雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

耳鳴りの聞こえる部屋

2015-09-01 17:03:00 | 音楽
年をとったのか、歌詞をきちんと覚えようとしない。

うろおぼえで、♪耳鳴りの、聞こえる、部屋で~♪と鼻歌をうたったが、本物は違った。♪海鳴りの聞こえる丘で♪だった。

「耳鳴り」が聞こえる「部屋」じゃ、「もうろく」したか、「体調が悪い」かして自室に閉じこもっているみたいじゃないか。

この曲は、浜田省吾の the best of Shogo Hamada vol. 1の13曲目「日はまた昇る」で、妻と僕、両方ともすごく気に入っている。たぶん僕らの現在の心境に近いのだろう。



歌われているのは、♪今まで何度も厄介なことに見舞われたきたけれど今もこうしてくらしている♪という感慨。

自分を取り囲む世界が、自分がいてもいなくてもだが、どんどんすすんでいく(日は昇りしずんでいく)わけだが、各自はそれぞれ真剣に♪自分の人生と戦っている♪。

僕は、「自分の人生と戦う」という表現が気に入った。

以前から戦っている気はしていたが何と戦っているんだろうと思っていた。

他人じゃないし、自身でもない。

肉体が朽ちるまでの一定の時間をどのように処するのか、それに「人生」という名詞はぴったりくる。

ここのところ車の中でよく聞いていたので、子供たちもところどころハマショーの「ウォー」という掛け声だけハモったりするようになった。

それから最近聴きすぎて飽きて、あまり聞かなくなったが、同アルバムの最初の曲、「君と歩いた道」もよかった。

約半年前、久しぶりにハマショー聞いてみようかと購入して、最初のこの曲にはっとさせられた。

まず問いかけがある。

もし15歳からやりなおせるとしたらどういう人生を歩む?

そして答える。

現在の知識をもとによりよい選択を繰り返し、自分の夢にまっしぐらになるだろう、と。

しかし疑念をさしはさむ。

では、「妻」と会えなくなるかもしれない。歴史が代わるんだから。

それなら妻との人生を歩もう、というラブソングにまとめられているが、僕はその問いを自分に課した。

15からもう一度やりなおせるとして何をどう変えるだろう。

僕も、反省をもとに、もっと効率的で利己的な選択をするだろう、と思った。

しかし具体的にあの場面では、とやりはじめたら、考えが変わった。

たぶん変えられないだろうと思ったからだ。その時々で僕は真剣だったし、現在の知識があっても、いろいろな節目で僕が下した決断は覆らないだろう、と。

そうすると僕の人生はこれしかないことになる(パラレルワールドなんてない)。

昔サルトル原作の映画にもあったが、僕は変えられない人種の人間であることをやめられないだろう。

ということは、今の妻や子供たちとも絶対に出会う。

その歌を聞く前、漠然と、妻も子供も今は一緒にいてかけがえがないが、たまたまの出会いだと思っていた。

極端な話、通勤途中にみかけた小鳥の出会いと同じ程度のものだった。

世の中に子供はたくさんいるし、女性もたくさんいる。

「配偶者」という言葉通り、25億人女性がいるうちのひとりが偶然僕に配られたとも考えられる。

しかし運命のひとなのだと思えるようになった。

ハマショー有難う、オレ頑張る。

ハマショーのベストはあとふたつあります。

   

酒と言葉と音楽の渾然 14

2014-12-31 19:31:07 | 音楽
2014年で一番気に入ったCDは、「コーヒー牛乳」と「イチゴ牛乳」の二枚だった。

童謡を中心にした日本の名曲の「正しい」アレンジの仕方が素晴らしかった。

「正しい」は「正確」といってもいい。

アレンジの仕方は本当に幾通りもあるが、そのなかで際どい道を歩いていた。

さすが音楽教育の最高峰を受けてきただけある。

僕のようにアマチュア音楽愛好家にとってはとても勉強になった。

それだけではない。

オリジナル曲もあって、その旋律の美しさと詞のこだわりにも恐れ入った。

これまでの童謡の歌詞を下敷きにしつつ言葉の選び方に妥協がない。

今日正月の買い物に行くときも車の中で聴きながら出かけた。

助手席には、昨今入手しにくいと評判の酒。



みなさん、よいお年を。

Still Life

2013-03-14 08:32:49 | 音楽
ここのところ音楽に関係する映画をみる機会が続いた。

『扉をたたくひと』、『チャイコフスキー』、『敬愛するベートーベン』、『ショパン、愛と悲しみ』である。

最初だけがどんな音楽家と関係するのかわからないと思うが、アフリカン・ドラムとでもいうのか、Fela Kutiにも言及があった。

主題は、国という枠組みのバカバカしさで、シリアからの違法滞在者をひょんなことから出会ったルーティンな生活に茫漠たる不満を抱えていた大学教授の思わぬ関わりを通して描かれる。

映画というとすぐ男女のからみや暴力といった僕にとっては非日常的なシーンがバンバンと見せつけられるなかで、この映画には、山田太一さんがよくいっていた映画では拾えない出来事の積み重ねがなされていてよかった。

もちろんそれがクローズアップされるからこそ、国という枠組みがバカバカしくみえるわけだが、とても素敵だった。

『チャイコフスキー』は、チャイコフスキーの同性愛と悲愴の関係がどう描かれるのか注目してみたが、それはまさに昨今の映画的期待で、いかにチャイコフスキーが神経質で、他者との関わりを苦手にしつつ関わらざるを得ない、僕みたいな人間が素直に描かれていて、これもよかった。

同性愛にしても恋愛にしても芸術にしても実際は数多ある生活の諸相のなかに埋もれているもので、実際はそれだけがクローズアップされるのはリアルではない。

残りのふたつもよかったが、今日はさらに音楽のTV番組をふたつみた(録画)。

ひとつが先日亡くなったサバリッシュと、安全地帯。

ジャンル的にはかけはなれているようにみえるかもしれないが、僕にとっては好きなというか評価せざるをえないひとたち。

サバリッシュの英雄詩はやはり好きだし、玉置浩二の歌いっぷりも大好き。

Musiciansといっても生業なわけだから、板挟みになる。

指揮者はサバリッシュによれば作曲家と聴衆の双方への責任を果たさなければならないという板挟みだが、挙げた4作+ドキュメンタリー2本が僕にリアリティを感じつつ素敵だなぁと感じさせてくれたのは、その板挟みが描かれつつ、ひきさかれるのではなく、自分にこだわった結論を選んだところ。

別にまれな結論ではないといわれればそれまでだが、今引き裂かれている僕にとっては素敵だった。

追伸:今晩の線量も高め。中の上未満って感じ。


Foreground

2012-07-22 21:43:55 | 音楽
SanderlingのBeethoven5番と7番を聴いていた。

解せなかったからである。

が、僕の好きなBrahmsではあんなに酔わせてくれる男のこと。

何か理由があってこういう風に演奏しているのだろうと、いぶかりつつ期待しつつ聴き続けて5年は経ったろうか。

今日ついにその答えらしきものがみつかった。

Foreground(前景化)である。

フルヴェンなんかの場合有機体としての曲を意識させるが、有機体はその部分である各部署もあたかも独立した有機体のように振る舞う。

その全体としてではなく部分の力を前景化していたのだと思った。

その部分の美しいこと。

「運命」の第四楽章ってこんなに美しかったっけと鳥肌がたった。

追伸:今週の放射性物質は、3、4回お昼前後に「中」くらいのモレ。数時間で終わりました。今日は夕方で、3、4時間でまだ名残があります。


DNA

2012-06-17 15:05:00 | 音楽
娘が幼稚園に行くようになって2か月半。

まだ「行きたくない」という言葉は発しない。

自身はじめて登園したときは教室の入り口で泣きながらわめいて抵抗したから、僕とは大きく異なるわけだ。

その点妻も同じで、いやで仕方なかったらしい。

ただ僕と妻が違うのは妻はたったひとつだが幼稚園に楽しみがあったこと。

給食の時間が大好きで、昼休みの度に、給食のおばちゃんに「美味しかったよ」といいにいったり、帰りもわざわざ「今日の~は美味かったぁ」と大きな声で告げ、妻の母親を恥ずかしがらせていたらしい。

こうなってみると娘は僕にも妻にも似ていないことになる。

そこでどうしてこうなってしまったのかと訊いてみた。

「幼稚園好き?」

「うん」

「どこが?」

「ピアニカの時間」

なるほど音楽が好きというのなら僕似かも喜んだ。やっぱりDNAレベルで抗いがたい宿命的類似があるのだと。

しかしそれはぬかよろこびだった。

「どうしてその時間が好きなの?」とたたみかけると、「だって次がお弁当なんだもん、たのしみでたのしみで」

・・・

妻似だった。。。

report 40

2011-10-29 12:17:47 | 音楽
相対論の行方 世界が注目 超光速素粒子ニュートリノ、27日から検証実験(産経新聞) - goo ニュース

アインシュタインは光がこの3次元世界の基軸であることを示したわけだが、ニュートリノは、その常識的な世界観の裏側をそもそも説明するために仮定された素粒子だった(だから想定者パウリは確認されないことを前提としていた)。

しかしその後確認され、光を頂点とするシステムに組み入れられ、そのシステムの安定のために、左巻、右巻の二項対立が設定された。

こうした話を聞いてよく思うのは、調和の構図である。

もちろん本当は調和などなくいつも変化の中にいるということなのだろうが、理解は「調和」を想定せざるをえないところがあるという意味においての「調和」である。

そうした調和は当然必ずしも等価の対立項からつくられるわけではない。

例えば大気の構成は、酸素が~で二酸化炭素が~で、といった具合に複数の要素が混在している。

その点文系は言葉では目盛があまりつくれないためかその構成が単純化されているようにみえる。

逆に言えば単純な対立項や区分は理論でしかないとさえ思う一方で文系的であるわけだ。

例えば宇宙の始まりの説明も+と-の粒子両方があって相殺している調和状態が崩れ、そのあまりから我々人間が出来上がる源が出来上がったことになっている。

これは僕にはとても文系的にみえる。我々がいる世界が、非対称から生じたのだとすれば、禅でいわれるように対称くずれとしての現世だからこそ、Subjectivity とObjectivityという一方に与した関係が生じ、主体と客体の一致が困難なものとして禅では目指される、とする見方に一応の納得がいくものの、他方単調な感じがした。

同じ理由で、原子の陽子と電子の数もやけに整然としていると思った。すでにプレイヤーは整然としすぎているから、逆に素粒子グルーオンの存在が必要とされるのではないかとさえ思ったほどだ。

更には、数字自体が独立というか他の指標と分離したものにも感じた。

以前も書いたように、音楽でのドミソは、数値的には調和がとれた音ではないらしい。

調和を数に置き換えるには、シーベルトのように係数が必要とされ、その係数の存在自体が数の独立性というか中性的な印象を与えるようにさえ思う。超弦理論にしても数学の難しさから進歩が遅いとされる。

いずれにしろ理系はその数を駆使することから部分しかみず、文系は全体をおおざっぱにわしづかみにするところに互いの短・長所があるように思う。

その点「ニュースにだまされるな」の児玉さんは理系的提案をしていた。

21世紀型の事実認定の仕方が重要、20世紀型は、学者の間でコンセンサスが得られてはじめて事実認定されるものだが、21世紀型はそうした枠組みに拘束されないスタンスで、ということだったからだ。

その点僕はなんやかんや文系なのだから、放射性物質の問題についてもわしづかみで行きたい。

文系の「文」にあたる sentence はもともと「感じたことを表す単位」で、僕の場合文字通り感知を基準にいく。

そのためかネット上で行われている議論は、当然理系の題材だけに、物理や化け学、数学の壁に仕切られたままのような気がした。

例えばペトカウ理論について重要なことは、放射性物質を間断なく浴びることが問題であることで済ませていいのではないか。

それから僕がみた方々がたまたまそうだったのかもしれないが、内部被ばくと外部被ばく、急性と晩発性の障害があまりに分離されてというかねじれて解釈されているようにも感じた。

しかしクォークやニュートリノなどの説明は少なくとも感性でわしづかみすることができなければ進めないように感じている。

例えばボーアの描いた原子の模型や、先ほどのグルーオンやハドロン、バリオンなどの属性をみて、一瞬音楽用語かと錯覚しなかったろうか。

もちろん統合理論の研究も進んでいるようだから全体を説明する努力を怠っているとは思わないが、和音としての粒子を統合し、人体との関係から、クラシックとブルースを統合してジャズが出てくるようなダイナミックさが望まれることはいうまでもない。

「素人が簡単にいうな」といわれそうなので、この辺にして感知したことをレポートすると、今日も比較的高めで、子供たちには赤い斑点(この斑点がよくいわれる3グレイ浴びたために生じる斑点である可能性はある)が出ていた(3月以降では3度目)。

おそらく強さより継続によるもののように思う。

そこで11月は祭日があるので、また京都に避難予定だったが、いろいろほかの予定とブッキングして、やっと今日すべての予約が完了した。

心身ともに洗濯してきたい。

Picky 6

2011-08-07 22:35:22 | 音楽
汚染水処理システム、7時間半停止…装置に異常(読売新聞) - goo ニュース

先日と異なり、温水プールに行った。

おむつがとれている子供なら入れるプールだ。

前回行った幼児用プールは、水泳用おむつをしてる子がたくさんいて、今思うとあの水はかなりの「汚水」だったはずだ(もちろん放射性物質がその辺にゴロゴロしてる今となってはかわいいもんだが)。

娘は何度も潜っていたから化学的にはかなり人類みな兄弟的になったことだろう。

そういえば小学校が一緒だった友人が同窓会の時いっていた。

「低学年のときはトイレはいつもプールのなかでやってた」

聞いたときは愕然としたが、いずれにしても今となってはかわいい汚水だ(発癌性には関係あるまい)。

こういう自虐ネタが出てくるほど、久しぶりにビシビシ泳いで心地よかった。

話は娘のこと。

先月からピアノ教室に通わせ始めた。

決め手は、先生が時々横浜のプロムナードで演奏するというJazz pianistだったからだ。

もちろんJazzが好きな方に悪い人はいないからというのではない。

Pluralismを教えたかったからだ。

物事の回答はひとつではない、James のPragmatismのいう、unity ではなくtotality をまず仕込みたかった。

先日Pragmatismは否定していたはずでは?という問いにはきちんとした言い分がある。

例えば同じ「天ぷら」でもいろいろな揚げ方があるが、技術的にきちんと習うと、70点、つまり既製品が作れるようになる。

しかしそこから先は個々のケースに応じて多様さが要求される。その多様さを温存し、100点を目指す備えをすることをPluralismという。

僕の教育方針は、はっきりいえばこれだけである。

結果、幸か不幸か、娘は、たったひとつの回答や70点を嫌うようになった。

嫌うというよりは、つまらない、と感じるのだ。

その結果習い事にいっても2度までは我慢するものの3度同じことを繰り返すと、露骨に先生に反旗を翻す。

3歳のくせして岩倉具視のようにこれみよがしに先生を無視して、妨害じみたことまでするので、妥協ばかりの社会生活にこれから耐えてゆけるのかと妻は心配しきりだった。

そんななかピアノ教室に通わせ始めたのである。

しかし所詮仕事としてのピアノ教室。初回、二回目ともに授業内容は同じで、三回目にこれをやったら、また…ということになった。

そして三回目予想通り同じことをやってくれたのである。

娘は無視を始め、先生も明らかに娘の「怒り」を感じたらしい。

そこで先生はおなじみの曲をJazz風に演奏して見せた。

ほかの生徒は何やってんだこの先生という顔をして特に聴いてもいなかったが、うちの娘は違った。

先生のすぐ隣までスタスタと歩いていき指の動きをずっと追っかけていた。

僕はこのときのためにJazz pianistの先生のいる教室を選んだのだ。

先生が追いつめられて秘儀を出す時を。

子供に限らず教える場合に重要なのは動機である。

やる気にならなければ何も始まらない。

やれといわれてただやるようなやつにはなってほしくなかったから、面白くないなら先生を困らせるぐらいなんだと妻にはいってきた。やる気を出してから、何かことにあたってほしいと思っていた。

そのときに重要なのが、Pluralismが可能な教員である。

普通のピアノの先生は70点できるようになると資格があるようだが、それでは娘にやる気を出させることができない。

やる気がでてはじめて、基礎訓練も意味が出てくるのだ。

その点Jazzの自由さは目を見張るものがある。

例えばBill Evansの伝説のトリオは、以前も書いたように、3拍子と4拍子が同居したり、余韻の和音を新たに付け足したりしてのける。

もちろん見方にはよるが、Jazzの自由さが傑出しているのは、反則までが取りこんだために生じる、わかりやすさだと思うお。

娘は帰宅後ピアノの弾き方をはじめて妻に訊いてきた。

もちろんその程度で娘をピアノに駆り立てるまでには至らなかったが、こうした体験を繰り返すしか方法がないと思っていた。

だから競技者が現れる温水プールも選んだ(目の保養のためではない)。

クロールの美しさをみせるためだ。

僕は水泳は競技者としては県大会2位が最高だが、事故にあって水泳でリハビリをしているときに素晴らしい師に出会えた。

僕のクロールはいつもこの方のクロールのマネと言っていい。

自由形をそれなりにやったひとはわかると思うが、腕の動かし方はかなり細かく「技術的」になる。

しかし全日本で何度か優勝し、シニアでも当時優勝しつづけていたそのひとは、そんな細かいことはなにひとついわず(僕は競技者じゃなかったし、僕に教えても無駄だったからだろうが)、僕にみせるだけだった。

大迫力の、美しいクロールをである。

僕は習ったそのクロールを娘にみせた。

娘の印象はどうだったか気になったが、娘には訊かなかった。

娘は僕をライバルだと思っているので、特に負けていると感じる分野についての感想は僕には言わないからだ。

しかし帰宅後妻にそっと訊いてみると、娘が妻に、「どうやったら浮ける?」と訊いたとのことだった。

無意志

2011-03-17 01:01:51 | 音楽
水やガソリン…首都圏で買いだめ 被災地に届かぬ恐れ(朝日新聞) - goo ニュース

これだけ地震が続くと、揺れただけで身体が走り出すようになった。

初日のあの大震災時は、みなで顔を見合わせるばかりで、結局係員の誘導で建物の外に出た。

生き物として最低限の感覚が失われているようで気恥ずかしかったが、今は娘とカバンを抱えて外に出る。

これだけ立て続けに震度5を繰り返されれば当然だろう。

数日前東北にいる家族から無事という連絡があって安堵したが、その疲労感にはこうした大災害でなければ生じないものであるような気がした。

なんというか無慈悲というよりはまったく何も考えずに地震が繰り返されている。

あれだけの人間を殺しておいて、良心の呵責どころか、自分が地震を起こしていることさえ気づいていないのではないか。

人間が築いてきた「社会生活」がいかに狭隘な「生」であるかせせら笑ってくれる方がまだ健全と感じるような全くの無意志。

であればこそ逆に無意志に身体が反応することが自然であり、そうした無意志で動く生に対して疲れているのだ。

なんやかやと御託を並べるのではなく、ただ「生」をみつめる疲れ。

デレク・ベイリーにただビートが加わったような疲れのなかに彼らはいた。

気の持ちよう20

2011-03-06 22:40:08 | 音楽
気の話をしていると、胡散臭いと思われる一方で、お近づきになる方もいる。

類は友を呼ぶというやつだ。

ただ関心がある、というだけなら、話相手になるだけだが(それはそれで面白いが)、ある程度能力を開発した人に会うと、かなり刺激的である。

最近ダントツに興味深いのは、気がみえるひと。

星々のようにそこらじゅうを飛んでるのがみえるらしい。

特に空には満天の星のように輝いているそうで、今日のように青空を背景にした気の星々は最高に美しいという。

以前も書いたが、僕は気がみえるといっても蜃気楼のような、透明のものだけ。

しかし彼の場合は、僕を肉眼にたとえるなら顕微鏡か望遠鏡のようだ。

そんな風に断言するのはもちろん実験したから。

僕が身体のまわりに集う気に流れをつくってやると、その動きをすべて「あてる」。

今~のように動かしましたね、と百発百中だったのだ。

彼ははじめそれが気だとは思わなかった。

いつからか、空気中に浮かぶ星々が自分にだけみえることを知り、何かわからなかったそうだが、僕の気の実演から、気であると判断した(動かす僕がそういっているというだけだが)。

彼としても刺激的らしい。

今までその辺に散在している星々を自在に動かす人間に会ったのもはじめてだし、『ドラゴンボール』というアニメに「カメハメ波」というのが出てくるが、あれみたいに星々が僕の手の中に集まってどんどん大きくなっていくところや、普通のひと(気功師ではないひと)の場合は単にバラバラの星々が漂うだけなのに、僕の場合は最終的にその星が身体のまわりにオーラのように包み込むように変化したりするのをみたのははじめてだと驚いていた。

しかし僕の方も刺激的である。

繰り返しだが、見える精度が僕と全然違う。

例えば人差し指から一本の剣をつくると長さ、幅までピッタリ同じものが「みえている」。

また、気の密度をあげ、硬気功用の気の玉をつくったときも彼にはそれがそれまでの星とは異なる濃い光になってみえ、一瞬紫色に燃え上がったのもみえたといっていた。

僕が感じていないことまでみえているわけだ。

更に驚いたのは、この気の玉は集中しないと逃げてしまうのだが、その逃げていく様も僕が感じているのと同じように描写してくれた。

彼がみえることは僕にとっては疑いがなかった。

残念なのは、体内に集めた気はみえないこと。

レベルに公の試験はないが、養生功という、下丹田に集められるようになると、邪気をかなりはねかえすことができるため、一般に「気功師」と呼ばれうる位置に立つが、その練った気がどのようにみえるか聞いてみたかった。

そして僕もそのくらいみえるようになりたいと思った。

一説によると、空海が唐から帰って天皇らの前で密教の秘儀を披露したとき金色の後光がみえたとあるが、おそらく強度さえあげれば誰にでもみえるようになるのだろう。

今度会うときはそうした気の玉を大きく強くつくれるようにしておくと約束して、再会を約した。

今日は妻の友人家族が遠くから遊びに来た。

子供たちは、光る鍵盤付電子ピアノで楽しんだ。

光は、光のないピアノよりはるかに刺激的であったらしい。

くるみ割り人形

2011-03-03 14:21:08 | 音楽
娘のバレー教室無料体験に行った。

昨今は少子化で、大変そうだった。

そのためか無料体験といっても真剣で、一時間半みっちりと稽古をつけてくれた。

買い手市場だからといって媚びたりアピールするのではなく、「しっかりまじめにやってます」ということを前面に出していた(アピールするにしても営業するにしてもそれが一番いいやり方だろう)。

そのためか、僕にとって舞踏という分野は未知だったためかはわからないが、衝撃は大きかった。

自身、身体を動かすことと、音楽にはそれなりに関心があるのに、それらを融合させた舞踏になぜこれまで関心を持たなかったのか不思議だった(母は盆踊りは好きだった)。

また先生も仰っていたが、一定の伝統があって、やることはすべて決まっているそうだった。

ひとつひとつ基本となる動作を習熟させていく。これしかやりませんが、世界中どこに行っても一緒です、といわれた。

確かに吉田都みたいな体形をしたひとがこれだけそろって動き出すと迫力があった。

しかしそれを上回っていたのが、娘のハッスルぶり。

何を根拠にしているのか、舞踏にはとても自信があるらしく、みんなの先頭を切っていた。
(みんなはきちんとしたステップを踏むが、娘はダッシュしているだけだから自然と先頭を切る結果になった)

そして先生の指示を全然実現できないのに、「はいっ、はいっ」と受け答えだけは一人前以上で、ほめられると、デレデレとその気になるのが親に似ていた。

またレオタード姿とトゥシューズもかわいかった。

本人も気に入ったらしく頼まれないのに創作ダンスを披露していた。

そういえばそこにいるのはみんなレオタードで、年頃の娘たちがみな惜しげもなくレオタードでいるため目のやり場に困った。

またいつもいないはずの男がいることに、年頃の小・中校生は恥ずかしがってるみたいだった。

無残なのは妻だった。

幼児の場合付添いの母親も一緒にやることになっているのだが、音楽で言うところの音痴だった。

手足それぞれが勝手にギクシャク動いて、前に進むようでいて後ろに下がり、手足はプルプル震え始めているのに、笑顔だけは保とうとするから、得体のしれぬ、新種の軟体動物かと思った。

くるみ割り人形がむなしく響いていた。