雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Sound of Music

2009-08-23 23:29:10 | 音楽
学生の時分に買ったステレオだからか、一ヶ月前くらいから音がでなくなった。

そのため娘に音楽を聴かせることができない。

といって家にあるほかの再生機では音質が悪すぎる。

ちょうど大学生のときに交通事故入院していたとき、松田聖子の作詞・作曲を手がけるMさんのツーリング仲間がいて、そのひとからいろいろ指南を受けて選んだ逸品だけに、どうしても比べると差が出てしまう。

たまに間違って音が出ると、Kieth Jarret が来日?と錯覚させられるほどだ。

というわけで、新しく買い換えるにはかなり大幅な予算編成が余儀なくされることもあり(というより我が家の大蔵大臣にそんな申請をするなんて考えただけでもぞっとするが)、The Sound of Music という映画をDVDでみせた。

Totoro三谷たくみほどの印象はないようだったが、こっちの予想通り音楽には関心を持ってくれたらしく、「ドレミの歌」は、「ミ」と短縮して催促するようになった。

もちろんRay Charles のときと同様ドレミの歌を聴くときは、僕に抱かれる(僕が熱唱し、かつ踊るからである、なんやかんやいって音楽はライブが一番なわけだから音楽を聞かせるときは可能な限り熱唱し舞踊する)。

が、今日は娘が早く寝付いたこともあって、いつもはみる時間のなかった特典版をみた。

恥ずかしながら「ドレミの歌」も「エーデルワイス」もこの映画のために作られた曲だとはじめて知った(何世紀も歌い続けられてきた曲だと思っていた)。

この映画は、そうした音楽の素晴らしさや、景色の美しさ、ジュリー・アンドリュースの魅力ほか語りつくせぬ魅力のつまったキャノンだが、今日感動したのは出演者の言葉。

上演後40年経った彼らは、おじさん、おばさん、おばあさん、おじいさんだが、映画のなかで長男役を演じていた男性が次のようなことをいった。

この映画によって責任を感じる、世界中のこれだけみられた映画であのような役をこなし、視聴者を裏切るようなこと(=「警察沙汰」)はできない、と。

どこかで聞いた風な言葉だが、なんだかこの映画に魅かれる理由が分かったような気がした。

人間が善良な気持ちで損得を考えずに暮らす状況があるとしたら家族しかないのじゃないか。

商売とか音楽とか戦争とかノーベル賞とか、世界の悪だけでなく美談も、メディアを介してニュースとして知らされるレベルの話は胡散臭い(もちろん全部ではない)が、ここにはそんな自然な善良さがある。

そうした単純さというか素朴さと、「ドレミの歌」はぴったりマッチしていた、なんといってもこの曲は、ドレミファソラシドしか、音階を使わないのだ。

繰り返しだがこの映画には、ジュリー、音楽、風景の美しさなど、称えられる魅力はたくさんあるが、それらを魅力にしているのは、素朴な、特別ではない、「善良さ」などという言葉をあてたら逆になくなってしまうような(=だからこそなかなか視聴者は気づかないが)人間が肉親に対してもつ慈しみの結晶ではないか、と思った。

続・三難(加筆)

2009-08-22 22:40:01 | 歴史
逮捕後2時間半死んだふり、母の声で「生き返る」 堺(朝日新聞) - goo ニュース

その手があったかっ!

僕も機会があったら是非やってみたいと思ったが、警察のみなさんもどうして火葬場に送るとか、臓器移植しよう、とかいってやらなかったんだろう。

それにしても母親が来て、「生き返る」(=死んだふりをやめる)ところが情けなさすぎて面白い。

では、前回からのつづき。

江戸前半は、徳川で一旦収まったがどうなるかわからない時代だった。

結果戦国時代に始まる chaotic な世に終止符を打つべく、家康の孫たち、すなわち家光が行政者として、保科正之と光圀が朱子学によって江戸のイデオロギーの骨格を形成した。

日本の構造および秩序は揺るぎない、と江戸人を丸め込んだわけである。

ただし幕府と天皇の間で事が起これば、正之は幕府、光圀は天皇、という結論を出したから、幕末、松平容保と徳川慶喜(水戸出身)がドラマの主人公になったわけだ。

おそらく政治とは、おそらくこのような理が明暗を分けるのだろう。

理が光圀にあることが江戸時代の日本人に浸透していなければ、鳥羽伏見などで、幕府軍が負けていたかどうか。。。

しかしその理は所詮日本国内にしか通じない義でしかなかった。それに気づいていたのは、福沢諭吉くらいだったかもしれない。

さて、今回の選挙には、前回の三難の認識がそのまま活きる。

歴史は、政治同様、社会をとらえることだからである。

ひとつめの、実録があるがためにみえなくなることとは、国民(個人)が国家と結びつくプロセスが現存する会社か地方しかないため、あとは弱者扱いで、組織としての国家の形成観にまで頭がまわらない。

ふたつめ。全体像の視点がない。日本国民の人口推移、年齢別、収入別、家族形成などで俯瞰すれば、インフラに使うべき種類と金額の根拠となって議論が展開するはずなのに、厳しい現実はみせないようにすることが意図なのか、一番厳しい質問は「その予算はどこから?」にとどまっている(GDP比150%の負債を抱え、一向に減らない国とは思えない)。

3つめ。日本人は信長か大久保か光圀らの責任かわからないが、朱子学的秩序気質から抜け出られていない。自恃がないことには致し方ない。

マニフェストと政策バンクは、1と3に言及がない(1は選択が難しいし、3はいいにくいだろう)が、竹中さんは逆に1と3しかない。

1は世界の情勢から選ぶ道はひとつしかなく、3は教育改革としていて、僕もそこに異論はないが、それらと2に対する具体案がない。

おそらくその理由は3つ考えられる。

ひとつは、政府の役割はInsitutionsをセッティングすることだけだと考えるためで、真の競争力は、援助のない状態(因果関係しかない状態)からでないと生まれないと考えている。

ふたつめは、自分がいっている理屈は当然のことなのに(上記1と3の認識がなければ始まらないのに)、現実の日本では可能にならないため思考が停止している(現に政治家がレベルアップする以外に手がないといっている)。

教育問題(自恃)については、英語、英語と騒いだり、就職への通過点としての 大学は単なるinstitution でしかなく、それを改善する手立てがみつからない(さすがに単なる因果関係のすっきりしたなどという構造改革だけの問題では済まされない)。

その上で政策バンクとマニフェストについて。

今回の選挙の争点は、「無駄をなくして必要なところに(インフラ)」で、比較しなければならないのは、何が無駄でどれが必要かである。したがってそれぞれの根拠が重要であるが、国家と世界の現状をみていないかみないようにしているため、根拠に言及がなく、ムダは官僚か官僚の一部、必要は弱者救済的福祉で終わっている。そんななか個人的に面白いと思ったのは、子供の養育援助が内需拡大策に繋がるという案。

つまり最終的なところで理を無視した神頼みなのである。

それは光圀らの仕事からも明らかだ。

彼らは皇室が不変であることをひとつの揺るぎない秩序の存在として受け取って義にまで高めたが、僕にいわせれば、最後の最後を神頼みにしたのである。

三難

2009-08-19 22:07:24 | 時事
郵政見直しが招く大損害:竹中平蔵(慶應義塾大学教授)(4)(Voice) - goo ニュース

民主党のマニフェスト自民党の政策バンクをみた。

後者はこれまでの議論を踏まえた技術的な対応、前者は、これが本当なら大助かり、というのが第1印象。

したがってそれぞれのキャッチフレーズ、「責任力」と「国民の生活が大事」は、的を得ていると感じた。

そして論点も明らかになってきた。

政府が要求されている仕事は結局のところインフラ整備である。

共同体が共同体として持続するのに必要なものを政府が供給・負担する。よいときもあれば悪いときもあるわけだから、そうした偶然の浮き沈みに左右されることなく、共同体として存続するためのインフラを恒久的な存在としての政府が請け負うわけだ。

竹中さんはそれを競争力をつけるための構造改革といっている。

つまり因果関係がすっきりしたInstitutionsをつくることだ。

それについてはこれまで書いてきたように異論はない、というより当たり前のことだ。

自らに才がないと思う人間が重要視すべきなのは、やはり因果関係、理であろう。

だから郵便局の民営化は、郵便局をすっきした因果関係のinstitution にすることである。

が、そうしたわかりやすい問題だけではない。

竹中さんは、ほかのひとよりは意見が合うのだがいつも反対したくなる理由が今日わかった。

竹中さんはみなが同意するところまでしか言及していない(それが学者というものだが)。

問題になるインフラ整備は、因果関係が計りにくいものである。

例えば道州制、中福祉・中負担、子供1人につき30万、必要な道路の建設、が本当に因果関係のあるInstitutionsになるのかは、意見がわかれる。

道州制だろうが県だろうが、こうした分類には必ずほろこびがでるし、中福祉・中負担は、国民が国家に求めるものなのか。それで果たして本当に国家足りえるのか、わからない。老後を守らないのにその国のために戦争に行くだろうか(僕は「命」と「生活」と「人生」をまとめて表わすことのできる life という単語が好きだが、それらは切っても切り離せないものだと思っている)。

そこで政治というそんな簡単に割り切れない問題を考えるにあたり、政治家や実務家の方々に思い出してもらいたい史実がある。

今日ははからずも徳川光圀が第2代水戸藩主になった日である(1661年)。

光圀も竹中さん同様「理」を重んじた。

『大日本史』を書くにあたって編集委員たちに訓戒のようなものをつくったのだが、そのなかに自分の意見がもし論駁された場合は、自分の意見には執着してはならない、という一節がある。

理で負けたら退けということだ。

といって光圀といえば他人のいうことなんか絶対聞かないヤツなわけだから、選りすぐりの編集委員さえ信じていなかったんだろうか、と思わず笑ってしまうわけだが、ただの理屈屋でないことは、彼だったか、編集委員が残した文章でわかる。

彼らは歴史という大きなうねりのようなものをまとめる大作業をする困難な点として、「三難」を挙げている。

ひとつは、各時代の歴史をあたるにあたって研究書を読むわけだが、その研究書があるために却って実は見えなくなるものがあることを覚えておこう。

ふたつめ。研究書のようなきちんとした記録がない場合は、どこの誰が書いたか分からないものを頼りにする以外にないわけだが、そのなかから真実を探すのが難しい。

みっつめ。結局各時代の背景を知らないとどうしようもない。

そしてこう結んでいる。

「この三難を知りて、その精力をつくす。なお及ばざるを怖る。あにゆるがせにすべけんや。しかもその要ふたつあり。むしろ繁なるも簡に失するなかれ、むしろ質なるも、文に過ぐるなかれ。」

全然理屈屋でないことはわかるだろう、このひとたちは理でわかることはすでに相手にしていない。むしろ以前書いたような意味での神秘主義者たちで、不可知なものを相手にしている認識を深く抱いている。

そうした理が最終的に義を尊ぶようになったろころに『大日本史』の価値があるのだろう。

(たぶんつづく)

Fallen Angel

2009-08-14 21:10:02 | 文学
お盆休みで、TVをつけていたら、のりピーの話ばっかりだった。

選挙まであと二週間ほどだし、どこかの番組で、自民・民主のマニフェストを総括していてくれればありがたいと思ってみていたが、もうかれこれ一週間ほど同じ話ばかりみているような気がした。

きっと視聴率がとれるのだろう。

もしくは選挙のことなど既得権益者たちは愚民たちに関心など持ってほしくないのかもしれない。

既得権益者たちにとっては現状維持が一番いい。

とはいえ「視聴率がとれるから」を理由と考えてすすめたい。

Fallen Angel にしても羽衣とられた天女にしても、地上人にかなりの慰めを与えてくれるということだ。

やっぱりのりピーはちゃんとしたアイドル(=天使)だったのだ、と思った(僕が覚せい剤やってもメディアに取り上げられるはずがない)。

ただし僕までそういうヤカラと思われては迷惑千万、というわけで、各党のマニフェストをウェブで漁ることにした。

ちなみにイカトミはじめ羽衣を盗む人間がオレは嫌いだ。

自恃心がない人間の象徴に思えるからだ。

よく「人」という字は、ひとが助け合わねば生きていかれない存在であることを示しているという俗説を耳にするが、あれはただ「ひとが立っている」様を描写した象形文字で、本来自恃の方がよっぽど「人」に近いと思うがいかがか。

人間は確かに凡百の迷いのなかで他者を含む環境と調和(あるいは迎合)して生きているが、一方で自分の居場所をみつけそこに根を張る自恃がなければならない。

アイドルにしても覚せい剤にしてもそれらに依存するひとに自恃があるとは思えず好きではないが、それを繰り返しみる人間にもまた属したくなかった。

というのも、天女や「堕天使」の悲しみが無視されているように感じるからである。

「堕天使」本家といえば、Luciferである。

Blake がいっていたように、Milton の作品に出てくるLucifer は非難されるというよりは、苦悩の体現者で、同じ被創造物の人間に近い。

やめたほうがいいことはわかっているけど、やらずにいられない。

そうした葛藤に精神はおろか肉体まで引き裂かれそうになってるLucifer を描いた絵は(Blake が描いていたような気がするが定かでない)、忘れられない。

Luciferの身体の中で相反するものが激突し、当の本人が蝕まれ、身が朽ちていくのをどうすることもできないLucifer が描かれている。

少なくともそういう経験をした人間は軽々しくのりピーを笑えまいということだ。

学生の時分、僕の友人と知ることがどんなにつらいことであっても知るべきか、という話をしたことがあった。

彼は、どんなに苦しくても知るべきだといったが、僕はどちらかを選ぶことができなかった。

真偽のほどは定かではないが、僕の小・中学校の同級生の女の子が、高校の頃にぐれた挙句、シャブ漬けにされて行方不明になり、海辺だったかどこだったかに打ち上げられた、という話を思い出していたからだ。

その話を初めて聞いた僕は高校生で、愕然としたのを覚えている。

煙草や酒とはわけが違う覚せい剤を知って果たして知るべきといえるだろうか。

少なくとも僕は覚せい剤患者のドキュメンタリーをみて、自分の意志で断ち切ることができるとは思えなかった。

ところで大学院にいたとき恩師のひとりから、文学も麻薬のようなものだ、といわれた。

なぜ?という学生の目に、先生は何も応えず、ただ「やらなければよかったと思うときがある」とだけいわれて、授業内容に戻られたが、今ならよくわかる。

例えば先日乳がんで若くして亡くなる女性の映画をやっていた。

タイトルは知らないが、TVでドキュメンタリーをみたことがあったので、どういう話かは知っていて、職場でその話になり、僕にコメントが求められた。

「あれは文学としてはどうなんですか?」

僕は、みてないんだからそんな評価をする資格はないとお断りしたうえで、次のように答えた。

あれは文学ではなくて映画です。昔、映画にはみんなを惹きつける役者(美男・美女)がいなければ、といったひとがいたでしょう。あの実話の、若くて美しい乙女が、例えば僕と同じ顔をした女性だったら、映画にはならないでしょう。

あんなに若くて美しくて、しかも国分太一みたいな優しそうで素敵な男性がいて、本来なら薔薇色の人生がたっぷりと待っているのに病魔に蝕ばまれて、ということで悲劇になっています。

つまりあの悲劇を作り出しているのは、俗っぽくはあっても最上と思われる幸せが壊れるからです。

悲劇はそういうものではない。

文学における本当の悲劇というのは、僕と同じ顔の女性をしてあの映画をみて悲しいと思うどころかあんなに劇的な人生をうらやましいと思うようなひとに起こるものです。

それをあなたっ、。。。

ここまでまくしたてて失敗した、とまた思った。

僕に話を聞いていた女性事務員は、すでにうらめしそうな顔で僕をみていた(睨んでいた)。

きっとこれからの僕の印象は、「変わったひと」か「ひねくれ」になるのだろう。

後悔先に立たず、あとの祭りでピーヒャララである。

しかし僕はただのひねくれだが、文学は「ひねくれ」ではない。

こうした見方の正当性はきちんと理屈で説明されうる。

このブログにはすでに1回は書いたが、その回答を発見された方は僕のメールアドレスにどうぞ。

正解者の中から抽選で1名様に日影茶屋ご招待。

一流2

2009-08-11 21:11:01 | 料理
小さな子供がいることで鑑賞をあきらめていたことがふたつある。

いい音楽と美味いものである。

どちらも子供がいてはなかなか集中して味わえないと思っていた。

が、今日、葉山の日影茶屋で、そんなことはないことを教えられた。



上のナスを見立てた皿に、ナスとハモをくずに包んだものから始まったのだが、気も入っていて、思わず写真を撮るのを忘れて食べてしまったのが2品もあった。

それから清ましもよかった。



夏の演出として、写真にあるように透けて見える感じが今日の料理に統一感を与えていた。

最後のデザートもそんな感じだった。

 

食後、ここのところこうした洗練さにお目にかかっていなかったことに気づいた。

なかひがし瓢亭をはじめとする一流に触れると、船で普段は越えられない彼岸に達したような超然とした視点をいただける、そんな気がした。



次は音楽だ、と思った。

気の持ちよう13

2009-08-05 20:52:03 | 宗教
妻のマッサージをしていたとき、ある指圧師の言葉を思い出した。

本当のツボは身体にはない、2Mほど先にある、と書いていた。

もともと指圧にそれほどの関心はなかった。

数ヶ月前に知り合った温和な方の友人がその世界的に有名な指圧師ということだったので著作を手にすることになった。

読んでみて、2Mほど先にあるとはどういうことかはじめわからなかった。

ので、妻の身体で探ってみた。

僕は一応気功に偏っているのでマッサージのときも気功を本来は使う。

邪気の塊がある場合は、そこに気をぶつけてやると、カチカチだった邪気の塊がプヨプヨと呼応してくるので、そうなったらその塊を全身に拡散させてしまう、というのが僕のやり方である。

が、今回はそんなわけで、塊の淵源に気を針のようにして探ってみた。

すると、確かに2Mほど先までそれが続いていた。

驚いた。

追伸:これまでの「気のもちよう」123456789101112

Never Ending Story(加筆)

2009-08-04 23:04:24 | 宗教
オーガニックを否定した英政府論文に自然派が猛反発――ニュースな英語(gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース

僕は、経験も科学も信じない神秘主義者である。

ここでの「神秘主義」とは「合理主義」と同じである。

つまり世の中の出来事の背後にはきちんと辻褄があう合理性があると考える。

が、それが何かはわからない。

だから絶対神がいるとか、みな一元論とか結論を持ってきてはいけない。

そのため、科学ならとか、経験して知っているからとか、いずれにしても、浅薄にしかみえない。

Science はわかることを相手にしただけのことで、経験は各個人の過去に過ぎない。

大いに偏っている。

じゃ、どうする?

との問いには「文学」と答える。

単なるフィクションじゃないかっ、とバカにする方、それはJoseph Campbell がいう~だな、と予想する方、どちらも違う。

先日も今のような世の中で文学が何の役に立つんですか?と訊かれたが、僕は今こそじゃないですか?と問い返した(昨今こういう本当の意味の「教養」を知らないヤツが多すぎる、常識だろっ?)。

なぜか?

現在に限ったことではないが、生きていくのに自分のまわりのことを知らないわけにはいかない。

未来を切り開く道は多岐に渡り個人は絶えず軌道修正しながら良き道を選ぼうとする。

しかし判断基準となる周囲の情報の多くは、自分で経験できない。

中東やアフリカという言葉を知っている人間はいくらでもいるが、そこを経験したひとなど日本にはごくわずかだ。

Toyota の新しいリーダーがあまりよい印象は与えなかった(NYTimes)とか、Episcopal Church でGay がPriestに選ばれたとか(NYTimes)といったニュースは、当然自分で経験できない。

そこで文学力が生きてくる。

「実人生は未完の物語の主人公になることである」といったのはワタシであるが、それを描いているのが、Never Ending Storyで、はじめてみたとき僕のアイディアをぱくったな?と思った(そんなはずがないが)。

おそらくここで文学ではなく美術や音楽は?と問う方が出てこよう。

しかし残念ながらGayがPriestになったりToyotaの~ということを音楽や絵画では表わせない

ことはないかもしれないが、最終的に言葉に変換しなければ、現在の世界という物語にまとめることができない。

ちなみに、僕の知人に米を道楽でつくっているひとがいる。

道楽というのは、生活のためではなくお米のコンテストで優勝するためにつくっているということだが、彼いわく、糖度などの数字の上では毎年の優勝米をしのいでいるらしいが、実際のコンテストでは勝てないらしい。

文学は自ら経験のできぬものに思いを馳せる訓練である。

フルイ2

2009-08-03 20:13:01 | 将棋・スポーツ
経済のど素人だからいえるのだろうが、クルーグマンを読んで思うのは、どうしてあともう一歩踏み込まないのだろう、というところ。

NY Times で、金融機関へのボーナスを批判しておられるが、そうなることはここ にも書いたが、わかっていたことではないのか。

といって、クルーグマンのいう金融には公的資金という社会主義的でありながら競争を賞賛という主張を僕は矛盾とは思わない。

単に彼がいい損ねているだけだ。

つまり金の公共性と商品性を区別すべきというべきだった。

金の公共性は現実的に致し方ないわけだから社会主義的というか国家の指導の下に置かざるを得ない。しかし金融商品としての商売で失敗した場合は、彼ら自身に責任をとらせるしかない。

もちろんこれまでの成り行きでその区別が難しい場合もあるし、現実に公共性を重視するにもそれなりの経験と準備が必要で、都民銀行はその失敗例として記憶に新しい。

とりあえず失敗した金融会社社員は、現実的には失業してもらうか、国が国有化して公務員扱いにするかを選択させるか、清算したのち、他会社に買わせるか、すべきだった。

それからもうひとつ提言したいのはいい加減間伐的政策はやめてほしい。

間伐は結局既存の大木を延命させることにしか貢献しない。

むしろ無策なら間伐もしない方がましだ。

もちろんそれは筋論だというひともいよう。

が、まず筋がなくてどうする?

では現実的には何を?という問いには、僕は低金利を解除すべき、と応える。

経済のドドド素人だな、といわれそうだが、あれは金本来の良き流動性を消滅させる愚策で、間伐以外の意味を持たない。

むしろ現実に商品の買い手と売り手にとってはそれをテコにした交渉が可能になる。

「間伐」主義とは結局大企業重視だが、それがあまりに極端で、雑草を死滅させている。

Unstable な時代に必要なのは、その波にのる力だ。

こういってもいい、自由資本主義というなら、もっと野放図に、公正にフルイにかけよ、と。