雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

諸子百家

2010-04-21 23:24:15 | 宗教
舛添氏、23日にも新党結成へ 近く自民離党 (共同通信) - goo ニュース

最近新党が乱立してるらしいが、諸子百家でも気取るつもりか。

僕には「自らを恃む」人気競争にしかみえない。

「国の行く末を本気で心配しているから」では、プロの政治家とはいえないし、選択肢にはならない。

そもそも彼らにどんな違いがあるというのだろう。

お得意の「昔の名前で出ています」というやつだ。

本当に諸子百家なら以下のように思想家のほかに代名詞がつくはずだ。

儒家:孔子(仁、礼、智)、孟子(仁義)
道家:老子、荘子(道)
墨家:墨子(博愛)
名家:恵子(論理)
法家:韓非子(法)
兵家:孫氏(勢い)
縦横家:張儀(権謀術策)
農家:許行(農業)
陰陽家:雛衍(陰陽五行)

そうした主義主張があるから諸子百家といわれるのであって、孔子や老子といった固有名詞だけなら、そもそも上記のような分類が日本にまで轟くはずがない。

同様に舛添や与謝野という名前だけなら新党の意味などない。

それならこれまでのように二大政党制でやったらよろしい。

新党より、まず何をすべきか、提示すべきだ。

それができないなら少なくとも諸子百家のように、考えるための指標くらい列挙してほしい。

「それをするのは若者である貴様だろう」といわれるなら、まず国会議員をやめてほしい。

税金の無駄遣いだ。

追伸:加筆予定。

無視

2010-04-18 23:24:26 | 宗教
娘が仕事をさせてくれないので、

非常手段として虫の玩具(20cmくらいのムカデ)を買った。

僕の仕事部屋にそれを仕込んでおいたのだが、

さっきそれをみつけて、

心臓がとまるかと思うほどにびっくりした。

僕はたとえ玩具でも虫は無視できない(ちゃんちゃん)。

conscience(改訂)

2010-04-11 14:20:58 | 宗教
森有正の『生きることと考えること』を読んだ。

先月の『こだわり人物伝』(NHK)で特集していて、興味を持ったからだ。

実際意見の近さに驚いた。

例えば単なる戦争反対は浅薄であるとか、日本人の特性についての見解など他人の文章とは思えないほどだった。

更に以下の「経験」についての説明。

《「経験」から「不可知論的」なものがなくなったときに、それは体験となり、荒廃になってしまうのです。・・・懐疑主義ではなくて、「不可知論的」な要素が絶えずそこにあるということ。それは強靭な批判精神を育てます。》

これは僕が卒論でかいた結論と全く同じだが、僕にとっての全てのスタート地点である。

またこれは森有正というよりフランスだが、教育における作文の重要性も同意見だった。

が、彼自身が挙げていたパスカルとデカルトのように、たとえ部分的に80%が重なっても本質的な部分で重ならなければ似てるとはいえない。

読み始めた当初から、森有正にしても伊藤勝彦にしても、なぜか肯んぜない自分を見出さざるを得なかった。

なんというか結局インテリという階層からの視点でしかないようにみえたのだ。

また、時代の限界なのかもしれないが、「自身の経験がみえるようになった」パリもしくはフランスが特別視されすぎているようにもみえる。

なぜ日本の自然は、すでに目的が決まっているのに、フランスの自然がそうではないと言い切れるのか。

単に既知だからではないのか。

日本をみるときになぜ不可知論的視界が持てないのか。

そのあたりの矛盾に気づかない鈍感さが気に入らなかった。

その点最近みた『崖の上のポニョ』は気に入った。

観賞後すぐはいくつもの疑問点があった。

もちろんポニョの父親役の声優は本当に所ジョージなのかといった疑問ではない。

主題が全くみえなかったのだ。

主題というのは森有正の言葉でいえば「組織」で僕の言い方なら「整合性」であるが、つまり部分と全体の辻褄が合っていないと感じた。

そして一向に解決の糸口がみえなかった。

すると、そこで理解に苦しむ父親を見かねたのだろう、娘がヒントをくれた。

娘は好きなシーンを繰り返しみるのだが、彼女が選んだシーンがヒントになった。

例えばポニョの父親が人間を見限って海中にいるのになぜ娘のポニョが人間を選んだのか。

そもそもポニョの両親の情報を含めて不完全にしか開陳されないままなのはなぜか。

しかも最後はあっけないほどに世界のほころびが縫合され、なぜポニョは人間になってしまうのか。

こういった疑問を一気に氷解させてくれた。

おそらく宮崎さんは不可知論的視点で日本をみたのだろう。

環境問題ほかエコ的な特徴が宮崎作品にはあるが、そうした視点に立つと、人間を批判する傾向がどうしても出てくる。

しかしよく考えてみると、つまり不可知論的視点で異化すると、ナウシカやアシタカのような天命を持たない人間にも同じように可能性があることがみえてくる。

キーワードは、「conscience(良心)」である。

この作品は、人間に対する失望ではなく、人間をむしろみつめなおす作品だった。

そして娘が繰り返しみたがったのは、ソウスケの正しさに感応するポニョのシーンだった。

ポニョを惹きつけるソウスケではなく、conscience によって惹きつけられるポニョにこそ主題があるということだ。

僕が漢字より英語の表記の方が好きなのは、語源からみると、「みなが共有する科学」、すなわち「みんながわかること」という意だからである。

ポニョだろうが、人間嫌いのポニョの父親だろうが、感応せざるをえないものだということだ。

そして「良心」の提示がこの映画の主題であれば、上記疑問はすべて説明がつくのではないだろうか。

森有正は社会は単なる個人の集まりではなく、ひとつ上の次元に立つことだと書いていた。

「良心」こそそうした社会像を可能にする。

だからこそポニョは「崖の上」でさえ人間になることを選んだのではないのか。

そして森有正が気に入らなかったのは、ある特定の視点からみた「良心」のなさ、だったように思う(繰り返しだが、conscience は誰もが共有できるものだから)。

ペトルーシュカ

2010-04-01 19:56:03 | 音楽
ご無沙汰しました。

仕事が立て込んで、というより終わらないから、ブログの時間を仕事に充てたわけですが、結局終わらず、仕方なく一息ついて動物園に行き、さっき帰ってきたところです。

ここ1ヵ月で気になるニュースはいくつかありましたが、今日まず取り上げたいのは以下。

米グーグルの検索遮断、「中国の検閲システムが原因」(トムソンロイター) - goo ニュース

中国の検閲重視については触れましたが、そういえば米留学時代に仲良くなった中国人も天安門事件を知りませんでした(その当時上海にいたのに)。

また、中国にはいい歌があるよ、といって貸してくれたカセット・テープには、「川の流れのように」はじめ坂本九といった日本の名曲がずらりと並んでいて、「いやこれは日本の歌だよ」といっても「違うよ、もともとは中国だよ」と鼻で笑われました。

そういうところでやっていくのは確かにGoogleも大変でしょう。

しかし今日触れたいのは、中国のことではなく、音楽について。

娘も2歳になったし、そろそろ外界のプロに触れてもよかろうという気になりました。

どこに行っても娘の音楽好きとリズム感が讃嘆されるからではなく、ストラヴィンスキーのペトルーシュカさえ愉しむようになったからです。

仕事をしていると、「ねえねえ、音楽聞こうよ」といわれ、CDをセットすると、服を着るように僕の右腕を彼女の身体にまきつけて抱っこをさせ、音楽に合わせて舞踏します。

しかし僕の舞踏にはペトルーシュカには合わせるだけの技術がない。

リズムも和音進行もついていかれないのです。

そこで幾つか学校や教室を見学に行きました。

第一印象は、いい意味でも悪い意味でもやはり「矯正」でした。

言語とリズムを結びつけた教え方には感心しましたが、鋳型に押し込まれていく感じが鼻について仕方ありませんでした。

もちろん僕自身もやるなら真剣にと思ってそうした学校を訪ねたわけですが、その学校の入り口には藝大付属ほか著名な音大付属の合格者の名が連ねてあったりして、なんというかすでにゴールまでのレールがみえていて、娘の意見も聞かずにそこに載せていいものか迷ったのです(職員や教員に聞くとそこに入った子供たちは間違いなくそうした学校に入っていくのだそうです)。

確かにきちんとした規定がわかってこそ自由がわかるのだとしても、生来束縛を厭う僕の気性は娘にすでに継承されていることは明らかでしたから尚更でした。

音楽というのはこういうものだろうか。

そこで行われているのは、曲ではなく登場人物としてのペトルーシュカ同様、囚われの身にみえたのです。

そう思わせたのは、動物園に行ったからかもしれません。

動物園は10年ぶりでしたが、まず感じたのは動物園の経営も大変らしくライオンほか、一頭しかいないものが多くて、AdamがEveを神にねだった理由がはじめてわかったように思いました。

そして人間のバカバカしさ。

ほとんどが子供連れで、親や祖父母がなんとか子供を楽しませようと、「ほら、あれが狸だよ、キツネだよ」とやっている。

しかしあれが本物の動物でしょうか。

なかには、同じところを何度も行ったりきたりしては、クビを左右に振って、なんというかストレスの極みというか精神状態がよくないというか、娘は一目見て目を伏せました。

僕もみていられなかった。

にもかかわらず白熊という理由でみんながよってたかってみている。

あれなら絵本のなかの動物を見ていた方がよっぽどマシだと思いました。

これからは動物園をみるたびに何がしかの後味の悪さが伴うことでしょう。

もちろん野生に帰れば厳しい生存競争で長生きなんかできないでしょう。

しかし長生きよりもっと悪いものにみえたのです。

自由ではないという拘束と、ペトルーシュカの自由を理解する娘の選択を、理解しない僕がすることとが重なったのです。

追伸:文章全体に、仕事がうまく片付かないストレスがつきまとっていますね。