人襲うサル、なぜ? やまぬ乱暴、57人が被害 静岡(朝日新聞) - goo ニュース
上記ニュースをみてすぐに思ったのは、サルが反抗してるのではないか、ということ。
というのも最近娘が、スタジオ・ジブリの狸が主人公の作品が好きでよくみていたからだ。
多摩ニュータウン建設で棲家を奪われる狸たちの映画で、正当性はどうみても狸にある。
だからサルもついに?と思った。
しかも僕はここのところこの事件の数百メートルと離れていない地域にいた。
だからこの問題に対して、しっかりと態度を決めなければならない気がした。
いざというとき、サルとヒト、どちらにつくか、ということだ。
すでに書いたように、サルの抗議行動なら、非はヒトにある。
といって自分はヒトであり、人間だけでなくほかの生きものの生をないがしろにしていることに疑いはない。
サルからみたらニックキ人間だろう。
といって僕自身動物愛護とか自然保護などに関心は全くない。
というよりそんな矛盾はしたくない。
全員がそうだとはいわないが、普段の生活は、電気や車を使い、添加物の多い食糧を喰らい、それらを川に流しておいて、自然保護もないものだとおもうからだ。
自分の生活とそうした運動を両立させているひとが何人いるのだろう。
先日もそうした中途半端なひとに公園で怒られた。
近所の公園で野鳥に煎餅をあげたら、野鳥の会らしきひとに、「ダメ」といわれた。
その公園にはかなり大きな池があり、野鳥が棲んでいるのだが、「自然にというのがルールです」といわれた。
僕は質問した。
「自然とは何ですか?」
答えが遅いので、更に質問した。
「どういった意味で、僕があげたものは自然に反しますか?野鳥が人間が人工的につくったものを食べるからですか?野鳥は自分の力で食べものを探さなければいけないからですか?」
答えが遅いので、また続けた。「ちなみに僕が投げた煎餅は、有機農法で丹念に作られたお米を原材料にしたもので、娘にもあげてるとっても素朴なものです。それでも野鳥の害になるのですか。」
更に答えないので、訊いた。
「ここにいる野鳥はそもそも野鳥ですか?毎日のように誰かがパン屑をあげてますが。」
すると、「決まりなんですよ」といいながら、カメラをしまって駐車場に向った。
今から思えば「所詮自分に都合のいい自然&野鳥愛好家なんでしょ?」と捨て疑問文を投げかけてやればよかった。
僕に言わせれば、最強者が貪欲と矛盾を許される状態も十分自然の一光景だと思っているから、その矛盾野鳥愛好家に「あなたもまさに自然の体現者だ」といってもよかった。
ちょっと屋根の軒下をみれば、ヒヨドリがもう一羽を徹底的にいじめながら飛び回っていたりするが、これも自然なんじゃないのか。
また本当の手付かずらしき森林に行くと、大木だけがあって、潅木はなく、シダや苔くらいしか生息してなかったりするが、その森では大木が最強だったからじゃないのか。
つまり自らの可視範囲内で活動することが自然なのだ。
だから野鳥の会の方の言い分も自然だし、僕の言い分も自然だ。
もちろんジブリの映画も人間の視点でみた自然愛好家の作品で、人間が「自然」という虚像を描きつつ、同時にそれが人間にとっての「自然」と考えてよいのだ。
そうすると相反するベクトルなのに、同じものだという捉え方が可能になる。
音楽にたとえよう。
先日呑んだミュージシャンがいっていた。「フリー・ジャズはまさにそうした自然を音にすることだ」と。
歩いていたら躓いたり、缶の蹴飛ばす音が遠くで聞こえたり、一切の作為の消えたものだそうな。
フリーはそう考えると、それ以上進展しようのないもののように一見みえる。
しかし上記のように考えれば、フリーとそれ以前は同じものにみえる。
そうみえてしまえば、フリーを超える手がかりがみえてくる。
つまり疑念という悪だ。
だんだん悪人がみえてきたような気がした。
音楽は偉大だ!
上記ニュースをみてすぐに思ったのは、サルが反抗してるのではないか、ということ。
というのも最近娘が、スタジオ・ジブリの狸が主人公の作品が好きでよくみていたからだ。
多摩ニュータウン建設で棲家を奪われる狸たちの映画で、正当性はどうみても狸にある。
だからサルもついに?と思った。
しかも僕はここのところこの事件の数百メートルと離れていない地域にいた。
だからこの問題に対して、しっかりと態度を決めなければならない気がした。
いざというとき、サルとヒト、どちらにつくか、ということだ。
すでに書いたように、サルの抗議行動なら、非はヒトにある。
といって自分はヒトであり、人間だけでなくほかの生きものの生をないがしろにしていることに疑いはない。
サルからみたらニックキ人間だろう。
といって僕自身動物愛護とか自然保護などに関心は全くない。
というよりそんな矛盾はしたくない。
全員がそうだとはいわないが、普段の生活は、電気や車を使い、添加物の多い食糧を喰らい、それらを川に流しておいて、自然保護もないものだとおもうからだ。
自分の生活とそうした運動を両立させているひとが何人いるのだろう。
先日もそうした中途半端なひとに公園で怒られた。
近所の公園で野鳥に煎餅をあげたら、野鳥の会らしきひとに、「ダメ」といわれた。
その公園にはかなり大きな池があり、野鳥が棲んでいるのだが、「自然にというのがルールです」といわれた。
僕は質問した。
「自然とは何ですか?」
答えが遅いので、更に質問した。
「どういった意味で、僕があげたものは自然に反しますか?野鳥が人間が人工的につくったものを食べるからですか?野鳥は自分の力で食べものを探さなければいけないからですか?」
答えが遅いので、また続けた。「ちなみに僕が投げた煎餅は、有機農法で丹念に作られたお米を原材料にしたもので、娘にもあげてるとっても素朴なものです。それでも野鳥の害になるのですか。」
更に答えないので、訊いた。
「ここにいる野鳥はそもそも野鳥ですか?毎日のように誰かがパン屑をあげてますが。」
すると、「決まりなんですよ」といいながら、カメラをしまって駐車場に向った。
今から思えば「所詮自分に都合のいい自然&野鳥愛好家なんでしょ?」と捨て疑問文を投げかけてやればよかった。
僕に言わせれば、最強者が貪欲と矛盾を許される状態も十分自然の一光景だと思っているから、その矛盾野鳥愛好家に「あなたもまさに自然の体現者だ」といってもよかった。
ちょっと屋根の軒下をみれば、ヒヨドリがもう一羽を徹底的にいじめながら飛び回っていたりするが、これも自然なんじゃないのか。
また本当の手付かずらしき森林に行くと、大木だけがあって、潅木はなく、シダや苔くらいしか生息してなかったりするが、その森では大木が最強だったからじゃないのか。
つまり自らの可視範囲内で活動することが自然なのだ。
だから野鳥の会の方の言い分も自然だし、僕の言い分も自然だ。
もちろんジブリの映画も人間の視点でみた自然愛好家の作品で、人間が「自然」という虚像を描きつつ、同時にそれが人間にとっての「自然」と考えてよいのだ。
そうすると相反するベクトルなのに、同じものだという捉え方が可能になる。
音楽にたとえよう。
先日呑んだミュージシャンがいっていた。「フリー・ジャズはまさにそうした自然を音にすることだ」と。
歩いていたら躓いたり、缶の蹴飛ばす音が遠くで聞こえたり、一切の作為の消えたものだそうな。
フリーはそう考えると、それ以上進展しようのないもののように一見みえる。
しかし上記のように考えれば、フリーとそれ以前は同じものにみえる。
そうみえてしまえば、フリーを超える手がかりがみえてくる。
つまり疑念という悪だ。
だんだん悪人がみえてきたような気がした。
音楽は偉大だ!