雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

八卦

2009-11-26 21:31:31 | 料理
新型ワクチン、93人に重い副作用…死亡26人(読売新聞) - goo ニュース

ワクチンの話をみたりきくたびに、このワクチンの効く確率はどのくらいだろうか、といぶかる。

一般に薬の効能は、実効性が30%も確認されれば十分と聞いたことがあるからだ。

薬の実効性はRCTという方法によって確認されるが、これはプラシーボ効果の可能性を出来る限りなくすもの。

例えばある薬Aが本当に効くかどうかを調べるとき、被試験者にあらかじめ本物かニセモノが与えられるかわからないと告げておき、効果を調べる。

なんだか本当にこの検査が実効性がるのかわからないが、まず一番の問題は、個体差を全く考えないところ。

例えば僕に効いて友人には効かない場合ぼくと友人の体質ほかの環境的条件がその明暗を分けたことになるが、そんなことはこの試験では考えない。

だから実質ちょっとでも成功例があれば「薬」ということになって、あとは副作用の検査をする。

昨今「ワクチンの検査に慎重に」などとほざいているが、慎重になるのは効果ではなく副作用に対してという意味である。

そうした薬がわんさかあるから、よく病院で医師が、

「ちょっとこれで様子をみてみましょう」

などというのだ。

医師にしてもAを使ってダメならB、BでだめならCと換えていくだけで、悪く言えば「あたるも8回、あたらぬも8回」てな具合である。

昨今ではDNA検査の結果適合しそうな薬を出来る限り正確に選ぶことになっているが、そもそも選択肢が少ないのだから、「個別に適合」どころの話ではない。

つまり薬は一般的にいって効かない可能性の方がはるかに高いのだ。

というわけで新型ワクチンはもともとどのくらいの実効性があるとされて薬として認証されたかはわからない。

そこで我が家ではワクチンを受けるつもりは全くない。

僕が調合した大紅袍をはじめとする中国茶のブレンドが対策方法である。

Feminism と Postmodern 6

2009-11-23 21:15:43 | 文学
強姦致傷被告に裁判員「むかつくんですよね」(読売新聞) - goo ニュース

むかつきますわな。

裁判所での受け答え以前に、この犯罪自体がとても。

こういう犯罪をみる限りでは、結局、Postmodernism を援用したGender は単なる一部の人間に議論の題材を与えただけで、実効力がなかったということでしょうか。

とにかく僕がむかつくのはそうした犯罪がまだあるほど人間が未開である点だ。

本来は「近代の超克」さえねらっていたはずが、既存の二項対立整理法が抱える矛盾、BがなければAの優位が確立しえない、ことだけの発見の延長上から更に伸びることがなかった。

ただし政治的な力にはなった。

Marx をきちんと読んでるわけではないからなんだが、Feminists は、女性というカテゴリーを政治的な力にして抽象化させるという use から exchange のような変化は起こした。

Woman がWoman Power になったということだ。

これはFeminists の念願ではあったろう。

が、僕のように純粋にその理論の新しさに目を奪われた人間にとっては、women になってくれることを望んでいた。

論旨の間違いはどこにあったのだろうか。

まず formalism 自体を嫌ったところにあるだろう。

theory は必ず例外を抑圧するから、というものだった。

またfeminism が近代の超克を謳いながら、近代そのものが持つ本質的な問いをなおざりにした。

Socialist Feminists が設定する近代は、資本家と労働者しいてはそれを発展させた帝国主義による二項対立であり、これがあるから一夫一妻制ほかの秩序が生じたと考える。

「自殺」を禁じ、「死刑」が制定されるという一種の矛盾も、資本家の利益確保とその永続を念頭に置いたものだと敷衍される。

そうした近代の神話には手をつけなかった。

そして一番の原因は、生物学的性差と文化的性差の因果関係がない、という結論付けたことだ。

上記ふたつの原因はおそらく反証があがるだろうが、最後の理由がFeminism最大の失敗だったことに先日気づいた。

おそらく世界中のFeminists が「因果関係がない」で済ませていただろうが、実はそうではなかったのだ。

もちろんそうした回答を今回も気前よく開陳するほど僕は善良ではない(本当のことをいえば、Feminismの講座でそれを課題にしているからここで公開できないだけだが)。

もてなし2

2009-11-22 19:39:55 | 料理
もてなし」に書いたばかりでなんだが、娘が妻のところにも行くようになった。

もちろん妻が僕と同じやり方をしはじめたからだ。

しかし最初からうまくいっていたわけではなかった。

1日目、仕事中の僕にメールが来て、「私はあなたような積み重ねがないからできない。それにそんなことをやっていたら家事なんか何もできない、あなたがやろうとしていることは理想だ」ときた。

僕は「もちろん自身の健康と必要なことはどうしても差し引かなければならなくなるけど、娘とのことで後悔したくないだろ。今できることは今しかできない。ただ僕がやっているような技術のことは考えなくていい。君には君にしか出来ないことがあるし役割も違う。ただ娘が赤ん坊だと思って甘く見るな。君だったらどう思うかだけ考えて行動すればいい。君の気持ちだけはちゃんと伝わる。」と書き送った。

妻は「わかった、もう少し頑張ってみる」と返事をよこして、2日め、3日め、と過ぎた。

すると娘の妻に対する態度がまず変わった。ひとことでいえば、娘が妻を信頼しはじめた。

僕は、「信用」と「信頼」には絶対的な差があると思う。

前者は用を頼めるだけだが、後者は依存できる、ということだ。

当然その違いを妻は肌で感じた。

ふたりの距離が傍目でみていても急接近した。

以前も書いたが、本当のコミュニケーションは、社会的な役割を超えたところにあると思う。

自分が父で相手が娘だと思っていたのでは達成できない。

裸の自分になって一切の虚飾を振り払ってぶつかりあう。

しかし「もてなす」場合にはもうひとつ留意点がある。

自分がぶつかりあいたいときにぶつかるのではなく、相手がぶつかりあいたいときにぶつかれるようにすることだ。

妻は、「はじめて子育ての楽しさがわかったような気がする」と感動していた。

早寝

2009-11-20 22:53:53 | 将棋・スポーツ
最近時間をつくっては、将棋ソフトと指し始めた。

僕には昔から将棋で羽生名人に挑戦したいという願望があってマジメに実現させたいと思っている。もちろん今の実力では所詮無理だから、本腰をいれて、準備しなければならず、おそらく真剣にやりはじめて最低5年はかかるだろうとみていた。

しかしなかなか本腰をいれてやる時間はとれない。

あまり先延ばしにすると、僕も羽生も耄碌して、対戦さえできそうにないから急ぎたいのだが、いかんせん本業が軌道に乗らないと、真剣にかかりきりになれないわけだ。

だからせめて真剣にやらないまでも今の棋力を落とさないようにしたいというわけで、突発的に将棋にいそしむのだが、困ったことに少し将棋から離れると格段に棋力が落ちた気がしてならない。

特にきちんと受けられずに負けると、娘が寝てからの時間しかないので早差しではあっても、その感がはなはだしい。なぜその攻撃の筋を予測できなかったのか、と自分の愚かさを罵倒したくなるほどだ。

おそらく信長も本能寺で1度くらいそう思ったろう。

まさか桶狭間の義元を「奇襲」で討っておきながら、似たようなやり方で光秀にやられるわけだから。

誰だったかによると、本能寺宿泊はそれほど悪い選択ではなかった。

当時の本能寺は、寺でありながら、要塞だった。

なにせその十数年前に京都は宗教戦争があって、京都の市民たちが信仰する法華宗は比叡山に力ずくで追い出された経緯があり、当然そうした武力衝突を念頭において再建築された法華宗随一の防護力を持つ本能寺だったからである。

問題は将棋だった。

討たれる前日の夜、信長は茶会を開いてドンチャン騒ぎをしたあと将棋や囲碁をやって遊んで深夜に床に入った。

その寝入りばなを起こしたらさぞ信長は怒るだろうと怖れた家臣が光秀が京都に向ったらしき事実を知りながら伝えなかった。起きてからにしようと。

物見ではなく、料理番か何かが鮎を獲りに行ったかして、不審な光秀たちをみたのだったが、その事実が信長に伝わっていれば、本能寺の周辺に分宿している家臣たちに紛れ込むぐらいのことはしたろう。

もちろん僕としてはこれを単なる油断ととらえて小説にしたいわけではないのだが(もっと信長のやり方の本質的な部分に関係していると思う)、今は擱こう。

とにかく将棋に興じるとつい時間の経つのを忘れて勝つまでやりたくなったりするところに運命が一枚かんだのだ。

というわけで今日も勝てなかったが、ここで寝よう。

もてなし

2009-11-19 22:09:28 | 料理
久しぶりに実家に行った。

母に、子育てに関わり過ぎ、といわれた。

男の仕事にも支障をきたすし、身体を壊す、と。

指摘されるのはわかっていた。

が、娘のことを人任せにはできなかった。

娘とはあと何十年一緒にいられるだろう。

別れる時に、精一杯のことをしたと思えるように、娘とするひとつひとつの行為を大切にしたいし、できるかぎり一緒にいられるようにしたかった。

味噌汁がひとや気構えによって異なるのだから、音楽を聴くときの身体の揺らし方、絵本の読むときの抑揚や最高潮への持っていきかた、ご飯の食べるときの順番や組み合わせ、は、いろいろ試行錯誤しながらやってきた。

やがて娘は僕から離れなくなった。

少なくとも僕が自宅にいる間は、妻ではなく僕に蜜柑をむかせ、絵本も僕に選ばせ、キャッチボールも僕とやろうとするようになった。

そうなると持ち帰りの仕事の時間は睡眠時間をけずるしかなくなり、5時間、4時間と減っていった。

すると僕の注意力が散漫になったのだろう。

娘が風邪をひき、僕がそれをもらった。

これまで気功でなんとか避けて通ってきたが、夏後半あたりから腰に亀裂のような痛みが走るようになり、何度も風邪をひきかけた。

整体をするひとはわかると思うが、身体がねじれ、左の側腹の硬直はかなり進行していた。

もてなす側はなんといっても健康に留意しなければいけなかったのに。。。

もちろん風邪をひいたからといって、もてなしの仕方は少しも変えたつもりはないが、今とても反省している。

Speed

2009-11-14 22:48:01 | 将棋・スポーツ
巨人9─4KIA、日韓対決が決着(読売新聞) - goo ニュース

CSも日本シリーズも結局みられなかったので、日韓くらい最後にみたいと思っていたが、みられなかった。

原監督はこれで今年4冠とのこと。こうなってくると、監督としての力量を評価せざるをえない気もするが、このひとの場合、長嶋さん同様、彼自身に本当に力があるのかどうかわからない。

まず巨人の選手は僕がやっても優勝戦線には絡みそうなメンツだし、もともと原さん自体に、生まれながらにスポットライトを浴びる運があるように思える。

といって誰でも言い訳ではないだろうから、やはり評価すべきなんだろう。

野球は所詮スポーツだが、そうした現実に結果を出すことはそう易々とできることではなく、実際結果を出そうとみな日夜励んでいるわけだからだ。

そうした実力をつけるためのモットーとして僕がいつも心がけているのはSpeedである。

長嶋さんが二度目の巨人の監督を引き受けた初年度だったかに、掲げたキャッチフレーズにも、Speedが入っていたが、僕もあらゆる実力はSpeedに出てくると思っている。

読む力があれば速く読めるということだが、それだけにとどまらず、Speedとは人間の勝利に立ちはだかる時間を攻撃することだからだ。

そんなことを考えさせるのが、信長を討ったあとの明智日向守光秀と羽柴筑前守秀吉のSpeedの差である。

光秀が信長を討った理由は、従来光秀の怨恨と野望のふたつに大別されるが、後者という解釈が圧倒的に多い。

その根拠が光秀のSpeedで、信長を討つ前と後にしたすべての行為が用意周到なのに迷いやためらいや審議はなく、その多いとはいえない時間をもっぱら行動にあてている。

つまり前々から考えていて、あとはコルトイデレチョに実行したというわけである。

もちろん信長が光秀謀反を知って発した言葉も「是非に及ばず」だったわけだから、この時代の背景がいかにサルトルのいう実存主義を要求していたか、つまり平素からいざというときには行動のみができるように緻密な戦略を万全に備えていたかがわかる。

いってみれば持ち時間のない将棋のようなものだ。

実人生に持ち時間などないのだから、局面が急を告げれば考える暇はない。

戦国時代はそうした前提上の時代であり、信長の時代に生き残っていた男たちはそうしたことを知悉し、実際に行き抜いて来た男たちなわけである。

そうであればこそ信長は、そうした前提を誰よりもここ得ている光秀が謀反を起こすことの意味をあっという間に理解しなければならず「是非には及ば」なかったわけである。光秀の信長討ちは完全な計画だろうから、信長に残された手段はやはりSpeedしかなかったというわけだ。

もちろん重要なのは信長を討ったあとの光秀の行動である。

討つ前までの計画だけが完璧なら光秀の理由は怨恨だったといわれても仕方がない。徳富蘇峰さんをはじめその後の光秀の行動に注目したからこそ本能寺の変を決行した理由が、光秀の怨恨による一時的な発意ではない根拠となったのだ。

光秀が信長を討ったあとに直面する問題は決まっていた。

信長の下で同格だった家康、秀吉、柴田勝家らの処遇と、自分の軍団の充実のふたつで、前者がうまくこなされないと後者がついてこないこともわかっていた。

そこでそのときに彼らと対峙していた毛利、上杉らに使者を送って彼らを粉砕しようと持ちかけ、みずからは安土に入城した。

その手並みが素晴らしかったから京都の朝廷はこのまま天下は光秀に持っていかれると推測し、早くも挨拶が始まる(このときの世論に、主君を討った光秀の非道徳的振舞を非難した形跡がほとんどないのもやはり戦国時代だ)。

しかし光秀のSpeedを出し抜いたものがふたりいた。

のちの覇権を争うことになる秀吉と家康である。

おそらくこのふたりにとっては「やったか」程度の印象だったろう。

信長同様光秀の計画は当然完璧のはずだからあとはその計画を破綻させる時間をどうにかするしかない。

そこで秀吉が信じがたいスピードで引き返し、光秀の味方になりそうな連中を攻めたり、懐柔していく(というよりすでに懐柔されていたやつもいたから、秀吉は本能寺の変決行をそれ以前から知っていたのかもしれないなどといわれるわけだ)。

その秀吉をみて、光秀が味方にと期待していた連中が次々と傍観者になり、秀吉と実際に戦う山崎の合戦では、秀吉軍2万6千に対し、光秀軍1万6千、しかも戦場の不利からその人数を更に割り振らなければならず、もう秀吉に先んじることができない。

一方家康は秀吉に遅れたとみるや甲斐を切り取り、来るべき秀吉との戦に備え、信長のことなどどうでもよくなっている。

もちろんSpeedがありすぎてダメだったやつもいるから結局のところタイミングが問題なのだが、平生から速く動けるように越したことはないということだ。

そう考えると、やはり結果を残した原さんは名監督ということになろう。

パラダイム・シフト3

2009-11-13 21:12:12 | 音楽
そろそろ娘に音楽の次のステップをと考えていた(あまり関心を示さなかったmiyumiyuも今は克服し一緒に口ずさむどころか踊り出すようになった)。

今度のターゲットはアフリカ系アメリカ人のリズム感すなわちラグ。

ダンス関連の書物をみた限りでは、西洋はステップの刻み方ほかやはり規則正しさにポイントがある。が、アフリカ系アメリカ人のそれは菊池さんのいう律動とでもいうべきものがある。

武術もそうだが、身体の各部所がどのように動くかが別々に指示されるのではなくその背後にパラダイムの中心となるメタファがあり、それを把捉しなければならないということだ。

更に一歳の娘に教えるとなれば、かなり単純化する必要がある。

がその点ラグはそれほど簡単ではない。西洋で初めてアフリカ系アメリカ人のリズムを消化したものでありながらある種「~な感じ」を出ていない。いわゆるジャズ的と言われるものが単に人種あるいは人種混合問題を扱ってるだけに過ぎないのに似て曖昧なのだ。

その点花村満月のブルースを扱った作品は見事だったが、逆にいうとブルースは音楽より文学によって表現しやすいからかもしれない。なぜならブルースは客観的説明に既に拒まれた主観だからだ。

話が脱線したが、いずれにしろラグを複製可能な理論に還元する必要があるわけだ。

もちろん背景のない理論に問題がないわけではないが、The Fritz Pauer Trio のブルースで十分と言いたい。

さてラグだがアフリカ系アメリカ人のリズムがポリリズムというのでは還元したことにはなるまい。

菊池さんのいうプレスリーとバックバンドが合っていない理由を克服し、尚且つ一歳の娘が理解し実演できるようなメタファに還元する必要がある。もちろんラグからブギ、さらにはTR-909にまで応用がきくようでなけはればならない。

そんなのあるの?と思われるかもしれないが、あったのである。ハウスの四つ打ちにもそのままあわせられるような基本が(僕にとっては大きなパラダイム・シフトだった)。

ここのところそれが20年代のブルースにも当てはまるか確認してるのだが、ロバート・ジョンソンを考えた場合なかなか判断がしかねる。

あてはまることはあてはまるが、あのような経験と無意識を未加工のまま吐き出した本当のブルースにはやはりその本質的な特徴である統合不全があるからだ。

ただしそうしたブルースと僕が発見したアフリカ系アメリカ人のリズム感の基盤が符号したとしてもここでそれを開陳するほど僕は気前がよくない。

僕は、折角みつけたものは小出しにする姑息な人間である。

ヒントとして呼吸法を挙げるにとどめておく。

パラダイム・シフト2

2009-11-08 22:41:10 | 宗教
最近環境問題とかエコといった標語がいやに目に付く。

地球が汚れているから守るのだそうな。

こういうのをみるといつも笑ってしまう。

そういう自分は汚染されていないとでも思っているのだろうか。

人間の目は自分の内部ではなく外側に向いているから仕方ないかもしれないが、少なくとも地球の汚染と同等以上の危機感は必要だろう。

「ちゃんと健康診断受ければいいんだろ」ということではない。

「健康診断」はそもそも身体が自発的に行っている。

血圧や心電図は何も病院で測定しなくても本来身体に測定機能がついていて、その数値にしたがって身体が補う。

じゃあなぜ異常や病気になるかといえば、生身の肉体ではどうしようもない環境下にいるからだ。

おそらく東洋医学や中医学から西洋医学中心になったのが近代国家作りの過程の一部であるのは偶然ではない。

それ以前の「病気」すなわち単なる体内のバランスの悪さから起こる「病気」ではなく、個人の体内ではなくて個人ではどうしようもできない環境下で生じる問題になったからだ。

といって西洋医学も完全ではない。

例えば癌について、西洋医学では癌細胞は突然変異から始まるとする。

いわゆる細胞分裂のときに放射線や加齢などできちんとした複製がなされないために起こるとか、疲労、ストレス、過剰な栄養などがリンパ球やNK細胞の放出を妨げる、といった説明である。

僕も自分が医学論文の英訳の仕事をただこなしていたときにはその考え方にはそれなりに納得していた。

地球にとっての人間がそうであるようにひとつの生命体を壊すものがその内部につくられること自体が、ある生命体の宿命なのかもしれないと思った。

が、突然変異はもともと不可知と可知の間に線を引くためだけのものでしかないことは何百年も前から指摘されている。

そもそも西洋医学と東洋医学の差はなんだろうか。

枝をみて木全体をみない西洋医学、木全体をみる東洋医学としていいように思う。

この差はむしろ西洋医学の謙虚さからきている。

一体全体このような精巧につくられた身体をこのように動かしているのは何かがわからない。

例えばなぜ心臓は休みなく動きつづけることができるのか。

右胸にある細胞が発電し、心臓の筋肉を動かす。Matrix という映画で人間を一個の乾電池にしてしまおうという試みはおそらくその事実から来ているのだろう。

が結局そこまでしかわからないから、西洋医学は部分から攻めて、枝をみて木全体をみないということになる。

一方中医学では、精神の「神」がその中心あるという推測を元に全体像を構築し説明する。

したがってその「神」が整えられなければ健康はおろか精神活動自体が健全に働かなくなる、とする。

が現在の僕がこの推測を基盤にした東洋医学に惹かれるのは、まさに推測によるはずのその全体像理解の仕方による。

人間が本来どんな生活をし、体がどんなサイクルで成長し成熟し老いていくのかを説明しているところである。

地球の自転と公転のように人体も二重のサイクルを循環していて、人体の自転にあたる部分に問題があることがみえてきている。

一年を通しての進展の仕方が、人体の本来の構造とマッチしなくなってきているということである。

だから癌細胞自体は風邪同様人体の肯定反応で、その環境との不一致の矯正がまず第1の治療ということになる。

このパラダイム・シフトが本来の環境問題だと思う。

気の持ちよう14

2009-11-06 21:58:49 | 文学
娘が断乳してから5日経ち、なんとか無事終わったらしい。

終わってみれば、それまでに聞いた経験談よりはるかに平穏に、というよりほとんど問題がなく終わった。

初日の夜半に禁断症状の如きひどい発作的泣き方をしたが、それだけで済んだ。

むしろスンナリ行き過ぎたことが不思議だった。

なぜ娘はこんなにも禁欲的に自らの意思で断乳を敢行したのか。

もちろんそれまでに忍耐や禁欲など教えたことはなかった。

もちろん妻は相変わらず「やっぱり私の教育の成果ね」と喜んでいるが、もとより娘がしたいことをできるだけ実現させるように心がけてきたのだから、わがままにはなっても禁欲的になるはずがない。

無理矢理理由を探せば、断乳によって妻の気質が乳を通して注入されなくなったために今まで抑制されてきた僕の遺伝子が働き始めたことになるだろうか(これを聞いた妻は怒ったり突っ込むどころか「なるほどね」と妙に感心していた(汗)。

さて本当のことをいえば、僕としては娘が生まれたときからずっと心がけていたことがあって、今回もそれが効いたと実は考えたいのである。

赤ん坊だからとか下にみずに、誠実に向き合う、その誠実さ加減では誰に劣ってもいけない、と。

ドナルド・キーンさんだったかが、幕末から世界と対決した頃の日本人が、日本が外国に誇れると思ったことはその誠実さだと述べていたが、僕もそうだったらしい。

禅ほか日本文化にみられる様式において、対象と向き合うことほど重きを置いているものはないと思っている。

ちなみにアメリカに留学したとき、アメリカ人の不誠実さに驚いた。

清沢の暗黒日記的側面より普段の生活はルーズそのものに感じ、我々の祖父たちがこんなひとたちに負けるはずがない、とマジメに思った。

もちろんそうした「誠実さ」は日本の専売特許ではない(Lionel Trilling の Sincerity and Authenticity をみよ!)が、僕が娘と対峙するうえで最も大切にしかつ伝えたかったことだった。

だから手前味噌だが今回もむしろ誠実に向き合ってきたから、娘も誠実に向き合ってくれたと思いたいわけだ。

娘がしたいことを思いっきりやらせたらワガママになるのではなく、「誠実さ」や「真摯さ」が伝わらなければおかしい、と思っていた。

ちなみに今日のカテゴリーが「文学」なのも、文学が自分自身に対して「誠実」であることを要求すると思うからだ。

司馬さんが「歴史家」より「小説家」であるのはまさにその1点に尽きると思う。

大江さんも『表現するもの』で書いていたが、自分のなかに深化して昇華することが文学だと思う。

そしてその誠実さを娘に伝えたいのは、その対峙する誠実ささえ失わなければ、いかなる問題であっても回答がみえてくると伝えたかったからだ。

追伸:これまでの「気のもちよう」123456789101112、13。

日本的改革3

2009-11-05 23:27:56 | 宗教
与野党問わず真剣な議論 政権交代で実現したまともな国会論戦【週刊 上杉隆】(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

確かに石破さんの質問は訴えるものがあった。

ただしその理由は、「反応」にも書いたけれど、二大政党制というやり方に疑問符をつけることだったからでそれを「まとも」と呼ぶのなら「まとも」だとは思う。

これも「反応」に書いた通り、前与党とベクトルをたがえればよいという問題ではなく枠組み自体を変えることに向わなければならない。

その点昨日NHKで、二酸化炭素の排出量1990年比25%削減と雇用の創出をどのように両立させるのか、について特集があったが、それを見る限りでは暗澹たる思いだった。

結局のところ25%という大きな数値目標は、国民に税金を負担させて、その種の企業を起業させる、というもので、今までの仕組みが変わるどころではなく、現実認識があまいといわざるをえない。

以前以下の記事があった。

リーダーが消えた国ニッポン(ニューズウィーク日本版) - goo ニュース

本当の「一匹狼」がいない、というのはうまい謂いだと思った。

確かにPresidentは一匹狼の覚悟ができなければできない。

ただそうしたリーダーがみつからないと嘆いても始まらない、というかそれも現実逃避でしかない(現実問題の対処に理想主義だけでは致し方ない)。

政治家が無能というより、状況が維新時同様国をひとつに束ねる難関にさしかかっているとみた方がいい。

その難しさを上記記事では、「ミドルパワーのリーダー(への格下げ)」としているが、僕は「敗戦処理」とでもいった方がいいと思う。

敗戦後のシンガリをつとめるような、規模を縮小するときのリーダーは拡大するときのそれよりはるかに難しいからだ。

そして重要なことは「敗戦処理」は、出費は限りなくゼロがいい、ということである。

負担してそれを起業に、などというサイクルは、「敗戦処理」という現実認識がない証拠である。

しかも一見「致し方なさそうにみえる」(といっている人がいる)現与党案は不公平である。

なぜならエコは二酸化炭素の排出量だけの問題ではない。

農薬の使用ほか現代社会には数多くあり、それを個人レベルで解消しようとしているひとたち(僕を含む)には何の施しもない。

これは、インフルエンザ対策同様「同して」という多様性を押しつぶす日本的退廃の兆候である。

そして最大の問題は、現在の政府赤字を築いた原因および責任の追及が全くないことだ。

もちろん全部の責任が人為的だとはいわないが、今直面している問題は明らかに人為的といいうると思う。

その責任が決定されなければ負担の行く先がない。

まさしく天皇制がなくならないことと同種の日本的宗教の賜物だと思うが、そこにメスをいれるべきときが来ているのではないか。