毎年のことだが、夏になると、戦争ものの映画が多くなる。今年はなぜか『シンドラーのリスト』によく出くわした。
相変わらず見るに堪えないシーンが目白押しで、なんでこんなにみたくないのかと思ったら「いじめ」に似てるからじゃないかとふと思いついた。
と同時に英元首相のBlairのコメントも思い出す。ヒトラーによるヨーロッパ危機は、誰が一番悪かったかという問いに、「隣人」と答えた。
悪は必ず存在する。それが栄えるかどうかは、周りの対応如何だというのである。
確かに「いじめ」についても同じことがいえる。
いじめ経験のある大学生に、「誰が一番悪いのか」訊いたところ、「先生」という答えで一致していた。
はじめこの回答に驚いた。悪いのはいじめるやつだと思っていたからである。
しかし子供が学校に行って、娘に弟が出来てわかったことは、彼らは「悪いことをせずにはいられないときがある」ということだった。
もちろん高校生や大学生、国がやることを仕方ないとするつもりはないが、自分も個人レベルならいつ憂さ晴らしをするかわからない。
そういうときどうやって「悪」を抑え込むのか。ブレアは「まわりのひと」で、いじめ経験者は、まわりのひとのなかで唯一の大人である「先生」を挙げたわけだ。
親も大人だが、検察官にはなっても裁判官にはなれない。我が子が関わるだけでなく、当事者である人間たちの普段を知らないため、被害者サイドの参考人にしかなれない。
当事者と普段から付き合い、状況がよくわかっているはずの先生に、きちんとした裁断を下してほしいから、してくれなかった「先生」が一番悪いことになるのだろう。「先生」は唯一の希望なのだ。
しかし先生からしたら重荷であり、買いかぶりらしい。彼らもただの人間で一職務をこなしているに過ぎない。
実際幼児といえど、心の中まで100%見抜けるわけではない。
娘も幼稚園時代先生の曲解に嫌な思いをしたらしい。
体育の跳び箱の授業で、ほかの子がやっているときは応援することになっていたが、あまり派手にやりすぎるとふざけているみたいで怒られると考えて控えめにしたら、「まじめにやっていない」といってかえって怒られて、すごく悔しかった、とこの夏に話してくれた。
先生も間違いをそれなりの頻度でおかす人間なら慎重に裁判を念頭に置かないわけにはいかなくなる。
そして目の前の敵は被害者の親になる。
先生の責任を直接追及してくるのは、いじめられる子の親だからだ。
僕も何度か子供たちがいじめられて嫌な思いをした。
先生が結果としていじめの加害者を守ろうとするからだ。
先生の常套手段のひとつめは、「お宅のお子さんが人気者なんですよ」といってくる。みんながよってたかって独占しようとすればそれなりにいざこざに巻き込まれる。これはおそらく教員のマニュアルだろう。
次に、加害者に傷つける意図がなかったことを訴える。小学校高学年にでもなれば加害者自身が周到にグレーゾーンを隠れ蓑に訴えるから、加害者自身の有罪を証明することが難しくなる。
加害者の有罪を立証できないために、加害者を守ろうとするのである。
これで二度傷つく。
更に親として悲しいのは、先生が被害者の親しかみないことだ。
子どもをみていない。
子供たちは、自分の気持ちを社会的に正当付けて表すことができない。
だから無視される。
そして大人になって言葉にできるようになって僕に語る。
「先生が見て見ぬふりをしていた」と。
私は小学校から中学まで学校に行けませんでした、と。
5年後、あるいは10年後、子供たちが言葉を得てそう語っていることを先生たちには知ってほしい。
・・・
やっぱりいじめと『シンドラーのリスト』は違うようだ。
相変わらず見るに堪えないシーンが目白押しで、なんでこんなにみたくないのかと思ったら「いじめ」に似てるからじゃないかとふと思いついた。
と同時に英元首相のBlairのコメントも思い出す。ヒトラーによるヨーロッパ危機は、誰が一番悪かったかという問いに、「隣人」と答えた。
悪は必ず存在する。それが栄えるかどうかは、周りの対応如何だというのである。
確かに「いじめ」についても同じことがいえる。
いじめ経験のある大学生に、「誰が一番悪いのか」訊いたところ、「先生」という答えで一致していた。
はじめこの回答に驚いた。悪いのはいじめるやつだと思っていたからである。
しかし子供が学校に行って、娘に弟が出来てわかったことは、彼らは「悪いことをせずにはいられないときがある」ということだった。
もちろん高校生や大学生、国がやることを仕方ないとするつもりはないが、自分も個人レベルならいつ憂さ晴らしをするかわからない。
そういうときどうやって「悪」を抑え込むのか。ブレアは「まわりのひと」で、いじめ経験者は、まわりのひとのなかで唯一の大人である「先生」を挙げたわけだ。
親も大人だが、検察官にはなっても裁判官にはなれない。我が子が関わるだけでなく、当事者である人間たちの普段を知らないため、被害者サイドの参考人にしかなれない。
当事者と普段から付き合い、状況がよくわかっているはずの先生に、きちんとした裁断を下してほしいから、してくれなかった「先生」が一番悪いことになるのだろう。「先生」は唯一の希望なのだ。
しかし先生からしたら重荷であり、買いかぶりらしい。彼らもただの人間で一職務をこなしているに過ぎない。
実際幼児といえど、心の中まで100%見抜けるわけではない。
娘も幼稚園時代先生の曲解に嫌な思いをしたらしい。
体育の跳び箱の授業で、ほかの子がやっているときは応援することになっていたが、あまり派手にやりすぎるとふざけているみたいで怒られると考えて控えめにしたら、「まじめにやっていない」といってかえって怒られて、すごく悔しかった、とこの夏に話してくれた。
先生も間違いをそれなりの頻度でおかす人間なら慎重に裁判を念頭に置かないわけにはいかなくなる。
そして目の前の敵は被害者の親になる。
先生の責任を直接追及してくるのは、いじめられる子の親だからだ。
僕も何度か子供たちがいじめられて嫌な思いをした。
先生が結果としていじめの加害者を守ろうとするからだ。
先生の常套手段のひとつめは、「お宅のお子さんが人気者なんですよ」といってくる。みんながよってたかって独占しようとすればそれなりにいざこざに巻き込まれる。これはおそらく教員のマニュアルだろう。
次に、加害者に傷つける意図がなかったことを訴える。小学校高学年にでもなれば加害者自身が周到にグレーゾーンを隠れ蓑に訴えるから、加害者自身の有罪を証明することが難しくなる。
加害者の有罪を立証できないために、加害者を守ろうとするのである。
これで二度傷つく。
更に親として悲しいのは、先生が被害者の親しかみないことだ。
子どもをみていない。
子供たちは、自分の気持ちを社会的に正当付けて表すことができない。
だから無視される。
そして大人になって言葉にできるようになって僕に語る。
「先生が見て見ぬふりをしていた」と。
私は小学校から中学まで学校に行けませんでした、と。
5年後、あるいは10年後、子供たちが言葉を得てそう語っていることを先生たちには知ってほしい。
・・・
やっぱりいじめと『シンドラーのリスト』は違うようだ。