雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

美意識(改訂)

2007-01-31 11:58:56 | 文学
安倍首相の「美しい国」、野党のやり玉に 参院代表質問(朝日新聞) - goo ニュース

全く「美」という字を使っていながらその実がわかってない。

「美」は「羊」が「大」きいと書く。

「羊」にはもともと意味がない。

むしろいろいろな言葉のなかにはいっていかれる柔軟性が買われている字だ。

それが「大きい」ということは、柔軟性に満ちている、ということだ。

その点、英語やフランス語のBeautiful も重なっている。ただし「物事のいいところ」、「上澄み」だけを意味すると読んでしまっては片手落ち。同根といわれるPrettyには、「狡猾な」とか「巧み」という意味がある。

パラフレーズすれば、少なくとも「羊」+「大」は方法論の卓越さのことである。

なら、方法論の良し悪しはどうやって決まる?

目的だ!

これが決まらなければ良し悪しは定まらない。

あんたたち(野党も入ってる)が掲げている目的はなんだ?

ただのキレイゴトだ。

「正義」や「憐れみ」、「愛」、「勇気」という言葉は確かにキレイだ。

しかし現在地に落ちている。

なぜだ?

目的と結びついていないからだ。

Faulkner がアメリカの大学で講義したときにもいっていたが、こういった言葉は本当に現実を直視すれば自ずと必要なことがわかってくる実質的なものだ。

ひとはいつも健康ではないし、いつも若くもいられない。

時には苦難と戦わなければいけない(人生いつも順風じゃない!)

あんたたちがやってるのは、現状維持のためのゴマカシでしかない。そのために煌びやかな言葉をちりばめている(ということは、「美」の解釈によっては正しいことになるが)。

我々が必要とする教育は、そうした言葉が絵空事じゃないことを教えるためのものでなければならない。

前々回アメリカの60年代が室町に似ていると書いたが、その時代が経験していた悲劇をFaulknerがうまく言葉にしている。

His tragedy was that when he attempted to enter the human race, there was no human race there. 彼(サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)の悲劇は、彼が人類の中にはいろうとしたとき、そこに人類がいなかったことだ。

だから退却するか刹那に生きるしかなくなったんだ(こういう洞察が社会に共有されなければ公民権運動はなかったのではないか)。

柳沢大臣の言葉は確かに一部の女性を傷つけたろう。

いつも考えていたことだから言葉に出たんだろう。

しかし政策担当者なら当然考えることだと僕は思う。

社会全体が健全であるためには、モンテビデオ会議での国家の一番の定義は人口が確保されることだ。

その場合特定の年齢層が多いと、人口が一定にならない。そして問題なのは、年齢層によって不公平が生じる。

個々の生活はそれぞれ考えてもらうが、この日本という社会集団をひとつとしてみる役割にいるひとからみたら、女性は子供を産む機械であり、男性がそれに油を指したり動力を注ぐチューブであるかもしれない。

少子化担当大臣(厚労)なら当然考えていいことだと思う。

なぜならこういう視点は、社会全体をみなければ出てこない。

そして全体をみなければ、「愛」や「勇気」も絵空事に終ってしまう。

もちろん失言は失言だが、政治家としては素人くささが垣間見えた柳沢が取り敢えず少子化問題に頭を悩ませていることの証左と解釈もできる。

今の社会に必要なのは全体をみようとする視点じゃないだろうか。

全体をみて目的を見据えなければ、美自体云々すること自体おかしい。

Katrina 32

2007-01-31 00:00:02 | アメリカ
1ヵ月半ぶりにKatrina関連。

いい話はない。

階級差によって復興に差がある(NY Times)とか、共和党だけじゃなく民主党もKatrina復興の仕事にコネを利用してるとか(Townhall)、建て直しの地域の選択に喧々囂々とか(Washingtonpost)。

もうどうしようもないところにきて、連日上のような不始末が報道され、全米のひとたちもKatrinaのことは忘れたいなんて雰囲気も出ている。それを察してか、New Orleans のひとたちは、忘れられたら更に復興が遅くなると、危機感を持ち、神頼みならぬ、New Orleans Saints のSuper Bowl に期待したが、結局ダメだった(Washingtonpost)。

ただいい話というわけではないが、Mississippi では保険問題のカタがつき始めている(NY times)。New Orleans は壊れた堤防が人為的ミスだからということになって、なかなか進まないが、640件ほどが補償を受けることで同意したらしい(内300は全額、340が半分)。ただほかに数千のクレームがありそうらしい。

それからICFが非難の的(Washingtonpost)。

そしてNew Orleans の人口は、依然としてKatrina が来る前の半分前後。

これまでのKatrina。 12345678910111213141516171819202122232425262728293031

追伸:ここ数日の日米関係関連の記事(主としてWashingtonpost)。
1) この日曜に亡くなったアメリカ人(114歳)にかわり、日本の114歳の女性が世界で最高齢になった(1月30日)。生まれたのは、1893年1月4日で、毛沢東(1976年没)が生まれた年。第2位は、アメリカの同じく1893年4月20日生まれの方。驚いたのは、日本には今100歳をこえるひとが3000人近くいるらしい。

2)1946年にグアム島での裁判(日本軍軍人のカニバリズムほかアメリカ人捕虜への拷問)での検事、Fredric T. Suss Srが91歳で亡くなった(1月29日)。91歳。

3)NHKの番組改変に関する東京高裁の判決(29日)。安倍さんほかが抗議はしたものの、それを受け容れるかどうかはNHK側にあることになったが、$16,420 の賠償金となった、と書いてある。また、NHK は、民法ではないので・・・と疑わしさもにじませている。ただ僕の知る限りでは、被害者だと名乗る人たちだけの抗議を載せるのは偏っている、という趣旨の抗議だったと思う。

4)日本で1942年以来禁止されてきた体罰再評価(25日付NY times)。いじめほか、教員の権威を復興させるねらいもあるとのこと。アメリカのいじめ問題はこちら(Bostonglobe)。

天才とは2

2007-01-30 13:17:31 | 文学
よく「天才となんとかは紙一重」という。

この言葉、それなりに理解してきたつもりだった。

「天才」とは常人には思いもつかぬことを発想するために「愚かもの」との判別が難しい、と。

しかしそうではないのでは、と思い始めた。

Pさんがよくいう、「秀才はいくらでもみてきたんだが・・・」と。

Pさんがいう「秀才」は、その時代その時代に主流になっている価値観やシステムに順応してそれなりの成績をあげるひとのこと。

だが、僕はこういうひとこそ「天才」だと思っていた。

なぜなら「類に触る」にも書いたが、僕にはとてもできないという実感が幼い頃からあるからだ。

いきつけの床屋さんに、前回のオリンピックでも優勝間違いなしといわれていた柔道選手が来るのだが、そのひとのコーチも来る。

そこでの話によると、オリンピックでゴールドメダルをとるには、Pさんのいう「秀才」(僕のいう「天才」)ではダメだという。

むしろ前回の五輪では負けてしまったが、彼のようなやつこそがとれる、と。

僕のいう「天才」は簡単にいろんなことを吸収して、すべての技をかなりの完成度で体得するが、世界一にはなれない。

むしろ彼のように、「内股」だったか「小内刈り」だったか忘れたが、ひとつ誰にも真似のできないものを持たなければとれない、と。

彼のように「不器用」なやつこそ「天才」だと。

これまで天才の条件として、「好奇心」(「天才とは?」&「Monk」&「Katrina 5: Old Crow」参照)とか「疑い(探究心)」(「白隠禅師」参照)を挙げてきたが、「不器用さ」ならなんとかなるんじゃないかと思ってるそこのあなた、僕はそう簡単ではないと思っている。

といいつつ、僕がなんとかなるといまだに思っている張本人だが、すぐその類例として、Bill Evans をあげたくなる。

彼はいっていた、ほかのひとのように器用だったら真似ができて、独自のスタイルなんて切り開けなかったろう、と。

それを聞いた(正確には「読んだ」)僕はこう考えたっ。

不器用なひとが、不器用だと自覚して、人一倍努力したり模索して、独自のスタイル(天才の必須条件)を見出せるんだ、と。「天才は1%の才能と99%の努力」というから、努力次第なら、時間さえあればなんとかなる、と。

そしてその時間が足りなかった人間が、つまり「天才」になりそこねた人間が「紙一重」と呼ばれるのだ、と。

しかし僕自身のなかのニヒルな僕がささやく。

そんなにあまくないんじゃないの?

Sonny Rollinsみたいに開花するのは相当の確率だし、ひとつ芽が出たとしても、お前が信じ込んでいた意味での「天才となんとかは・・・」のような突飛なものしか出てこないか、まぐれあたり(「絵心」参照)が関の山かもしれない。運も必要だし。大体「「嚢中の錐」という言葉もあるじゃないか(フン)。

ムムっ(ここで歯を食いしばって耐えて)、自分を叱咤する、「し、しかしひるむなっ、努力次第ならやれるっ!」

「天才は~と紙一重」の「紙一重」とはまさに・・・

失礼

2007-01-26 23:55:51 | 時事
税と社保負担、国民負担率は39・7%で過去最高に(読売新聞) - goo ニュース

年金額、現役世代の47~51% 出生率1.26で試算(朝日新聞) - goo ニュース

日本だけでなく東アジアには、「礼」という伝統的対人関係の基本をつかさどる社会秩序がある。

「礼」は、漢字自体「形よく整える」という意味で、対人関係においては、自分と他者間の貸し借りのバランスが保たれている状態を指す。

これがあるからこそ、若者は年配者を敬う。借りがあるからだ。人間にはどうしても子供の時期があるから、年長者に世話になっている時期がある。

しかし。。。

もうないかもな、そんなもん。

それからこんなことが起こっているのに何のデモも起きない日本は一体?というひとが多いが(僕もいつもはそういってるが)、今自分のことで精一杯で身動きがとれん。。。

大体野党も、与党に反対してりゃ職が全うできると考えてるんじゃないだろうか。

アレクサンドル・コジェーブがいったという「日本が真のヘーゲル的ポストモダン社会」といったのはこのことだろう。

とにかく「こういう余裕がないときにこういう仕打ちを!」

と怒り心頭の年齢層がいることを忘れるな。

『愛の流刑地』論(改変)

2007-01-25 16:13:34 | 文学
こっそりと『愛の流刑地』を観に行った。

冒頭から豊川悦司と寺島しのぶのR15シーンの連続で、このままでは上映中にその辺の女性にカブリついてしまうんじゃと心配していたが、何とか理性を失うことは免れた。

物語は、寺島が密かに大事にしていた作家豊川にあまりに入れ込んだために、それまでの社会生活と豊川との情事のうち一方を選べなくなり、両方とも確保するため、寺島が豊川に自分を殺させた。こうすることで、豊川を永遠に自分の殺人犯として独占しつつ、家族には殺された母として心の中で生き続けるわけだ。 

女性ではなく、女性的なもののすごいところは、実生活と、それを離れたところで大事にしている部分を分けて考えられるところだと思う。

『三四郎』や『明暗』に出てくる女性の得体の知れぬ神秘さは、その大事な部分をひた隠しにすることで醸し出されていたように思う。

寺島の社会生活も、それを大事にしまっておくことで維持されてきた。しかし豊川が手に入ることによってそれらが同じ地平の上に並んだ。

寺島の実生活は破綻した。

したがって寺島が豊川に殺させたのは、豊川との「情事」がよかったからでもなければ豊川の「男の魅力」でもない。

こうした寺島の葛藤およびその解決策としての豊川による殺人選択の動機は、寺島の、豊川との性交にだんだん大胆になっていくところと、留置所で8年の実刑をくらったあとの豊川に開示される手紙でしか示されない。

映画鑑賞のあと、何となく欲求不満を感じたのは、もちろん性的に興奮したからではなく、寺島の上記のような熱情が一方通行にみえたからかもしれない。

果たして豊川は、というか「男」は、寺島という「女」のそのような気持ちを十全に解しえたのだろうか(僕も男で十全に理解してるかわからないが)。自分がそのような寺島の内奥のひだにまで触れたことをわかっていたのだろうか。

「男」に、そのような「分裂した」気持ちはわからないんじゃないか、と思った。ある乙女が僕にいったことがある、「女はふたつのことを同時にできるが、男はできない」と。あのとき「この乙女、タダモンじゃねぇ」とビビったのを思い出した。

追伸1:ところで豊川は、下駄(雪駄?)と胸のはだけた、白いワイシャツがよく似合う。ドラマかなんかでやっていたイメージをまだ引っ張っているところがすごい。オレもやってみよ!

追伸2:以前にも「Feminism とPostmodern 4」で触れたように、一人っ子政策によって多くの堕胎がなされ、更に男性でないと食い扶持にならないというわけで、女の子ばかりが堕胎の対象(70%)になっている。

NY Times によると、そのあおりと、北京五輪をにらんでのイメージ戦略によって、昨年の中国からの養子縁組が18%も減った(ほかに海外からのジャーナリストの数も中国は制限しているらしい)。

イメージ戦略は、論理的な繋がりはないものの、日常のちょっとした安寧と選択に影響を与える(NY Times)。先日の古い通信衛星を500マイルはなれた地上から打ち落とした事件は、冷戦時の、ソ連の人工衛星打ち上げ(1957年)と同じく、脅威を与えこそすれ、中国にそれほどマイナスにはなっていないと思うが(Townhallは、いまだ米優位なるも足元にせまっている中国に警戒せよ、という国内を右的に扇動する記事を出していた)、一人っ子政策による弊害はどうみてもよくないだろう。

追伸2:Yahoo がずいぶん収益が悪くなっているらしい。Google にやられているためで、今年はMicrosoft と力を合わせて戦うらしい(Washingtonpost)。

To Be or Not To Be 4

2007-01-23 18:53:00 | 文学
日銀、大混乱―フィナンシャル・タイムズ社説(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース

上記記事には、日銀のコミュニケーション能力が問題視されている。きちんとした目標値を定めていないからみなわかりにくい(コミュニケーションがとれない)ということらしい。確かにお金の標準を定める公的機関なら、伝えるべきことは伝えてもらわなければ困るだろうが、金融のことは知らないので、コミュニケーションの問題にすすみたい。

コミュニケーションをとらなければならない相手が日銀のように意志を明示しない場合こちらは何をすればいいのだろう。

この相手にはいろいろなものが入る。恋人や息子、上司、部下、そして神、超越者、自分の運命そのものまでが相手になるときがある。

同じ人間であればコミュニケーションをとろうとしないのなら「僕が嫌いなのか」、「僕とコミュニケーションをとる理由がないと考えているか」、「恥ずかしがっているのか」、「その術を知らないのか」といった原因候補が思いうかぶ。が、わからない。にもかかわらず、その相手とコミュニケーションしなければならないのならどうすればいい?

その場合にハムレットは、狂った風を装った。

ハムレットは自分の親父が変死して、なんとなくおかしいと思っているところに、親父が幽霊になって出てきて、「伯父に陥れられた」ことを告げられる。

しかし幽霊なんて錯覚かもしれないし(さっき毛玉をゴキブリだと思って驚いた)、心の底で思ってることが夢に出てきただけの可能性もある。

しかも伯父が犯人だとして、ひとりでは親父を殺すことは出来ないから、伯父と再婚した母親も疑うことになる。

疑問を伯父と母に直接ぶつけたところで、もしやっていたら「やった」というはずがない。

コミュニケーションをとらなければならない相手が何も語ってくれない状況がつくられることになる。

そこでハムレットは狂人を装う。

この選択は、幽霊を信じるとか信じないではなく、自分自身を Critical にみることから選択された、ハムレットの事実に対する真摯な反応だと思ってもらわなければ困る(?)。

正義や物事の善悪などというが、それを判断するだけの情報が人間にみえているのか?目の前にいる人間のことさえよくわかっていないではないか。

最終的に、幽霊の親父が教えてくれた、伯父たちの策略を劇団に演じさせて、その動揺ぶりからハムレットは、伯父たちの罪を確信する。

が、結果愛するオフィーリアを悩ませて殺し、兄貴には恨まれた挙句決闘して殺す。

迷惑なまでの探究心だが、人間がそれをせざるをえないのは自分が生きているからだ。

To be or Not to be...。

日銀もそんな選択をせまられてるんだろうか。

追伸:これまでのTo Be or Not To Be 123

公民権運動の現在2(改訂)

2007-01-22 20:45:07 | 宗教
Martin Luther King Jr. の誕生日で祝日の1月15日から始まる先週は、さぞ公民権運動についての記事が多いと予想していたが、それほどでもなかった。

Massachusetts で初めてアフリカ系アメリカ人州知事が誕生した(Bostonglobe)し、逆にミシガン州では、反公民権運動的州法(いかなる民族・人種などのカテゴリーで差をつけることを認めない)が可決もされた(Bostonglobe)。「公民権運動の現在」的傾向(つまり形骸化)はさらに進んでいるということだろう。

昨年11月には、「現代における奴隷制度」(Bostonglobe)と題する記事があったが、アメリカの話ではなく、人身売買されるスーダンでの話や、サウジアラビアの王子がインドネシア人の女性を2人強制的に召使として働かせていたという話が載っていた。そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに奴隷制度を生む土壌が宗教の中で醸成されていた、と最終的に宗教批判をすることで左翼的な記事としていた。

それへの対抗馬的記事(?)は、保守Townhall にあった。「King 牧師はリベラルか保守か?」と題する記事は、予想通り、宗教(保守)に軍配を挙げていた。もちろん彼が選んだ解決の糸口を教会に求めていたからだった。

しかしそんなに簡単な意味だったろうか?

自動車泥棒」にも書いたが、彼のスタンスは極めて知的だった。

彼の独白(伝記だったかな?)に、「もう父にも電話できないし、母にも電話できない、何にも頼ることが出来ない、何に頼る?」という箇所が出てくる。そして「そうだ宗教がある」と述べているから、宗教家として彼をとらえたくなるかもしれない。

しかし彼の伝記を読んでいれば、その「宗教」は「知的な説得」と解釈できないだろうか。彼は小さい頃から模範的な教会の牧師である父に、「たとえ嫌な思いをしても白人を憎まないように」教えられていたが、それを受け容れているわけではなかった。自らが差別で嫌な思いをしていたからだ。

その証拠に大学は社会学部で弁護士になろうとしていたらしい。多くのアフリカ系アメリカ人の活動家同様、人種差別という不正義が目の前で行われているとき、その不正義を正す方法として法律に頼りたくなる。

しかし「自動車泥棒」に書いたように法律や慣習は根本的な解決ではなく、そこからにはならないことを学んだだけでなく、大学の学長から知的興奮によってこそ人間を、社会を変えられることに気づいた。

それで宗教を使った。

といって宗教の超現実的な話(神の恩寵とか最後の審判)を持ち出すわけではない。いわゆる3つ(だったっけ?)の愛を持ち出して黒人を説得する。愛こそが多様な人間が暮らす社会生活に確かに必要だ。

といってそんな絵空事だけでは当然みんなついてこない。みな生活を抱えているのだから。そこで教会が母体となって銀行や保険会社をつくり、職業訓練所もかねたりして、黒人の生活を支える。他方Civil Disobedience を政治的には繰り返す。

見事というしかない。

何も頼るものがないときこそ因果関係をはっきりさせて地に足をつけた選択をする。これは宗教を選んだというより知恵だ。

が、これが宗教と無関係などと無粋なことをいうつもりはない。仏教ではまさしくこういう知恵を得ることを悟りというし、キング牧師に残されていたよすがは、神学でドクターをとった(盗作の疑いはあるが)、理性的な捉え方としての超越者=神だったはずだからだ(神という名前で呼ばなくても超越者が存在する可能性は理論的に残されるはず)。

同記事にのっているキング牧師の言葉がまさにそんな態度を示していると思う。

“I did what I could with what I had.” (「私は私が持っているものでできることをした)。

こういう風に、まさに人間の分際でできる可能性を追求するところに絶対者なり超越者なりに対する敬意があり、その敬意にこそ僕は宗教を感じる(その意味でキャンベルこそ宗教者という感じがする:「シーシュポスと浦島太郎」参照)。

が、昨今では宗教は完全に政治の手段だ(僕もひとのこといえないが:「ブッシュに拉致問題を」参照)。

昨日のWashingtonpost によると、カーター、クリントン元大統領が南部最大の宗教団体、Southern Baptist Convention (南部のクリスチャンの6分の5を占める)に対抗する団体を創ろうとしてる。確かにSBCは、1600万人を超える教会員で共和党との結びつきが絶大である(ただCarter もClinton もSouthern Baptistsだったらしい)。

追伸:ところで、King 牧師がリベラルだったという記事もある。Bostonglobe の「公民権運動を超えたもの」。根拠は、ベトナム戦争に反対だったことと、貧困者をなくそうとしていたから。ただしこの記事の結び=「公民権運動を超えたもの」とは、Regan 大統領をけなすこと(?)。

文明としての暴力

2007-01-21 13:26:28 | 時事
中国の衛星破壊 「米経済に破滅的影響」 議会諮問機関 兵器制限へ誘導か(産経新聞) - goo ニュース

NY Times によると、中国はアメリカの宇宙での一国覇権には懸念を表明していた(国連などで「宇宙は全人類にとっての資源」などと発言していた)。それがアジアのある種の連合をつくってアメリカに対抗する様相さえあったが、当然日本、韓国などがこの試験を疑問視し、説明を求めた(中国政府は否定)。

同記事にはいくつかの中国の戦略についての専門家が見解を述べているが、共通しているのは中国が極めて計画的に軍事力を高めていること。中露がアメリカの人工衛星を打ち落とすシステム開発に着手が米議会で報告され、仮想か事実かわからなかったわけだが、「事実」である実質的な証拠としてみな受けとめている。

中国の軍事費増大はここ15年2桁%アップが続いてきたが、表立ったものはほぼ10年前の台湾への威嚇のほかは、高性能の潜水艦や日本領空内侵犯などの小さいものに限られていたわけだが、実は秘密裏に高性能の兵器開発に投資されてきたことがわかった、というわけだ(なにせここ20年地上からのミサイルで人工衛星を破壊なんてのはなかったわけだから)。

同日のNY Times Editorial にもこれに触れた記事があって、好戦的なブッシュ政権がこうした事態を招いたとして早期にこうした宇宙兵器競争のための実験をやめる取り決めをする交渉をうながしつつ、ただしこの交渉は難航するだろうとしている。当然足元をみられるだろうし(アメリカは軍事だけでなく民間レベルでも依存しすぎているため実害は米側にあるため according to Bostonglobe)。

よく文明や文化について言及するが、文明がどの文化圏にも受け容れられるものを指すとすると、暴力や科学技術は、なんといっても文明である。ロシアが東アジアに勢力を広げることができたのも「鉄砲」という文明が遊牧民族の弓を駆逐したためだし(こう書くとロシアが悪いみたいだがそう思ってるわけじゃない)、欧州各国のステイタスもまさに文明力による。だからこそ北朝鮮は核兵器を保持した、とぶち上げる。

大江さんもそうだが、左翼のひとは(十把一絡げにしてはいけないが)こうした文明力はどうしても両刃なので否定する(大江さんの場合息子さんの存在意義まで回復してくれる)。両刃は、人間の判断力さえしっかりしていればいいことになるが、これまで理性が健全に働いた試しがあまりないからだ。

健全なときというのは、大体暴力を否定するとき、つまりキング牧師やブッカー・T・ワシントンが実践したような行動と目的に因果関係が確立されているときだけで(「自動車泥棒」参照)、ジジェクも盛んにそれをいう(だからジジェクは左からはいった右だと思う)。

しかし拉致問題のような、すでに因果関係のない暴力を行使する他者にはどのように対処したらいいのか。

戦争反対を徹底して唱えるのは、永井荷風のような徹底した個人主義者だが(戦争は集団=国家しかできないから)、集団に依存しなければ生きられない個人もいるし、とにかく国家が基本的な単位となる現在、ましてそれを率先して行う国がそれなりにいる場合、市民運動さえ役に立つのか疑わしくなる。

まして多くの社会関係は、ケレンが多い。正社員と非正社員の差をはじめ、学歴ほか社会秩序を築き上げてきたもの自体に、理論的な裏づけがなくなったのがポストモダンだ。そうした時代に何ができるのか。

強くならなければならない。

もちろん強けりゃいい(=無法者)とか、特定の相手にのみ強くなれ、といっているわけではない。Montevideo Conference にあるように国家はひとりの個人として存在する。個が健康でなければ長続きしない。

現実的に我々を取り巻く社会問題は、正義ではなく(どの国も平等に一個の個人として扱われると、Montevideo Conferenceの条約第4条にある)。すべてがあらゆることを考慮した交渉次第になる (Bostonglobe は北朝鮮の要求に全部応えろといっている)。

そうであればこそ、国が有機的に存続するために、国内の不公正感が是正され、福祉や教育を充実させる必要がある。一部の人間の権益の問題ではない。今どの国もきちんと内政をする時期。ニーチェがいうデュオニソスにアポロを添えるのが右からの左

追伸1:ここしばらく遠ざかっていたBruckner(なんだか聴きたくなかった)が、むしょうに聴きたい。Bruckner が好きなときが仕事がはかどるので気分がいい(そのかわりBlog がはかどらない)!

追伸2:ここ1週間でたてつづけにライブのチケットが手に入った。ひとつは秋吉敏子。Jazz Master を獲った記念ソロライブで、昨年末に取り逃がしただけに喜びもひとしお。もうひとつがキース・ジャレット。すっごく楽しみ!

政治的想像力

2007-01-18 23:42:08 | 文学
「坂の上の雲」秋山真之役に本木さん、出演者決まる(読売新聞) - goo ニュース

『坂の上の雲』は、たしか司馬さんが映像にできないことを念頭に書いた作品じゃなかったっけ。確かに歴史小説は、叙情詩ではなく叙事詩だが、NHKには司馬さんと信頼関係を築いていた方もいたはずだから、ドラマ化自体が残念。取り敢えずあの壮大さを矮小化させないでほしいもの。

小説の映像化といえば、『山の音』。川端の作品は文学作品では映画化が多く、映像化されやすいとされ、『山の音』も映画化されてるが、少女マンガの、登場人物の背景に描かれる花々のように、季節感たっぷりのイメージが余韻がわりにストーリーの合間に散りばめられているだけでなく、それが微妙に登場人物の心に与える波紋から、「美しさ」が滲み出てくるようになっている(Pさんは三島の方が人工的だと仰るが、川端も同じく構築的であることには変わりないとは思った、緻密な計算があると)。

NHKで小説の映像化といえば、埴谷雄高の『死霊』をドキュメンタリータッチで描いたことがある。

小説を読むと、「霧」という言葉は全く出てこないのに、靄のかかった街並みが思い出され、明らかなのは、登場人物の語る言葉が映像を伴わずに言葉だけで浮かんできた。

この映像化を許さない言葉に凄みを感じたのを覚えている(その番組内でも、靄のかかった街並みを映しながら登場人物の言葉だけが朗読された)。

そういえば渡辺淳一の『愛の流刑地』が劇場公開中。

ひとりでこっそり行こうと思ってたのだが、さすがPさんもうみてた。

いつも大声で憲法改正だの、アガンベンだの、語りつくすのに、その話はさすがにふたりとも小声で喋り、誰にも責められているわけじゃないのにだんだん隅に寄って最終的には廊下に出てコソコソ話した。

原作と異なる点があるわけだが、そここそが男には見物ですよね(文面だと小声にできないので丁寧語)。

いずれにせよ、翻訳同様、媒体を換えるということは思いっきり主題の認識が問われる(しかもその上でその媒介での方法論が問われるから、映画などにする場合、映像という媒体のもつ方法論としての可能性と、原作の主題の整合性がカギになる)。

そうするといわゆる純文学作品は映像化が難しい。特に一語一語に重みがあり、その上で最終的に、埴谷や金芝河がいっていたような、「政治的想像力」が働くからである。

この政治的想像力とは、ある種の頓悟で、論理的な説明を超えているだけでなく、現象としてはとても部分的にしか提示されない。

しかし文学でならそれが描ける。例えば「死の恐怖はそれを積極的に選びとることによって克服できる」(金芝河:引用句は正確ではない)なんて発見は言葉でしか表せない(そしてこれを発見すると自殺しない!)。

大学の頃、この言葉に触発されて小説を書いた。「人間が神に対抗するために全員が自殺をすることを選んだら、神はどうするか?」という学生でなければ手が出せないテーマだった(落選した)。

『死霊』も、人類全体がいまだ青年期にいて、その上で人類共通のテーマのひとつタナトス(死)をみすえつつ、という小説だった(と記憶している)が、いかんせん最後まで読んでない(あれは終ったのか?)。

西洋文学(詩)で頓悟の例として引きたいのは、John Milton の「キリスト降誕の朝によせて」。数連しかない詩だが、Milton 自身がそうであるように、Christianity と ギリシャ・ローマの人文思想がせめぎあい、最終的に両方の共存が最後に描かれる。面白いのは、最後の連だけにその共存が描かれるのだが、その前までは葛藤だけで、なぜその共存が選ばれたのか論理的な説明がない。

こういうのが神道の始まりかも(雑多のごった煮)?

『坂の上の雲』論は別稿で。

自動車泥棒

2007-01-10 22:04:43 | 文学
William Faulkner の遺作に『自動車泥棒』がある。

最後の作品だけあって、なんというかフォークナーの余裕が感じられる作品だが、しっかりと時代を反映しているところが心憎い。

フォークナーのストーリーの作り方は、葛藤を起こしてそれを解決する方法に主題がこめられる(自身がそう語っている)が、この小説でも同様で、主人公の少年(10歳前後)の過ちをどのように処するかにその主題がある。

ただ過ちといっても、行き掛かり上というか、冒険心およびちょっとした背伸びとから、顔見知りの大人と、数週間家をあけることになった、ということだから、極悪非道というのではない。

が、親としたら10歳前後の我が子が何も告げずに数週間留守にしたら心配どころの騒ぎじゃない。

それがわかっているから少年は、無事帰ったあと、「罰」を期待した。

自分の行為がどんなに両親を傷つけたかわかっていて、早く償いたかったからだ(この親子関係はそれまで良好で、両親をこれほど心配させなければならない理由はなかった)。

でも父は何もしなかった。

少年は、それまでで一番きつい罰は革のムチで叩かれることだったからそれを期待さえしたが、父はさみしそうな顔をするだけだったし、母も涙ぐむだけでうらみごとさえ、なぜそんな冒険をしたのかも問わなかった。

少年は、祖父に訊いた、「なぜ父さんはいつものように罰をくれないのか?」と。祖父は、「お前(少年)のしたことに対応する罰がないからさ」と答える。「この罪を忘れず生きていくしかないんだ」と。

構造主義では社会生活を成り立たせる罪と罰の関係は、Sassure のいう Signifier と Sifnified の関係に対応し、すなわちいかなる因果関係もないということになる。

こうした考え方は、Martin Luther King Jr. 牧師の主張と行動を決定した。

彼が非暴力を選んだのは、Ghandhi より、Ghandhi を突き動かしたHenry David Thoreau のCivil Disobedience だったと思う。

ここには、法律や権利といった虚構を尊敬するように教えてはいけないとある。

その理由は、「法律ではこうだから」とか「この権利は認められているから」といった理由で自分の言動を選ぶことは、行動の正当性を自分で知らないということだからだ。

King 牧師が暴力を拒むのも同じ理由で、目的と、それを達成する手段との間に因果関係がみつけられないからだ。

人間が言動を要求されたとき、法律や慣習にその答えを見出そうとするのは不誠実極まりない。

こんなことを書きたくなったのは、拉致問題にしても教育基本法改正や『国家の品格』にしてもなんだかいつも過去の遺物に依存したり枝葉の問題に取り組んでいて先に進んでいないように感じられて、イライラしたから(自分のことは棚に上げて)。

Malcolm X が暴力を肯定することには、論理の正当性はないが、目的を見据えていた点でははるかに評価できるし、またポスト構造主義者たるMalcom は単なる暴力肯定論者で終ったわけではない。

フォークナーは人種差別反対の声明を発表していたが、どちらかというとサラっと書いた感のある『自動車泥棒』にもいろいろとこめてたのかな、などと思った。

関連:「キング夫人1」、「キング夫人2」、「アメリカ保守8」、「ヘーゲルとパークス」、「Parks の思い出」、「Faulkner, Mississippi