魔裟斗、有終リベンジ!最強引退だ!/K-1(サンケイスポーツ) - goo ニュース
魔裟斗素晴らしかったね。
サワーの方がスピードは相変わらずあったと思うけど、手数とタイミングでかわした。
それからそうした技術的な対応ももちろんだけど、このひとは、イチローもそうだけどやるべきときにやるべきことだけをしっかりとできるひとで、その点に感服する。
魔裟斗もイチローもそういうときはなんというのだろう、自分にしか聞こえない音楽に包まれてほかに何も聞こえないかのようになる。
自分の使命(=やるべきこと)がわかっている人間は時間というかスピードというかコルト・イ・デレチョの問題になるわけだが、そのやるべきこととは「革命」である。
なぜならやるべきことはそれ以前の自分では勝利できなかった相手に勝利することであり、自分に革命を起こさなければならないからだ。
そんな文脈から思い出されるのがベートーベンだ(大晦日だし)。
現在評価されるベートーベンの作品は、1802年前後に難聴になってから、作られた。
音楽家としての時間に制限が設けられたあと自分の使命を自覚したベートーベンは、まさに革命をする人間としての「英雄」を音楽(作品55)にした。
そして第九「歓喜の歌」。
シラーの詩はよく人類平等とか共和主義みたいな解釈をつけられるけど、僕は全くそういう解釈をしない(というか単に僕が以下に紹介するような考え方の持ち主ということなんだろうけど)。
ひとことでいえば、革命を起こした、使命を果たせた「歓喜」だ。
人間にはいろいろ使命というか生きる目的があると思うが、そのシラー+ベートーベンの詩にはふたつのことが書かれている(と思う)。
魂から付き合える人間をみつけることと、革命を起こすことである。
ベートーベンは最終的に後者を選ぶことになった人間だが、前者にも相当入れ込んでいた。
おそらく人類平等みたいな解釈は、
汝が魔力が再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを。
全ての人々は兄弟となる。
というシラーの詩を変更した部分から来るように思うが、僕は、ここには上記ふたつの異なる人生の目的を持つ人間が両方とも人類だと述べているのだと思う。
でなければ、シラーの詩を変更する理由がない(シラーの原詩はご自分で調べてください)。
世も更けたのでこの辺で。
みなさん、よいお年を。
魔裟斗素晴らしかったね。
サワーの方がスピードは相変わらずあったと思うけど、手数とタイミングでかわした。
それからそうした技術的な対応ももちろんだけど、このひとは、イチローもそうだけどやるべきときにやるべきことだけをしっかりとできるひとで、その点に感服する。
魔裟斗もイチローもそういうときはなんというのだろう、自分にしか聞こえない音楽に包まれてほかに何も聞こえないかのようになる。
自分の使命(=やるべきこと)がわかっている人間は時間というかスピードというかコルト・イ・デレチョの問題になるわけだが、そのやるべきこととは「革命」である。
なぜならやるべきことはそれ以前の自分では勝利できなかった相手に勝利することであり、自分に革命を起こさなければならないからだ。
そんな文脈から思い出されるのがベートーベンだ(大晦日だし)。
現在評価されるベートーベンの作品は、1802年前後に難聴になってから、作られた。
音楽家としての時間に制限が設けられたあと自分の使命を自覚したベートーベンは、まさに革命をする人間としての「英雄」を音楽(作品55)にした。
そして第九「歓喜の歌」。
シラーの詩はよく人類平等とか共和主義みたいな解釈をつけられるけど、僕は全くそういう解釈をしない(というか単に僕が以下に紹介するような考え方の持ち主ということなんだろうけど)。
ひとことでいえば、革命を起こした、使命を果たせた「歓喜」だ。
人間にはいろいろ使命というか生きる目的があると思うが、そのシラー+ベートーベンの詩にはふたつのことが書かれている(と思う)。
魂から付き合える人間をみつけることと、革命を起こすことである。
ベートーベンは最終的に後者を選ぶことになった人間だが、前者にも相当入れ込んでいた。
おそらく人類平等みたいな解釈は、
汝が魔力が再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを。
全ての人々は兄弟となる。
というシラーの詩を変更した部分から来るように思うが、僕は、ここには上記ふたつの異なる人生の目的を持つ人間が両方とも人類だと述べているのだと思う。
でなければ、シラーの詩を変更する理由がない(シラーの原詩はご自分で調べてください)。
世も更けたのでこの辺で。
みなさん、よいお年を。