学生の時分に買ったステレオだからか、一ヶ月前くらいから音がでなくなった。
そのため娘に音楽を聴かせることができない。
といって家にあるほかの再生機では音質が悪すぎる。
ちょうど大学生のときに交通事故で入院していたとき、松田聖子の作詞・作曲を手がけるMさんのツーリング仲間がいて、そのひとからいろいろ指南を受けて選んだ逸品だけに、どうしても比べると差が出てしまう。
たまに間違って音が出ると、Kieth Jarret が来日?と錯覚させられるほどだ。
というわけで、新しく買い換えるにはかなり大幅な予算編成が余儀なくされることもあり(というより我が家の大蔵大臣にそんな申請をするなんて考えただけでもぞっとするが)、The Sound of Music という映画をDVDでみせた。
Totoro や三谷たくみほどの印象はないようだったが、こっちの予想通り音楽には関心を持ってくれたらしく、「ドレミの歌」は、「ミ」と短縮して催促するようになった。
もちろんRay Charles のときと同様ドレミの歌を聴くときは、僕に抱かれる(僕が熱唱し、かつ踊るからである、なんやかんやいって音楽はライブが一番なわけだから音楽を聞かせるときは可能な限り熱唱し舞踊する)。
が、今日は娘が早く寝付いたこともあって、いつもはみる時間のなかった特典版をみた。
恥ずかしながら「ドレミの歌」も「エーデルワイス」もこの映画のために作られた曲だとはじめて知った(何世紀も歌い続けられてきた曲だと思っていた)。
この映画は、そうした音楽の素晴らしさや、景色の美しさ、ジュリー・アンドリュースの魅力ほか語りつくせぬ魅力のつまったキャノンだが、今日感動したのは出演者の言葉。
上演後40年経った彼らは、おじさん、おばさん、おばあさん、おじいさんだが、映画のなかで長男役を演じていた男性が次のようなことをいった。
この映画によって責任を感じる、世界中のこれだけみられた映画であのような役をこなし、視聴者を裏切るようなこと(=「警察沙汰」)はできない、と。
どこかで聞いた風な言葉だが、なんだかこの映画に魅かれる理由が分かったような気がした。
人間が善良な気持ちで損得を考えずに暮らす状況があるとしたら家族しかないのじゃないか。
商売とか音楽とか戦争とかノーベル賞とか、世界の悪だけでなく美談も、メディアを介してニュースとして知らされるレベルの話は胡散臭い(もちろん全部ではない)が、ここにはそんな自然な善良さがある。
そうした単純さというか素朴さと、「ドレミの歌」はぴったりマッチしていた、なんといってもこの曲は、ドレミファソラシドしか、音階を使わないのだ。
繰り返しだがこの映画には、ジュリー、音楽、風景の美しさなど、称えられる魅力はたくさんあるが、それらを魅力にしているのは、素朴な、特別ではない、「善良さ」などという言葉をあてたら逆になくなってしまうような(=だからこそなかなか視聴者は気づかないが)人間が肉親に対してもつ慈しみの結晶ではないか、と思った。
そのため娘に音楽を聴かせることができない。
といって家にあるほかの再生機では音質が悪すぎる。
ちょうど大学生のときに交通事故で入院していたとき、松田聖子の作詞・作曲を手がけるMさんのツーリング仲間がいて、そのひとからいろいろ指南を受けて選んだ逸品だけに、どうしても比べると差が出てしまう。
たまに間違って音が出ると、Kieth Jarret が来日?と錯覚させられるほどだ。
というわけで、新しく買い換えるにはかなり大幅な予算編成が余儀なくされることもあり(というより我が家の大蔵大臣にそんな申請をするなんて考えただけでもぞっとするが)、The Sound of Music という映画をDVDでみせた。
Totoro や三谷たくみほどの印象はないようだったが、こっちの予想通り音楽には関心を持ってくれたらしく、「ドレミの歌」は、「ミ」と短縮して催促するようになった。
もちろんRay Charles のときと同様ドレミの歌を聴くときは、僕に抱かれる(僕が熱唱し、かつ踊るからである、なんやかんやいって音楽はライブが一番なわけだから音楽を聞かせるときは可能な限り熱唱し舞踊する)。
が、今日は娘が早く寝付いたこともあって、いつもはみる時間のなかった特典版をみた。
恥ずかしながら「ドレミの歌」も「エーデルワイス」もこの映画のために作られた曲だとはじめて知った(何世紀も歌い続けられてきた曲だと思っていた)。
この映画は、そうした音楽の素晴らしさや、景色の美しさ、ジュリー・アンドリュースの魅力ほか語りつくせぬ魅力のつまったキャノンだが、今日感動したのは出演者の言葉。
上演後40年経った彼らは、おじさん、おばさん、おばあさん、おじいさんだが、映画のなかで長男役を演じていた男性が次のようなことをいった。
この映画によって責任を感じる、世界中のこれだけみられた映画であのような役をこなし、視聴者を裏切るようなこと(=「警察沙汰」)はできない、と。
どこかで聞いた風な言葉だが、なんだかこの映画に魅かれる理由が分かったような気がした。
人間が善良な気持ちで損得を考えずに暮らす状況があるとしたら家族しかないのじゃないか。
商売とか音楽とか戦争とかノーベル賞とか、世界の悪だけでなく美談も、メディアを介してニュースとして知らされるレベルの話は胡散臭い(もちろん全部ではない)が、ここにはそんな自然な善良さがある。
そうした単純さというか素朴さと、「ドレミの歌」はぴったりマッチしていた、なんといってもこの曲は、ドレミファソラシドしか、音階を使わないのだ。
繰り返しだがこの映画には、ジュリー、音楽、風景の美しさなど、称えられる魅力はたくさんあるが、それらを魅力にしているのは、素朴な、特別ではない、「善良さ」などという言葉をあてたら逆になくなってしまうような(=だからこそなかなか視聴者は気づかないが)人間が肉親に対してもつ慈しみの結晶ではないか、と思った。