雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

浦島太郎とシーシュポス

2006-05-31 23:07:46 | 文学
「浦島太郎」を読んで愕然としたのを覚えている。

亀を助けて竜宮城で歓待を受け、戻ってみたら時間が経ち過ぎていて、戻った地上はすっかり変わってしまっている。そしてそのギャップに耐えかねて玉手箱をあけ、老人になる。

この結末を読んだとき、主人公浦島太郎の気持ちをおもんぱかるとたまらなかった。これからこの老人は、生きていけるのだろうか。知っている人もいなければ、若さという生きる力がない。

僕は何度も問いかけた、「浦島太郎はそれからも生きていたいと思うだろうか?」と。

この物語で何が驚いたかといって、生への固執が必ずしも是認されるわけではない、ということ。死にたくないと漠然と思っていたし、永遠に生きられるのなら悪魔に魂を売ってもいいかもと考えたこともあるが、こんな設定が与えられれば、生自体を「引退」したくなってくる。

もちろん幼かった僕に、死を積極的に選ぶ浦島太郎は思い浮かばず、主人公浦島の寂しさが喉もとにこみあげてくるのを感じただけだったが、これは一体何のためのお話なんだろう?と不思議に思った。亀を助けたにしては、ひどい終わり方で、単なる勧善懲悪の話とは思えない。この「童話」はなんのために書かれたのか、よくわからなかった。

そんな疑問を氷解させてくれたのが、キャンベルだった。

キャンベルによれば、あらゆる神話や民話、宗教の挿話や物語には、役割がある。人間は年齢とともに社会で要求される役割が変わっていくが、その変化には何かと不安にさせられる。というのもその変化とは、既知なる領域から未知なる領域へ足を踏み入れることだからだ。

小学校から中学にあがるとき、高校から大学にいくとき、大学から社会人になるとき、それぞれの変化を迎えるとき、できたら、小学生のままで、中学生のままで、大学生のままでいたいと思ったことはないだろうか?

そこで「うん」と頷いてしまうひとに、神話(物語)が作用する。神話(物語)は、その未知なる領域への一歩を踏み込ませる役割を持っているという。

例えばオイディプスの話がある。彼は生まれてまもなく不吉として棄てられるが、めぐりあわせで王位につき、后に選んだ女性に、自分の本当の母を選んでしまう。その真相を知った母はたしか自殺し、彼は確か目をつぶすかなんかしたはずだ(不安)。

思えば人間は生きものでありながら、生まれてそのまま自活できるわけではない。立てないし、その辺の食べ物もくえない(腸が未発達)。母親に寄生(依存)しなければ生きられない。

しかししばらくすると、幼稚園とかに行って社会生活の第一段階が始まる。でも始めたくなんかない。母親に守られたままの方が慣れているから心地いいし安心だからである。

でも母親がいつまでもいるわけではなく、自分も親にならなければならない。少なくとも社会はそれを要求する。母親から離れられない輩は、社会には不要であり、母親を忌避する必要が出てくる。それを教えるのが、そのオイディプスの話ということになる(キャンベルはそういう例ではひいていないが)。

そうだとすると浦島太郎の話の役割もみえてくる。「死」という未知なる領域への旅立ちをいざなうのだ。年をとれば、退かなければならない。既得権益を保持しようとすると、社会全体が滞る。しかし死にたくはない。そこで浦島みたいな話がある。時期がきたら、生さえ通り過ぎなければならないことを教える。

しかしそれだけでは面白くないからシーシュポスみたいのがいる。

シーシュポスはタナトス(死の神)を縛りつけ、神々の申しつけにいちいち反抗したが、すべては、生きつづけたい気持ちからだった。だから神々に罰が与えられた。そんなに生きていたいのなら、山の頂上へ大きな岩を運ぶ労働を続けよ、と。それを続ける限り生きていられる、と。

シーシュポスは、やっとの思いで、岩を頂上に運ぶが、それはまた麓まで転がり落ちてしまう。シーシュポスは、山を下り、また頂上まで運んではまた下りて行ってまた運ぶ。この永遠の労働のなかでいき続ける。

こんなことを何百回とやればこんなことを続けるくらいなら、と思うかもしれないが、「しかし」とカミュはいう。山を下るシーシュポスは、笑ってさえいただろうと推測する。なぜなら彼は自ら選んでその単調な労働を選んでいるのであって死ぬことはいつでもできるからである。

死をめぐるこれらふたつの物語は、キャンベルの捉え方を使うと、表裏一体の悲喜劇になる。

悲劇は、生まれたのに死ななければならない不条理を前提に、その限定された生のなかで成功を望み果たせない人間を描いて、ひとのはかなさを描く。

喜劇は、悲劇では、悲しみにしか見えないものを視点の転換によって、生への喜びや現状の肯定(楽観)にみせる。

とすると、アンガージュマンをすすめるカミュは、当然喜劇作家ということになる。そして物語のラストがいつも自滅で終わるフォークナーは、悲劇作家ということになる。ともあれ、我々不条理な存在が、これら悲喜劇の逆ベクトルというか相補する物語によって人生を活性化させる、それが物語の効用ということになる。

教科書問題

2006-05-28 12:12:56 | 宗教
歴史が政治の道具になって久しい。本来、Inquiry by Learning(学ぶことによって調べる) を語源とするHistoryは、人間が学ぶ対象であって、裁判で儲けたり、交渉の材料にするものではなかったが、後世、20世紀後半から、「歴史」は弁護士の金づるにまでなったと書かれるのだろう。公民権運動、フェミニズム、ポスト・コロニアリズムの功罪である。

そしてそんな歴史にまつわる問題として教育分野がある。教科書も、判断力を持つには情報量の足りない若年層をコミュニティに帰属させるだけでなく戦士として命を投げ出させる役割が付与されたらしい。そんな一例として、ワシントンポストに、サウジアラビアがあげられていた。

サウジの教科書は、2001年のテロ以前は、イスラム教一色だったが、対米戦略として、そうではないという「広告」をずっとしてきた。何しろ同記事によると、あのテロでのハイジャック犯19名中15名がサウジの人間だったのだからある意味弁解は必要だろう。しきりに「サウジの教育は、宗教の異なる人々に危害を加えるような方向にはしない」というメッセージを発している。

しかし同記事は、内実は全く変わっていないという。例えば小学校1年生の教科書にこんな空所補充の問題があるそうな。

Every religion other than ________ is false. Whoever dies outside of Islam enters _______." (   )以外のすべての宗教は間違っている。イスラム以外で死んだ人間はみな(   )に入る。

回答は、最初の(  )にIslam、後者にHellfire(業火)らしい。

それから12年生の教科書。

"Jihad in the path of God -- which consists of battling against unbelief, oppression, injustice, and those who perpetrate it -- is the summit of Islam. This religion arose through jihad and through jihad was its banner raised high. It is one of the noblest acts, which brings one closer to God, and one of the most magnificent acts of obedience to God."(神の道にあるジハードは、---不信、抑圧、不正義、そしてそれをはたらく輩と闘うことからなるものでだが--- イスラムの頂点である。この宗教はジハードによって立ち、ジハードによってその旗を高く掲げられる。ジハードは、高尚な行動のひとつであり、神に近づけてくれるし、神への従順を示す最も荘厳な行為のひとつである)

イスラムというと井筒さんの著作を思い出す。空海同様、宗教ほど、その国の言語がわからないと伝わりにくいものもないことを教えてくれた恩師である。例えば、普通の我々が使う「信仰」と訳される taqwa は、「怖れて身を護る」という意味で、「畏怖」の「怖」に力点がある。

そしてIslamとは、「自分の大事な所有物、手放すのがつらいような貴重な所有物を他人の手に渡してその自由処理に任せること」で、その「大事なもの」というのが「自分自身」で、それを達成しているひとが MUSLIM ということになる。ここで、ジハードにつながってくるというわけだ。

ただしそこで問題というか異論をはさむ余地が出てくる。神(Allahと呼ぶべきだが)の自由処理にまかせるとして誰がその自由処理を伝達するかというと、預言者であり、その歴代最後の預言者がムハンマドだというところ。そしてキリストも神の子ではなくて預言者とするから、キリスト教と教義上衝突するわけだが(この顕教的セム教の捉え方は、世界の宗教を束ねるひとつの道にみえるのは僕だけ?)、とにかく問題は誰がその預言者を正統とするかである(朱子学みたいだが)。

少し話がずれたが、いずれにせよ、無信仰者にはついていかれない議論になる。少なくとも、人間を超えたものへの畏怖あたりまで戻ってもらわないと、話が始められない。そしてそれを実際にしたのがキャンベルであり、そこから話を進め切れなかったのが「神道」の国日本といっていいかもしれない(丸山真男のいう「雑居」を指している。丸山はこれをどちらかというと否定的にみて、アインシュタインはポスト構造主義的とみて評価した)。

この一週間、キャンベルの THE POWER OF MYTHを通勤の電車のなかで読んできたので(さっき読み終わった)、話がどうしてもキャンベルから進まないから、無理矢理引きはがすと、よく知人に、秦郁彦と大江がどうして両立するのかと問われる。僕にとっては、秦さんは、雑居であり(歴史に忠実なのみ)、大江の左は確信犯とみている。というか、「文系の保守」という概念では両者を同じにくくれないだろうか。

追伸1:イスラム圏への攻勢を正当化するアメリカの言い分に、Copt人の存在がある。わずか10%に満たないイスラム圏のなかのChristiansを守れ、なんて、記事がTownhallにあった。

追伸2:Washingtonpostに「MuslimとJewの共有点」と題する記事があって、中東でのMuslimとIsraelの仲違いをどうにかする手立てを提案している。ひとつは、シーア派が仲介すること。ユダヤ教徒が頑強なのはこれまでの災難があまりにひどかったためだから、イスラム教徒のなかで苦難をなめてきたシーア派が仲介役に最適であるとのこと。ふたつめは、イスラム教の聖職者にあるひとびとの運動。政治家だとろくなことがないから。アメリカ人がこういう論説をするところにおかしみがあるが、こういう擂り合わせ精神が出てくるのは評価できる。

Katrina 24: Nagin

2006-05-21 21:32:09 | 時事
20日(米時間)、C. Ray Nagin 前New Orleans市長が、Mitch Landrieuを退けて再選した。washingtonpostによると、Nagin 52.3%(59,460票)、Landrieu、47.7%(54,131)だった。ある調査によれば、黒人の80%、白人の20%が彼に投票したらしいが、先週の木曜日のふたりの討論ではふたりの見解は基本的に同じだったため、結局「人種」が最重要事項だったといっていいかもしれない(方法論は違ったらしい)。

Naginは大喜びで、これまで非難してきたBushに礼をいい(BushがNew Orleans復興に割いた費用に)、更に、Landrieuには一緒にやっていこうと呼びかけている(タイムズ・ピカユーン)。とにかく9ヶ月前の失策が許されたことになるわけだから、これからしっかりやっていこうということだろう(そうじゃなきゃ困るが)。

とにかくNew Orleans復興が現実的に本格化することになる(NY Timesでの関連記事はこちら)。

追伸1:韓国の自動車メーカー「ヒュンダイ」のトップChung Mong Koo(68歳)が先日逮捕されたが、ワンマンだったため、監獄から会社に指示を出さざるをえない状況らしい(NY Times)。

追伸2:NY Times記者のZhao Yanの解放が、先日の胡錦濤の訪米で実現すると思われていたが、その望みがなくなったらしい。さすが中国(NY Times)。

追伸3:NY Timesでここ25年のベスト小説が発表されたが、僕が読んだことあるのは、1位になったToni Morison のBELOVED(1987)しかみつからなかった。

Davinci Code

2006-05-20 23:49:49 | 宗教
NY Timesの記事でここ2週間でよく読まれた記事ベスト10に、Da Vinci Code: The Missing of the Screeningsが入っていた。普通は公開前に試写会やマスコミなどに広告用にみせるのが普通だが全然みせないやり方を報告しているだけだが、これがこれほど読まれたのはやっぱり関心の高さだろう。

しかしその関心をねらってTシャツその他のグッズなんかが先行しており、同じくNY Timesのこの記事では、そんな商業主義が揶揄されていた。

とりあえずみな筋は知っている。というわけでおなじみのGallup世論調査によると、公開前「絶対観る」というひとが28%、「みようかな」も同じく28%、「絶対観ない」が43%、という結果が出ていた。

興味深いのは「絶対みない」というひとたちだが、このひとたちについては、Gallup世論調査結果である程度輪郭がみえてくる。CatholicとProtestantの別で上記質問のアンケート結果は、Catholic が、「絶対観る」が34、「みようかな」が40で、「絶対みない」が24%なのに対し、Protestantでは、21、27、51と、絶対観ないが過半数を超えている。

もちろんこの結果は教義上当然である。Protestantは、Jesusを介してしか救われない。Protestantの友人も「あんなのインチキだ」と鼻息が荒かったが、先日のユダの福音同様、無宗教者にとっては四方山話のネタになる話だが、Protestantにとっては深刻な話題が続いている(リンクは控えなかったが、Episcopal でもGayを牧師にするのを禁じたなんて話もあった)。

ただ僕にとっては先日も書いたようにユダの福音の存在は胸が高鳴った。グノーシス派は(ふたつあるが)、人間がこんなに出来が悪い理由をGodの所為にして(当然Jesusも格下げになる)、その上に更なる至高神がいることにするわけだが、そうなると、釈迦と大日如来と相似の関係が成り立ち、他の宗教との門戸も開けることになるからだ。

しかしWashingtonpostによると、世界各国でクリスチャン(特にCatholic)から非難があるらしい(ある意味当然だろうが)。

17歳以下がみられないギリシャや、地方の劇場では禁じられているフィリピン、インドでは公開が先延ばしになり、ロシアでは、クリスチャンからの報復があることを警告している。フランスがちょっと違って、バカバカしい映画と、相手にしない態度をとっている。

問題視されているのは、フィクションを事実であるかのように描写しているところ。

それについてBoston Globeは、ちょっと突っ込んだ論評をしていた。

ダヴィンチ・コードを虚構を事実としてみせる作品として責めるのではなく、もともと真実と虚構を見分ける力のない読者、広告塔でしかないマスコミを問題視している。

一理ある。がもともとこうした「文系」の問題に真偽を見分けられることなどできるのだろうか。無宗教の日本人からみたら、全部虚構にみえやしないだろうか。

「文」や「sentence」は漢字と英語の違いはあれど、語源が似ている。「文」は「文様」、「sentence」は「感じ方」である。どちらも、その本質は表せっこない、ということだ。禅風にいうと、「言葉は、月を指す指である」。

そうした文系の問題の扱いには、バシュラールのいう想像力が必要だと思う。

《いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージから我々を解放史、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。もしも眼前にあるあるイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、もしもきっかけとなるあるイメージが逃れていゆく夥しいイメージを、イメージの爆発を決定しなければ、想像力はない。近くがあり、ある近くの追憶、慣れ親しんだ記憶、色彩や形体の習慣がある。想像力に対する語は、イメージではなく、想像的なものである。あるイメージの価値は想像的なものの後光の広がりによって測られる。想像的なもののおかげで、想像力は本質的に開かれたもの、のがれやすいものである。人間の心象においては、想像力とはまさに開示の経験であり、新しさの経験にほかならぬ。他のいかなる性能よりも想像力は人間の心理現象を特徴づける。ブレイクが明言しているとおり「想像力は状態ではなく人間の生存そのものである」》『空と夢』

これに則した仕事をしたのが、ジョセフ・キャンベルじゃなかったろうか。「文系の権化」と呼びたいひとだ。

キャンベルは、人間からある文化圏固有の常識や知識を取り除いた無垢の目でみる世の中の神秘を描いた神話や宗教のお話から、そんな無垢さを抽出したひとだった。そしてその抽出によってみなの理解の擂り合わせを行った。「なぜ原始人たちは洞窟に獣の絵を描いたんだろう?」とか「死と再生がなぜ我々の知覚に組み込まれたのだろう?」、そんな素朴な質問から回答をくれることによって。

彼の生徒が、彼の話はまるで魔術のように引き込むとかなんとかいっていたが、その著作も変わりない。精神分析の分野の焼き直しとおちょくられもしたが、彼にとってはそんなことは関係なかったろう。幼いころからの疑問が氷解していくように、彼は語っていたからだろう。

久しく THE POWER OF MYTH を読んだのだが、なんだか眼から鱗がボタボタ落ちた。彼の頭の中では、ギリシャ神話もイスラム教も神道も、科学でさえも、人間を取り巻く驚嘆すべき世界に眼を開いてくれるという、同じ役割しか果たさなかった。

世論調査

2006-05-17 22:38:56 | アメリカ
支持率低下が続くBush 大統領。5月15日(月)ゴールデンタイムに放映された大統領のスピーチは、世論調査の結果に基づくものである(?)とのレポートが今日発表のGallup世論調査に出た。合衆国民が最も心配している国境の安全をブッシュはあげ、また、しっかりとした移民の管理は可能(62-34)という見解も呼応していたそうな。

とにかく全米市民は、上記国境の安全のほか、国境への人員配備、条件を設けて違法移民者をアメリカ市民にすること、不法移民を雇用する雇用主への罰則など、包括的な対策を政府に望んでいるわけだが、あえて問題の重要度を絞る質問をぶつけた結果をみると、アメリカ市民は既成事実はいたしかないか、という本音がみえかくれしないだろうか。

「国内の不法移民と国境どちらが大事か?」の問いに、「国境」と答えたのが52%、「国内の不法移民」をあげたのが43%で僅差である。

既成事実認容の姿勢は、更に国内の移民についての処遇についての結果にも現われている。

母国へ帰ってもらう: 21%
働くだけ:      15%
条件をととのえてゆくゆくはアメリカ市民:61%

そしてその条件となる滞在年数を5年以上としているのが74%、英語力が89%である。もちろんこういった数字もブッシュの演説に現われていたとのこと。

ということは、先日国歌は英語でとBush大統領が述べたのもこれが影響しているということだろうか。但し「国歌は英語で」ということに対しては、別の世論調査によると、世代別でかなり答えが違っていた。若者(20代)は、8割以上が非英語でもいいといっていたが、中年以上は「英語で」が多かった。

アメリカ保守7

2006-05-04 21:57:54 | アメリカ
又聞きだが、静岡で、藤原帰一さん(東大教授)と大沢さん(京大助教授)の対談があった(静岡新聞)。加藤なんとかさんという演出家による企画シリーズで、現代の演劇は、こういう専門家の対談もあり、ということらしい。次回は、柄谷行人で、結構硬派な催しものである。

なんとなく興味が湧いたのは、藤原さんがそこでいっていたらしい話。いくらアメリカを非難してもそれはアメリカがキライだからではなく、内側から改善するためという意識が常にあると仰ったそうな。

これを伝えてくれたのは、柄谷行人ひいてはカントが提唱した世界共和国を模索する反米の自称左翼の方で、上記藤原さんの発言にわからんと嘆いていられたが、僕は、そのひとを目の前にしつつもつい「それはわかる。。。」と口に出していってしまった。

といって僕にはアメリカ非難はできず、正当化が関の山である。アメリカのいうグローバリゼーションの輸出をアメリカの自分勝手さの発露として考えたことはない。

確かに「小国寡民」や「天下を神器」とするのは理想的だが、現実的な社会はそうもいっていられない。国際関係なしに生き残ることが難しい日本にとって、世界に国際的なルールがひとつ出来上がることはたとえ一国偏向であっても有益になりうる(というより公正なルールなどない)。

こんな風に考えるのは、日本の礎をつくったのが、扶余族という匈奴の落ちこぼれで、蛮勇割拠の戦国時代よりひとりの巨大な力の出現による平和を待ち望んでいる所詮「倭」だからかもしれない(「倭と日本」参照)。

しかしアメリカのいいところはある。仏・露・中ら曲者と違って単純である。実際、米の主唱する人道主義、宗教の自由、反テロリスト、民主主義、そしてその手段である力による無理強いをみよ。建国の時からずっと変わっていないわかりやすさがある(ヘブライ主義)。

そして拉致問題ほか東アジア諸国関連の問題にもアメリカの影響力は絶大である。「金だけのつきあい」でも触れたように、中国との関係が絶対善でないことが判明した今、そのストレスを遠慮なく取り除こうとし始めた。

そのため中国は、約半世紀続いた対立関係にあったヴァチカン(「POPEと中国」と「米中のカソリック」参照)と歩み寄りをみせ(washingtonpost)、ロシアにもプレッシャーをかけはじめた(Washingtonpost)。

さてそんなわけでアメリカはまず正当化、そしてごり押しが来る。逆に言えば、それを逆手にとればいいわけである。

昨今大きな反対を世界各国に示されているのが、アメリカの中東戦略だが、それに対する正当化がTownhallにある。

いわゆるAmericanismというごり押しがTotalitarianであるなら、テロリストも、イスラム側も同じじゃん、といい、それならやっぱり自由と民主主義がいいはずだ、と述べている。

この論理もずっとかわらない。フォークナーが長野に来たときのスピーチをみよう。

To the Youth of Japan (William Faulkner)
『100年前、私の国、合衆国は、ひとつの経済と文化圏ではなく、ふたつに分かれていました。そのふたつがあまりに反発しあったため、95年前戦争に突入し、どちらが勝つか決めようとしました。私の側、南部が敗れたその戦争の戦場になったのは、太平洋の大海原にある中立地帯ではなく、我々自身の家、庭、農場でした。沖縄やガダルカナルが、遠い太平洋の島々ではなく、本州や北海道といった地域にあったようなものです。征服者は、戦争に勝ったあとも居残り、我々の土地、家を簒奪しました。我々を打ちのめしたのは敗戦だけではないのです。敗戦後10年にわたって、戦争後に残ったごくわずかなものまで奪い去られました。その戦争の勝者は、南部を再建させようと努力することは全くありませんでした。

しかしこれはすべて過去のことです。我々の国は今ひとつです。あの古の苦悩のおかげで合衆国は以前よりはるかに強くなっていると考えています。なぜそうなったかといえば、あの苦悩のおかげで、戦争で傷ついた人々の気持ちがわかるようになったからです。私がこんなことをいっているのは、私の暮らす南部出身者は、少なくとも現在の日本人が気持ちがわかるということを説明し、示したいからです。現在みなさんは、未来は絶望以外なく、しがみつくものも信じるものも何もないとお考えになっているのではないでしょうか。なぜなら南北戦争後の10年に、私の国の若者たち次のように言ったはずだからです。

「何をこれからすればいいんだろう?どこで未来を希求するのだろう。何をし、どのように希望を持ち信じるのか、教えてくれる人なんているんだろうか。」

私は次のように考えたいのです。そういうつらい時にも、どんなに経験が浅く知識は広くなくても、あと数年たてば今自分が持っているものに加わっていくと告げるひとがいたという風に。人間というのはタフで、何も、つまり戦争も、悲しみも、絶望も、失望も、人間自身が存続していくほどには続かない、そして人間は、努力さえすれば、自分のあらゆる苦悩に打ち勝つのだと。人間と希望を信じて、よりかかるためではなく、希望と自分自身のタフさと忍耐を信じることによって自分の足でまっすぐ立つための杖を求めようと努力すれば、ということです。

私はそれこそが芸術の唯一の目的だと考えています。音楽や詩、そして絵画といった人間が作り出し、いまだに自分自身を捧げられるものの存在理由がそれです。芸術というのは、人間が発明し発見したもののうちで最も強く最も耐久性のある力で、苦難を受けているときに発揮された人間の不屈の耐久性や勇気の歴史を記録し、人間が希望を持つことが正当であることを示します。

私は、戦争や災害こそが、人間が、自分の忍耐とタフさの記録を必要としていることを最も思い出させるのだと信じています。だからこそ私たち南部の災害のあとに、いい文学作品が現れたのです。ほかの国のひとが「地方の」南部文学のことを話題にし、ついには、私のような田舎者が、日本人が話をし、耳を傾けたい南部文学の第一級の作家の名前に入るようになったのですから。

こうしたことが日本でもあと数年したら起きると考えています。皆さん方の災害と絶望から、ある日本人作家のグループが出てきて、そのひとたちに、世界が耳を傾けるでしょう。そしてそのひとたちは、日本的な真実だけではなく、普遍的な真実を口にするでしょう。

なぜなら人間の希望は人間の自由の中にあるからです。普遍的な真実の基盤は、希望を持ち、信じることができる自由だからです。自由の中でしか希望は存在しません。ここでいう自由とは、タダで手に入った贈り物ではなく、ひとつの権利もしくは責任として、勇気と犠牲によって人間がそれに値し、その価値があり、そのために働き、また、いつもそれを守る場合にのみ獲得される自由です。

そしてその自由は、あらゆる人間にとって完全な自由でなければなりません。私たちは、色と色、種と種、そしてイデオロジーの間で迷ってはいけません。私たちが選ばなければならないのは、ただ単に奴隷であるか自由であるかだけです。なぜならその両者を少しずつ選ぶという時代は過ぎ去っているからです。自由に階級があるような制度、軍隊でのランクでのように平等に差のある身分制度を基盤に確立される自由を選んではいけません。私たちは今世界がどうしようもない戦場であると考えています。その戦場では、ふたつの強力な力がお互い、ふたつの相容れないイデオロギーという形で対峙しています。しかし私はこれらがふたつのイデオロギーだとは信じていません。それらの一方だけがイデオロギーです。なぜなら他方は単に、民衆の同意というチェックに影響をうけない政府は存在しないという人間的な信念だからです。そしてもう一方だけが政治的な状態すなわちイデオロギーです。なぜならもう一方は単なる人間がお互いの自由を信じている状態にすぎないんですから。そしてそうした状態では、政治というのは、人間が自由の状態でいることを良い状態にしまたその状態を保持するための不器用な方法の更なるもののひとつに過ぎないのです。不器用な方法というのは、それよりいいものをみつけるまでのものです。社会民主主義のほとんどの原理はキーキー音を立て始めるからです。しかし私たちが今のものよりいいものをみつけるまでは民主主義は大丈夫です。なぜなら人間は、自分の間違いや大失敗よりも、強く、タフで、また忍耐強いからです。』

藤原帰一氏も、又聞きだが、アメリカの民主主義は建国以来変わっていないと述べていたらしい。そしてこうもいったらしい、アメリカは、民主主義が建国時に完成したと考えているが、ヨーロッパは違う、いまだ民主主義を達成するプロセスのなかにある、と考えている、と、おっしゃったらしい。なるほど、と思った。