この夏の音楽は、
シベリウスだった。
大学の時挑戦して、あまりの冷たさ(凍てつく風)に夢みる青年だった僕は(今もそうだが)、とても聴いていられない、と「甘ったるい」ブラームスほかに走った。
が、夏に入る前、先日、サントリー・ホールでコンサートを行ったあるオーケストラの楽員のひとと一緒にバスに乗っていて、「シベリウスはあの冷たさがいいのよ」といわれ、もう1度挑戦する気になった。そんなに冷たいなら、暑さ対策に最適じゃないか、とも思ってた(ちなみに最近政治について書かなくなったのは、シベリウスが政治について素人が語るのを極度に嫌がっていたからではなく、時間がとれないだけです)。
シベリウスは、彼の言葉にもある通り、とても文学的だった。
ここでの文学的は、「論理的」のほかに「有機的」も含む。
人の表現手段は、ことば、数、絵(線と色にわけてもいい)、音がある。特に客観的な指標として左のふたつが傑出し、我々の社会生活の枠組みはそのふたつに依拠しているわけだが、シベリウスは、バッハもそうだったが、音を言語化しようとしただけでなく、ワグナーのように、主題によって手法を選択というより新しく生み出そうとした。
しかし研究書などによると、シベリウスはそれだけではない。Windows の0か1かという、二項対立のピラミッド構成という型どおりの「文学的」ではないのだ。
バッハが対立する和音のペアをつくって言語化したことを嘲笑うかのように、シベリウスは、その間隙を縫った作り方をする。それが誰かがいっていたが、シベリウスを考えると、バッハから始まる音楽史を全く考え直さなきゃならなくなる、という言葉になったんだろう。
Music begins where the possibilities of language end. That is why I write music. 音楽が始まるのは言語の可能性が終わるところだ。だから私は音楽を書くんだ。
シベリウスにひとこと肘鉄ならぬ反論をさせてもらえば、マリン・コッケイブによれば1922年にジョイスやボーアが言語の可能性を飛び出している(シベリウスの傑作は1920年代中盤から27年にかけて)。
シベリウスがしようとしたまさに同じことを僭越ながら僕もしたいと思ってきた。それは、少なくともこのブログのタイトル「雨をかわす踊り」にも表わしているつもりだが、自分のすることにそうしたコンセプトをいつも反映させているつもりだったから俄然この北欧の英雄に興味がわいたわけだが、更に共通点は続く。
その後の焦点は、ではどうやってという具体的な手順に移るわけだが、愛煙家シベリウスならではの表現だと以下のようになると思う(がいかが?)。
You have to have a personal relationship with a cigar. It gets annoyed with a bad smoker and it won't burn. If you talk a lot while you smoke, the cigar punishes you and stops burning and you have to light it again. It must be treated with respect and elegance.煙草とは付き合うものだ。吸い方が悪かったりすると火もつかないよ。煙草を吸ってんのに話ばっかりじゃ、煙草が罰を与えて燃えるのをやめ、もう1度火をつけなくちゃならない。尊敬とエレガンス(この言葉は和訳は無理だ)をもって扱わなきゃ。
僕も個人的な対峙しかないと本当に思う。
だから、曲作りは神がばら撒いたカケラを紡ぎ合わせる、という表現になっていく。
交響曲の素晴らしさは内的に、有機的な諸部分の統合といったシベリウスと、そうした論理的な関係を超えた elusive なものまでが全部なければならないといったMahler との見解の対比は、衝突というより完成度の違いだとシベリウスはいいたいだろう。
その結果というか行き着いたところが7番だろうが、7番についてのコメントは(誰が振ったのが好きかということについては)まだできない。
今日9月20日はシベリウスの命日。
追伸1:
「IT製品、ソースコード開示せよ」…中国が外国企業に要求へ(読売新聞) - goo ニュースだって。相変わらず
中国の実存主義には恐れ入る。貿易の不均衡だからって大量に役に立たないものを買ってその場のバランスだけ平衡させてそのつけを国内での転売で何とかしようという国とは違う。
追伸2:日中は米とあまりに経済上深い関係なため・・・(
Washingtonpost)。