雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

憲法論議

2007-05-04 13:37:12 | 時事
日頃日曜日も仕事なので、Golden Week でやっと休みらしい休みだと思ったら気が抜けたらしい。久しぶりに風邪を引いた。こんなにいい天気なのに・・・、トホホである。やれることといったら、こうしてBLOGを開くことぐらいしかなかった。

この時期、憲法論議が盛んになる。特に、その辺りを歩いていると、それなんとかの集会がある、というビラが僕の手にねじこまれる。ひとつもらうとも別のももらわなければいけないから、受け取らないことにした。

というより、護憲派・改憲派どちらと話をしてもケンカになる嫌な経験があるからかもしれない。いつも僕と彼らの焦点はズレる。問題になるのはいつも第9条である。

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

僕の焦点は、①のなかの「国際紛争を解決する手段としては」である。これに「自衛」が含まれるかどうかを焦点とする。

戦争という解決手段は、当該の問題処理に無関係の指標を選択することだから、これは避けるべきである。しかし実際、そうした無視はいくらでも散見される。追い詰められたり、権力や強力な武器を持つと、人間はいくらでも理性があるとはとても自称できない決断を繰り返すし、僕は暴力とは物理的な圧力に限らず問題処理の適切な指標選択がなされなければそれはすべて暴力と考えるから、そんなことは日常茶飯事である。時に法律さえがそのような暴力になることもある。また所詮の人間の判断力はそこまでとも思っている。

しかも日本国内ではなく、世界の人間がどう考えるかに関係するから一筋縄ではいかない。大体「農業が自然に反するかどうか」や「伝染病にワクチンを打つことが当然かどうか」という問いに正反対の回答が生まれるとしたら、世界での「自衛」の捉え方は収拾がつかない。そして大体戦争は自衛のためにという他者からみたらいつも自分勝手で、「春秋に義戦なし」的なものである。

したがって我々が引くべき線引きは、「国際紛争」と当該の問題の解決と指標とを無視する輩に対する「自衛」であって、「武力を持つ・持たない」という文言との整合性とか「戦争は惨憺たるものだから」という一方的な暴力反対ではない。このグレイゾーンをそのときそのときの国のリーダーがきちんと判断できるかどうかにかかっているということである。

教育基本法」のときもそうだったが、悲しいかな、現在我々が世界と関わる仕方の単位は「国」であり、事戦争に関する限り、それ以上でもなければそれ以下でもない。

現行憲法9条は、上記整合性を日本が破ることを禁じつつ、他国がそれを破って侵攻してきた場合には「自衛」を容認できるわけだし、同盟国アメリカに対しても、アメリカが「押し付けた」憲法なんだからと、アメリカの横暴に付き合う歯止めにもなる点でまだまだ使える価値はあると思う。

大事なのは我々がしっかりと考えて自分の利益を代表するからだけでなく、そういう一大事のときにしっかりとした舵取りをしてくれる国会議員を選ぶこと。もし自分の意見に賛同するものがいないのなら、それなりに活動すること。無責任が一番よくない。

英文版はこちら

護憲改憲譲れぬ思い 憲法施行60年 九州各地 投票法案に賛否(西日本新聞) - goo ニュース

憲法施行60年、それぞれの5・3(朝日新聞) - goo ニュース


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