雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

曼殊院門跡

2005-07-29 21:47:30 | 歴史
京都旅行シリーズ第4弾:曼殊院門跡

僕がここを今回の旅行の超目玉にしたのは、京都案内のウェブや本、雑誌に出てきた写真の所為。「綺麗だなぁ」と思ってみてみると、曼殊院門跡だったことがよくあった(そういう意味では、西芳寺も候補だったが、アメリカの友人が敬虔なキリスト教徒なので却下)。

すかさず司馬さんの『叡山の諸道』で曼殊院を確認した。もともとは最澄が作ったらしいが、その頃は名前も場所も現在とは違った。サンスクリット語で、「文殊菩薩」を漢字に音写した字をあて、場所も現在の地に移ったのが江戸時代のことだった。

日本庭園史上重要なのは、造営が、当時の天台座主でもあった良尚法親王(1622-93)の才覚に委ねられたこと。なぜ親王が天台座主なのかというと、公家や親王が謀反に担ぎ出されるのを江戸幕府が怖れたから。しかし司馬さんによると、以下のような背景もまたあった。信長やそれ以前の戦国大名は室町幕府の後ろ盾になることで、その威を発揮しようとしたが、秀吉は、天皇や公家を自分の栄達に利用した。そのため、逆に秀吉の死後、公家たちは家康に嫌われ、次々と僧門に入れられた。

ということは、この秀吉と家康の対決が、江戸時代に開花した日本庭園を二大別させたということになる。安土桃山の文化の終焉を告げる曼殊院や桂離宮と、江戸以降の工匠の粋を集めた日光東照宮がそのふたつの代表格だが、前者は秀吉より、後者は家康よりということだ。

安土桃山時代、公家たちは秀吉に逆に影響を受け(茶会などに頻繁に招待された)、特に桂離宮をつくった智仁親王はずいぶん秀吉に大事にされたらしい。更にその智仁親王の子が、良尚法親王とくるわけだから合点がいく。司馬さんによると、桂離宮と曼殊院は、秀吉がつくった聚楽第に始まる安土桃山文化の結集および終焉であり、東照宮は、家康の奉祀のためにつくられた、豪奢な江戸工匠の代表格ということになる。

僕が気に入った曼殊院門跡の写真は、はじめ正門付近のものだったが、司馬さんの三つのエッセイを読んで曼殊院の庭園がみたくて仕方なくなった。司馬さんによると、曼殊院造営の最大の目玉は、庭をみるための建物だったと書いてあったからだ。

ちなみに以下が司馬さんの庭の描写。

「庭は枯山水で、遠州好みとされる。
 われわれは、大書院の廊下に立っている。廊下には簡素この上ない欄干があり、頭上には軒のたるきが露出しているが、これも工匠が技巧をこらしたといえるようなものではない。
 この造作は、縁に立つだけでそのまま屋形船に乗っている感じを、立つ者にあたえる。船は、水景のなかをかきわけてゆく。
 庭は、水景を表現している。
 水を用いず、白い砂の海、青い叡山苔の島々、あるいは島に老いる松といった配置のなかに、やがて樹叢の暗い陸に入り、陸の表現として滝石が組まれている。
 水景のなかに入ってゆく屋形船というのは、ひょっとすると弥陀の願船のようなものであるかもしれず、いずれは、島の一つである蓬萊山にたどりつけるという欣求の気持ちが秘められているのかもしれない。」(pp. 113-4.)

実際に行ってみて、司馬さんの書いていた通りだった。とても簡素で、僕にはそれぞれがポツンポツンと点在しているようにしかみえなかったが、それを司馬さんは上のようにまとめた。特に建物を「屋形船」に喩えるところがすごい(それでいて全然虚飾ではない)。だからこの光景をなんとか一枚の写真に収めたかったができなかった(三枚になっちゃった)。しかしこのブログを使いこなせていない僕が選べるのはたった一枚。屋形船、白い砂、老いた松が、みられる写真を選びました

瓢亭

2005-07-28 09:18:29 | 歴史
京都旅行シリーズ第3弾は、懐石料理店:瓢亭。今回の京都旅行で、最も行きたかったところといっても過言ではない(あともうひとつが曼殊院)。今回は、7~8月限定の「朝がゆ」(写真:瓢亭別館ではいつでも可)を頂いた

瓢亭は、元禄中期に、南禅寺にお参りするひとの休息所として始まり、更に東海道を通って京にやってくるひとたちにとっては、都に入る前にそれなりの格好になおす場所だった。1837年に懐石料理店になって名声を博し、現在に至っている。僕が始めてその名を知ったのは、『美味しんぼ』だったが、Lonely Planet発行のKyotoにもその名が載っている(Lonely Planetが唯一高級料亭としてその名を挙げていた)

江戸時代に始まったとはいえ、茶懐石なので、僕らは、茶室(個室)に通された(四畳半で、なんといったっけ、茶室に入るための小さい入り口もある)。朝食といってもすでに暑いなかを歩いてきた僕らに最適の温度設定で、すかさず「梅湯」(正確な名前じゃない)が出る(気が利いてるねぇ)。そして瓢亭名物のゆで卵、野菜の焚物、鮎の焼き物などなど、朝食とは思えない量の料理がつづいてお吸い物で締めたあと、最後に写真の「朝がゆ」が出た

一昨日紹介した「秦家」でその日ディナーをとったわけだが、アメリカ人の感想は、どちらかというと、僅差ながら秦家。しかし僕は断然瓢亭。この澄み切った味はなんだっ(湯斗以外でもこういうのが味わえるんだなと思った)!しかも価格もリーズナブル(瓢亭は秦家の約半分)。これが秦家と同じくらいの価格で提供されたらかなりの差がついたことだろう。そしてもてなし方もGood

今回の旅行中では最高の食事処

東寺

2005-07-27 21:19:43 | 歴史
京都旅行シリーズ第2弾は、東寺。寺の中ではなんといってもここに来たかった。空海の開いた真言宗の総本山の表の顔だが、特に、講堂(写真)のなかの立体曼荼羅がみたかった

東寺の入り口にもかいてあるように、東寺の密教は、人間を救済するというより「護国」という色彩が濃い。「鎮護」といってもいいが、国を守るための仏教だった。それでは国を守るとはどういうことかといえば、国をひとつにまとめることであり、仏教は、倭から日本になった600年代から、国をひとつにまとめるための手段として使われた。司馬さんによれば、その教えではなく(教えは実際には知識の集積でしかなかった)、仏像の精巧なつくりが中央集権に貢献したということだった

なんてことをアメリカの友人に説明したが、果たして彼らを驚かせるに足るものだろうかと内心びくびくしていた。しかし講堂に入って驚嘆したのは僕だった。大日如来、金剛像、阿弥陀如来と、21体の仏像が並べられて立体曼荼羅になっているわけだが、目の前に恐竜が出てきたみたいに圧倒された。大体旅行先で絵葉書などは絶対買わない主義の僕が何年ぶりかで買ってしまったほどだ(1800円)

とにかく写真の許可がないので仏像はとれなかったが、行く機会があったら、写真に載せた講堂もよくみてほしい。残念ながら僕の写真はその迫力を全く伝えていないが、この講堂よくみると平屋建ての一軒家である。窓や入り口が馬鹿でかく、人間が使う入り口は、その入り口中央下のほんの一部しかない。つまり簡単にいうと、この講堂は巨人の家だ。巨人とはこの場合、このなかに安置されている大日如来たち。この隣の金色堂もそうだが、人間が入る場所ではなくて、金剛菩薩や帝釈天が暮らす家としての規模で作られている

はじめなんでこんなに馬鹿でかいんだと思ったが、落ち着いてきたら、そんな結論が出てきた。とにかくこんなに生命力のある仏像ははじめてみた。ふとみてみるとアメリカの友人も驚いたように魅入っている。これは、「護国」に使えたな、と納得した。もちろん既述したように、これは真言宗の表の顔で、空海流のはったりにすぎないといえばすぎないが、「さすが空海、1200年後の僕らまで驚かすとは・・・」(講堂の造営は825年)とうならざるをえなかった




秦家

2005-07-26 22:21:23 | 歴史
ここ数日京都にいた

滞在中ずっともどかしかった。やりたいことより、その他雑用に思ったより時間がかかるからだ。なかなか京都なんて行く機会はないから、どうしても欲張りになる。また、自分だけでなく、アメリカの友人が一緒にふたりいるから、訪問先の選択にわがままがきかない。かといって、行きたいところはやっぱりあるし、湯斗仕込みの僕の場合、料理も寺や庭と同じ、いやそれ以上に重きを置きたい。~寺や~庭園のそばで食事というわけにはいかない。原理的に段取りの重要性が増し、僕の参謀に石田三成がいたらなぁなんて何度か思った。彼がいたら一石二鳥どころか、三鳥、四鳥はかたかったろう

そんなこんなで選んだ訪問先のひとつが、秦家。寺も庭園も仏像もいいが、京町屋のひとつはみたい、しかもうまいものも食えるし、ウェブをみた限りでは、アメリカ人にもうけそう、少なくとも一石三鳥というわけ

行ってみると予想以上だった。建物は、店舗、住居、土蔵が別棟でつくられてあり、庭がそれぞれの間にある(このつくりは、大商人を意味するとのこと)。しかも明治2年建築という時間の重みは、言葉を超えた「古めかしさ」を演出し、僕らは、その奥の部屋、かつてVIPしか通されなかった部屋で食事を頂くことができた(ここの部屋では走ることも許されなかったとのこと)。料理も見事。昼、夜一組ずつ、というこだわりももちろんだが、鯨のベーコン、はもの梅肉和え、鮎、あわびの刺身、吸い物と全部プロの仕事で、みてくれだけじゃなかった。雰囲気に加えて、この食事とくると、食事が終わる頃には、すっかり京の若旦那衆ご一行様みたいな気分になっていた

しかし今日書きたかったのは、カテゴリーにも書いたように歴史的なこと。秦家はもともと薬屋で、京都の薬の番付(写真)で、最高位の大関(当時横綱はなかった)にランクされている「奇応丸」の本家。漢字から推し量ると、病気なんてものは不意に襲ってくるわけだが、それに見事に応じてくれるという意味にとれるが、果たしてその通りとのこと。特に乳呑児の薬がメインで、お母さんの乳房にくっつけて服用させたらしい。とにかくよく効いたから大関にランクされたわけだ

話を聞いて、人間てのは、本当にいろんなことに挑戦するんだな、と思った。いろんなことを試してみて、うまくいくと生業にして・・・と続いてきたんだなぁって。そしてその結果生まれたひとつの成功もこれまた「奇」によってなくなってしまう。大関に君臨した秦家も、原材料がワシントン条約で制限され(大陸の鹿の睾丸などが材料だった)、更に明治政府によって家庭内工業の薬品作りが認められなくなったため、消えてしまった。

もちろん政府にもちゃんとした理由があった。結局白黒つけなければならない状況というのはかなり切羽詰っているわけだが、明治は確かにそんな時代だった。国家の総合力で勝負しなければならない時勢ではそれなりの管理も必要だったろう。しかしそのために無視されたガンバリがやっぱり僕にはいとおしい。自分が今置かれている状況もそうだが、僕の場合、祖母が思い出されてしまうからかもしれない

以前塩野七生さんがローマ帝国の繁栄について語っていた。ローマ帝国が凄かったのは、歴史に名を残したひとたちだけが素晴らしかったからじゃない。そうした階層に属さない人間が、ナニクソとがんばったことがローマの原動力だったと。僕の祖母は、当然底力側だった。聞いてみると、大久保や西郷と同じくらいすさまじい人生だったのに無名だった。秦家は、祖母ほど無名じゃなかったが、僕にとっては数日前まで無名だった。京都には、二条城、京都御所、いろいろ歴史の表舞台が目白押しだが、そういう表には裏があった。秦家は、そういう裏で埋もれた人間たちの多様な絡み合いに思いを馳せる「奇貨」になった

妖怪

2005-07-21 18:21:53 | 文学
司馬遼太郎の『妖怪』を読んだ。京都に行くので、日本文化の礎を築き上げた室町時代について、司馬さんがどんなことを書いているのか知っておきたかったからだ。つまり禅や東山文化について、気の効いた説明を横着して司馬さんから頂いちゃおうと思っていたわけだ。

しかしそんなものはなかった。期待はずれといえば期待外れだが、違う発見もあった。おそらく室町時代が、日本国民が生きるためとはいえはじめて悪を肯定した時代という点で、現代に似ていることと無縁じゃない。

それでどうして「妖怪」なのかといえば、司馬さんはよくこの時代には、主義、価値観がはっきりしないから書きたくないと仰っていたが、その主義や価値観の中途半端さを狙ってペテンにかける幻術師がこの小説での「妖怪」。

生存があまりにも危ういため、みなが依存できる何かを探している。宗教、兵法、権力、金などである。しかしどれもが完全なものではない。その隙をついて暗躍する。しかしその幻術も自分の生存を安泰にさせてくれるものではない。そうしたジャンケンのグー・チョキ・パーの関係のなかですったもんだが展開し、それに終わりがない。。。

そのエンドレスさが室町であり、そんな社会状況を何もしようとせずに(というよりみてみないふりをして)、逆にそこからわんさかあぶれ出てくる乞食に米を、つまり「食いつなぎ」を与えることによって建築物をおったてていきつづけたのが義政の東山文化だった。

白隠禅師

2005-07-17 00:15:14 | 宗教
クソ暑い中、松蔭寺(静岡県沼津市原)に行った。

「駿河には過ぎたるものがふたつあり 富士のお山に原の白隠」

で有名な白隠禅師によって江戸時代にその名を轟かせた臨済宗白隠派の総本山である。

禅で好きなのは、「疑い」が認められているどころか大事とされていること。

もちろん最近のように「他人に気をつけろ」という意味ではなく、仏教の深遠かつ玄妙な教えを本当に理解しているかどうか確かめる修証のためだ。

この思考は、空海にもみられた(と思う)。

空海の天才は、真言宗というほぼ完璧な理論による教義ももちろんだが、世俗的な世渡りや文芸の才においても有名。特に文芸は、創作だけでなく、外国語としての漢語を自在に使いこなしたところにもその非凡さが謳われる。遣唐使として中国に渡ったときも、中国の文人までが褒め称えたほどだったという。

ただしこの場合彼が漢語を使う際にも、彼の文学的センス、表現が傑出するほどクリエイティブで斬新だったというわけではない。福永光司さんによれば、空海が使っていた中国語はすべて、当時の用例の範囲内であったという。つまり母国語ではない外国語に忠実に、クリエイティブなどとは程遠い慎重さで漢語を使っていたということだ。自分の感や勘を頼りにしたものではない、ということである。

問題はなぜそのように忠実にしなければならなかったか、その淵叢に何があったか、ということだ。本当に僕の個人的私見だが、漢語訳された経典に疑わざるを得ない部分が少なからずあったからではないだろうか。彼は仏教の教えを理解するために何度も読み返した。そうしていくうちに自分の中に確固たる理解が生まれ、最終的には、これは誤訳なんじゃないか、と思われる部分にもぶつかった(実際に2人の訳者のうちどっちかの訳は杜撰だったとよくいわれる)。そして自分の理解が正しいか確認するために原典であるサンスクリット語で読まざるを得なくなった(釈尊はサンスクリット語ではなく、彼が暮らしていた地域の方言を使っていたらしいが)。なにはともあれ、空海がサンスクリット語の辞典らしきものを書くことになったのは、彼の純密の理論を完璧に構築するうえで必要な疑いがあったからだということがいいたい。

そういえば白隠禅師も疑いを持っていた。15歳で出家してみたら、それまで素晴らしいと考えていた法華経は嘘だと考え始めた。しかし結局はその疑いが後年日本全国から僧を集める論旨や法華経の禅の視点での再評価に白隠を至らしめることになった(柳田聖山氏の著作をみるとそう読めると思う)。そう考えてみると、「疑い」という言葉にもプラスとマイナス双方向のベクトルがみてとれるということになる。

お坊さんにお話を伺い、座禅堂の奥に入る許可を頂いて、白隠禅師の像をみた。「身心脱落」その他の、これまで耳にしてきた禅固有の言葉に彩りが与えられるかと期待していたが、何も起こらなかった。ただよくよく考えてみれば、禅では、仏教は人間が依存するための受身的なものとしてのみ存在したわけではないのだから、当然だと思い直し、寺をあとにした。

帰りの電車のなかで、カメラに収めた白隠禅師の顔をみながら、自分でしっかり考えて頑張っていこうって思った。

ケツに火

2005-07-14 00:27:08 | 歴史
郵政民営化の法案文書の目的ほかを読んだ。この問題はもともと国全体の利益をかけた問題だった。その場合どうしても国民のなかにはしわ寄せがいく人間も出てくる。なにはともあれ郵政の既得権益にぶら下がっている人間が、それを切り札にプロパガンダを始めた。しかし昨今の世界情勢をみると、日本の危機は、かなり深刻なものがある。安保常任理事国も黄色信号から赤へ、EUとの原子力なんとかの誘致合戦も結局負け、また、六カ国協議では、完全に日本が孤立化する状況が整った(北朝鮮にしてやられたわけだ)。

アメリカが見限るのも分かる気がする。破綻寸前なのに、日本にはその危機を自分でなんとかしようという意図さえないのだから。それなら今宙ぶらりんになってる金を根こそぎ出させるのがいい、ということになる。国際間の問題は、各問題がいろいろな層でそれぞれ起こるので解決しにくい。したがって百年前もそうだったが、どこかを孤立化させて、そいつに全部借金としてしょわせる。ドイツは、ロシアとフランスにしてやられたし、日本はそのとばっちりをくった。

こういう状況でどんな方策を選ぶにしろ、きちんとした戦略が必要になることは明白。戦略を立てるとは、解き易いYes or Noの問題を限りなく自分に課していくことだ。これだけ難しい問題を山積みにして今まで何をやっていたのだろうか。1989年に冷戦時代が終わってそれによる世界の変革に各国は対応を余儀なくされたが、日本は、いくつかの企業を除いて、結局それをすることがなく、そのまま来てしまった。目の前の事実にやきもきするだけで、である。

これじゃああのときと同じじゃないか、と感じる人間は僕だけじゃない。東条たちがみたらきっと嘆くだろう。我らの無念がまた繰り返される、と。


かなぶん

2005-07-06 18:55:42 | 宗教
家のベランダに、かなぶんが迷い込み、仰向けになった。

足をバタバタし、起き上がれない。

次の日、雨戸をあけてみると、まだバタバタしていた。

なんだ、またいたのか、と思った。

早く元に戻ればいいのに・・・と思いつつその夜帰ってくると動かなくなっていた。

「悪いことをした。。。」

と思ったのは、その動かなくなったかなぶんの隣に、別のかなぶんがまた迷い込んでから。

「見殺しにしちまった」と思い、もう死なせられない、と思って足でひっくり返した。

驚いたかなぶんは、とりあえず死んだ振りをしていたが、

ほおって置いたら、テクテク歩き出し、その夜はいなくなっていた。

大げさかもしれないが、ふたつめの罪は避けられた気がした。

はじめのかなぶんに何もしてやれなかったのは悪だと思った。


デイズ・オブ・サンダー

2005-07-02 22:17:53 | アメリカ
アメリカ南部のスポーツといえば、狩りや釣りと並んで、Stock Car Racing

バスケットや野球なんぞ目じゃない。ある著作によれば、南部の49パーセントの人間がレース場に行っている勘定になる。

その雰囲気を少しでも味わおうと(留学先のMSはそんなに盛んじゃなかった。ドライバーはほとんどがNC、AL出身者が多いらしい)、この映画『Days of Thunder』(陳腐なタイトルだねぇ)知人に借りた。

トム・クルーズ扮する主人公が暴れ馬のごとく現われ数々の試練を乗り越えながら、Mountain Dew Souothern 500 NASCAR Winston Cup Series の最後Daytonaで勝つ。恋人役にニコール・キッドマンが出てきたときには「またあんたかい?」とも思ったが、とにかく痛快だった。もう二度とみることはないとも思ったが、こういう映画は、仕事の合間にはピッタリ

トム・クルーズとキッドマンが出ている映画では、僕は、Far and Awayが好き