雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

百聞は一見にしかず

2015-09-01 11:04:14 | 料理
「百聞は一見に如かず」を英訳するのに、以下のどちらがいいのか尋ねられた。

 A)Seeing is believing.
 B)To see is believe.

動名詞とTo不定詞どちらがいいか、ということだ。

なるほど、英語教育は約100年余り前から始められ、その当初から文法用語の訳が不適切だったことは指摘されてきたが、動名詞もそうだったかと、思った。

「動名詞」だと「動詞が名詞として使われるもの」という形式しか表していないが、To不定詞も同じなのだから、区別がつくはずがない。

「動名詞」にあたるGerundは「行為 conduct」という意味で、「実際に行われた」か「実際に行われている」を表し、不定詞 infinitives は、「infinite(制限がない)」からきて、動詞しかなくて誰がしたのかがわからないから、行為だけを「想定」したことになるというわけだ。

したがってAは、「みることは、信じることになる」という一般的な事実として提示されたことになり、Bは、「みてしまったら、信じることになるかもよ」という意味になる。よって格言としては、A「みたら信じてしまう」がいいということになる。

ここまでの説明は、デイビット・セインの『英文法、ネイティブが教えるとこうなります』(NHK出版)にもある。



この本はもっと評価されていいように思う。簡潔に、日本人にとって焦(難)点となりそうだとネイティブが考える文法事象が説明されている(ただしいくつか説明にあやしい部分はあるので、これ一冊で何とかなると思ってはいけない)。

ただし東アジアの日本人としては「百聞は一見にしかず」の英訳はこれで終わりにできない。

なぜならもともとの本の中での「百聞は一見に如かず」の意味は、Seeing is believing. でも、To see is to believe.でもないからだ。

この一文には、「百見は一考にしかず」が続く。

単にみてるのではなく、自分で考えなきゃダメだ、ということだ。

更に百考は一行に、百行は一果に、如かず、とつづく。

考えるだけでなく実際に行動に移すべきだし、単に行動に移すだけでなく実りあるものにしなければならない、という、一将軍が明らかにした戦う場においてのAxiomである。

とすると「百聞は一見に如かず」の英訳はどのように「料理」すればいいだろうか、と面白くなってくる。

Hearing about something a hundred times is not as good as seeing once.(新和英大辞典)

とするのではつまらない。縦のものを横にしただけだからだ。

コンテクストから二次資料より一次資料ということだから、Trace an rumor to its original source.(うわさは元をたどれ)とかいうことになるだろう。

学生時代、他言語を介すと本意がわからなくなるから原文にあたれ、といわれたが、実際違う意味のまま通っているものは結構あるらしい。

例えば「拙速」は「巧遅は拙速に如かず」で、「急いでことを仕損じる」ではなく「つたなくてもやらないよりはやる方がまし」という意味だし、「大事をなさんとするもの小事にとらわるべからず」も「大きなことをやろうとするひとは小さいことは放っておけ」ではなくて『小さいことはあとまわしにしよう」ということらしい。

安倍総理を拙速と非難するのはおかしいことになってしまう。

もちろん原文が用いられたコンテクストに戻らなければ絶対いけないというのでは、単に「百は一考に如かず」と笑われるだろう。

要は自分で考えてどう料理して実利につなげるかである。

吉田茂が「日本は憲法第9条2項で自衛権の発動を放棄した」として米軍に防衛を丸投げしたり、鳩山一郎内閣が、自衛と国際紛争とは異なる、とした「料理」は評価できると思う。



憲法と国連憲章に照らした集団的自衛権などについては、上の小川和久著『日本人が知らない集団的自衛権』(文藝新書)などを参照されたしだが、これらの過去と現在を比較したとき大きく違うことが、二元論的結論が今通用しにくいということだ。

以前も書いたが、本来のTPPでのように何をもって小麦とするのかという時代だ。

以前僕は「一考」のレベルなので「一行」をした安倍首相やデモ行進したひとびとには及ばないかもしれないが、彼らの判断は五十年前に連なる単純なものに見えて仕方ないのは僕だけだろうか。

以下のように言う、Donald Trumpの「料理」の方が現在的にみえてしまう。

My dad's parents were Germans.
My mom's parents Scottish.
My mom was born in Scotland.
My first wife was Czech.
My current wife is Slovenian.
Both used me as an "anchor husband" to become citizens.
And as president I'll get rid of immigrants.
(身内はみな移民だが、大統領になったら移民は排斥してやる)

これくらいだと、吉田や鳩山一郎のレベルだと思うがいかが。

Gardening 2

2015-08-18 00:29:42 | 料理
どんな花を植えるかは楽しみである。

日本の関東という制限のもと、自らの美意識にしたがって、なかなかみられない花を植えたいと思う。

昔大和王朝は朝鮮や中国からの客に南アジアの文化をみせてその「国際化」ぶりを示したらしいが、「今までにないもの」を求める気持ちは人類に共通するらしい。

といって僕のように冬も植物を愛でたいし、面白い花々をということになると、南国の花になる。

例えばフェイジョア。



こういう色彩やデザインが華美なほどの花々は、「みているだけで」楽しい。もちろんプルメリアなどの方が美しいかもしれないが、なぜか「地植え」というこだわりがあって、冬を越せないものははじめから除外している。

しかしもしかしたら大丈夫かもしれない花々。冬だけでなく、夏の高温多湿にも対応できるかもしれない花にチャレンジしたくなる。

今回チャレンジしたのは、姫松虫草とアストランティアで、その可憐さゆえに惹かれるが、夏の高温多湿は避けるべきとされる。。

 

案の定松虫草は、写真の薄紫は3つ中1つがやられ、Yellowmoonもひとつやられた。アストランティアは枯れはしなかったものの開花したのは写真の白だけで、ほか三色は繁茂してはいるものの、開花まで持っていけなかった。

夏に強いとされるモナルダやエキナセア、ヤマトナデシコを楽しみつつ、夏が今一な花々に対しては無理に日陰をつくったり肥料を多めにしたが、うまくいかなかったというわけだ。

その点雑草というのはすごい。

雑草は人里についてきたのべ1000種足らずを指すらしい(山野草が4000強、作物が500種)が、気温が30度を超えると成長をとめてしまう庭の植物を尻目にグググと成長を続ける。

しかも抜いても抜いてもキリがない。

繁殖にかけては圧倒的な底力を持っている。

1株あたりの種子数も多いものは3万を超えるだけでなく、種子に頼らずともその一部から増殖を始める(大株になるとひめムカシヨモギなどは82万粒の種子を残す)。

いってみれば大企業の様なものだ。いくらでも芽を用意できる。すさまじいというほかない。

なかなか花芽がつかない、例えばGreenwizardをみて、どうしたものかと思案をめぐらせた。

しかしGardener一年で、知識もなければ経験も不足とあっては植物に話しかけることもできない。

「イロハ」の「イ」も知らないやつでは、植物としても導こうにも導けなかったのだろう。

ただし「またまた」といわれそうだが、植物に感覚器官があることには疑いを持っていない。

例えば朝顔のツルは手当たり次第に巻き付いているのではなく、しっかりと巻き付く先を審査している風は我が家の琉球朝顔やキュウリなどでもみてとれる。

またある実験では植物には記憶もあることが見出されたらしい。

同じ植物をふたつ並べ、ひとつを無残にも殺す。するとその隣で殺害現場をみていた植物は、その「殺植者」におびえる。ほかの人間には全く反応しないらしい。

そんなこんなで、植物は、我々動物が進化した生物なのではないかと思ったりした。

以前も書いたが、生物学上進化は、唯一無二のカップリングを見出して生存をすることだとすれば、多くの植物は実に見事に適正な「環境」を望むか、適応する。

例えばカタクリは自らの背丈が小さいため、誰よりも早く葉を出して養分をため込み、春一番で花を咲かせて、初夏にもならないうちから日陰を余儀なくされる環境を生き抜いてきた。

また隣り合う植物同士枝がぶつからないようによけるものもある。葉は認識しなくても緑色は識別し、避けたりする。朝顔もそうだが、芽の先に覆いをかぶせると、目が見えなくなった人のように突然動けなくなる植物もある。

再び「光」の話になってしまうが、結局色も光の吸収の仕方が違うことによって生じるもので、目で「見る」のではなく反射した光子を受け取るに過ぎないのだ。

この受け取り方は、私たちが持つ感覚器官ではなく、より物理的に直接的である。赤や青という色素を奪うために緑などに「みえてしまうもの」を追いかける視覚ではなく、単に赤や青という色素を吸い込むものとしてみるのだ。

更に興味深いのは、植物が言語をあてにしていないところ。

例えばある植物に本当に感覚器官があるのか調べようとしたひとが、恐怖を与えようと、殺害しようとした。すると「しようとした」のと「殺害」の意志とをきちんと識別したらしいのだ。

確かに単なる実験で恐怖を与えたい人を怖れる必要はない。

つまり私たちの社会の秩序をつくる二項対立的な判断を超えているということだ。もちろんそんなことは昔から人間はわかっていた。より重要な問題(不可知の人間にとって回答が出せない問題)はむかしから二項対立では処理できなかった。言語化という判断はそれ自体反対のベクトルを生むものだからだ。

日本ではそれを表裏の区別で分けた。まさにコミュニケーションは実際に言語化された言葉ではなく、裏の意味を基盤にコミュニケーションが続けられていく。だから日本語は英語などのコミュニケーションを前提とする場では役立たたないのだ。

しかし言動をこれだけ不一致させることが当たり前の国際社会では、当然憲法も改変されるか解釈を刷新する必要はあろう。今までの二項対立ではなく、裏に。

植物は、その裏を超えているということだ。

X'mas Dinner

2014-12-25 09:08:42 | 料理
数年前とある観光地で入った蕎麦屋で、娘に蕎麦はマズいという先入観を与えてしまった。

そこでお気に入りの、福島の義父をして、会津並みといわせた蕎麦屋に連れて行った。

蕎麦がマズいと考える娘は、迷わず蕎麦屋でうどんを頼んだが、僕の蕎麦を一口食べて、表情を変えた。

その蕎麦を写真に収めるつもりが、実は二回行ったが、二回とも撮るのを忘れた。目の前に出てくると、ついカメラではなく、箸を手にしてしまう。

まあ、娘に「蕎麦は、美味い」と言わせたことで、満足することにした。

写真をちゃんと撮ったのはクリスマスディナー。



前菜から野菜といい、フォワグラといい、申し分なかった。



スズキのジャガイモ包み焼きまたいなものは、普通の店だといろんなものが混ざり過ぎてわけがわからなくなるが、日本料理での焚き物のように個性が光る集合体であった。



メインディッシュは鴨。肉質とその肉汁が渾然とし、鴨は生き返っていた。



デザートは、来たっと思ったらなくなっていた。

ごちそうさまでした。

Picky6

2014-11-26 07:04:50 | 料理
珈琲のことを知らないことはわかっていた。

地元紙で珈琲について連載する「大御所」のもとで、豆を買ってはいたが、世にいうblue mountainを買う気にはならなかった。

マツタケや肉のようにピンからキリまであり、ピンを選び抜く力があるとは思えなかったからだ。

かつて世話になった日本料理や、現在お世話になってるフランス料理店主のような120%派ではないと感じていた。

学生は、教師に力は及ばなくてもその力の全体量は見抜くというわけだ。

しかし今回もしやという方に出会えた。

その珈琲専門店店主がすすめるままに注文すると、今までの各銘柄の概念が180度変わったといっても過言ではない。

もちろん各銘柄内のトップを出してくるのはいうまでもないが、それ以上に驚いたのがあの「おもてなし」の心だ。

メールしてお店のことを伺うと、夜店主から僕の好みを尋ねる電話を頂戴した。

「お客様一人一人に合わせて焙煎させて頂きます」

とのことだった。

懐石料理じゃあるまいし、と驚いたが、実際に飲んだあとの驚きは期待以上だった。

例えばボルカンアスールの酸味は上質の果実のそれに似ていた。

思わず「これは本当にボルカンアスールですか?」と訊いてしまった。

すると、「お気に召さないようでしたらキャンセルして結構です」といい、ボルカンアスールのいろんな味を教えてもらった。

今まで僕が知っていたボルカンアスールではなかった。

おそらくこの店でコロンビアを頼むひとはいまい。

単なるバランスの良さなど、何にも面白くないからだ(この店のコロンビアはのんでないが)。

図示される通り確かな輪郭を個性豊かに発揮している。

そして特筆したいのは、その力だ。

頂くと身体中に清涼な精気かみなぎる。

もちろん単なるカフェインではない。

そんなこんなで、僕の水筒から毎日違う珈琲の香が漂うようになった。

隣に座るアメリカ人はもともと動物学が専門で、共通の話題がなかったが、珈琲の話をするようになった。

僕の挙げる銘柄の名前は、途中までは知っているが後半は聞いたことがないと、一ヶ月前の僕のようなことをいうレベルなので、話が尽きない。

とにかく楽しい。

何が楽しいって、もちろん自分探しがである。

これだけ繊細だと本当に自分が好きなものを探せる。

当分逍遥を楽しめそう。

追伸:こういうこだわりを愉しむのは僕だけでは申し訳ないと息子を蕎麦屋に連れていった。四歳になってアレルギーの心配はなかろうと妻の許可をえて、初めてのそば体験だ。この蕎麦屋は、福島に住む義父が、僕が連れていった関東の蕎麦屋のなかで唯一会津並みと認めたところなのだが、一口食べて、本能を刺激され、僕の分もほぼ平らげた。彼が貪るのをみて、はっきり言って後悔した。彼がこれ以外をソバと思わないとしたら。妻をみると、同じ恐怖を感じていたのだろう。実際に食事を作る担当者として子供達が僕の給与に見合わないものを求めているのは僕も知っている。ため息していた。

Label rouge

2014-11-02 21:57:04 | 料理
久しぶりにフレンチ。

引越し後いろいろ落ち着かなかったから、心のある料理を頂く時間が取れなかった。

お店の名前は、いつ裏切られるかわからないので、挙げるのに躊躇してしまうが、今のところここは安心感がある。

日本にはなかなか入ってこない Label Rougeの食材であるだけでなく、昨年10月から日本にお目見えした乳飲み牛も頂いた。



肩ではあったが、この肉質の細やかさは何だ。

ご馳走様でした。

業と原罪

2014-06-21 05:48:23 | 料理
子供に善悪を教えるのは難しい。

その根源が業、原罪だろう。

他者を傷つけてはいけないといいながら、毎日殺して食べている。

この罪は菜食主義者でも免れない。

『みいちゃんがお肉になる日』を読んだところで、原罪意識までの話である。

そこでまた無私を取り入れることにしたい。

「私」をなくせば「私」は何億もの細胞や寄生虫が暮らす「国」か「惑星」になる。

もちろんこれまで食べてきた動物や植物も同じように考えるから「屠る」対象としての一個の多細胞生物が消え、「食べる」行為は、惑星間の細胞の移動になる。

この移動が行われる限りにおいて「食べる」は「殺す」とは異なることになる。

詭弁といわれるかもしれない。

惑星や国が壊れれば死滅する細胞もいるし、多細胞生物という単位を都合よく省略して、考え方によれば、国家間の武力衝突も是認されるやもしれない。

そこで更に気功師として条件を限定させてもらいたい。「適切に」食べれば、その食べられたものを殺したことにならない、と。

気功でいう「気」とは、多細胞生物の生命活動を可能にする「力」のことである。

身体には、窒素、鉄などいろいろな物質があるが、それら必要なものを摂取して、生命活動を可能にする総務課が存在するはずで、その力のこと。

僕が素粒子に注目するのは、その働きが、分子レベルで、物質の体裁、例えばエイチツーオーは、H二つとOをずっとくっつけたままにする「弱い力」と似ているからである。

死は、その力がなくなることで、「適切に」食べるということは、生命体を糧として取り込むときに、その力も頂くことである。

その力は、死んでも少しの間は残存している。

だから「気」は「生命力」などと呼ばれるわけだが、もし「適切に」食べられればその生命力は、捕食者の生命力に加わるから、単に殺したり消滅させたことにならない(実際生命体が消滅しても生命力は消滅するのではなく、この物質世界が非物資世界と袂を分けた瞬間から存在する力に還元されるだけだ)。

だから「適切に」食べるとはその力が残るうちに食べるということで、完全に死んではいない。完全に死んだものになると、いろんな化学物質が必要になり、多くの地球人は、本当に死んだものに化学物質を振りかけて食べている。

そんななかまたいいお店をみつけた。



アメリカン・イタリアンの店で、いい肉だった。

ごちそうさまでした。

人任せ

2013-10-25 18:51:32 | 料理
リッツ大阪、パンやエビでも偽装…「車エビ」はブラックタイガー(産経新聞) - goo ニュース

こういう話題にコメントするのはもうよそうと思っていたが、やはりいいたくなる。

刑事責任とか商売上のずさんさの非難ではなく、消費者の責任だ。

ひとが生きていくうえでもっとも基本的なものであるはずの食物、表示の名前みなきゃわからないなんて、高級レストランやホテルにいく客が普段食べているものがわかるというもの。

大体現在じゃ白身魚といったってどこから来ているか知ってますか。

全く予想外の国から来てますよ。

日本の問題は仕事の分別化と人任せにあるといったのも司馬さんでした。


晩夏のフレンチ

2013-09-22 19:56:36 | 料理
なんの記念日でもないが、革ジャンを買ってもらった。

なんで買ってもらえたのかわからぬまま買い、買った後妻に「なんで買ってくれたの?」と訊いたら、口を手で押さえ、「なんでだろ?買わせるのうまいね!」と驚かれた。

世の中うまくいくときはこんなものだと、ここ数日で上昇しているのに、先週売ってしまった株券をみて、そう思った。

さて、今日は、待ちに待ったボンヌマンでの食事。

今日は初秋というより晩夏の食材で盛りだくさんだった。

ここのご主人が直接フランスの卸から買うためどうしても季節感がずれる。

さて、今日の品々。

不覚にも前菜と二品目は写真を撮る前に手が出てしまったが、一品目はかろうじてきれいなのので載せてみる。



二品目はこれこそ晩夏というサマートリュフとフォアグラが絶妙だったが、娘と息子がハイエナのように僕の皿から持って行った(子供たちのコースにフォアグラはなかった)。

面白かったのは、三品めの「イサキのムース詰め網油包み焼」。



これは、豚の横隔膜にイサキをはじめとした魚介を包み焼したものだが、なんともいい歯ごたえと味のバランスが絶妙だった。

豚の横隔膜だから臭いが残りそうだが、すごく手間をかけて(教えてもらったが覚えていられなかった)それを抜いて、とても自然な、はじめからそこにあったかのような感覚にさせるところがシェフのすさまじいところだ。

メインディッシュは、「パティのプーラルドのソテー」。



今フランスの二つ星、三ツ星レストランで人気が出ているというだけあって、味の濃厚さは格別だった。

最後のデザートは秋の味覚だが、栗の渋皮煮の蜜と、チョコと、採り立てのホクホク栗の三重奏。



ごちそうさまでした。

秋到来

2013-09-16 20:02:42 | 料理
秋の味覚を一足早く堪能した。

場所は、箱根の山の茶屋。



栗にしても、秋刀魚の寿司にしてもたまりませんでした。

それから酒もいい。



広島の雨後の月ははじめてだったが、すっきりして、辛口+5くらいだろうか。

それからやっぱり土瓶蒸し。



今までで一番よかった土瓶蒸しかもしれない。

台風一過、また明日から頑張ろう。

ご馳走様でした。

乳香

2013-07-07 21:06:56 | 料理
先日知人から岩茶の石乳を頂いた。

中国茶自体にはもちろんあるが、岩茶にも乳香があるのかと驚いた。

のも束の間、今日は肉の乳香を味わった。



これは、子羊ではなく、乳飲み子で、まだ野菜を食べたことがない羊だった。

そのため羊臭さはおろかあらゆる臭みがなかった。

それどころか羊の乳のニオイが漂っていた。

不思議なことに、赤ん坊にかぶりつく自分の野蛮さは感じなかった。

むしろ生を営む以前の無垢さが、そうした感傷さえ人為的な虚構であるかのように感じさせた。

原罪に引き裂かれるのではなく、両者を昇華させる力があった。

もちろんそこにはシェフの力量も貢献していたろう。

無垢な肉の愛おしさまでが素朴に残されていた。

ただ技巧を最も感じたのは、甘鯛のフライだった。



日本料理でも問題になるウロコの高さ分のオリーブオイルでさっと揚げ、身は火を通さずにオーブンで身の形と生のプリプリ感は残すという炎の名人芸だ。

なんというか人生に真摯になれる料理でした。

ご馳走様でした。