雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

白河

2005-12-30 22:59:01 | 雑談(ジョーク)
京都に華があったのは平安時代。異論もあろうが、ドナルド・キーン氏だったか、その師匠だったかは、日本と美いえば、平安時代の京にしか興味がないといっていた。和歌という独特の、そしてこのうえなく日本らしい文化を作り上げた時代の最初だったかもしれない。

そんな和歌の題材に顔を出したのが、奥州。先日の『義経』【NHK】でもそうだったが、みやびな京都人にとっても憧れであり続けた奥州は、西行から、芭蕉までが、その地に向かって弊履をうがった。

関東からみてそんな奥州の玄関が白河で、年末、ぽっかりと空いた数日に、白河へ向かった。しかしだからといって上のようなことだけで白河に赴いたのではない。

僕の家系は、大戦を境に父・母方ともに双方の本家から寸断されて詳しいことはわからない。が、戸籍上、双方ともに白河にいた。父方のそれは、江戸時代末期にいたことしかわからないが、母方のそれは、おそらく秀吉が天下統一を受け継いだ頃にまでさかのぼる。

母方の姓は、「近藤」といい、「近江の藤屋」で、近江の領主蒲生氏郷とともに会津にやってきた。そのときの蒲生の所領に白河も含まれていて、白河とはつながっていた。

徳川の時代、蒲生が二代で絶えたあと、藩主が数名入れ替わった後、会津と白河は別個の藩になり、江戸中期、松平定信が藩主になる。のちに、老中になった、倹約一徹のひとである。

倹約を推し進めたのは、江戸の経済基軸が米か金かでゆれているときに「米」を選んだからだそうだが、そんな定信も江戸時代後期には、貨幣経済を白河にいれようと思い、商業を推進しようとする。

『街道をゆく33:白河・会津のみち赤坂散歩』に、そんな推進の一例として挙げられている商人の名が、藤屋である。このとき城下二番町にあったとあり、上方の酒を勉強せよといわれた。

僕の母方の曽祖父は、その藤屋という酒屋(新潟)だと祖父がいっていたと母がいっていた。真偽のほどを確かめるには新潟に行かなければならないが、一応こんな理由から白河を目指した。

僕がみた白河は…。本当は僕がみた白河の心象を言葉で表現したいと思って、つまり白河と自分の家系との繋がっているようで繋がっていない関係が言葉でなら繋がると期待して、この記事を書き始めたが、いまだ精製される気配はない。

悪しからず。 

Emission Trade

2005-12-29 00:25:15 | 時事
ロシアは、以前「同じ穴のムジナ」でも触れたように、イメージが悪い。昨今外国人(特にアフリカ人)留学生に危害が加えられる事件が頻発していると、先程もNHKでやっていた。

しかし一方で中国、インドに次ぐ、経済市場になる国である可能性は依然として高い。イメージの悪さのほかに問題だったのは、外貨がないことと、軍事技術だけはしっかりあること(これは悪くないか)、だったわけだが、中国というパートナーが軍事技術を買ってくれて、更に石油もわんさか出て、金だけは入る手立てが調っている。

更に今日紹介したいのは、NY Times の「In Russia, Pollution is Good for Business」と題する記事で紹介している Emission Tradeにおけるロシアの優位。

Emission Tradeとは、京都議定書で決められた Greenhouse gases (地球の温暖化を促進するガス類)の排出量の権限の商売のこと。産業が進んだ加盟36カ国は、2012年までに1990年の時点での排出量の基準を下回らなければならない。しかしEUは、現在6%超過、世界の温暖化ガスの15分の1を排出しているアメリカは、批准してはいないが、今のところ19%超過とすすんでいない。

しかしロシアは違う。ソ連崩壊後、90年代に経済ががた落ちになり、1990年を基準にすると、現在43%も下回っている(逆に90年のレベルに達するには2020年くらいまではかかるといわれている)。しかも現在の排出は、時代遅れもはなはだしいほどの設備での排出量なので、いくらでも改善ができる。こうなると、ロシアは、排出量の権利を売ることが出来、NY Timesの記事に書かれているような事態、「ロシアでは汚染はビジネスになる」ということになる。

今年6月には、実際にデンマークの会社が120万の炭素の権利を買い(二酸化炭素1の権利 one carbon credit が、1トンの二酸化炭素にあたる)、デンマークとしては、2012年には、京都議定書のノルマを果たせる見込みになっている。また、この秋には、その他のヨーロッパの国々や、日本が、食指を動かし、Toyotaは、技術援助などもすることになっている。こうなると、ロシアは、2012年までに20億から30億トンの二酸化炭素排出量を減じることができそうで、ロシアの価値は、200億ドルから600億ドルと試算されている。

こういう世界全体の傾向にアメリカもあわせざるをえないというわけで、早急な対策が求められているが、ロシアもいいことばかりではない。昨今も紹介したように政府主導のため今ひとつスピードに乗れず、デンマークのある会社との契約では、11月後半までに終わっていなければならないところが、2月までずれ込む見通しらしい。

いずれにせよ、ロシアとしては思いもしないもの、技術の遅れと経済の破綻が奇貨になるんだから、笑いがとまらないだろう。僕もそんなのほしいな。

世界主要国の二酸化炭素の排出量は、こちらで。

アメリカ保守

2005-12-27 22:36:19 | アメリカ
自らの財産と生命を守るためなら、いや、それらを危険に曝さないためには、道徳や倫理を超えた措置をとろうとする。その是非には議論もあろうが、アメリカの保守派は、これを是認すると考えてよかろう。アメリカ文学の大御所、大橋健三郎さんの著作に『荒野と文明』があったが、アメリカは、原風景たる荒野に文明を築いたという自負があり、これが、単なる現状維持の保守派と、アメリカの保守派の一線を画させるのではなかろうか。アメリカ建国の父たちは、確保されていた文明ではなく、荒野を選んで、新大陸に来た。保全されたものより、今よりもよい状態を求めて危険(荒野)に身を投じ、現在の合衆国をつくってきたのだ。

そうしたピルグリム・ファーザーズを思い出せ、と謳っているのが、Townhallの常任コメンテイター、Star Parker。アメリカが社会保障にあてている金額は、建国当時は総収入のたった3%だったが、現在は20%にあがっている、こうした傾向が、General Motorsが今抱えているような問題をつくり、Wal-martとは対照的だという。Harrietの最新の世論調査(11月28日時)によると、アメリカが今正しい状態にいると考えるアメリカ人は、28%にしかすぎないわけだが、その原因は、個々の問題を解決するのが、それに直面している個人や家族ではなく、組織や社会になったこと、荒野ではなく社会を前提にしていることにある、というわけだ。パーカーは、いつもこういう感じであるが、アフリカ系アメリカ人である彼女が、時には、アフリカ系アメリカ人にさえ厳しい口調で叱咤激励しているからこそ説得力をそれなりに持っているように思う(彼女にはケインズ的なものをすべて排除する傾向あり)。

こうしたアメリカ保守派の見解に関係する記事をさらにふたつ紹介しよう。

ひとつは、アメリカ保守派のなかの保守派、Charles Krauthmmarが、Townhallに寄稿したもの。合衆国大統領ブッシュが、アルカイダと思しき人々の情報を盗聴して違憲の声が殺到したが、Krauthmmarは、合憲とし、その根拠を述べている。いわゆるFISA (Foreign Intelligence Surveillance Act)は、もともと合衆国大統領の越権行為を制限すべく、その法規的措置にも秘密裁判所の認証を義務付けたものだが、1978年に制定されてから、クリントン政権まで、超法規的措置が認められてきたはずだ、という論旨。

もうひとつは、ワシントンポストから、アルカイダ関係者への非人道的および残虐な拷問禁止法案をブッシュ大統領が支持した、という記事。上記記事と矛盾するようだが、対外的には、アメリカがテロリストとは異なるということを全世界に示す目的らしいが、ある人権擁護団体の主催者ほかによると、この法案と同時にLindsey O. Graham 上院議員が提出した法案も通過する見込みで、これによって拘留時間が長くなることになり、拷問とはいかないまでもそれに近い尋問をすることも可能なのではと、疑っている。拷問禁止法案は、John McCain上院議員が提出したもので、ブッシュ側は、今年六月からずっとこの法案を撤回させるか修正させようとしてきたが、国民および議会でのMcCain支持が圧力になったとみられる。

いつも同じ結論で恐縮だが、アメリカのリーダーたちは、結局最初に書いたような「アメリカ保守派」になると思う。

ハヌカーのろうそく

2005-12-26 23:04:03 | 宗教
昨日の12月25日は、X'mas だけでなく、ハヌカー Hanukah の最初の夜。ハヌカーとは、ユダヤの暦でのKislev月の、25日から8日間のお祭りで、ユダヤ料理のラートケ(じゃがいものホットケーキ)なんかが思い出されるだろうか。

何を祝福するかというと、約2200年前、シリア統治下のユダヤの愛国者マカバイオスの反乱がうまくいったから。シリア皇帝アンティオコス四世(175-164)が、ユデア(ユダヤでもいい)にヘレニズムの文化を無理強いし、それをうまくはねのけたことをお祝いするお祭りだと手元の辞典にはある。

しかし単なる戦争の勝利が、現在では、「奇跡」として扱われている。現在このお祭りで唱えられる言葉が以下である。

“Blessed art Thou, O Lord our God, King of the universe, who wrought miracles for our fathers in days of old."(汝、主である神に祝福あれ、宇宙の神よ。あなたは、古の我々の父たち奇跡を引き起こした)

Townhallの記事によると、この「戦争での勝利」から「奇跡」へという化学変化は、「ろうそく」によって引き起こされたという。ろうそくがユダヤの歴史に相応しくない(もしくは都合の悪い)事実を消している、というわけである。

そもそもこの戦争というか反乱といわれてきたものは、実は、ユデア内での市民戦争で、かっこいいギリシア文化を受け容れたい人と、それに反対するひととの間で起こった。ギリシアのオリンピック(競技会)や神々はユダヤを冒涜するものだととらえ、ユダヤ伝統の神聖な信仰を守ろうとする戦いで、同化ではなく独自の伝統を、モダニズムではなくファンダメンタリズムを、というわけで、決してシリアを相手にした、純粋なユダヤの戦争ではないということだ。

戦争が終わったあと、エルサレムの神殿の油は、異教徒の儀式に「汚されて」いたとみなされたわけだが、ひとつだけ汚されていない油があって、それが一日火をともすのに使えた。ここで、ハヌカーの意義は、戦争の勝利から、異教徒の儀式に「汚された」神殿を清めることにディコンストラクトされ、ハヌカーの油が一日分残っていた事実が奇跡だとみなされるようになる。現在のハヌカーの祭りで催されるのは、神殿を解放したものたちがどうやって一日燃やし続けるのに十分な純粋な油を得たか、というタルムード編纂の話であるそうな。

結果、軍事行為が旧約にはかかれず、聖書外典に辛うじて載り、一方戦争の勝利が、勝利による結果に取って代わられて、その後、勝利は神の恩寵による奇跡とみなされるようになった。ろうそくが都合の悪い事実を消してしまったというわけだ。同記事は、歴史とはこういうものだ、と揶揄してから、こうした変遷を経たうえで旧約に残るハヌカーに関する一節、ゼカリヤ書、4の1から7、をひいている。

ここでゼカリアはまどろみのなかで神の使いから、目の前に現出した荘厳なろうそくの意味を知らされるのだが、次のようにいわれる、「これ(ろうそく)は、権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり」と。

なるほど、と思った次第。

ハヌカーの概略は、こちらで。また、同じくTownhallからこんな記事(The Triumph of Chanukah)もあり。

アリトー

2005-12-25 21:51:49 | アメリカ
ここでの「アリトー」とは、かつてのロッテ・オリオンズの主軸打者(のち監督)の名前でもなければ、ゲームの「タイトー」とも関係がない。ブッシュ大統領に、最高裁陪席裁判官サンドラ・デイ・オコナー Sandra Day O'Connorの後任に推薦された、サミュエル・A・アリトー・ジュニア判事 Judge Samuel A. Alito Jr.のことである。

ワシントンポスト(22日)によると、アリトーを支持するアメリカ人が過半数を超えた。賛成54%、反対28%で、前回の調査(11月)結果(賛成49、反対29)よりやや支持者が増えている。この結果が、来年1月9日に行われる上院での選挙にどう関係するかが注目どころである。 

同記事にも載っているが、アメリカ国民は、アリトーのことをよく知っているわけではない(今回の世論調査でも回答者の5分の1のひとが「よく知らない」と答えた)。そこで昨今手がかりとして注目されたのが、妻が堕胎手術をするときに夫に通知義務を負うかどうかに下した彼の判決(20年くらい前の)。彼は通知義務アリとしたわけだが、リベラル系やフェミ系から非難を受けた。しかし彼の判決文をみれば、夫と妻なのだから少なくとも妻が堕胎するのを夫にくらい知らせてもいいんじゃ、というものであって、妻を夫の管轄化に置く意図を持つものではなかったとみる方が自然という声もある(昨今これと同じケースがあり、Alitoと同じ判決を下した)。

もちろん左翼系フェミニストたちにいわせれば、それは巧言ということになるのだが、こういう問題は、法律で条文化するのはもともといかがなものかと思う。それでも裁判に問題が持ち込まれ判決を下すとなれば、Alitoのようにするしかなかったような気がするが、フェミニストにいわせると、これに該当する夫を縛る法律がないわけだから、なんとなく不公平感が出てくるということだろう(フェミニストのネックは、その運動の目的が文化的性差是正でありながら、結局「自然」に課された「出産」という「負荷」に限定されてしまうところ)。

Alitoに話を戻す。僕が持っているAlito判決のイメージは「穏当」に尽きる。Bushへの反対票が多いため、どうしてもAlitoにも風当たりが強いが、今アメリカ人が欲しているのはきわめて「穏当」なジャッジをするひとであることは今回に限らず世論調査に顕れている。今日はクリスマスだが、以前「No, Christmas」で紹介したように昨今のアメリカでは、「クリスマス」という表現にクレームがついている。こうした事件は何も昨年から始まったのではなく、似たような事件にAlitoが下した判決に、Alitoらしさが表れているので紹介したい、記事元は、Townhall

1999年控訴院判事をしていたアリトーは、シティ・ホールの外に飾る、creche(クリスマスによく飾る、生まれたばかりのキリストが馬槽のなかにいる像)、ユダヤ教のメノラー、クリスマスツリーの3つに、クワンザ(12月26日から元旦までのアフリカ系アメリカ人の宗教)用の飾りをつけるのは許されるかという問題に直面した。この問題にはそれ以前に違憲判決という前例があったわけだが、アリトーは、その新しいごちゃごちゃした飾り立ては、最高裁が認めてきた飾りとは、「憲法に照らしてこれといった点で問題とはいえない」 ("indistinguishable in any constitutionally significant respect")、と結論付けた。

アリトー判決の特徴である「穏当」は、より多くの人間の同意が得られるという意味のものだが、だからといってナンデモアリというわけではない。多様な国民を抱えるアメリカの「穏当」の基準は、合衆国憲法であり、彼の判決も、単に以下の憲法修正第1条にこの上なく従ったまでのことである。

Congress shall make no law respecting any establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; ....
連邦議会は、宗教護持を尊重することも、宗教の自由な活動を禁じる法律も作らない。。。

この憲法修正第1条は、特定の宗教を護持してはいけないという信教の自由を謳ったものであるが、とにかくみなが文句をいわないようにする基準は、アメリカ合衆国憲法、これしかない、というAlitoは、アメリカが好ましく感じている判事に違いないはずである。

Chinaは脅威か?

2005-12-24 19:50:36 | 時事
中国の新聞(英語版と日本語版)というと、右(保守派)といえば聞こえはいいが(よくない?)、いつもながら政府の代弁者のようである。そんななかのひとつChinanewsによると、China National Offshore Oil Corp.が、イタリアの石油会社Eni(保有量世界第六位、天然ガス売り上げ欧州2位)と共同で、香港の南東180キロのところに新しい油田を発見した。1日に5千バレルの良質の石油が供給される見込みらしい。

中国のエネルギー不足は有名だが、だからといって中国には石油を掘る力どころか海外の石油会社を買収してもその運営能力もないとつい最近までいわれていたはず(BBCなど)。しかし今回は、CNOOCが、51%の出資をしていて、実質的な決定権を手中にしている。また、BBCなどによると、最近世界で最も有益な投資国に選ばれた中国は、米英の銀行金融資本を受け容れている(外国資本は25%以下のまま)。そして中国国内初のベンツ生産(数日前)といい、一見欧米化がどんどん進んでいるようにみえる。

そんななか一向によくならないのが、日本との関係。People's Daily Onlineでは、日本の「中国脅威論」を取り上げている。まず、記憶に新しい、麻生外務大臣と前原民主党首の発言を無責任とし、日本の、特に読売新聞の中国脅威論の根拠、軍事予算の増大、を論破。国土が中国の25分の1、人口が10分の1の日本の方が、中国の軍事予算の1.62倍、兵士一人当たりの費用は15倍にあたるのだからどちらが脅威か?と問い返している。

それはそれで理論は通っているが、日本としたら、まず日本領海内にあると思われる天然ガス採掘問題でのゴリ押しがどうしても安心できない(結局共同採掘という話もどこ吹く風だし)。したがってアメリカと共同で実質的に押さえ込まれている領土を取り返すことを今年初めの日米会談で日米共有の目的にいれたわけだが、同新聞もこれに言及し、「中国の」領土を日本国防圏内にいれていると非難している。

以前も書いたが、経済での日中のパートナシップはすでに抜き差しならぬもので身動きが取れないほどだが、日中両政府は、お互いの国民が互いに悪感情を持っていることには問題意識を持っているらしく、日本の外務省は、数日前、中国に日本のアニメなどを放送してもらうよう交渉を始め、中国の新聞(日本語版)は、中国が興っているのは日本国民ではなく日本政府であるという論旨を展開しているように思う。

BBCやNY Times はこうした日中の衝突を東アジアのパワー・バランスを争う(もしくはパワー関係が転換される際の)イメージ合戦(口げんか)と揶揄していたが、そうした過渡期にいることは間違いない。いろいろなひとがいろいろな思惑で、Laise Faire式に言動が展開する最後に、笑っているのはどちらか一方か、どちらもか、また、第三国か?

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Katrina 15

2005-12-23 20:18:46 | アメリカ
NY Times (15日付)によると、合衆国政府が、Katrinaで被害を受けたニューオリンズの堤防増強のために、300億ドルの拠出をすることを約束した。この工事によって、洪水を引き起こした三つの運河をせきとめ、ポンチャトレン湖にそってポンプシステムが備え付けられることになる。だが、Blancoルイジアナ州知事は、この金額はdown payment(頭金)にすぎず、堤防はカテゴリー3に耐えうるようなものにしかならないと述べた。

しかしこの堤防、Katrinaを想定してのことなら、政府の援助で十分になりそう。ワシントンポスト(22日付)によると、The National Hurricane Center が、今週、8月29日にニューオリンズに上陸した際のKatrinaの規模をカテゴリー4から3へと修正した。ニューオリンズの洪水災害の張本人が、カテゴリー3にしか対応しないとされてきた堤防だったため、非難の矛先がこれまでとは違う方向に進むことになる。

だが、このカテゴリーの数値は、決定的および包括的ではない。Katrinaは結局生身の台風なのだから、いつも同じ強さで動いていたわけではない。Katrinaの全貌、つまり地域と時間によって、Katrinaの力がどのように変動したかは議論のあるところとなる。堤防については、29日のルイジアナに上陸する直前まではカテゴリー5で、上陸時に風速が落ちたが、波の高さや強さはそのままカテゴリー5クラスのままルイジアナに突入したという学者もいるし、Gulf Coastには、カテゴリー5の強さだったとか・・・という具合である。

また、いろいろな研究者たちがNew Orleansに検査にやってきた結果、いろいろな人為的欠陥が指摘されている。海岸沿いの堤防より、New Orleansの街のなかの、17th Streetと London Avenue canalの堤防の設計ミスだというのである(カリフォルニア大学Robert Bea教授によると)。いずれにせよ、こうしたKatrina像の修正は今後もないわけではないことになると、Katrina関連の裁判ほかの問題は、一層紛糾する見通し。

しかし現実に問題なのは、責任の所在ではなく、いかに街を復興させるかである。そうした復興にはどうしても労働者が必要で、当然のことながら、仕事にあぶれているひとたちがニューオリンズに連れて来られた。しかしワシントンポスト(18日付)によると、つれてこられたのは、南アメリカ出身者やメキシコ出身者で、しかも不法滞在者がいる。

彼らはアメリカに職を求めてきたがなかなかいい職業にめぐり合わず、今回のKatrinaで職があるからとつれてこられてきてみたら、約束より安い給料で働かされ、現在では仕事が与えられず、路頭に迷っているという。しかも不法滞在者となっていては抗議もできないから泣き寝入り。合衆国政府は、当面一時的な措置としてでもこういう外国人に仕事を得させるための方策を講じるつもりらしいが全員を何とかするには到っていない模様。


今年の本と音楽!

2005-12-22 23:04:48 | 雑談(ジョーク)
NY Times が今年のNotable Books を百冊発表したとあっては僕も発表せざるをえまいっ(なんのこっちゃ)!

《書籍》
①『司馬遼太郎が考えたこと 1~13』(新潮文庫)
『司馬遼太郎が~』は司馬さんのエッセイのみを二ヵ月おきに出版しているもの。年代別になっていてその順番どおりに読んでいくと、時代の雰囲気も感じられて、司馬さんと現代史を辿っているような気になる。15巻完結で、今月「13」が出たばかり。『司馬遼太郎全講演』全五巻もよくてどちらを残すか迷ったが、司馬作品ではこちらを残した。

②『空海コレクション2』宮坂宥勝編 ちくま文庫
『空海コレクション2』は昨年の出版(2004年11月)だが、この2巻でストップしている。ちくまは何をしているのだろう。2巻には空海の思想のポイントになる「吽字義」ほか5篇が収録されている。

③『Southern Tradition: The Achievement and Limitations of an american conservatism』 Eugene D. Genovese
ハーバード大学教授によるアメリカ南部考察。特に、南部のConservativeがいかにアメリカ全体のそれと異なるかを歴史をおって、つまり南北戦争前後の南部・北部の思想がかみ合わなくなった頃の知識人2人に焦点をあてて解説。


④『Southern Ladies and Gentlemen』 Florence King
今年の発見は、Florence Kingの一連の著作だった、といっても過言ではない(1位にすべきだったかも)。アメリカ南部の風俗がどのように現代に生き残っているのかを生き生きと伝えてくれた。

⑤『The Year of Jubilo』Howard Bahr
小説。Robert Penn Warrenによると、南北戦争こそがアメリカ人の歴史だという。アメリカ人が数人集まれば、喧々囂々やりたくなる歴史上の題材はこれだけ、という意味だが、南北戦争が終わって南部に帰ってくる南部の行く末を心配する一兵士のレポートという体裁で、南北戦争後の南部のDesperationを伝えている。

⑥『The History of Jazz』Ted Gioia
ジャズだけでなく、アフリカ系アメリカ人による20世紀アメリカ音楽史は読み甲斐があるものが多い。ただStearnsやSchuller、そして Delauxのように時代の限界から歴史の一部しか書けず、20世紀後半までのジャズ史を書き込めたひとは少ない。ジャズが生まれて死ぬまでを包括的にとらえられる数少ない一冊。

⑦『現代史の対決』秦郁彦(文春文庫)
歴史観を左にも右にも偏らせない力が秦さんにはある。ずっと文庫になるの待っていたので取り敢えず。

⑧『食辞林』興津要 (ふたばらいふ新書)
『古典落語』でおなじみの興津さんの江戸川柳で読む、江戸の食文化。これも今年で出たわけではなく、以前からねらっていたこの本がついに古本で手に入った!

⑨『拒否できない日本』関岡英之(文春新書)
2003年に出版されて今年いろいろ話題になった本。クレームをつけたいところもあるし、素人臭さはあるが、こういう本は貴重。これ以前の日米関係史については、数年前の片岡鉄哉さんの『日本永久占領』がよかった。

⑩『阿字観瞑想入門』山崎泰廣 (春秋社)
素人向けの密教の瞑想入門。信徒ではない人は、こういう修行の実践篇のアドバイスは受けられない。少し山崎氏の言葉が鼻につくところはあるが、やっぱり貴重。

《音楽》
① Wolfgang Dauner Trio: Music Soundz (MPS)
ほかにもDaunerの作品はあるが、ジャズ・ロックのこの一枚がいい。音のひとつひとつがほとばしりでてきて結晶になってそこら中に散りばめられていく感じがある。

② Sonny Rollins / Without A Song: The 9/11 Concert
NYでテロがあった5日後のBostonでのRollinsのライブ。耄碌したRollinsと酷評されたりもしてるが、これを聴くと、大阪でのRollinsのライブが思い出されて幸せになれる。メンバーはほぼかわっていないので、大阪でのときの方がこなれていてよかったと思う。

③ Stephane grappelli with Toots Thielemans/ Bringing it Together
ジャズ・バイオリンとハーモニカの大御所がゆったりとそれでいてスリリングなジャズを聞かせてくれる。かなりいい出来。編成も、彼らのバイオリンとハーモニカを支えるのがギターだけと新しい布陣。

④ Monk Quartet With John Coltrane at Carnegie Hall(Blue Note)
1957年のモンクとコルトレーンの幻の演奏。NY Times のArt欄でも紹介されていたが、それぞれの所属するレコード会社の問題のためお蔵入りだったらしいが、音楽も音質もすばらしい。上述のNY Times記者は、これを今年のBest CDとしている。

⑤ Herbert Blomstedt (Staatskaelle Dresden)/ Mozart Symphonies Nos. 40 and 41 "Jupiter"
クラシックでは、ブロムシュテットのモーツアルト。2005年の録音ではないが、今年ブルックナーの7番のコンサートに行ってからこのひとの虜になった。それからこの40番は、これまで聴いた40番のなかで最もしっくりくる演奏で、ブロムシュッテットらしさが十分に堪能できる。

これらに出会えてホントに幸せでした。

ああいえばジョウユウ

2005-12-18 14:17:25 | 時事
日々送られてくる世論調査結果で、ここ二週間で少なくとも数回以上あったのが、イラクに駐留するアメリカ軍の是非。日本でも報道されているように、イラクからの撤収派の見解がそこら中に載っている。特に、下院議員John Murthaの発言がずいぶん掲載されているわけだが、メディアが公平中立であるべきという考え方からすると、上院議員 John Lieberman の見解も載せるべきだというのが、保守派Townhallのこの記事

Lieberman は、もちろんまだまだやらなければならないことはたくさんあるが、過去17ヶ月、明らかにイラクは変わっている、このままアメリカの介入を続けるべきだと述べている。

同記事によると、New York TimesやWashingtonpost、その他のメディアは、Liebermanのレポートにあえてふれなかったという。もちろんこの記事が保守派のTownhallによる記事だからと批判も出てこよう(最高裁判事に推薦されたAlitoはここではよくほめられている)が、この記事の出所は、Media Research Centerで一応僕もそれなりに参考にさせていただいているところ。

いずれにせよメディアの公平さなど当てにならないので、いくつかのメディアをまわってこなければならないわけだが、アラブ系ほかの世界の新聞をみてまわる時間がとれない(アルジャジーラはこちら)まま今日まで来てしまった

いずれにせよ、アメリカの見解はずっとこのままいくしかないはずなのは、ここで述べた通り。アメリカのメディアに関する世論調査の結果は、「黒を白」へ。

ベドウィン

2005-12-14 20:55:12 | 歴史
NY Timesなどによると、米加から生後20ヶ月の牛肉の輸入が解禁になった。しかし日本の食品安全委員会による調査結果に明らかなように、米加での現場の実情がサーベイランス(surveillance: 監視)されていないのに20ヶ月と数字を限定しても無駄なことである。

もとより20ヶ月という数字がずさん。日本でBSEになっていないという事実では科学的根拠とはいえない。結局問題の本質に触れないで結論を出すという不確定な土台の上の議論である。したがって上述の調査結果には、交渉の経緯ほか、BSEが発生する確率をこれまで手に入った数字から導き出したりしている(日本よりアメリカの方がBSE発生率は低くなる試算も紹介されている)。しかし繰り返しだが、本質を計る指標が選定されていないのだからとにかく無意味。いずれにせよ安全かどうかという議論が不可能であることが最大の難点。

今回の決定で唯一重要なことは、BSEの怖れのある牛肉による被害の責任の所在。米政府でもなければ畜産業者でもなく、日本のリスク管理機関が請け負うことになった。しかもリスク評価機関とはしっかり分離したから、学問的かつ科学的な根拠を提示しなければならない学者にも、一切責任が及ばない。つまり政治の問題になったわけである。政治は妥協といったひとがいたが、まさに妥協のためのシステムが構築されたわけだ。

そうするとアメリカのこと。ぐいぐい押してきて日本がひく。そんなアメリカ人をみていると、ついベドウィンを思い出す。自分の家族や民族には、これでもかという寛容さと気前の良さをみせるが、外部の人間には、冷酷になることを最上とする、イスラム以前のアラブの価値観である。そうした価値観の背景には、井筒俊彦さんによると、厳格な現実のサバイバルゲームに対する認識があった。生きるということは、情け容赦ない厳然としたものであり、その末には何をしようと結局死が待っている、という認識である。

司馬さんによれば、人間が社会を作ったのは、そうした生存競争が剥きだしになった状態ではなく、みんなが食いッぱぐれないことを保証するシステムとしてだった。社会によって、みずからの種の保全のためにこれ以上やってはいけない線がひかれうるためだ。とすると、このBSE問題の決着は、そうした社会の賜物と考えるべきなのだろうか。

ここでもうひとつ思い出したのが、テイアール・ドゥ・シャルダンの言説。人間は、間違った本能、もしくは退化した本能を持った社会的生き物だといっていた。群れをつくる、すなわち社会をつくらなければ生きていかれない生物なのに、本能はそれに適していない「退化した失敗作」というものだ。司馬さんのエッセイにも、社会によって戦争で死ぬことを要求されたバカバカしさを綴ったものがあった(よかったよねあれ)。

シャルダンの論をおうと、確かに僕は地球の裏側で飢餓のために死んでいくひとがいても、「大変だな」と思うだけで、どこも痛くない。そのために亡くなる人がいても日々自分のライフスタイルを変えていない。この地球に社会があり、僕がその一員なら、そのために何かしなくても、何らかの影響があってしかるべきだが、別に感じず、オレも大変だと考えている。そうしたベドウィンのような生存の仕方が改良されるには何が必要なのか?裁判で議論し尽くす法律か、それとも道徳観念か、ベドウィンのなかから生まれたムハマンドが提示した宗教か?

裁判や法律は、完全には信頼できない。先日アメリカの世論調査で倫理的に信用できる職業についてのものがあったが、弁護士やジャーナリストは低かった。法治主義を謳うアメリカ人でさえ、裁判が巧言の競争であることは知っている。結局人間の理性を信じた結果が法律や裁判だが、人間の理性が信じられるものなら、これまでの世界規模の間違いの説明がつかない。

道徳観念といえば、儒教だろうか。中国を最初に統一したのは秦だが、その原動力は法律であり、始皇帝の死後、儒教重視になった。その原因は、法治主義のほころびのためだが、孔子、墨子、孟子による考え方がそれなりに説得力があったからだろう。人間は、小さい集団をつくり、それぞれが農業で自活することを理想とした。その小さい集団が、「家族や血縁」を意味し、更に、中国の統一政府というか皇帝による官僚社会が温存されたため、官僚と血縁者の収賄となって堕落した。モラルだけの堕落とはいえないが、むき出しの生存競争を抑えるに足りるかどうかは疑問。

さてシャルダン。彼は、『現象としての人間』のなかで人間が生物として進化するしかないといった。百万年かかっても、現在のような器官しかもたない人間では、ベドウィンのようにしかならない、人類をひとつの有機体とし、それぞれが細胞のひとつと考えられるような生物に進化するしかない、と。ただそれには何万年もかかるわけだから、現状を生きる人間への希望として、想像力をあげていた。確かに感情移入を高めたりすることで、他人の悲しみが自分のものとなることはあるからだ。

シャルダンの理想像は、結局人間が他人を自分のように愛せる世界をつくる、ということだが、それは密教の、大日如来の世界像と合一する。個人的には、他人を自分を愛するようにさせてくれる視点は密教からもらった僕だが、宗教を指標にすることでキリスト教、イスラム教をすでに信じる方がいる以上困難だろう。しかし熱烈なキリスト教徒のアメリカ人に密教の教理を説明したら、キリスト教より論理的で統合されている、との評価をえた。

昨今の理論というと、『帝国』を書いたネグリがいるが、彼のいうマルチチュードは、真のインテリとPostcolonial的な人間の活動の合同からつくられるが(フェミニストも含まれるだろう)、彼がEU憲法批准に賛成した理由を見る限りでは、世界一国家の時代が来るまでは改善はないということになる。当分の間のベドウィン状態は肯定ということだから、シャルダン以下。

こういう混沌とした中で、人々が集まり、回答が見つからないまま「祈り」に到るというのが大江健三郎。小説を読んでいると、わからないでもないが、インパクトは小さい。。。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。