雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

悪人2

2010-08-29 20:40:17 | 音楽
人襲うサル、なぜ? やまぬ乱暴、57人が被害 静岡(朝日新聞) - goo ニュース

上記ニュースをみてすぐに思ったのは、サルが反抗してるのではないか、ということ。

というのも最近娘が、スタジオ・ジブリの狸が主人公の作品が好きでよくみていたからだ。

多摩ニュータウン建設で棲家を奪われる狸たちの映画で、正当性はどうみても狸にある。

だからサルもついに?と思った。

しかも僕はここのところこの事件の数百メートルと離れていない地域にいた。

だからこの問題に対して、しっかりと態度を決めなければならない気がした。

いざというとき、サルとヒト、どちらにつくか、ということだ。

すでに書いたように、サルの抗議行動なら、非はヒトにある。

といって自分はヒトであり、人間だけでなくほかの生きものの生をないがしろにしていることに疑いはない。

サルからみたらニックキ人間だろう。

といって僕自身動物愛護とか自然保護などに関心は全くない。

というよりそんな矛盾はしたくない。

全員がそうだとはいわないが、普段の生活は、電気や車を使い、添加物の多い食糧を喰らい、それらを川に流しておいて、自然保護もないものだとおもうからだ。

自分の生活とそうした運動を両立させているひとが何人いるのだろう。

先日もそうした中途半端なひとに公園で怒られた。

近所の公園で野鳥に煎餅をあげたら、野鳥の会らしきひとに、「ダメ」といわれた。

その公園にはかなり大きな池があり、野鳥が棲んでいるのだが、「自然にというのがルールです」といわれた。

僕は質問した。

「自然とは何ですか?」

答えが遅いので、更に質問した。

「どういった意味で、僕があげたものは自然に反しますか?野鳥が人間が人工的につくったものを食べるからですか?野鳥は自分の力で食べものを探さなければいけないからですか?」

答えが遅いので、また続けた。「ちなみに僕が投げた煎餅は、有機農法で丹念に作られたお米を原材料にしたもので、娘にもあげてるとっても素朴なものです。それでも野鳥の害になるのですか。」

更に答えないので、訊いた。

「ここにいる野鳥はそもそも野鳥ですか?毎日のように誰かがパン屑をあげてますが。」

すると、「決まりなんですよ」といいながら、カメラをしまって駐車場に向った。

今から思えば「所詮自分に都合のいい自然&野鳥愛好家なんでしょ?」と捨て疑問文を投げかけてやればよかった。

僕に言わせれば、最強者が貪欲と矛盾を許される状態も十分自然の一光景だと思っているから、その矛盾野鳥愛好家に「あなたもまさに自然の体現者だ」といってもよかった。

ちょっと屋根の軒下をみれば、ヒヨドリがもう一羽を徹底的にいじめながら飛び回っていたりするが、これも自然なんじゃないのか。

また本当の手付かずらしき森林に行くと、大木だけがあって、潅木はなく、シダや苔くらいしか生息してなかったりするが、その森では大木が最強だったからじゃないのか。

つまり自らの可視範囲内で活動することが自然なのだ。

だから野鳥の会の方の言い分も自然だし、僕の言い分も自然だ。

もちろんジブリの映画も人間の視点でみた自然愛好家の作品で、人間が「自然」という虚像を描きつつ、同時にそれが人間にとっての「自然」と考えてよいのだ。

そうすると相反するベクトルなのに、同じものだという捉え方が可能になる。

音楽にたとえよう。

先日呑んだミュージシャンがいっていた。「フリー・ジャズはまさにそうした自然を音にすることだ」と。

歩いていたら躓いたり、缶の蹴飛ばす音が遠くで聞こえたり、一切の作為の消えたものだそうな。

フリーはそう考えると、それ以上進展しようのないもののように一見みえる。

しかし上記のように考えれば、フリーとそれ以前は同じものにみえる。

そうみえてしまえば、フリーを超える手がかりがみえてくる。

つまり疑念という悪だ。

だんだん悪人がみえてきたような気がした。

音楽は偉大だ!

AKB48

2010-08-23 00:09:10 | 音楽
今日ここでも紹介したミュージシャンと呑んだ。

そこで、最近海外ツアーを終えたばかりの彼でなければ答えられないような質問をした。

AKB48はなんて読むのか。

ここのところ疑問だった問題が氷解した。

戦いの矛盾

2010-08-21 23:02:26 | 音楽
久しぶりにCDをレンタルした。

車のハードディスクにいれておいた曲に飽きたからである。

まわりを好きな、刺激的なものだらけにしないと、無駄な人生を過ごしているような気になるので、換えざるをえなかったのである。

ただし驚きはした。

なにせ二年前に選びに選んで人類普遍の名曲だと自信を持って搭載した曲だったから、こんなに早く飽きるとは思わなかったからだ。

やはり人間というのは「飽きる動物」であり、「飽きないもの」が僕が本質上好きな曲なんだろう。

というわけでこれまでに聞いたことのない曲を中心にレンタルした。

そんななか一曲、素晴らしい出会いがあった。

熊木杏里の「戦いの矛盾」である。

聴いてすぐに、岡本太郎の言葉を思い出した。

「過去の作品の方が素晴らしいという人間の感性は鈍い、なんやかんやいって現代は過去に勝つのが当然。なぜなら現在は、過去をすべて包含したうえに築かれているだから。」(原文に忠実ではありません、覚えているまま)

太郎さんの言葉の細かい内容にクレームをつけることは可能だが、僕は基本的に同意。

現在の優位というより現在は過去に挑戦できることと自身が現代人である点で優位に立たざるをえないと思っている(反論は承知)。

そんな意味で「戦いの矛盾」は、過去の曲と一線を画す何かを感じた。

声と詞と旋律が調和して、心に染み入ってきた。

ちなみに「戦いの矛盾」とは、何が矛盾かというと、生と生きる目的の不一致のこと。

次ぎに気に入ったのが、Home Made 家族の「Homesick」。

故郷をあとにして生きるという人生パターンがその主題。

これらを基盤に、プリウス3周年(今度の12月)に合わせて、一枚を捻出したいと思っている。

ちなみに最近プリウスの燃費を問題にしなくなったのは、娘が「初期設定」を押したため、乗り始めてから今までの燃費記録が失われたためだ。

もちろんそれ以降の数字は出るが、コツがわかったあとの数字をここで表示するのでは、公正ではなかろう(ちなみに現在32.4)。

ディーラーのひとに訊いても元には戻らないそうなので、あきらめた。

それから今回はおまけとして『おかあさんといっしょ』の代表曲選抜もつくった。

所詮「おかあさんといっしょ」と侮るなかれ(侮っていたのは僕だが)。

最近物忘れがひどいのに、『おかあさんといっしょ』に出てくる曲は大体タイトルをみれば口ずさめるのだから苦笑せざるをえない。

音楽は偉大だ。

龍馬4

2010-08-20 22:12:20 | アメリカ
円高直撃 評価損30兆円 「埋蔵金」の外為特会 赤字状態に(産経新聞) - goo ニュース

上記のようなニュースで「円高」を耳にするたびいつも「陰謀」だと思った。

ニクソンの為替変動制導入、プラザ合意につなげてみたくなるのだ(あのときは一時79円台だったが)。

「陰謀」でなかったとしてもそうした視点がどこかになければまずいのではないのか。

少なくとも日本が今なんとか先進国の体裁を保っていられるのは、外国にある資産や上述の埋蔵金のはずである。

だからそうした過程もある程度操作できなければ政治家を抱えておく意味がない。

その点明治維新の志士たち、特に龍馬は偉かった。

金が飛行機(あの当時は船だが)よりも速く世界をかけめぐることを知って、それに対処しようとした。

もちろん菅さんたちはそうしたことを国民にみえないところで考えているのだろうが、維新の志士たち同様、そうではないという前提で話を進めたい。

彼らは、幕府には、そうしたシステム外、つまりポストモダン的視点は不可能とみた(大久保や勝といった幕閣は例外とした)。

だから倒幕、討幕に踏み切った。

その点、龍馬を僕がよく佐幕派と書くのは、もちろん倒幕に尽力はしていたけれども討幕には組せず、最終的に土佐藩という佐幕派筆頭の実力藩と連携する亀山社中という選択肢を選び、さらには大政奉還実施後の龍馬の慶喜に対する讃嘆の弁をみたからだ。

彼としては、そんな大それた変化など必要だとは思ってなかった。

ほんのちょっとの規制というかシステムの一部の変換でよかったのだ。

しかしそうした変化の方が逆に非現実的だったから、薩長は討幕に邁進した。

そうなると実力が必要だから、無名の志士たちでは無理なので、雄藩と朝廷の力を借りたわけだ。

龍馬もそうした勢力に組してはいたが、慶喜を認めた(新政府内大臣候補に慶喜を選んだともいわれる)。

大体龍馬にすれば朝廷がやろうが幕府がやろうが日本の本質的未来には関係なかった。

自民党と民主党のどこに違いがあろう。

要は、システムとして、幕府(自民党)がダメなら朝廷+雄藩(民主党)を持ってくるしかなかったというだけのことだ。

だから両者にはきちんとした考え方の違いがあるわけではなく、ただの権力闘争のライバルでしかない。

はじめてペリーがやってきて開国を迫ったときも公家には鷹司なんとかが幕府の開国案に賛成した。

この鷹司は当時の公家では世界の情勢に目を配っていた数少ないひとりで、公家でも実力があったが、それでは公家の存在理由がなくなるとなって、朝廷は幕府に反対する目的だけで反対した。

龍馬(といっても伝説上のエライ龍馬のことだが)は、当然そんなことは知っていたから、本質的な変化を成し遂げることがどういう形で可能になるのかを模索しつつ事態を見守っていた。

だから文学的な解釈で賛同は得られないかもしれないが、龍馬が趨勢に対して述べたとされる言動の半分も僕は信じていない(空海や信長もそうだが)。

単に道教的に振舞っていただけなのだ。

だから金座、銀座だけでなく、適材適所にこだわって、それこそをアメリカのよいところだと考え、船中八策や新政府綱領などにも最初に書き込まれている。

つまり人事が大問題なのだ。

そうした認識では儒教をやっていたほかの志士もやってない龍馬も変わらない。

ポストモダンをやるには、そうした人材がある程度以上確保されなければ、どんな形であっても既存のシステムを是正できないという点で合意があった。

合意があっただけでなく、実際にそうした人脈を通じた。

高杉、久坂、武内、西郷、大久保ら面々には藩や幕府と朝廷を超えた結びつきができあがっていた。

携帯もメールもブログもないのにである。

そう考えると脱帽せざるをえない。

以前ある方に所詮外野が何をいっても変わらない、政治家でなければ日本は替えられないと非難された、と書いた。

所詮ブログで何をいっても無駄というわけだ。

もちろん僕もブログで十分だと思っていたわけではなく、そのために事業展開をしているわけだが(本当に遅々として進行しないが)、今も龍馬的な外野からの攻め方には変わりがない。

であるならこの体たらくはなんだろうと憤慨してしまう。

では龍馬らが気に入ったアメリカは昨今どうかといえば雇用はマイノリティに、ということらしい。

これは以前も書いたように、日本での内藤湖南が東大を出ていないという理由で何かの職につくのを反対されたのと同様、志士たちには程遠い愚挙だ。

もちろん僕は内藤の文体は嫌いだ。

何がいいたいかといえば横井小南のいっていたように、1度よかったからといって次もよいとは限らない。

鷹司もすでに問題がどんなものだったか忘れたが、適切な判断を繰り返したわけではなかった。

だからこそ志士たちは論戦を継続させたのだ。

その点僕は龍馬同様「彼ら」から距離をとって何もしていない。

同じ気持ちで行動しているという確信は少なからずあるのだが。

Extraordinary

2010-08-07 22:56:10 | 音楽
気功をやって体重が落ちたおかげで、みんなから心配されるようになった

という話は何度も書いた。

またほぼ独学(世間に出ている本を読んでるわけだから完全な独学ではないが)であるため、経験者に話をするとご心配をおかけすることもあった。

きちんとした指導者につかないから、あんなにげっそりやせたのだ

とか

本来してはならないことをしている

とか

あのひとがしていることは気功ではない

などだ。

本来してはならないことととか気功ではないと断じられたのは、自分の肉体を気化して相手に潜り込み、病魔ごとコピーして出てくる、といったようなことだが、これが危険なことは百も承知していた。

ただやらざるをえなかった。

もちろん母より先に僕が死ぬことは親不孝だろう。

だが、それ以上にこのまま死なせることの方がつらかった。

が、そんな説明は敢えてしたいものでもない。

そうしたら気功やってるひとは名前はご存知だろう、太学功を紹介された。

清皇帝までの中国歴代の皇帝の健康を担当してきた流派で、しかもその唯一の継承者といわれる方が主催している。

こういうところできちんとやるべきだ、というわけだ。

僕が気功について読んだ著作は、まだ200冊を少し超えたほどだが、昨年だったかそのトップのひとが書いた本を読んだことがあった。

そのひとが書いていたが、身体が肥満するのはエネルギーが枯渇しているひとで、その不足を補うために内臓が脂肪を溜め込む、真に健康な方は、ムダに脂肪はつかない、と。

だから太学功を紹介されることに違和感を感じた。

僕は交通事故遭遇後肥満したから、げっそりやせたといっても、なんとか係数でほぼ標準のど真ん中、正確にいうとその線をやや下回り、僕が陸上競技で試合に臨むときの体重とほぼ同じ体重である。

この方は、僕の話を又聞きしたから、僕のことを知らないのだろう、と思った(またその方は邪気という言葉も知らないらしい)。

また僕がやっていることが「危険」にみえたから太学功を勧めたとしても違和感がある。

そもそも「危険」かどうかは気功にとって問題だろうか。

太学功のトップの方も書いていらしたが、日本の気功は健康重視か養生でしかないが、本来気功は「生命学」とも呼ぶようなものである。

僕もまさにその通りだと思ったから、その辺の気功教室に通わないのだ(いい師がいると思えば別だ、著作をあさっているのはいい師を探すためだともいえる)。

個人的には「形而上学」といってもいいと思うが、宇宙飛行士の経験に似た、生命の根源に手が届きそうな人間の枠組みを諦観させる宗教的視点を与えてくれる。

ここでの「宇宙飛行士の経験」とは、一面暗黒の宇宙の中でたったひとつポツリと生命体を積載している地球をみたときの「畏怖」経験だ。

想像してみてほしい。

137億光年の広がりがある暗黒の空間にひとつだけ(少なくとも可視範囲内では)人間ほか生命体が存在する惑星がそこにあり、宇宙飛行士はそこからわざわざ離脱して、その奇跡を目の当たりにしているという瞬間を!

おそらく神を感じ、畏怖せざるをえまい(だから毛利さんの「地球に国境はみえない」などといった俗っぽい発言には逆に驚いた)。

生命を考えるとき、人生を考えるとき、その瞬間の宇宙飛行士のような視点に立つことは不可避だと僕は思う。

その視点からみたら浮世の二元論的整理は跡形もなく消え去る圧倒的な視点に!

僕は宇宙に行ったことはなかったが、学問というものをやるようになってからそんな視点を持つことが出来るようになった(最大の功労者はやはり空海かもしれない)。

そんな視点に立つと、基本というか常識的というか英単語でいうと ordinary な範囲にいられなくなってくる。

ordinary という単語は、order つまりきちんとした理屈から秩序に格上げされ、且つ常識的なものにまでなったものを指すが、そうした領域が宇宙からみた地球のように小さくみえてくるからだ。

純粋な学問にはそういうところがある。

もともとUniversityとはUniverseが丸ごと入っているという意味だが、ある分野をその絶対的視点から見下ろす。

するとある命題に対して全く正反対の見解が同程度の強さで主張されていることを知る。

そして「学者」とか「専門家」は、ひとつの命題に対して百通りの見解を知ることがスタートだと教わり、そのうえで誰もが納得しうる見解をみつけられたら学者として成功と教わる。

そのためか気功に対しても僕はそういう態度で接している。

だから僕が今まで試してきたことに独創はまだない。

これは独創だと思ってやったこともその後読んだ本のなかにいくらでも書いてあった。

つまり僕はいまだスタート地点にさえ立っていないのだ。

しかもある本によって、僕はまだ10段階の2くらいでしかないこともわかった(その著作によるとほとんどの気功の使い手は2くらいまででしかないらしい)。

以前ここで音楽理論に期待している旨を書いたことがあった。

現在も同様で、宇宙飛行士の経験や気功をやっているときに体感される妙な音は一体なんだろう、といつもどこかで不思議に思ってきた。

いつかそんな音を自分で再現し理論化してみたい、と。

そしたらつい先日湯斗でたまたま聴いたRelaxationの曲がまさにそんな感覚のものだった。

そのとき思った、音楽もまだスタート地点に達していない、と。

僕は飽くまで、Extra-ordinary を求めよう、と思った。

追伸:この太学功のトップの方が書いた本は僕のような気功愛好者にとっては ordinary なものに過ぎないが、気功入門にはおススメです。