の世界を考えることなく、現実を見据えて、行動することができた。

だから当然司馬さんとか読者の興味はその更なる背後に向うはずである。

そこで以前も書いたが、司馬さんの明治、昭和についての言及から敷衍すると、明治天皇からして、日本という風土で生まれてきた儒教風土に則っていたことに尽きる、というのが出てくる。

つまり大久保、西郷、さらには、伊藤博文らの次次々世代なのに、日本封建時代の上澄みなのである。

司馬作品のなかでその最初の顕れが、新選組だったが、なぜ上澄みだけになったかといえば、それだけ抽象化されて(=武士がいなくなって)いたからだ。

学問と剣術と格式という抽象化された結晶になっていて、いざそれをやる人間たちが生身の肉体で生きるよりそのイデアに準じた。

そしてその「武士道」と呼ばれる上澄みが世界規模の戦国時代に「武士」を「やる」起動力となった。

「男」は「漢」、「女」は「手弱女」となったわけだ。

だからいいたいことがふたつある。

ひとつは、もし司馬作品を映像化するなら、単に司馬さんが描いたエピソードをつなぎ合せても意味がない(と僕は思う)。エピソードは単に断片であり、小説にはきちんと描かれない幹まで見通し(合っているかどうかはどうあれ)、その上で映像化しないと面白くもなんともないし、それが真の意味で映像化されないということだと思う(なぜなら日本文学は行間を読むのが大切なんだから)。

ふたつめ。教育改革するなら、明治の人間を作った教育をすべきである。現在求められているのは戦国時代の世界であるから。もちろんこれは「学制」のことではなく、戦国(鎌倉からでもいいが)から明治(近・現代)にいたる歴史教育に尽きる(以前書いた僕の教育改革案の一端がこれである)。

トトロ行進曲

2009-12-25 22:35:24 | 音楽
今年のクリスマスは人並みにケーキがあった。

たかがトトロの形をしたシュークリームと侮るなかれ、白髭のシュークリームは湯斗同様素材は絶対に落とさないことをモットーにした現在では希少なお店である(小麦も国産有機!)。

娘もトトロの耳の部分が好きで、お店につくと早速、♪Hey, let's go, hey let's go, I'm happy as can be♪(トトロ英語版の歌の冒頭)と唄い始めた。

しまいには、Yeah! Yeah! を発作的に連発して、他の客を驚かせ、更に「なんなのこの子は?!」という顔を一様にさせ爆笑させた(口を抑えて笑いを押し殺してはいたが)。

しかも最近 ジュリー・アンドリュースの『Mary Poppins』 も好きで、僕がよくディック・ヴァン・ダイクの真似をするためか、"Step in Time"(映画中に使われる曲)と叫びながらジャンプしてひとりでミュージカルをやりはじめた。

血は争えない、と思った(もちろん妻似という意味だが)。

追伸:以前Wonderと題したポストで紹介したパン屋の実名を書かないのは、残念ながら材料の点で完璧ではないからである。小麦が有機でないのを許すとしても水が水道水で、以前も書いたように僕の体が拒絶してしまう。僕としては、きちんとした食べものを出すマジメなお店はどんどん紹介したいのだが(つぶれたら困るから)、水をこだわれないのでは載せられない。水さえ替えてくれたら週に何度か買いに行きます、と交渉したが、クビを縦に振っていただけなかった。


民主主義という宗教3

2009-12-24 21:56:03 | 音楽
「取り返しつかない」ノーベル賞受賞者が仕分け批判(読売新聞) - goo ニュース

以前この記事についてpostして引っ込めたのは、今ひとついいたいことがはっきりしなかったから。

ここのところ時間がなくて(言い訳)、納得いくまで突き詰められたポストがほとんどなく、上記記事についても、「気に入らぬ」ことはわかっていくつか理由を挙げたものの、それが本当に僕が気に入らない理由ではなかったから、引っ込めた。

もちろんそのときに書いた、ノーベル賞受賞者という肩書きとオバマ大統領の言を後ろ盾にして科学の重要性を正当化しようとする科学者とは思えない振る舞いは気に入らない。

理を突き詰める仕事しながら矛盾を感じないのか(本来「矛盾」という漢字は、「矛」と「盾」を持つことだから全然悪い意味ではなく、むしろ好きな言葉なのだが)。

と、それはそれで腹立たしかったのだが、もっと腹の底から湧き起こるような怒りを起こさせたのはこれではなかった。

その理由がずっとわからなかったが、やっと回答がみつかった。

最近娘が好きなClarence Gatemouth Brown を聴いていたときのこと。

前回も多少書いたが、Brownの悲報を伝える新聞の記事には、彼のお葬式の模様を伝えているものがあった。

多くのミュージシャンが集まったが、来ていないB. B. Kingに話が及ぶと、みな一様に「Kingは…」で終わりで、King が自分たちとは違う人種であるかのような素振りであった(いじめ?)。

その違いは、「成功」と「非成功」であるのは間違いないとして疑問が生じる。

なぜブルースに関しては、よく「20~30年代のブルースでなければ本物じゃない」といわれ、僕もまたそう思い、娘もそうしたブルースを好み、Ray Vaughanなど新しいブルースメンを却下するのはなぜか。

これは単に成功者と非成功者の対比ではない。

みんながいいといっているのは、その対比が生まれる前の時代のブルースだからだ。

つまりMinorities と認定される前のBluesなのである。

認定済みMinorities が歴史に登場するのは1960年代のことである。

認定されると、自らの不幸をあーだこーだと声高に叫び、口を開けて援助や福祉政策を待つようになった。

しかし認定される以前のMinorities にそんなことは許されない。

理不尽な苦境の中で自らの生を切り拓くのである。

そして本来、そうした認定される以前のMinorities の言動こそがPostcolonialismと称される人間探求の学問対象になるはずである。

なぜなら人間の本性は、現在のような法律と金というフィクションで構築された擬似現実ではなく、本物の現実に直面してこそ顕れるものと考えられるからだ。

いうまでもなく、そうした状況下を生きたのが20-30年代のブルースメンで、彼らは弾丸になることしか考えてなかった。

しかし今の日本で目に付くのはそうした擬似現実というか民主主義というフィクションに依存しようという輩ばかりだ(もちろん全員とはいわない)。

President など全くいないで、みなが組織の中でもたれあって昔大きな失敗をしたのを忘れたか。

そして僕の民主主義の嫌いな点もまさにそこにある。

ヘーゲルが理想とするような個人と国家の対等な関係は達成されそうになく、国家と個人とをつなぐ集団を経て、国家にぶら下がる、民主主義という宗教団体にすぎない。

上記ノーベル賞受賞者たちも同じだ。

世界一流と認定された頭脳の持ち主が、金と法律という擬似現実のなかでしかその力を誇示できないのなら、そんなひとたちが次世代を担う科学技術など発見できるとは思えない。

なぜなら歴史上次の時代を作り出すのは、認定されていないMinorities だからだ。

Minorities と認定されたら、Minoritiesが持つ素晴らしい側面を真っ先に失い、ただ認定されていないMinorities に依存する。

このノーベル賞受賞者たちにどうやら僕はその影をみて気に入らなかったのだ。

これも以前書いたが、現在必要とされるのは、左の思想であると思うが、それが進展していない真の淵源には、日本の黎明期なら秦氏、室町であれば足軽、戦国大名、幕末なら下級武士といった、認定されていないMinorities が、存在しないことに尽きると思う。

今必要なのは引っ張る人間で、ぶらさがる人間ではない。

あんたたちまでぶらさがるのかと嘆かわしくなった。

いずれにせよ、音楽は偉大だ。

乗り換え

2009-12-15 18:19:58 | 将棋・スポーツ
中国副主席との会見、亀井金融相「当たり前」(読売新聞) - goo ニュース

民主党のこうした政策が単に天皇の政治利用云々と解釈してちゃダメですよ。

小沢民主党は、これからの日本がよりそう相手は、中国だということを明示することで、問題は、普天間基地移設問題も含めて、そうした揺さぶりのなかで、過渡期的な状況をどのように切り抜けるかだと考えているんだと、普天間の記事を書いたあと気づいた。

おそらく小沢以外に民主党でその目論見を知っているひとはいないかもしれない。間隙を縫っていろいろな問題を解決したら大したものだ。

それより亀井の言なんか載せなくていい。つけあがるだけだ。

そしてもうひとつ乗り換えといえば、松井。

松井秀、エンゼルスと1年契約 基本合意と米メディア(共同通信) - goo ニュース

いくらWorld Series で活躍したからといって、これからの松井に大きな期待はできない。

だけど松井としては複数年契約したかったね。

My Girl

2009-12-12 00:22:34 | 雑談(ジョーク)
今トレーニングしながら、<マイ・ガール>(最終回)をみた。

泣けた。

実は今日はじめてみたので、ストーリーを把握できていないのだが、おそらく娘のいる女性と結婚して、その女性が亡くなり、血がつながらない娘と暮らす男の話で、そんなこんなで自分の夢と娘との生活という二者択一を余儀なくされ、1度は娘との生活を選ぶも、娘の後押しもあって夢を選ぶ、というものだった(間違っていても訂正や抗議のコメントはやめてください、もうそれで僕は満足しているわけですから)。

そして何はともあれ繰り返しだが、泣けた。

しかも番組の合間のCMに出てくる柴崎コウがとても美しかった。

柴崎というといろいろ僕レベルのイケメンと付き合っては別れてるやつだが、そんなニュースをみるたびに「あんなのどこがいい?」と反感ばかり募っていた。

が、今日の柴崎は納得の美しさだった。

今年3つめの恋(渕岡さん三谷たくみ、につづく)が始まった。

カレー2

2009-12-11 21:09:59 | 料理
都職員賞与92万円 民間の3倍弱 格差鮮明に(産経新聞) - goo ニュース

以前も書いたけど、「公僕」がなぜこんなにもらえるのだろう。

公務員はクビがないわけだから、給料を民間の平均(以下)で十分だと思うのだが(もちろん特殊な技能や資格を有する場合も民間のそれに合わせて)。

これまでの地方公共団体や国がかかえる借金となったハコモノのの肩代わりは公務員や政治家のなかで片付けることにしてほしい(退職者の年金含む)。

天下りなどを禁止するより、公務員全体にいく全額に制限を設け、そのなかで勝手にぶんどりあうことにしてほしい(そうすれば公務員や政治家にもう少し自重がみられるようになるだろう)。

というのも国民が選んだ議員の失敗は国民全体でとるところに反省材料があったと思うからだ。

亀井がいうように、必要なときにはドンと出すは気前がいいようにいいようにみえるが、それが失敗した場合は、亀井とそれに振り回される友愛の民主党執行部には全財産をなげうってとってもらおう(民主党役員も命がけだといっていたではないか)。

金をもらって仕事してるんだから利益をあげて当然であり失敗したら失わなければならない。

さて、こうなってみるとネグリがいっていたマグニチュードもきちんと説明していないことがわかる。

かつてのような資本家と労働者の問題であれば、両者の関係は共に前者が後者の永続を求めなければならないという制約があった点で考えやすかったが、現在はその区別がなくなり、金の流れ自体がカレーのように複雑かつ流動的である。

そして以前も書いたように、金だけが増殖するマグニチュードのなかを勝手に動き回り、生身の人間はついていかれなくなる。

だからそうなる前に、各国家が共同戦線をすべきことは食糧確保である(なぜなら金と食糧の辻褄袷が難しいことが問題なわけだから)が、実現は難しい。

そうした移行が近代からみるとあまりに革命的だからである。

全体と部分2

2009-12-08 22:01:02 | 将棋・スポーツ
普天間、首相いつ決断 解けぬ連立4次方程式 続く“初心者運転”(産経新聞) - goo ニュース

こういう問題はとにかくプロセス・マネージメントが大事で、決着すべきタイミングというのがあるはず。

日本政府の対応は、わざわざ一番ぶつかるタイミングを選んでいる。

ここへ来て、解決策を模索してること自体が驚愕の事実である。

4次方程式(日米関係、連立、沖縄、国益)の「国益」には「国の安全」とか「拉致問題」も入っているということだろうが、「国益」が何より優先されるべきことで、そのほかは比較しようがない。

一番大事で必要なことに金をかけてそれが地方に還元されればいいのだから、ここまできたら基地移設地をある程度人工でつくってその仕事を地方(建築業)に分割するしかない。

いずれにせよ100年前の日本のように、全体と部分をみるひとがいないように感じるのは僕だけか。

気の持ちよう15

2009-12-06 22:10:07 | 宗教
今日は、Realizationについて。

まずは娘のこと。

娘は、妻と3人で散歩中でも、転ぶと僕を怒る。

たとえ妻が娘のそばにいても僕を怒る。

なんで転ぶ前に支えてくれないのか、というのだ。

なんだかすごく理不尽に感じるかもしれないが、そういうわけではない。

むしろ僕はとても誇らしい気持ちになる。

転ぶのなんてもちろん僕の所為ではないだろうが、そこまでみていてくれるはずという安心感を与えられていることが嬉しいからだ。

家の中だけでなく公園などで娘が転びかけても間一髪僕が彼女を支え、倒れなかったときの娘の「やっぱりパパだ」という顔を見るのは楽しい。

ちなみに妻が娘と散歩するときに転んでもどんなに痛くても怒らない。

そのため妻は感心しきりである。

そして自分と一緒にいるときにはみられない娘の顔をみながら「ほんとにパパが好きなんだね」と切なそうにいう。

そういわれると、僕も責任を感ぜざるをえず、アドバイスする。

あと何十年間かしか娘とはいられない、この瞬間がかけがえがないことをどれほど肝に命じるかにかかっている、と。

だから僕としては日々健康に人一倍気を使ってるのだが、今季は休日がなくしかも家に帰ってからは娘と一緒だから、休む間がない。

トイレに行く暇もないから、ここのところ4日ほど constipation だった。

そして健康といえば重要になってくるのが気功である。

が、ここのところ自分の気功のレベルが頭打ちで困っていた。

更なる高みに進みたいのに、その糸口さえみえてこない。

そこで道教系の気功の本を二冊(英文)読んだ。

さして目新しい情報は気功についてはなかったのだが、道教の世界観が理路整然と説明されていた。

一般に気功は密教でも神道でも道教でも「本不生」の状態を定位置とするが、その捉え方は全く異なる。

道教の特徴はなんといっても気を含むすべてを物体と解釈するところにあるが、その理解が次のステージへの扉を開いたらしい。

ほぼ一瞬で(正確に言えば三瞬くらいで)自分の肉体すべてを気で包むことができるようになった。

唯一気功の師匠といえる方に以前お会いしたとき、「わかるまではだめ」といわれ、その言葉がやけに心に残ったが、その言葉の真意がやっとわかった気がした。

「理解」することが「実現」につながる、つまり realization ということだ。

しかも realization の「理解」はご存知のように単に「わかる」ことではない。

これ以上ないといえるほどに肝に銘じることだ。

Realization という言葉の意味がやっとわかったように思った。

追伸:これまでの「気のもちよう」123456789101112、13、14