雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

僅差

2008-02-29 23:55:44 | 時事
さっきなんとか証券のCMをみていて、押切もえと海老ちゃんの差がわからないと思ったが、よく考えたら、オレと反町隆史に大して差がないのと同じことだ。

そうするってぇと、100人に1人がアメリカ全土の富のほとんどを吸い上げて、更に100人に1人が監獄にいる国(NY Times)と、総人口2300万のうち朝鮮労働党に入っている300万人くらいがそれなりの生活をして、そのほかは物資が足りなくて大変な国も、大して差がないんだろう。

NYPが北朝鮮に行ってなにかイヤミのひとつくらいいいたくなった。

追伸:NYPが来て外国からお客さんが来るってんで、一生懸命とりつくろったけど、ほころびがみえみえの北朝鮮(Washingtonpost)。

返り咲き

2008-02-29 08:59:43 | 将棋・スポーツ
今年に入って将棋ソフト(AI将棋)との対戦はずっと負けていた。

あのときの千葉さんのように、目の前の駒ではなくデータや型だけをみて、なんとなくこんな感じならいいだろう、と指していたからだ。

その結果11連敗で降格が続き、2級にまでなった。

がっ、このたび初段まで返り咲いた。

なんとなく指しているとみえてこない勝負どころにきちんと対応してその勝負どころを制したため、2月は14勝2敗だったからだ。

勝負どころの面白さは、個々の駒の大きさ(大事さ)に関係なく、全体の趨勢を圧倒的優勢に持っていくところ。

さて今年の順位戦もいよいよ大詰め。

最終九回戦を残す段階で、羽生と三浦がA級1位すなわち、名人位挑戦権を得る可能性がある。

希望としては羽生の返り咲き。

いずれにしろもう森内は引きずりおろしてほしい。



鎌倉ふたたび

2008-02-29 00:03:13 | 歴史
最近めっきり時事問題やアメリカに関して書かなくなったのは、時間がないからだけではない(イイワケ?)。

ああいう問題が一考する価値があるようには思われない。

米大統領選は、黒人男性対白人女性(Bostonglobe)という完全なBradly Effect状態(問題の本質ではなくStereotypeに依存して大衆が物事を決めること)だし、東国原知事のいう地方重視路線は結局中央と地方という旧システムの温存にしかつながらないし、新銀行東京への再投資は世界規模の競争社会というものの過小評価で石原都知事はついに10年後に批判される材料をつくってしまったと思う。

待っているのは先細り、「飢え」だ。

なんというか5年先さえみていない気がする。少しはみてるなと思えるのは丹羽さんと太田大臣、と御手洗さんぐらいだろうか(ただしみてるだけだ)。竹中、木村ペアは日本全体の再生プランには完全には使えない(政府系ファンドの頭にすべき)。大江さんが60年代の日本を「多頭の蛇」といったことがあったが、それは今も変わっていないと思う。

同じ頃そうした自覚はアメリカにもあった。

Steinbeck の旅行記には、アメリカ国民が先のみえない宙ぶらりん状態にいることが描かれ、また国民がそれを自覚していたことまでが記されていた。

Mailer も独特なやり方でそれを綴った。かつては美女だったアメリカを監獄に繋がれた癩病持ちで陣痛が始まっている女性として描いていた。いびつなアメリカの変化が urgent であることを表わしたパラダイムチェンジメタファーである。

その後のアメリカはパラダイムシフトする機会はなく、日本同様「多頭の蛇」で冷戦に手足をしばられた格好になり、ふたごの赤字を生み出した(その補填は日本がした)。Mailer はその縛りがわかっていたから、冷戦をやめるように、いっていた。

やめるとは単なる平和主義ではなく、自国の安全の境界線を見定めよ、ということだった。

<冷戦を終結せよ。我々の境界を、我々が防衛することが出来るところまで、防衛されることを願う線まで、後退せよ。共産主義は来たい国へ来させよ。貧困で、未開発で、ただわれわれに対するどん底からの憎悪によってだけわれわれに結びついている国民にしがみつこうとして、我々の本質を使い果たすことはやめよう。>

では僕らの本質はどこに使い果たせばいいのだろう。

Mailer は18世紀のひとたちと同じように自然からの逸脱を原因に挙げていたが、ぼくはそれはまやかしだと思う。レスリー・スティーブンかなんかが書いていたが、自然という言葉自体が自らのある種の理想像を虚構化したものにほかならない。

前回も書いたように人間の限られた視界と知性で自らの道を切り開いていくことが自然なのだ。

しかし何の力もない、浅学非才の一庶民である僕に何ができる?

逃げる、しかない。

鎌倉というか平安後期や、60年代のポスト構造主義のように。

追伸1:Kenya にいる、Obama の祖母の暮らし(NY Times)。

追伸2:第69875回Bruckner Symphony No.8選手権 ①ベイヌム ②ヴァント ③クナ

Supernatural

2008-02-27 00:15:44 | 宗教
Intellect という言葉がある。適否を判断する力のことである。

人間が自らの種族の適否を問い、否と認識したのは、18世紀の産業革命以降ではないかと思う。

今念頭にあるのは、Alexander Pope の『人間論』である。

人間にとって善なることが他の種族には悪になることをみつめているところからみても人類の置かれた階級をみつめている。

つまり「Nature」という言葉の解釈ふたつがクローズアップされた。

「本性」という意味と、「大自然」という意味での「Nature」である。

日本の場合1830年以降であることを考えると、産業革命がその境界線であろうが、牧歌的な自然に人間が理想郷をみたことは想像に難くない。

William Cooper の「田舎は神、町は人間がつくったもの」といった詩句には、人間の「逸脱」への認識が顕れていよう。

しかし人間の本性によってこうした経緯をたどってきたわけだから、人間の種としての適否を考えるようになったわけだ。

そしてルソーはその逸脱の淵源を『人間不平等起源論』のなかで次のように書いた。

「土地に囲いをして、「これはオレのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるようなごく単純な人々を見出した最初のものが政治社会の真の建設者だった。杭を抜き、あるいは溝を埋めながら、「こんなペテン師のいうことなんかきいてはならない。果実は万人のものであり、土地はなんびとの物でもないことを忘れるなら、それこそ諸君の身の破滅だ」とその同胞に向かって絶叫したものがあったとしたら、そのひとは、いかに多くの犯罪と戦争と殺人から、又以下に多くの悲惨と恐怖から人類を免れさせてやれたことだろう」

こういう淵源の自覚は現在でも古いものではない。

例えば沢木耕太郎の『人の砂漠』に女性囚人の話があったが、そこでも人間の社会生活上の所有に諸悪の根源を置いていた。

そう、話を公平な富の分配に持って行きたいのである。

近く引っ越すので処分する本を選択していたとき、ベイーユが亡くなった年に書いた論文集、Oppression and Liberty をみつけた。

Marxism なんて今じゃモトモコモないが、ベイーユ Simon Weil は司馬遷(司馬さんの間違いではない)のようにMarx のいわんとしていることを解説してみせようとしたように思う。

つまりMarx は、プロレタリア、弱者としての大衆が力を持ったからといって本当に理想的な社会が達成されるとは思っていなかった。つまり階層の問題ではなく、本当に必要なのはJustice で、しかもある限られた人々の魂にしか宿らないと、知っていた、とベイーユはいうのだ。

なんだかこういう理想論を掲げることがこっぱずかしくなるような世の中で、更にこれからコッパズカシイことをベイーユの言をかりて書くのだが、ベイーユは、そうした理想郷に必要な力は現実世界ではなく、supernatural なものとしてMarx は認識して書いていた、といっている(今から60年前に)。

『老子』に、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」というのがあるが、つまり「自ずから然り」の自然を逸脱するところにMarx は可能性を見出していた、ということだ。

最近ずっとほうれん草のおひたしを湯斗のご主人に習って練習しているのだが、おひたしひとつでこんなに「技術」がものをいうとは思わなかった。

日本料理には、「割主烹従」という言葉があり、もともとは手を加えないもの(自然)を重視しつつ、実は「加えないものの良さ」を滲み出させる火を使う。

その火の技術による Supernatural にJusticeをみたように思った(ちなみにJusticeとは「目的に適う基準にある」意である)。

追伸:NY Phil のNorth Koreans(NYTimes)。

悲喜劇

2008-02-25 09:21:43 | 文学
ヴァレンタインでもらったチョコレートを食べた。

これをくれた女性はくれるとき、「これは義理ですから」といった。

そんなこといわなくてもチョコレートをみればわかった。

なんというかその、独特な荒廃ぶり(強風に2時間ほど吹きさらされていたような)がそのチョコレートにはあった。

しかしもらえたたったひとつのチョコだから大事に食べた。

<好評(?)のジョーク集>
砂漠錯覚昼下がりの情事中身だけの男差別か区別か絵心くしゃみを我慢するとどうなるか知ってますか?、To Be or Not to Be 23幸福の木鏡の中のヨン様じゃじゃ馬ならし聖夜12初笑い、Shocking123456

健全

2008-02-23 00:23:43 | 音楽
人のセックスを笑うな』を観に行った。

タイトルに惹かれたからだけではない。

理由はほかに、1)永作なんとかと蒼井優(今日食事をした乙女は蒼井優似だった)、松山ケンイチという以下の物語に合わせたキャスト、2)永作扮する39歳の美術の講師ユリの魅力に参ってしまう大学生松山というストーリー、3)上記の公式ウェブサイトをクリックすると聞こえてくるテーマ音楽が catchy、などがあった。

しかし実際にみて、ひとつひとつの画は凝っているのはよくわかったが、とても合格点をつけられないと思った。

なんといっても主題であるはずの永作に松山が魅かれることの reality が描かれていないからだと思う。もともと僕が好きな永作を選んだところにセンスを感じていたから余計失望感が大きかったのかもしれない。

そんなわけで鑑賞後なぜ僕はこうした consumer goods としての映画をみる気になったのか自問しなくてはならなくなった。

そうすると、1月初旬の余裕がなかったとき(結局同病院の違う医師が誤診を認めた、しかしコメント欄にも書いたようにこの誤診は医学の限界だったと思う、通常診断を下す際の3つの条件のうち、2つに赤信号がともったのだから)までさかのぼることになる。

病院から帰る車の中で、年末に買っておいた山下洋輔のピアノ協奏曲「エンカウンター」を聴いた。そのとき、なんというか、自分の余裕のなさを思い知らされた気がした。

山下というと誰かがヘタクソといってからみな鸚鵡返しにそういうがそれだけでは片付けられない。

Art が、人間が普遍性を獲得しようとした(なりゆきでそうなったものも含む)結晶で、相容れないものの共存から生まれるとすると、山下もやはりそういうものだと思う(キアズマよりよかったかも)。

ただその振幅を受けとめる度量の大きさなどによって共感するかどうかは差が出てくる。その相容れないものが共存するということは、そのマイナス面から引き起こされる感情(=不安、不信、精神性)が回復されて結晶化されたものがArt だということだから、不安の大きさが足りなかったり、どちらか一方しかみつめていないと共感を呼ばないということだ。

僕の場合その不安が大きければ大きいほど、つまり立ち直れないようなのこそが好きな芸術作品ということになるから(FaulknerやHesseもそうだったが、そうでなければ精神性は高まらないと思う)、つい回復しえないものばかりみて、不安のなかに止まってしまうことがあるので、山下のエンカウンターはそんな自分を発見させてくれたわけだ。

更に今年のウィーンフィルの New Year Concert もよかった。遊び心があって、聴いているだけで楽しくなる。

不安や不信はみつめて回復すればいいが、そうならないと、陰気でしょうがないから、ということを教えてくれたわけだ。

そういえば、昨年暮れある乙女に「あなたにヘッセを教わってそれが今の私のすべてになっています」といわれた。

教えたつもりは毛頭なかったが、今は後悔している。

ヘッセみたいのが好きになると現実世界には適応しにくくなると思うし、こういうものはなくて済ませられるひとには知らないままの方がいい(以前ある乙女を断ち切った理由のひとつもそれだった)。

にもかかわらず将来のある乙女にそれを軽はずみに伝えてしまった(このを言葉遊びの例として紹介したら彼女はどんどんのめりこんでいった)。

もっと軽く健全に、それが今年のテーマである。

追伸1:アメリカの音楽

追伸2:松山ケンイチの演技は、数日前みた、『L Change the World 』のときより等身大だった。以前あるひとに、「Stone さんって、松山ケンイチに似てますよね」といわれて一瞬喜んだが、そのあと「っていうか、Death Note のLと髪型が同じです」といわれた。それはただ髪型が似てるだけじゃないかっ。

室町ふたたび17

2008-02-17 00:11:55 | 宗教
Washingtonpost によると、Southern Baptist Church などの既存の宗派内の人種別割合が変動しているらしい。

SBCといえば、1845年に奴隷制度を支持する denomination として誕生し、白人しかいなかったが、1995年にそうした前歴を公式に謝罪し、現在では、African American Preachers がいる。

こうした教会史は、アメリカ史を整理する視点として十分考慮しうるものだと思う。

もとよりこの国は、王や貴族が存在したことがなく、封建制さえ経験せずに、いきなり民主主義を標榜して始まっているが、南北戦争までその問題点を肌で感じることはなかった。

早速区分してみると、まず17世紀前半のいわゆるPilgrim Fathersの時期、続いてMethodists たちの18世紀、そしてアメリカがアメリカの道を歩み始めたWestward Movement の時期、最後が19世紀後半の人種差別が教会を二分した時期、の4つである。

Pilgrim Fathers がなければあの理想主義はなかったろうし(その他は「民主主義という宗教」参照)、Methodist期 がなければこれほど理性重視はなかったろうし、Westward Movement 期の野外礼拝がなければ公意識は根付かなかったろうし、人種差別が教会に持ち込まれなければ、アメリカの20世紀である、西洋とアンチ西洋の弁証法はしっかりと出来上がらなかったろう。

そして昨今の教会に関係する現状が顕しているのは、Inclusive に尽きるのではなかろうか。

つまりPostmodernism を援用したFeminists たちの、特にHaraway の主唱した方法で、協同するための手続きである。

こうなってくると当然既存の宗教色は消え、少なくともChristianity はアメリカでは良心と理性の象徴になって、それによる超然とした視点が生まれる。

それは、Jesus in 2008 で真っ先に論じられる議題が、Community and Capitalism であることからもわかる。つまり公正な富の分配をどうするかをひとつのコミュニティとして考えるということだ。

一方日本はどうだ。

相変わらず自分の立場を超えた議論はない(前々総理の懐刀はそれでいいと言い放った)。

例えばある男が妻を殺し、次男の両腕を切断して自殺したなどという家庭内での殺傷事件がこれでもかと起こっているのに、ある知事はパフォーマンスのためにNHKに怒り、ある知事は自分の県のセールスマンだけをやり(自分の県の財源が確保されればどこからとってもいいのか)、国会議員は成人は18か20歳でもめている。

ここ数年家庭内での数々の事件は、鬱屈としたものの暴発事件=ブルースで日本を取り巻く経済状況から生まれている。ひとつのコミュニティなら当然憂うべきことなのに悲しむことはおろか一連の事件に関連性もみず、ただ原因の分からない一事件ととしてやりすごしていくメディアや行政府に存在意義などない。

追伸:これまでの「室町ふたたび」12345678910111213141516

Shocking 6

2008-02-12 20:42:06 | 雑談(ジョーク)
生まれてはじめて霜焼けになった。

「これが噂にしか聞いたことのない霜焼けかぁ、いつも流行遅れといわれてきたが、マジメに生きてればいつか霜焼けにだってなれるんだ」(なんのこっちゃ)

と思い、折角だから霜焼けのカラクリを知っておこうとウェブで調べてみた。

すると、

「暖房器具が発達した今日ではほとんどない」

とあった。

やっぱり流行遅れだった。

追伸:これまでのShocking12345

エニグマのKey

2008-02-07 12:13:00 | 文学
中国国営テレビ、ギョーザ中毒事件を初詳報(朝日新聞) - goo ニュース

これだけ経済圏が広がると、決定的な把捉はかなり困難で、数々のほころびの可能性を指摘し、ほとんどのことを不明にすることの方が容易である。

Chinadaily によると、日本政府が正式に認定した餃子で体調がおかしいひとは、「10人のまま」だそうだ(日本の厚生省でもそうだが)。

薬害にしても添加物にしても、「科学的に診断」しようとすれば、原因をひとつに絞り込むのは難しい。

あらゆる可能性をつぶしていかなければならないからだ。

そこで思い出したのが、独逸で1918年に生まれた暗号システムのエニグマ。

このシステムの強みは、まさに可能性をつぶしていく数が多すぎることにある(Key だけで1京を超える)。

具体的にいうと、Reflector からPlugboard の間にScrambler が3つもあって、そのScrambler が一文字打つごとにKeys を変化させるからそのようになる。

ただし面白いのはそれを使うのが人間だという点。

エニグマは、ポーランドの暗号局「ビュロ・シフルフ」に解読されるが、それは可能性の全てをつぶせるようになったからではなく、人間という不可知で制限のある生物が使っていたからだ。

まずエニグマをつくった人間たちは結局商売をしようとしていたから、世界中に売ったため、エニグマのシステムは世界にばれていた。

もちろんエニグマを作ったシェルビウスはシステムがわかっても解読できないことを念頭にばらまいていた(売りさばいていた)わけだから、それはいいのだが、Scrambler の配列順序と最初のKey がわかれば、いとも簡単にエニグマは解読され、暗号機の性能とは別の次元で暗号が解読されてしまうのである。日本の暗号パープルもそうだったが、エニグマも暗号機として健全に使われていれば結局ばれることはなかったのだ。

独逸の場合は、エニグマを使うとき、世界中のひとがそうするように他人との挨拶を天気の話題から始めるクセがあって、wetter という単語がねらわれた。そしてエニグマが出回っていたため、3台を組み合わせて正誤表をつくり、更にそれを60組用意することで調べなければならない確率が爆発的に減少した(詳しくはS・シンの『暗号解読』参照)。

技術的には言語学と数学の組み合わせで解けたことになる(解読した中心メンバーはドイツ語のわかる数学者だった)が、今回エニグマ解読のKey とみたいのは、それらじゃなく「逆境」である。

まずポーランドの置かれた状況はご存知のように旧ソ連と独逸に引き裂かれ、日本以上に切羽詰っていた。

だからエニグマをほぼ解読したあと、その情報をイギリスに開示して、必要な金と人員をGet し、気の遠くなるような組み合わせを解読した。

つまり「異例」の対策を講じたのだ。

国家というのはある制度化されたシステムだから1度確立されてしまうとそのシステム自体が変わらない。本来は、国民の安全を守るためにも、時々刻々と変化する現実に対応するために変幻自在でなければならないわけだが、起こりにくい。

しかしポーランドは違った。国の逆境をみて、いち早く暗号解読チームをつくらせた。

中国が怖いのは、中国が国家ではなく一企業であることだ。そしてその形態は中国自身の逆境の認識に始まっていると思う。

そして日本が怖いのは、日本にそういう認識がないこと。エリートは非エリートに対しているだけであって、日本という企業を引っ張る視点がない(もう国家としては十分逆境にいるのに)。もちろん企業それぞれが頑張ることは自由競争でそれに国家が介入するのはよくないが、そういう意味ではなく、高次元で戦略化していくシステムは国の中枢につくられなければならない。世界に「オリンピック延期の選択肢」ぐらいいっていい。

ちなみにアメリカの戦時中の暗号はナヴァホ族の言語を採用したもの。

追伸:王将戦は、羽生2勝。久保八段どうする(毎日新聞)?

クネヒトの手書きの訳文

2008-02-05 23:58:29 | 文学
今みんなに聴かせたいと感じてる言葉。

「・・・なぜならば、ある点においては、そして浅薄な人々にとっては、存在する事物よりも、存在しない事物を言葉によって表現することの方が、容易に、無責任にできるかもしれないが、敬虔で良心的な歴史家にとっては、まさにその反対である。すなわちその存在が証明されえず、本当らしくもないが、敬虔で良心的な人々が、いわば存在するものとして取り扱うというまさにそのことによって、存在に生誕の可能性に一歩近づけられるような事物ほど、言葉による表現が難しいものはなく、それでいて人々にはっきりと示してやる必要のあるものはない。」(ヨーゼフ・クネヒト)