京都旅行シリーズ第4弾:曼殊院門跡。
僕がここを今回の旅行の超目玉にしたのは、京都案内のウェブや本、雑誌に出てきた写真の所為。「綺麗だなぁ」と思ってみてみると、曼殊院門跡だったことがよくあった(そういう意味では、西芳寺も候補だったが、アメリカの友人が敬虔なキリスト教徒なので却下)。
すかさず司馬さんの『叡山の諸道』で曼殊院を確認した。もともとは最澄が作ったらしいが、その頃は名前も場所も現在とは違った。サンスクリット語で、「文殊菩薩」を漢字に音写した字をあて、場所も現在の地に移ったのが江戸時代のことだった。
日本庭園史上重要なのは、造営が、当時の天台座主でもあった良尚法親王(1622-93)の才覚に委ねられたこと。なぜ親王が天台座主なのかというと、公家や親王が謀反に担ぎ出されるのを江戸幕府が怖れたから。しかし司馬さんによると、以下のような背景もまたあった。信長やそれ以前の戦国大名は室町幕府の後ろ盾になることで、その威を発揮しようとしたが、秀吉は、天皇や公家を自分の栄達に利用した。そのため、逆に秀吉の死後、公家たちは家康に嫌われ、次々と僧門に入れられた。
ということは、この秀吉と家康の対決が、江戸時代に開花した日本庭園を二大別させたということになる。安土桃山の文化の終焉を告げる曼殊院や桂離宮と、江戸以降の工匠の粋を集めた日光東照宮がそのふたつの代表格だが、前者は秀吉より、後者は家康よりということだ。
安土桃山時代、公家たちは秀吉に逆に影響を受け(茶会などに頻繁に招待された)、特に桂離宮をつくった智仁親王はずいぶん秀吉に大事にされたらしい。更にその智仁親王の子が、良尚法親王とくるわけだから合点がいく。司馬さんによると、桂離宮と曼殊院は、秀吉がつくった聚楽第に始まる安土桃山文化の結集および終焉であり、東照宮は、家康の奉祀のためにつくられた、豪奢な江戸工匠の代表格ということになる。
僕が気に入った曼殊院門跡の写真は、はじめ正門付近のものだったが、司馬さんの三つのエッセイを読んで曼殊院の庭園がみたくて仕方なくなった。司馬さんによると、曼殊院造営の最大の目玉は、庭をみるための建物だったと書いてあったからだ。
ちなみに以下が司馬さんの庭の描写。
「庭は枯山水で、遠州好みとされる。
われわれは、大書院の廊下に立っている。廊下には簡素この上ない欄干があり、頭上には軒のたるきが露出しているが、これも工匠が技巧をこらしたといえるようなものではない。
この造作は、縁に立つだけでそのまま屋形船に乗っている感じを、立つ者にあたえる。船は、水景のなかをかきわけてゆく。
庭は、水景を表現している。
水を用いず、白い砂の海、青い叡山苔の島々、あるいは島に老いる松といった配置のなかに、やがて樹叢の暗い陸に入り、陸の表現として滝石が組まれている。
水景のなかに入ってゆく屋形船というのは、ひょっとすると弥陀の願船のようなものであるかもしれず、いずれは、島の一つである蓬萊山にたどりつけるという欣求の気持ちが秘められているのかもしれない。」(pp. 113-4.)
実際に行ってみて、司馬さんの書いていた通りだった。とても簡素で、僕にはそれぞれがポツンポツンと点在しているようにしかみえなかったが、それを司馬さんは上のようにまとめた。特に建物を「屋形船」に喩えるところがすごい(それでいて全然虚飾ではない)。だからこの光景をなんとか一枚の写真に収めたかったができなかった(三枚になっちゃった)。しかしこのブログを使いこなせていない僕が選べるのはたった一枚。屋形船、白い砂、老いた松が、みられる写真を選びました。
僕がここを今回の旅行の超目玉にしたのは、京都案内のウェブや本、雑誌に出てきた写真の所為。「綺麗だなぁ」と思ってみてみると、曼殊院門跡だったことがよくあった(そういう意味では、西芳寺も候補だったが、アメリカの友人が敬虔なキリスト教徒なので却下)。
すかさず司馬さんの『叡山の諸道』で曼殊院を確認した。もともとは最澄が作ったらしいが、その頃は名前も場所も現在とは違った。サンスクリット語で、「文殊菩薩」を漢字に音写した字をあて、場所も現在の地に移ったのが江戸時代のことだった。
日本庭園史上重要なのは、造営が、当時の天台座主でもあった良尚法親王(1622-93)の才覚に委ねられたこと。なぜ親王が天台座主なのかというと、公家や親王が謀反に担ぎ出されるのを江戸幕府が怖れたから。しかし司馬さんによると、以下のような背景もまたあった。信長やそれ以前の戦国大名は室町幕府の後ろ盾になることで、その威を発揮しようとしたが、秀吉は、天皇や公家を自分の栄達に利用した。そのため、逆に秀吉の死後、公家たちは家康に嫌われ、次々と僧門に入れられた。
ということは、この秀吉と家康の対決が、江戸時代に開花した日本庭園を二大別させたということになる。安土桃山の文化の終焉を告げる曼殊院や桂離宮と、江戸以降の工匠の粋を集めた日光東照宮がそのふたつの代表格だが、前者は秀吉より、後者は家康よりということだ。
安土桃山時代、公家たちは秀吉に逆に影響を受け(茶会などに頻繁に招待された)、特に桂離宮をつくった智仁親王はずいぶん秀吉に大事にされたらしい。更にその智仁親王の子が、良尚法親王とくるわけだから合点がいく。司馬さんによると、桂離宮と曼殊院は、秀吉がつくった聚楽第に始まる安土桃山文化の結集および終焉であり、東照宮は、家康の奉祀のためにつくられた、豪奢な江戸工匠の代表格ということになる。
僕が気に入った曼殊院門跡の写真は、はじめ正門付近のものだったが、司馬さんの三つのエッセイを読んで曼殊院の庭園がみたくて仕方なくなった。司馬さんによると、曼殊院造営の最大の目玉は、庭をみるための建物だったと書いてあったからだ。
ちなみに以下が司馬さんの庭の描写。
「庭は枯山水で、遠州好みとされる。
われわれは、大書院の廊下に立っている。廊下には簡素この上ない欄干があり、頭上には軒のたるきが露出しているが、これも工匠が技巧をこらしたといえるようなものではない。
この造作は、縁に立つだけでそのまま屋形船に乗っている感じを、立つ者にあたえる。船は、水景のなかをかきわけてゆく。
庭は、水景を表現している。
水を用いず、白い砂の海、青い叡山苔の島々、あるいは島に老いる松といった配置のなかに、やがて樹叢の暗い陸に入り、陸の表現として滝石が組まれている。
水景のなかに入ってゆく屋形船というのは、ひょっとすると弥陀の願船のようなものであるかもしれず、いずれは、島の一つである蓬萊山にたどりつけるという欣求の気持ちが秘められているのかもしれない。」(pp. 113-4.)
実際に行ってみて、司馬さんの書いていた通りだった。とても簡素で、僕にはそれぞれがポツンポツンと点在しているようにしかみえなかったが、それを司馬さんは上のようにまとめた。特に建物を「屋形船」に喩えるところがすごい(それでいて全然虚飾ではない)。だからこの光景をなんとか一枚の写真に収めたかったができなかった(三枚になっちゃった)。しかしこのブログを使いこなせていない僕が選べるのはたった一枚。屋形船、白い砂、老いた松が、みられる写真を選びました。