米中の教育に関する記事があった(米:NY Times、中:Washingtonpost)。
健全なコミュニティをつくるための教育目標は、「和して同ぜず」を実現する個人をつくることだと思うが、まずは「和」が重要。これがなければ社会自体が成り立たないし、「同ぜず」も「和」がなければただの雑居にしかならない。
両記事は、米中両国の「文化」と呼べる「和」についての特徴をそれなりに浮かび上がらせていたように思う。
まず中国に関する記事。昨今Practicality が偏重され、マナーほか、伝統的な美徳がないがしろにされていることを問題視している。
中国の「和」は、歴史的にみると、儒教と官僚+王朝制度によって保たれてきた。儒教は、以前も書いたが、礼という対人関係重視から孝を重視したもので、官僚+王朝制度とともに既存のシステム温存には強力な基盤だから、「夷」民族が皇帝位につくことさえ可能だった。
それに対抗する手段として、「尊王攘夷」という風潮があり、日本の後醍醐天皇や江戸時代の水戸に飛び火したが、当の中国では、例えば明の遺臣が日本に逃げてきたり、禅僧が死士となるかの雑居状態にしかならなかったのは、儒教+官僚+王朝制度という磐石の基盤があったからではなかろうか。
19世紀に西洋が入ってきて、「夷」というより「異」民族が入ってきたとき、やっとそうしたシステム・エラーに気づいて、改変の必要性を痛感したわけだが、結局まとまれず、やっとひとつにまとまれたと思ったら、対華21か条要求反対に始まる反日だった(日清戦争は、日本と中国の問題ではない)。
大戦後は、儒教と似て非なる「共産主義」を導入したが、このほど経済重視傾向が強まり、中国政府はただの雑居にならないよう注視し、これまでの中国が歴代で使ってきた、法治(秦)、孔子の教えを基盤とする儒教(いくつかの王朝)、反日を織り交ぜながら使っているというところだろう。
ただ同記事に載っているPracticality(=金)に対するバランスのとりかたは、まだ相対的な問題、すなわち二元思想のレベルでしかなく、更に記事の著者自体問題をきちんと把捉せずただレポートだけに終わっているのが残念なところ。
中国の本質は、民主主義などの「和」を成立させる国民一人一人の責任を問うような本質論ではうまくいかないとみなしているところで(孫文の三民主義はどうなった?)、本質と距離のあるイデオロギーを使うわけだが、そろそろそうしたイデオロギー偏重こそ問われるべきことだ。
一方アメリカは本質論にできるだけ近づきつつ展開する。
アメリカは以前も書いたが建国の途上からWASPという括り方はしたが、実際は、北欧、ドイツ系移民が多く、移民ならぬ「異民」集団が対英(No taxation without Representation)という真っ当な主張からスタートした。
その後アメリカは、異民族集団がひとつになる場として、旧約聖書と野外礼拝を介して「公」を形成していく。表側では、南部中心の階級制度と北部中心の資本主義社会に分裂していき、さも相反するベクトルが構築されたようにみえたが、どちらも「金ぴか時代」という言葉でくくられるように「金」重視の「適者生存」だった。
そして20世紀にもその流れは引き継がれ、正確に言うと19世紀後半から、異民による移民流入が安価な労働力を提供し続けることで大量生産方式を稼動させてきた。
が、60年代に公民権運動を経て、King 牧師が様々な階級、文化背景を持つ人間たちが交わることによって互恵関係を保てるはずという理想とも本質ともつかぬ理念を確固として持つようになり、その理念を実現させる「和」が、上記記事に紹介されている。
昨今のアメリカは、中東を中心とした戦争難民が押し寄せているが、Decatur の学校では、そうした難民を分離するのではなく、アメリカの多様性として混在させて化学変化を起こさせ、King 牧師の理念を実行に移している。
出身国は40カ国、飛び交う言語は50、宗教はキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズーで、貧富の差も激しく、更には英語がわからないどころか、黒板に書いた図なり文字なりが何かを意味することさえわからない子供たちを一緒にするという試みである。
アメリカの場合親が学校教育に協力するのは当たり前なので、親の教育というか共同作業もしくはその前段階である作業部会みたいなもので、親の意識も徹底させる。つまり「和」をつくるために、異民族集団がコミュニケーションをする「公」という土台作りをする、という意識である。この「公」作りがアメリカ「和」教育の土台といえる。
追伸:沖縄集団自決。
健全なコミュニティをつくるための教育目標は、「和して同ぜず」を実現する個人をつくることだと思うが、まずは「和」が重要。これがなければ社会自体が成り立たないし、「同ぜず」も「和」がなければただの雑居にしかならない。
両記事は、米中両国の「文化」と呼べる「和」についての特徴をそれなりに浮かび上がらせていたように思う。
まず中国に関する記事。昨今Practicality が偏重され、マナーほか、伝統的な美徳がないがしろにされていることを問題視している。
中国の「和」は、歴史的にみると、儒教と官僚+王朝制度によって保たれてきた。儒教は、以前も書いたが、礼という対人関係重視から孝を重視したもので、官僚+王朝制度とともに既存のシステム温存には強力な基盤だから、「夷」民族が皇帝位につくことさえ可能だった。
それに対抗する手段として、「尊王攘夷」という風潮があり、日本の後醍醐天皇や江戸時代の水戸に飛び火したが、当の中国では、例えば明の遺臣が日本に逃げてきたり、禅僧が死士となるかの雑居状態にしかならなかったのは、儒教+官僚+王朝制度という磐石の基盤があったからではなかろうか。
19世紀に西洋が入ってきて、「夷」というより「異」民族が入ってきたとき、やっとそうしたシステム・エラーに気づいて、改変の必要性を痛感したわけだが、結局まとまれず、やっとひとつにまとまれたと思ったら、対華21か条要求反対に始まる反日だった(日清戦争は、日本と中国の問題ではない)。
大戦後は、儒教と似て非なる「共産主義」を導入したが、このほど経済重視傾向が強まり、中国政府はただの雑居にならないよう注視し、これまでの中国が歴代で使ってきた、法治(秦)、孔子の教えを基盤とする儒教(いくつかの王朝)、反日を織り交ぜながら使っているというところだろう。
ただ同記事に載っているPracticality(=金)に対するバランスのとりかたは、まだ相対的な問題、すなわち二元思想のレベルでしかなく、更に記事の著者自体問題をきちんと把捉せずただレポートだけに終わっているのが残念なところ。
中国の本質は、民主主義などの「和」を成立させる国民一人一人の責任を問うような本質論ではうまくいかないとみなしているところで(孫文の三民主義はどうなった?)、本質と距離のあるイデオロギーを使うわけだが、そろそろそうしたイデオロギー偏重こそ問われるべきことだ。
一方アメリカは本質論にできるだけ近づきつつ展開する。
アメリカは以前も書いたが建国の途上からWASPという括り方はしたが、実際は、北欧、ドイツ系移民が多く、移民ならぬ「異民」集団が対英(No taxation without Representation)という真っ当な主張からスタートした。
その後アメリカは、異民族集団がひとつになる場として、旧約聖書と野外礼拝を介して「公」を形成していく。表側では、南部中心の階級制度と北部中心の資本主義社会に分裂していき、さも相反するベクトルが構築されたようにみえたが、どちらも「金ぴか時代」という言葉でくくられるように「金」重視の「適者生存」だった。
そして20世紀にもその流れは引き継がれ、正確に言うと19世紀後半から、異民による移民流入が安価な労働力を提供し続けることで大量生産方式を稼動させてきた。
が、60年代に公民権運動を経て、King 牧師が様々な階級、文化背景を持つ人間たちが交わることによって互恵関係を保てるはずという理想とも本質ともつかぬ理念を確固として持つようになり、その理念を実現させる「和」が、上記記事に紹介されている。
昨今のアメリカは、中東を中心とした戦争難民が押し寄せているが、Decatur の学校では、そうした難民を分離するのではなく、アメリカの多様性として混在させて化学変化を起こさせ、King 牧師の理念を実行に移している。
出身国は40カ国、飛び交う言語は50、宗教はキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズーで、貧富の差も激しく、更には英語がわからないどころか、黒板に書いた図なり文字なりが何かを意味することさえわからない子供たちを一緒にするという試みである。
アメリカの場合親が学校教育に協力するのは当たり前なので、親の教育というか共同作業もしくはその前段階である作業部会みたいなもので、親の意識も徹底させる。つまり「和」をつくるために、異民族集団がコミュニケーションをする「公」という土台作りをする、という意識である。この「公」作りがアメリカ「和」教育の土台といえる。
追伸:沖縄集団自決。