「浦島太郎」を読んで愕然としたのを覚えている。
亀を助けて竜宮城で歓待を受け、戻ってみたら時間が経ち過ぎていて、戻った地上はすっかり変わってしまっている。そしてそのギャップに耐えかねて玉手箱をあけ、老人になる。
この結末を読んだとき、主人公浦島太郎の気持ちをおもんぱかるとたまらなかった。これからこの老人は、生きていけるのだろうか。知っている人もいなければ、若さという生きる力がない。
僕は何度も問いかけた、「浦島太郎はそれからも生きていたいと思うだろうか?」と。
この物語で何が驚いたかといって、生への固執が必ずしも是認されるわけではない、ということ。死にたくないと漠然と思っていたし、永遠に生きられるのなら悪魔に魂を売ってもいいかもと考えたこともあるが、こんな設定が与えられれば、生自体を「引退」したくなってくる。
もちろん幼かった僕に、死を積極的に選ぶ浦島太郎は思い浮かばず、主人公浦島の寂しさが喉もとにこみあげてくるのを感じただけだったが、これは一体何のためのお話なんだろう?と不思議に思った。亀を助けたにしては、ひどい終わり方で、単なる勧善懲悪の話とは思えない。この「童話」はなんのために書かれたのか、よくわからなかった。
そんな疑問を氷解させてくれたのが、キャンベルだった。
キャンベルによれば、あらゆる神話や民話、宗教の挿話や物語には、役割がある。人間は年齢とともに社会で要求される役割が変わっていくが、その変化には何かと不安にさせられる。というのもその変化とは、既知なる領域から未知なる領域へ足を踏み入れることだからだ。
小学校から中学にあがるとき、高校から大学にいくとき、大学から社会人になるとき、それぞれの変化を迎えるとき、できたら、小学生のままで、中学生のままで、大学生のままでいたいと思ったことはないだろうか?
そこで「うん」と頷いてしまうひとに、神話(物語)が作用する。神話(物語)は、その未知なる領域への一歩を踏み込ませる役割を持っているという。
例えばオイディプスの話がある。彼は生まれてまもなく不吉として棄てられるが、めぐりあわせで王位につき、后に選んだ女性に、自分の本当の母を選んでしまう。その真相を知った母はたしか自殺し、彼は確か目をつぶすかなんかしたはずだ(不安)。
思えば人間は生きものでありながら、生まれてそのまま自活できるわけではない。立てないし、その辺の食べ物もくえない(腸が未発達)。母親に寄生(依存)しなければ生きられない。
しかししばらくすると、幼稚園とかに行って社会生活の第一段階が始まる。でも始めたくなんかない。母親に守られたままの方が慣れているから心地いいし安心だからである。
でも母親がいつまでもいるわけではなく、自分も親にならなければならない。少なくとも社会はそれを要求する。母親から離れられない輩は、社会には不要であり、母親を忌避する必要が出てくる。それを教えるのが、そのオイディプスの話ということになる(キャンベルはそういう例ではひいていないが)。
そうだとすると浦島太郎の話の役割もみえてくる。「死」という未知なる領域への旅立ちをいざなうのだ。年をとれば、退かなければならない。既得権益を保持しようとすると、社会全体が滞る。しかし死にたくはない。そこで浦島みたいな話がある。時期がきたら、生さえ通り過ぎなければならないことを教える。
しかしそれだけでは面白くないからシーシュポスみたいのがいる。
シーシュポスはタナトス(死の神)を縛りつけ、神々の申しつけにいちいち反抗したが、すべては、生きつづけたい気持ちからだった。だから神々に罰が与えられた。そんなに生きていたいのなら、山の頂上へ大きな岩を運ぶ労働を続けよ、と。それを続ける限り生きていられる、と。
シーシュポスは、やっとの思いで、岩を頂上に運ぶが、それはまた麓まで転がり落ちてしまう。シーシュポスは、山を下り、また頂上まで運んではまた下りて行ってまた運ぶ。この永遠の労働のなかでいき続ける。
こんなことを何百回とやればこんなことを続けるくらいなら、と思うかもしれないが、「しかし」とカミュはいう。山を下るシーシュポスは、笑ってさえいただろうと推測する。なぜなら彼は自ら選んでその単調な労働を選んでいるのであって死ぬことはいつでもできるからである。
死をめぐるこれらふたつの物語は、キャンベルの捉え方を使うと、表裏一体の悲喜劇になる。
悲劇は、生まれたのに死ななければならない不条理を前提に、その限定された生のなかで成功を望み果たせない人間を描いて、ひとのはかなさを描く。
喜劇は、悲劇では、悲しみにしか見えないものを視点の転換によって、生への喜びや現状の肯定(楽観)にみせる。
とすると、アンガージュマンをすすめるカミュは、当然喜劇作家ということになる。そして物語のラストがいつも自滅で終わるフォークナーは、悲劇作家ということになる。ともあれ、我々不条理な存在が、これら悲喜劇の逆ベクトルというか相補する物語によって人生を活性化させる、それが物語の効用ということになる。
亀を助けて竜宮城で歓待を受け、戻ってみたら時間が経ち過ぎていて、戻った地上はすっかり変わってしまっている。そしてそのギャップに耐えかねて玉手箱をあけ、老人になる。
この結末を読んだとき、主人公浦島太郎の気持ちをおもんぱかるとたまらなかった。これからこの老人は、生きていけるのだろうか。知っている人もいなければ、若さという生きる力がない。
僕は何度も問いかけた、「浦島太郎はそれからも生きていたいと思うだろうか?」と。
この物語で何が驚いたかといって、生への固執が必ずしも是認されるわけではない、ということ。死にたくないと漠然と思っていたし、永遠に生きられるのなら悪魔に魂を売ってもいいかもと考えたこともあるが、こんな設定が与えられれば、生自体を「引退」したくなってくる。
もちろん幼かった僕に、死を積極的に選ぶ浦島太郎は思い浮かばず、主人公浦島の寂しさが喉もとにこみあげてくるのを感じただけだったが、これは一体何のためのお話なんだろう?と不思議に思った。亀を助けたにしては、ひどい終わり方で、単なる勧善懲悪の話とは思えない。この「童話」はなんのために書かれたのか、よくわからなかった。
そんな疑問を氷解させてくれたのが、キャンベルだった。
キャンベルによれば、あらゆる神話や民話、宗教の挿話や物語には、役割がある。人間は年齢とともに社会で要求される役割が変わっていくが、その変化には何かと不安にさせられる。というのもその変化とは、既知なる領域から未知なる領域へ足を踏み入れることだからだ。
小学校から中学にあがるとき、高校から大学にいくとき、大学から社会人になるとき、それぞれの変化を迎えるとき、できたら、小学生のままで、中学生のままで、大学生のままでいたいと思ったことはないだろうか?
そこで「うん」と頷いてしまうひとに、神話(物語)が作用する。神話(物語)は、その未知なる領域への一歩を踏み込ませる役割を持っているという。
例えばオイディプスの話がある。彼は生まれてまもなく不吉として棄てられるが、めぐりあわせで王位につき、后に選んだ女性に、自分の本当の母を選んでしまう。その真相を知った母はたしか自殺し、彼は確か目をつぶすかなんかしたはずだ(不安)。
思えば人間は生きものでありながら、生まれてそのまま自活できるわけではない。立てないし、その辺の食べ物もくえない(腸が未発達)。母親に寄生(依存)しなければ生きられない。
しかししばらくすると、幼稚園とかに行って社会生活の第一段階が始まる。でも始めたくなんかない。母親に守られたままの方が慣れているから心地いいし安心だからである。
でも母親がいつまでもいるわけではなく、自分も親にならなければならない。少なくとも社会はそれを要求する。母親から離れられない輩は、社会には不要であり、母親を忌避する必要が出てくる。それを教えるのが、そのオイディプスの話ということになる(キャンベルはそういう例ではひいていないが)。
そうだとすると浦島太郎の話の役割もみえてくる。「死」という未知なる領域への旅立ちをいざなうのだ。年をとれば、退かなければならない。既得権益を保持しようとすると、社会全体が滞る。しかし死にたくはない。そこで浦島みたいな話がある。時期がきたら、生さえ通り過ぎなければならないことを教える。
しかしそれだけでは面白くないからシーシュポスみたいのがいる。
シーシュポスはタナトス(死の神)を縛りつけ、神々の申しつけにいちいち反抗したが、すべては、生きつづけたい気持ちからだった。だから神々に罰が与えられた。そんなに生きていたいのなら、山の頂上へ大きな岩を運ぶ労働を続けよ、と。それを続ける限り生きていられる、と。
シーシュポスは、やっとの思いで、岩を頂上に運ぶが、それはまた麓まで転がり落ちてしまう。シーシュポスは、山を下り、また頂上まで運んではまた下りて行ってまた運ぶ。この永遠の労働のなかでいき続ける。
こんなことを何百回とやればこんなことを続けるくらいなら、と思うかもしれないが、「しかし」とカミュはいう。山を下るシーシュポスは、笑ってさえいただろうと推測する。なぜなら彼は自ら選んでその単調な労働を選んでいるのであって死ぬことはいつでもできるからである。
死をめぐるこれらふたつの物語は、キャンベルの捉え方を使うと、表裏一体の悲喜劇になる。
悲劇は、生まれたのに死ななければならない不条理を前提に、その限定された生のなかで成功を望み果たせない人間を描いて、ひとのはかなさを描く。
喜劇は、悲劇では、悲しみにしか見えないものを視点の転換によって、生への喜びや現状の肯定(楽観)にみせる。
とすると、アンガージュマンをすすめるカミュは、当然喜劇作家ということになる。そして物語のラストがいつも自滅で終わるフォークナーは、悲劇作家ということになる。ともあれ、我々不条理な存在が、これら悲喜劇の逆ベクトルというか相補する物語によって人生を活性化させる、それが物語の効用ということになる。