読売・渡辺氏から大連立話=鳩山民主幹事長明かす (時事通信) - goo ニュース
毎日新聞の記者のこの記事もみたが、依然としてこの国には、主体としての国を考えて論じるひとがいない。
新聞記者はナベツネ批判のアゲアシトリで、政治は、与党と野党のゲーム対決だけで、あのときもこうやって失敗したんだろうな、とつくづく思った。
ところでPさんがある県で「9条を守る会」を発足させた。
その県にはすでに100近くそうした名前の団体があるのに作ったのは、闇雲に噛み合わない主義主張を唱えるのではなく、自衛と紛争の区別がつかない現実をまず論じようという意図かららしい。
この方は現実味のない思想を嫌うため、アドルノが好きではない(といって認めていないわけではない)。
アドルノは、主観と客観のハザマのどこかでいつも揺れていることを選び、それが現実には実施不能だからで、アドルノ自身もそれが現実に役立つとは考えていなかった。
その彼が学生運動かなんかで壇上に上がったとき、女性が出てきて、胸を露にアドルノにみせつけたことがある。現実を直視せよ、というわけだが、その数ヵ月後にアドルノは亡くなった。
僕はアドルノがいいたかったのは、つまり哲学者としての社会的役割を出ようとしなかったのは、留保する余裕のない状況では、暴力(ここでの「暴力」とは「根拠のない言動」の意)しか生まれない、と考えたからではないだろうか。アドルノが死んだのは、むしろその余裕のなさを憂いたからだと考えたいわけである。
その点、テロ特措法の継続に関する紛糾は面白い。この国はもともとテロや9条問題については、ほかの国々とは全く異なる次元で考えている。そのため世界に合わせようとすると、当然紛糾するわけだが、むしろそれが「素直に」出てきたために、思わぬ角度から物事をみる可能性が与えられた(用意された二択問題を解くだけでは本当に主体的な将来なんか来ない)。
もともと「阿弥」に書いた日本の理は、そうした第3の道を示すことなのである。
Washingtonpost のこの記事をみよ、福田総理の行き当たり場当たり的なコメントを載せたこの記事はそれ自体さえまとまりがなく、日本が実はほかの国とは違うCrossroadにいることをあぶりだしている。
日本が中東の Terrorists と戦うということは、殺し合いを覚悟するということであり、殺されることを覚悟することであるが、なぜそうするのかの因果関係にはいくつか脆弱なところがある(ひとことでいえばアメリカ追従になる)。日本が関係しているテロは、北朝鮮のかつてのテロ行為のオトシマエであり、現在の北朝鮮のテロ(武器で脅して金品を要求する=これをテロといわずして何をテロと呼ぶ?)は、日本を含めた、現在の国際社会の問題である。
この視点から照射すると、アメリカの対テロリスト対策には大きな矛盾がみえてくる(ここ参照)。
ここ最近民主党の支持率が落ちてきたのは、民主党が結局国内のみの議論しかせず、海外に展開することがなかったからだ。本来ならアメリカの民主党との連携が必要だったし、それはそれで建設的に日本の利が得られる道も模索される。
Said のコロンビア大学での講義ノートに、人間は crossroad にいるのではなく、それ自体というのがあった。つまり「最後の四辻」のことである。しかし国の四辻には、最後はあるべきではない。
したがってもっともっと紛糾せよといいたいところだが、いかんせん、国の中での立場でしか勝負が展開していないから、事態が遅々としてその辺がイライラする。
しかしそれがCrossroad。
追伸1:最高のスパイ、George Koval(NY Times)。
追伸2:51年前の今日、最高裁(米)で、Separate but Equal判決(「退行」、「にっちもさっちも2」)に違憲判決(NY Times)!
毎日新聞の記者のこの記事もみたが、依然としてこの国には、主体としての国を考えて論じるひとがいない。
新聞記者はナベツネ批判のアゲアシトリで、政治は、与党と野党のゲーム対決だけで、あのときもこうやって失敗したんだろうな、とつくづく思った。
ところでPさんがある県で「9条を守る会」を発足させた。
その県にはすでに100近くそうした名前の団体があるのに作ったのは、闇雲に噛み合わない主義主張を唱えるのではなく、自衛と紛争の区別がつかない現実をまず論じようという意図かららしい。
この方は現実味のない思想を嫌うため、アドルノが好きではない(といって認めていないわけではない)。
アドルノは、主観と客観のハザマのどこかでいつも揺れていることを選び、それが現実には実施不能だからで、アドルノ自身もそれが現実に役立つとは考えていなかった。
その彼が学生運動かなんかで壇上に上がったとき、女性が出てきて、胸を露にアドルノにみせつけたことがある。現実を直視せよ、というわけだが、その数ヵ月後にアドルノは亡くなった。
僕はアドルノがいいたかったのは、つまり哲学者としての社会的役割を出ようとしなかったのは、留保する余裕のない状況では、暴力(ここでの「暴力」とは「根拠のない言動」の意)しか生まれない、と考えたからではないだろうか。アドルノが死んだのは、むしろその余裕のなさを憂いたからだと考えたいわけである。
その点、テロ特措法の継続に関する紛糾は面白い。この国はもともとテロや9条問題については、ほかの国々とは全く異なる次元で考えている。そのため世界に合わせようとすると、当然紛糾するわけだが、むしろそれが「素直に」出てきたために、思わぬ角度から物事をみる可能性が与えられた(用意された二択問題を解くだけでは本当に主体的な将来なんか来ない)。
もともと「阿弥」に書いた日本の理は、そうした第3の道を示すことなのである。
Washingtonpost のこの記事をみよ、福田総理の行き当たり場当たり的なコメントを載せたこの記事はそれ自体さえまとまりがなく、日本が実はほかの国とは違うCrossroadにいることをあぶりだしている。
日本が中東の Terrorists と戦うということは、殺し合いを覚悟するということであり、殺されることを覚悟することであるが、なぜそうするのかの因果関係にはいくつか脆弱なところがある(ひとことでいえばアメリカ追従になる)。日本が関係しているテロは、北朝鮮のかつてのテロ行為のオトシマエであり、現在の北朝鮮のテロ(武器で脅して金品を要求する=これをテロといわずして何をテロと呼ぶ?)は、日本を含めた、現在の国際社会の問題である。
この視点から照射すると、アメリカの対テロリスト対策には大きな矛盾がみえてくる(ここ参照)。
ここ最近民主党の支持率が落ちてきたのは、民主党が結局国内のみの議論しかせず、海外に展開することがなかったからだ。本来ならアメリカの民主党との連携が必要だったし、それはそれで建設的に日本の利が得られる道も模索される。
Said のコロンビア大学での講義ノートに、人間は crossroad にいるのではなく、それ自体というのがあった。つまり「最後の四辻」のことである。しかし国の四辻には、最後はあるべきではない。
したがってもっともっと紛糾せよといいたいところだが、いかんせん、国の中での立場でしか勝負が展開していないから、事態が遅々としてその辺がイライラする。
しかしそれがCrossroad。
追伸1:最高のスパイ、George Koval(NY Times)。
追伸2:51年前の今日、最高裁(米)で、Separate but Equal判決(「退行」、「にっちもさっちも2」)に違憲判決(NY Times)!