Intellect という言葉がある。適否を判断する力のことである。
人間が自らの種族の適否を問い、否と認識したのは、18世紀の産業革命以降ではないかと思う。
今念頭にあるのは、Alexander Pope の『人間論』である。
人間にとって善なることが他の種族には悪になることをみつめているところからみても人類の置かれた階級をみつめている。
つまり「Nature」という言葉の解釈ふたつがクローズアップされた。
「本性」という意味と、「大自然」という意味での「Nature」である。
日本の場合1830年以降であることを考えると、産業革命がその境界線であろうが、牧歌的な自然に人間が理想郷をみたことは想像に難くない。
William Cooper の「田舎は神、町は人間がつくったもの」といった詩句には、人間の「逸脱」への認識が顕れていよう。
しかし人間の本性によってこうした経緯をたどってきたわけだから、人間の種としての適否を考えるようになったわけだ。
そしてルソーはその逸脱の淵源を『人間不平等起源論』のなかで次のように書いた。
「土地に囲いをして、「これはオレのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるようなごく単純な人々を見出した最初のものが政治社会の真の建設者だった。杭を抜き、あるいは溝を埋めながら、「こんなペテン師のいうことなんかきいてはならない。果実は万人のものであり、土地はなんびとの物でもないことを忘れるなら、それこそ諸君の身の破滅だ」とその同胞に向かって絶叫したものがあったとしたら、そのひとは、いかに多くの犯罪と戦争と殺人から、又以下に多くの悲惨と恐怖から人類を免れさせてやれたことだろう」
こういう淵源の自覚は現在でも古いものではない。
例えば沢木耕太郎の『人の砂漠』に女性囚人の話があったが、そこでも人間の社会生活上の所有に諸悪の根源を置いていた。
そう、話を公平な富の分配に持って行きたいのである。
近く引っ越すので処分する本を選択していたとき、ベイーユが亡くなった年に書いた論文集、Oppression and Liberty をみつけた。
Marxism なんて今じゃモトモコモないが、ベイーユ Simon Weil は司馬遷(司馬さんの間違いではない)のようにMarx のいわんとしていることを解説してみせようとしたように思う。
つまりMarx は、プロレタリア、弱者としての大衆が力を持ったからといって本当に理想的な社会が達成されるとは思っていなかった。つまり階層の問題ではなく、本当に必要なのはJustice で、しかもある限られた人々の魂にしか宿らないと、知っていた、とベイーユはいうのだ。
なんだかこういう理想論を掲げることがこっぱずかしくなるような世の中で、更にこれからコッパズカシイことをベイーユの言をかりて書くのだが、ベイーユは、そうした理想郷に必要な力は現実世界ではなく、supernatural なものとしてMarx は認識して書いていた、といっている(今から60年前に)。
『老子』に、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」というのがあるが、つまり「自ずから然り」の自然を逸脱するところにMarx は可能性を見出していた、ということだ。
最近ずっとほうれん草のおひたしを湯斗のご主人に習って練習しているのだが、おひたしひとつでこんなに「技術」がものをいうとは思わなかった。
日本料理には、「割主烹従」という言葉があり、もともとは手を加えないもの(自然)を重視しつつ、実は「加えないものの良さ」を滲み出させる火を使う。
その火の技術による Supernatural にJusticeをみたように思った(ちなみにJusticeとは「目的に適う基準にある」意である)。
追伸:NY Phil のNorth Koreans(
NYTimes)。