雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Katrina 20: 残骸

2006-02-26 23:56:18 | アメリカ
今年のMardi Gras、Fat Tuesdayは、28日の火曜日である。ということは、先週の金曜日は、ダンス・パーティーがあるはずだった。しかしWashington Postによると、スポンサーのThe Bunch不在のため開催されなかった。The Bunch は、New Orleans Eastに暮らすアフリカ系アメリカ人の「ソーシャル・クラブ」で、メンバー44人中ニューオリンズにいるのはたった8名ということである。

そんなわけで予想通り、今年のMardis Grasはシケているらしい。例年なら1600万ドル、スーパーボールの数倍の金がNew Orleansに落ちるはずだが、NY Timesによると、例年の50から60%の金額になるという予想で、名だたるホテル(RitzやFairmount)もいまだClosed のままである。

もちろんあれほどの災害があったのだから仕方がない。が、いずれにせよ、もう僕が知っているNew Orleansはできあがりそうにない気がしてきた。New Orleansの魅力および伝統は、飛散してしまったアフリカ系アメリカ人の「ソーシャル・クラブ」によって出来上がっていたはずだからである。

最近は「ソーシャル・クラブ」という名で呼ばれてるらしいが、ジャズ史に関心がある僕にとっては、「秘密結社 secret society」の方がシックリくる。ヨーロッパの悪名高いのが連想されてしまうかもしれないが、渋澤龍彦が書いたような陰湿なものではない。

というより全く別物で、ヨーロッパの模倣ではなく、アフリカからアフリカ系アメリカ人が持ち込んだものである。New Orleansは、最初スペイン、続いてフランスの植民地なので、連れて来られたアフリカ人の出身は、ヨルバ族とダオメー族だが、それぞれアフリカでもそういうシステムで運営されていた。それぞれの言葉は、前者の「相互補助会」を「グベ」、後者のそれが「エスス」という。

あえて和訳すれば、「相互扶助会」とでもいおうか。メンバーにはいると就職の斡旋ほか、旦那さんが早くなくなるとその未亡人に生活費を出したり、事故に遭った方には見舞金を出したりする、とても平和な、理に叶ったグループである。あのルイ・アームストロングも「ピシアスの騎士」という秘密結社にいなければ成功したかどうか。。。

そしてこの「秘密結社」がNew Orleans文化および伝統の動脈になった。ご存知の通りNew Orleansはスペインの植民地として82年間、その後フランスの植民地として46年間、1803年からアメリカの一部になった。しかしNew Orleansは、そういう歴史を決める人々が暮らす地から距離があり、しっかり監督されていたわけではなく、少なくとも19世紀前半までは、いろいろな国の人々がそれぞれNew Orleans社会のなかでの役割を請け負ってうまくやっていた(スペイン系は小売業、フランス系は倉庫や店舗といった感じ)。

満州はあまりいい例ではないかもしれないが、自由な気風に移民が集まり、1776年に12000人しかいなかったNew Orleansは、1820年には200万人都市に膨れ上がる(Katrina被害を受けたあとの現在より多い)。そうしたいい意味で錯綜した街で暮らすクレオール(当時は黒人というレッテルではない)の秩序を裏で支えていたのが「秘密結社」だったといいたい。

そんな彼らにとって大事なことが、自分の所属する秘密結社のパワーをみせつけること。だからといって軍事力や金などという下世話なものでやるんじゃない。「見た目の派手さ、華やかさ」、これだけが唯一である(十分俗っぽいですね)。最高潮は、アフリカの宗教や伝統もあって、お葬式のお通夜にやってくる。大盤振る舞いのドンチャン騒ぎである(これはすごく日本のそれに似ています)。

更に、埋葬するための行列は、バンドを雇ってパレードをやる。そこで雇われたバンド音楽からジャズの基をなす音楽がかたどられる。当時クレオールに人種差別はなく、彼らはフランス系エリートだから、フランスで最高の音楽を学んで帰ってきた連中が、そのアフリカの伝統とをくっつけて、ジャズを生むわけである(ジャズの完成には、更にスパイスとしての人種差別が必要になる)。

このパレードは当然Mardis Grasのパレードにつながっている。Mardis GrasでKreweが最初にパレードをしたのが、1857年のことである。とにかく以前も紹介したようにその当時の「秘密結社」の名残が、ここぞとばかりに、Mardis Grasでそれぞれのグループの力をみせつけてきたわけだ(単なるみせびらかしの張り合いであっても!)。

しかしその彼らがいなくなった。ジャズを生んだ19世紀New Orleansの力(これはまさにアメリカのダイナミズムであるが)が消えてしまった。もちろんこの変化によってまた何かが新しく出来上がるのだろうが、ジャズを介してNew Orleansに触れてきた僕にとっては、現在のNew Orleansは、残骸にみえてしまう。

そういえば、1993年の今日、World Trade Centerがはじめてテロ攻撃をうけた。死者6名という惨事とはいえ、被害を比較的小さく抑えられたのは、日系2世のミノル・ヤマサキの設計にあると聞いて誇らしげになった覚えがあるが、2001年の9・11テロで、第1、2ビルは無残にもなくなってしまった。3年前にグランド・ゼロをみにいったが、そのときの残骸がなんとなく現在のNew Orleansと重なってしまった。。。

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UPDATE:Zuluのその後は、タイムズ・ピカユーンでどうぞ。

死刑執行延期

2006-02-25 23:27:44 | 時事
2月21日カリフォルニアで、ある囚人の死刑執行が無期延期になった。理由は、死刑執行に使われる薬物に問題があることがわかったからである。カリフォルニアでは、死刑執行に際し、3つの薬物が使われる。最初に、バルビツール酸系催眠鎮静薬で眠らせて無意識にし、あとのふたつで、筋肉を麻痺させて心臓を停止させる。大体7分ほどで死にいたらしめる。

しかし世界で最も権威のある医学雑誌のひとつ、The Lancet(2005年4月号)に掲載された論文に、その最初の薬が機能しないことがあることが書かれ、その場合には当然死刑囚が苦痛を受ける。この苦痛がいけないということになって、刑の執行には、医学のプロフェッショナルがつくことになったわけだが、このプロフェッショナルをカリフォルニア州がみつけていないため、延期になった。

じゃみつければということだがそうもいかない。医師には、ヒッポクラテスの宣誓というのがある。これは医師の倫理綱領で、そのなかに、医師の仕事はひとの命を助けることが仕事なのだから、その逆の手助けはできない、というのがある。しかも、Dr. Priscilla Rayというthe American Medical Association's Council on Ethical and Judicial Affairsの長が、いかなる状況でもこれは守らなければならないといっているから、医師が執行に手を貸す可能性はなくなり、「無期」とみなされたわけだ。

確かに医者の言い分はわかるが、そうするとどんなに残虐な殺人事件でも殺人者は生きながらえることになるではないか。この手の事件を見聞きするたびにいつも思うが、声なき被害者は、生きている人間の改心および回心の可能性のために、無視されることが妥当なのか。僕は絶対にそうは思わない。何が悲しいといって、被害者に罪がない場合、被害者にはいかなるやりなおしのチャンスも与えられないのに、殺人者には与えられることだ(終身刑だとしても悔恨することが出来る、被害者はできない)。それに医者にもいいたい、Townhallのこの記事の著者もいうように、それじゃ堕胎手術はどうするんだ?

そしてもっと重要なことは、この死刑囚、Michael Morales は残虐な殺人事件の殺人者らしいことだ。上記記事とWikipediaを元に、ざっと事件の概要を説明しよう。事件は、1981年に起こった。被害者は、Terri Lynn Winchell という女の子で当時17際だった。

Moralesは、いとこのRick OrtegaとWinchellとドライブした。MoralesとWinchellは初対面だったが、Ortegaが、Winchellの彼の友人だったから、Winchellは応じたらしい。親友へのプレゼントを買うためとかなんとか説得したとのことだ。Ortegaが運転し、Winchellが助手席、Moralesが後部座席にいた。

しばらくの間おしゃべりをしていたが、突然Ortegaが車を田舎道に入れた。するとMoralesが後部座席からその前の席にいるWinchellのクビをしめはじめた。彼女はもがき、Ortegaに助けを求めたが、Ortegaは助けずそのまま運転した。もとよりOrtegaの依頼した悪事らしい。

15秒後ベルトが壊れ、MoralesはハンマーでWinchellの頭を23回叩いた。彼女が気を失うと、Ortegaに「あっちにいけ」といって、その間にレイプし、そのあとまたOrtegaと一緒になってから、4回胸を刺した。頭部とこの胸の傷の両方が致命傷になった。彼女は、胸にナイフを突き刺された状態でみつかった。そして1981年1月、Moralesは死刑を宣告され、Ortegaは終身刑となった。

Moralesが他人に与えたこの凶行より、長くて7分間の苦しみは釣り合うのだろうか?

※Moralesが「殺人者らしい」とつけたのは、Moralesを死刑とした判事が「気が変わった」といっているためです。

UPDATE on March 1, 2006

《追加》
Townhallに同趣旨の記事あり。

競技か演技か?

2006-02-22 21:04:54 | 将棋・スポーツ
トリノ五輪女子フィギュア・スケート、ショートプログラムが昨日行われた。テレビ放映は夜半(朝方)だったのに、視聴率11%を超えたのはスゴイ。しかし彼女たちの演技はその視聴率に見合うものだった。競技者というより演技(表現)者で、誰が一番美しいかという勝負だった。そうなると、主観の問題になる。僕の主観では、順位は以下の通り。

1) コーエン(米)
2) 村主(日)

ここでかなりあいて、

3) 荒川(日)とスルツカヤ(ロ)

1位のコーエンと2位の村主は競技の域にいなかった。村主の表現(演技)力は「舞」であり聴衆を酔わせたが、コーエンの透き通る美しさが村主を上回った(タイプなのかな?)。

明後日が楽しみ。

UPDATED on 23:31

Cyborg の誕生

2006-02-20 23:43:51 | 時事
NY Timesによると、1962年の今日、ひとりのアメリカ人が地球を3回まわって(81,000マイル)戻ってきた。John H. Glenn Jr.(当時40歳)というひとで、4時間と56分かかって無事にこの偉業を達成した。

こうした60年代の宇宙競争から思い出すのは、冷戦やベトナム、数々の暗殺、あるいは『沈黙の春』だろうか。科学という諸刃の剣の暗い部分が暗躍した時代というイメージが中心のような気がする。しかし60年代の記憶がない僕には、「サイボーグ」が思い出されてしまう。

なぜなら人間が宇宙旅行することをまじめに想定し、そのための「生物学的進化」を模索した科学者が「サイボーグ作り」に着手したからである。上記暗黒面の事件とは正反対の、なんだかのうてんきな試みに微笑ましいものを感じてしまったからだ。

その科学者は、Manfred E. Clynes and Nathan S. Kline というNY州オレンジバーグにあるRockland State Hospitalの主任研究員。人間は酸素を取り込むことを動力に血液を体内にめぐらせていろいろな機能を持続的に活動させているが、この酸素を取り込むことに代わるものを埋め込もうというのが彼らの発案だった。そうすれば宇宙でも呼吸ができ、活動ができる。

つまり自律神経をつかさどるマシーンを挿入することが目的なのである。そのため「サイボーグ」という名になった。この語は、Cybernetic Organism からの合成語で、Cyberneticの方は神経を意味する。つまり自律神経を人工物で補った有機体ということであり、その意味で、戦前からSF小説に現われていたサイボーグとは強調点が異なるということだろう。

そして彼らは実際に白いネズミにそれを搭載させ、1960年のAstronaut9月号や数々の学会で発表し、新聞でも取り上げられた。写真があって、白いネズミの尻尾に装着する形で人工物がとりつけられており、一定の変化が起こると、自動的に薬が注入される仕組みのものだ。現在から見ると彼らが前提としていた人間の知識にはいろいろ間違いがあったらしいが、人間が自分の手で自らを進化させようとするという着想におそれいった。

人工心臓が可能な現在なら、彼らが考えていたことは実現されそうと素人なので考えてしまったが、70、80年代にさかんになったSF小説に描かれた脳神経とコンピューターとを繋ぐ現代の我々がイメージする(つまり『サイボーグ009』に出てくるような)サイボーグは、西垣通さんの『ペシミスティック・サイボーグ』によると、1994年現在では、実現の見込みはなかった。

その『ペシミスティック・サイボーグ』を読んだのが2000年前後で、その当時も不可能と考えられていたと記憶するが、現在はどうなのかわからない。とにかくなんだ無理なのかぁと思いつつ、なぜか僕の関心が、Manfred Clyne そのひとに向かってしまった。というのも面白いひとなのである。

面白い着想というのは、ひとつの分野にいては無理、とは、いろいろな方がおっしゃることだが、彼も例外ではない。1925年、オーストリアにエンジニア兼発明家の父と、アマチュアの歌手である母のもとに生まれ、特に母がいつも聴いていたマーラーとシューベルトが好きだったという。もちろん子供だったから母が弾くピアノの下に潜り込んでそれを聴いているだけだったが、特にマーラーのある曲が「自分の胸の中で、熱を発しているナイフ」のように感じられたそうな(僕はこう感じたことはない)。

1938年のときにウィーンからブタベストへ移る。ハンガリー語をマスターした頃、オーストラリアに移り、昼間は働き、夜職業訓練校に行った。13歳のときのことだ。そこで親父に頼み込んで普通の高校に1年行かしてもらい、そこから大学に入る。専攻は、父母の趣味をそのまま受け継いで、音楽とエンジニアと科学だった。こんなにたくさんの専攻がとれたのは、メルボルン大学の副学長が許可してくれたからだったが、お情けではなく、直感でわかったんだろう。ちなみにそれまでに前例はないそうな。

その後彼は音楽一本に絞ってジュリアード音楽院(アメリカ)に行ってマスターをとる。ソロピアニストとして活躍をはじめ、オーストラリアで最初のゴールドベルグ変奏曲を演奏者になったからすごい。それが1950年で、バッハがなくなってから200年祭の年だった。彼はピアニストとして主要都市で演奏活動をする。

その二年後フルブライトの資格をえて、勉強したくなったのが、音楽心理学(?)でプリンストン大学で教えながら勉強し、また、ヨーロッパを演奏旅行するピアニストもやるという2足の草鞋状態を続ける。その縁で、1953年には、アインシュタインと会う。アインシュタインの前でピアノを弾くために会ったのに、いつのまにか相対性理論などの議論をするようになる(彼は、信じてくれなくてもいいが、ホントだといっている)。

その秋には、ロンドンで、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールで演奏し、ヨーロッパの首都を演奏してまわるようになるが、1954年、アインシュタインとの議論がきっかけだろうか、科学、特にアナログ・コンピューターに関心が出始め、上述のロックランド・ステイト病院で医学的な調査を始める。そこで相棒Nathan Klineに会ったのが1955年。瞬く間に頭角を顕し、バイトで始めた仕事が、翌年には主任研究員に抜擢される。

ここからの説明は門外漢の僕には難しいが、生物学とコンピューターとが彼のなかで一体となり、1960年までには、Undirectional Rate Sensitivity を発見する。これは、情報を伝達するための生物学的なシステムのとても基本的な法則のことだが、コレに加えて8つぐらい新しい発見をして、その年に、A D. Scを獲得する(僕はとってないからわからないが、ドクターはドクター論文で取得するが、ある一定量のドクター論文クラスの発見がまとまっていなければゲットできない称号である)。そして身体の神経と電子経路による神経支配の研究にはいって、「サイボーグ」である。

すさまじいでしょ。

アメリカ保守5:アラモ再び?

2006-02-19 23:08:13 | 時事
Alamo(アラモ)といえば、1836年2月23日から10日あまり続いたテキサス独立戦争の舞台の僧院。メキシコ共和国が1824年に発効した憲法(みなが自由にやれることを保障した)によってアメリカやヨーロッパからメキシコにたくさん移民したが、メキシコは1835年にその憲法を改定。それほど自由ではなくなった。これに反抗したのが当時メキシコ共和国に属すテキサスに暮らすアメリカからの移民者を中心にした反乱軍。彼らは全滅したが、自由のための玉砕がそののちのテキサス独立、アメリカとメキシコの戦争に続いた意味で重要な歴史的な出来事である。

そのアラモのあったテキサスが最近またきな臭い。巨大な武器弾薬の貯蔵庫がみつかり、IED(Improvised Explosive Devices)2つを含む手榴弾や暗視狙撃用単眼鏡付き銃およびライフルが押収された。爆弾を作る工場があり、銃火器をつくるプラントが日常の仕事として稼動しているのなら、全アメリカ人が知っておくべきだというわけで、お馴染みのTownhallがテキサスで起こっている麻薬戦争とそれに対する政府の無対応ぶりを伝えている。

騒がれたのに今ひとつ報道されないのは、アルカイダのテロリストのアメリカ潜入にこの麻薬密売人たちが関わっている疑いがあったが、結局イラクとの明白な関連は認められなかったからだろう。しかしメキシコ軍もしくは警察、麻薬密売人などが国境を越えてアメリカに入っているのは確からしい。安全保障部によると、ここ10年間で、231件が書類で報告されているという(アリゾナだと63)。そしてこれまでは単なる事故とされてきた。

しかしこのほど、かねてより麻薬をめぐるギャングが戦争状態にあり、MS-13 Mara Salvatrucha(悪名高いらしい) というストリート・ギャングの仕業ということが公表された。ただ政府はじめパトロール隊もこれに対して写真をとる以外なにもせず、メキシコ政府側も何もできないということである。しかもメキシコ軍などは、麻薬密売人をエスコートする体たらくときているらしい。

また、サンディエゴにある倉庫には、2トンを超えるマリファナが見つかり、その地下には、きちんと整備された2400フィートのトンネルもみつかった。政府は何をやってるんだということになるが、この任を負っているのがJulie Myersは、コネでこの職にあるためあまり期待できない。ある国会議員によると、国境付近ではすべてのひとが武装しているという(行く予定の方は気をつけて)。

この記事の主旨はもちろん保守派のTownhallだから、上記事件のレポートではないと思う。ここのところ問題になっている移民法の改定(もちろん厳しくなるべきだといっている)、アメリカで生まれた子供にアメリカ国籍を与えることの終了など、保守的意見が、記事の終わりに上記事件への対策として載っている。とにかくこうした保守系思考にとって、かつてアラモの砦があったテキサスは格好の場所ではないかといいたい。Remember Pearl Harbor のもとになった Remember the Alamoというフレーズもこの事件にちなんだものだが、アラモもテキサスも、アメリカの愛国心や国防意識をアメリカ人が共有する記憶からたぐりよせやすい名前である。

ちょっとうがってます?

追伸:今日の対決(Digital Audio Player)
1) モーツアルト交響曲39番 ワルター(NYP) vs ワルター(VPO) vs ブロムシュテット
2) セロニアス・モンク Alone in San Francisco vs Solo on Vogue
3) ジャズ・ピアノ・トリオ対決 Dolce Far Niente(ナホルニートリオ) vs Fly To Brazil (ヴァルターシュトラート・トリオ)
4) ブルックナー交響曲5番 クナ vs フルヴェン

南北戦争前夜

2006-02-18 23:12:09 | 歴史
「2月18日月曜日ワシントン発。今日も平和会議が引き続き行われた。ゆうに5時間は超えていたろう。この議論は、大陸会議が始められて以来最も活発なものだった。委員会からふたつのレポートが提出されており、審議が継続されている。

提案されているのは、南部諸州を尊重し、36度30分より南では奴隷制度を制定するもしくは認めるということであるが、これらに激しく反対したのが、ニューヨーク、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、オハイオ、イリノイ各州の代表方である。

折衷案の主導者は、Tyler(第10代大統領)とGuthrie(Kentucky 代表)で、すぐに行動に移すように主張している。この2人は、国民会議に備えて、ニューヨーク代表のフィッシャー氏の提案には断固として反対している。

その根拠は、国民会議にうつる前になんらかの妥協案が提供されるか採用されなければ、すべての境界州は連邦から脱退し、南部連合に加わり、彼らの結束が強くなりすぎてしまってこの議会そのものの牽引力がなくなってしまうからというものだ。

ここでほのめかされているのは、ジェファソン・デイビスのスピーチである。あの口ぶりから、脱退州が宣言している、北部とは絶対に組まないという決定を実現させようとしているのは明白である。

ペンシルバニア州の人々の多くや全北部の州のなかにも、この折衷案を受け容れるものがいる。その案なら、境界州の妥協案者とも折り合えて、僅差ながら、採用に到れると今では考えられている。

(しかし)今朝の調査では、たった6州の賛成しか得られていない。奴隷州の代表者たちは、こういう状況および投票結果では、その案は効力を持たないし、きちんとしたものとして受け容れられないだろうと述べている。

今日、代表者たちはこの問題を長々と議論してきたわけだ。その折衷案が実行に移される可能性がこんなにも長い時間議論されたのだ。ニューヨークのFieldやNotes、マサチューセッツのBoutwell やAllen、そしてイリノイ代表らが中心の妥協反対者たちは激しくこうした議論をした。

彼らは、結束する権威を全く持たないものとしての妥協には反対である。また、議会がもう終わりだというのに、全く是認が得られそうにないこの妥協案に反対である。また主義の上でも反対している。南部諸州は脅迫しているわけだし、こうしたやり方で憲法の修正案を出すことも注意深い考えていないことにも反対である。

彼らは、今目の前にある困難な問題のための治療法が全く見つけられていない。見えているのは、問題がありながらも更に複雑になっていくトラブルをとにかく避けることだけである。

(しかし)ここで引いたら今の折衷案を採用したあとにもおなじ困難が必ず起こる。そして境界州は、脱退した南部諸州が犯した不正手段に屈して連邦政府が処方をするのなら、同意もしないし認めないだろう。

今朝ジェファソン・デイビスのスピーチが発表されたが、彼らの判断によると、このスピーチは開戦宣言に等しい。が、議会の代表者たちは、それについては何もしないようにしようと提案した。

議論はかなり猛烈ではあるが、平和的な感情も両陣営にみられた。Tyler氏は、妥協反対者の何人かに、プライベートな談話という形で、「バージニア宣言」や「クリテンデン妥協案」(いずれも妥協案)でどうだい?とか、妥協であっても、国民会議になるよりいいんじゃないかな?と訊いた。答えはNoだった。

Tyler氏はコレに対してつぎのようにいったといわれている、「もし君たちがそうした立場を今週とりつづけて、何とか折り合いをつけようとしなければ、調停の見込みは全くなくなるぞ。君らは、その結果をよく認識しなくちゃならん。でなければこの国を戦争に導くことになる。

Tyler氏はまだすべての望みが絶たれたわけではないとも話している。何らかの提案が今週の夕方のセッションのときになされることになっている。マサチューセッツのBoutwellは、今日、長くて雄弁な、あらゆる妥協に反対するスピーチをした。このスピーチは、かなり綿密で有能なものだったといわれ、みなが注目し、今日一日の議論の中心になった。Boutwell氏は、境界州の代表者たちに、安全のためにも北部側についた方がいいと忠告することさえしたという。

Guthrieは、そのあと、Boutwell、Allen、Field、Crownishieldらに近づいて、「私は自分の立場に固執してはいないし、ケンタッキーもクリテンデン妥協案ほかを必要としているわけじゃない、「君らにできることは何だ?」と訊いて、調停の基盤がつくれるのなら何でもいいからそれに同意することをほのめかした。

彼らは答えとして、国民議会を提案した。彼らはこの提案ならすぐに受け容れられると考え、誰も承認することが出来ないその信念を表明している。」

つたない翻訳(意訳)ですが、1861年2月18日(145年前)のNY Timesの記事です。南北戦争という相容れない主張の緊迫感が伝わってきますね。南部は、合衆国本来の「多のなかの個」を大事にしようという。北部は、「多」がなければ、「多」のために必要な法を重視する。

追伸:今日のブラームス(Digital Audio Player)
交響曲1番:カラヤン(BPO)
交響曲2番:ワルター(NYP)
交響曲3番:バリビローリ(VPO)
交響曲4番:シューリヒト(BSSR)

くるま

2006-02-17 21:47:18 | 時事
京都からの帰りの新幹線で、「日韓貿易が1977年レベルに冷え込んだ」とテロップをみた。最近韓国といえば今月初めに米韓が自由貿易協定を結ぶことにしたため、国内映画の上映日数が140日あまりから70日あまりになり、俳優や監督が既得権益を失わないよう、デモをしたことぐらいしか記憶になかった。個人的には対岸の火事だったが、どこの日本メディアだったか、「アメリカの圧力によって」という付け加えていたのが気になった。最近の、アメリカの圧力の所為にする傾向が嫌だったからである(アメリカの保守になってるかも?)。

ワシントンポスト(2月2日付)を読む限りでは、その圧力の出所は、ブッシュ政権のアメ車販売促進したいという計画。ここのところ米韓の貿易は不均衡で、韓国の対米輸出利益は、46億ドルになるのに対し、アメリカの対韓国輸出額は26億ドルに過ぎなかった。そしてこの差を作り出しているのが車。同記事によると韓国車は、2004年に70万台売れた。一方韓国で売れたアメ車は5400台にすぎない。ブッシュ政権は自動車産業からプッシュされているらしい。

ただし自由貿易協定を結ぶにはどうしても処理しなければならない問題があり、両国政府もその問題の所在については一致していた(これは昨日今日始まった問題ではない)。それは、韓国農家の保護である。総人口4800万人のうち350万が農家では、アメリカ政府自身も無理だと思ってきた(らしい、concedeという動詞を使っている)。そのためお米と食肉はかなりの制限があり、フルーツは関税4、50%ということでやってきた。しかし世界で10番目の経済大国(GDP1兆ドル、アメリカの貿易相手としては7番目)という現在の韓国なら、というわけである。

韓国の通商大臣Kim Hyun Chong は、1000億ドルかけて農家を保護して、来るべき競争時代に備えると述べ、更に今回の自由貿易協定には、長年障壁があった政治的に微妙な分野も含まれていて、韓国としてもアメリカの市場をねらうと言明していた。韓国は、日本同様自国内には何も資源がないため、世界の競争に入っていくしかない、ということだろう。ひとの心配どころじゃないが、やるしかないらしい。

さて、車といえば、中国の動向も報告されている。NY Timesによると、ブラジルにあるクライスラーとBMWが所有しつつ持て余しているエンジンの工場を中国共産党がバックアップしている会社が買おうとしている。候補はこの1社なので、決まりそうなわけだが(ブラジルの自動車業界が不振なのと、現在この工場はミニクーパーのエンジン作りをしているが近い将来その需要がなくなる。フランスの工場でつくられたものになる)、とにかく中国は低燃費を実現させるいいエンジンがほしいということらしい。

GMの上海のスタッフが述べるように、中国ではガソリンの価格が直接消費者の生活に響くこともあるが、全世界がそうした時代に入るため、ブラジルで作ったエンジンを中国に持ってきてそれを搭載した車を世界向けにつくる用意があるという。つまり本田シビック、トヨタのカローラのような車をつくる、ということだ(とかいてある)。本田のように、品質重視路線でいくとも述べているらしい。

追伸:アメリカにいるとき、盗難車ベスト5をテレビのニュースでやっていた。1位から5位までが、本田とトヨタだった。それほど日本車の信用が浸透していたということだが、はじめからそうだったわけではない。アメリカ研究で名高い猿谷要さんがアメリカに留学している頃、コロナという車に乗っていた。当時日本車は今のように受け容れられていなかったが、3年乗って故障がないコロナに猿谷さんのまわりにいるアメリカ人が驚いたという。なぜなら車というのはしょっちゅう故障するものだと彼らが考えていたからだ。猿谷さんは、日本車の売り込みにご自分も貢献したなどとどこかで書いていたっけ。

Katrina 19

2006-02-16 17:07:57 | アメリカ
Katrina 19 というタイトルだが、今回のメインはむしろRitaに関するもの。Ritaから避難しようと乗ったバスが爆発して、30名近くが亡くなった事件の調査結果が報告された(ワシントンポスト)。

事件は、昨年9月23日、ダラスの南を走る州間幹線道路を走るバスの後部から煙があがっているのを、その後ろを走っていたトラックの運転手がみつけたところから始まる。その運転手はすぐにバスに知らせ、そのバスを避難用にチャーターしていたSunrise社の職員(看護婦含む)が救助活動に入る。

悲劇は、そのバスに乗っていた避難者がみな高齢(80~90代)で動けないひともいたこと。その場にいた看護婦の話では、連れ出されることに素直に応じていたお年よりは少なかったらしい。あるひとは、「靴がない」といって拒み、ある方は、強引に連れ出されることに「痛い、痛い」といって拒絶し、またあるひとは「夫はどこ?」といっていた。バス後部から黒煙が昇っているのにである。被害者側の弁護士がいうように、身体が動けずに燃えるのを待つほど残酷な死に方はない。38名中23名がその数分後の爆発で命を落とした。

これまでのところ、訴訟が8件起こされている。Sunriseがチャーターしたバスには、ブレーキはじめいくつかの欠陥および法律違反が168みつかり(運転手は合衆国の免許証さえ持ってなかった)、その責任は、General Limo Inc.およびその経営者に帰せられ、1月30日に起訴されたが、2月6日、彼らの行為は9月23日と直接結び付けられず、無罪となった。

というのも爆発は、バス内の通気孔から生じたとみられるためである。結局8件の訴状のうち6件がSunriseに対してのもの。Sunriseは、全米最大のお年寄りなどの生活をサポートする会社で、37州に420のコミュニティを持っていた(今回の被害者は、テキサス州にあるBrighton Garden communityの居住者)。といっても救助がなっていなかったからではない。無責任な会社に委託したからという理由である。被害者側の弁護士は、一本でもそのGeneral Limoに借りたことのあるひとに電話すべきだったといっている。

それからもうひとつ気に留めておきたいこと。どうやらSunriseのスタッフに対してその客であるコミュニティ居住者たちもわがままというか少し依存心があったらしい。移動中トイレに行きたいといった老人がいて、自分では歩けないといっていたが、その事故の時には率先して「歩いて」に逃げ出したらしい。そういう雰囲気もあって、スタッフの声に迅速に応答しなかったとみられる。別のスタッフのひとりも次のように証言している、「彼(老人のひとり)は、わたしのためには立ち上がろうとしなかった」。もちろんプロなんだからということにはなるが、Sunriseは今のところすべての訴状に対し否認し、全面対決の様相。

こうしたやりとりをみていると、なんだかなぁと思ってしまう。人知を超えたひとつの不幸を人知の枠内にいれてしまうのは少なからず無理がある。

そのほかの最近のKatrina関連記事
1) 遅々として進まない復興および支援が数字でことこまかに描写。これだけ大規模だとスムーズに行くほうが不思議な感じはしますが(ワシントンポスト)。
2) こんどの土曜から始まるMardi Grassの資金が集まらず、今のところ名乗りを上げているスポンサー1社のみ(NY Times 2/12)
3) Katrinaへの対応が遅れたことへの非難がどんどん広がっている様。責任は一箇所にのみあるわけではない(ワシントンポスト)
4) 上記の共和党レポート(NY Times)。結局White Houseだけに問題があるわけではなく、BlancoほかNaginまでいろいろあったという確認。
5) 主として政府対応非難(NY Times)。
6) New Orleansのかつての住民30万人がいなくなったことによってNew Orleansの文化もなくなるという危惧(ワシントンポスト)。

2月の瓢亭

2006-02-15 22:30:06 | 雑談(ジョーク)

さて、今回の旅行でも超目玉の瓢亭。

今回は、前回の隣の部屋に通された。

腰を落ち着けると、外から、水のしたたる音。

京都は暑さでも寒さでも有名だが、
冷え込みはそれほどでもなかったので障子を少しあけた。

すると見えたのが左下の光景。

    

立ち上がって縁に立つとびっくり。
左に寒椿が真っ赤に咲いていた(にくいね~)。
また、してやられた、と思いつつ、料理へ。

今回楽しみだったのは、瓢亭の酒。

今回伏見近辺の酒蔵をまわりたいと思っていたのだが、時間がとれなかった。

でもよくよく考えれば、瓢亭が旨い酒を用意しないはずがない。

というより、これだけの看板を掲げていれば、
トビキリの酒があるのでは、と期待していた。

そしたら出た。

まず最初の膳。

お向こうに、鯛の刺身と甘草の芽。
左前に畑菜とあぶらげとカラシの和え物。
そして右のグラスが、月桂冠原酒である。

こんな酒ははじめてっというくらい美味かった。

なんでも京都の軟水が甘口によく合うのだという。

もっと詳しく聞けばよかったと今後悔してるのだが、
次から次へ出てくるから酒の話ばかりもしてられない。

例えば以下みたいなもの。

    

左から白味噌のなんとか、中央が薫物(イイダコ)、右がグジの焼き物。
それぞれが一流、それしか言葉では表現しようがない。

それからそれから。。。

手前左から、カラスミをイカで包んだもの、ユリネ、稚鮎。
中段が、わからなくて、上段に瓢亭名物の卵。

とにかく湯斗同様「一流」は言葉を拒絶する。

以下もそう。

 

カニご飯としんじょ(うにと海老)のお澄まし。

そして最後にデザート。

いちごの後ろにあるのは、グレープフルーツ。
なんの虚飾もないとみえて。。。

何がしてあるのかわからなかったが、うまくととのえてあった。

ご馳走様でした

追伸

今回は3回目(はじめては7月、2回目は11月)とあって
冗談や質問する余裕があったが、

かといって、ゲットした情報は、
瓢亭の料理は大体月替わりだということのみ。

3月は時間とれるかな。。。


青蓮院+

2006-02-14 19:42:02 | 雑談(ジョーク)
2月13日付のNY Timesに日本の記事がふたつ。ひとつは、日本の麻生外務大臣の歴史認識発言、もうひとつは、日本のコミック英語版がバカ売れでこれからイケイケドンドンという話(日本がもうけてるのではなく、Los AngelesのTokyopopという会社が中心らしい)。

いいたいことはやまほど、特に前者には山盛りに積み上げたいくらいあるが、とにかく日本というブランドは多角的に作用している。日本の外交についてはFeminism とPostmodern 3の最後に書いたが、それ以前にどこかで書いたように(忘れた)、日本は、世論を形成するLobbystが絶対必要だと思う(嘘はいう必要はないが口数が少なすぎる)。日本の政府が直接管轄するわけにもいかないので、経済連が中心になることをオススメしたい。

さてそんな日本に暮らす日本人たる僕は、日本を確かめに京都に行ってきた。いつも思うが、京都は京都であるだけでひとが集まってくる。司馬さんの東京と京都の商人の差についてのエッセイを読んでからは、京都に行くたびに、京都商人(あきんど)の高笑いが聞こえるようになったが、にもかかわらずなぜかまた行きたくなる(現在も次はいつにしようかと思案中)。

今回の旅行は一緒に行った人間が多く、行きたいところでいけたのは、青蓮院と瓢亭のみ。瓢亭は別に書くとして、青蓮院は、曼殊院と比較しても、格調高い庭園が素晴らしかった。この差は、曼殊院が江戸初期の家康との緊張ある関係からそこで時間が止まったかのごとく少しねじれた厭世観をとどめ、それが逆に純粋に枯山水をより枯れたものにして個性が作られているのに対し、青蓮院は、天皇家の仮御所としての歴史が長く(平安から明治まで)、よりおおくの人間の手にかかってきたからじゃないかと感じた。青蓮院が最高潮だったのが平安末から鎌倉とされているが、茶道が醸成される室町の庭園も小堀遠州のセンスも混ぜられている。

いずれにせよ僕の言葉では役不足なので、オフィシャルサイトでどうぞ。

追伸:さて今日は毎年楽しみなバレンタイン。もらえることはないとわかっていてもなぜかウキウキしてしまう。もらえたときは大々的にこのブログを借りて喜ぶつもりだが、今年ももらえなかったので、何となくやけくそな気分になり、1929年2月14日に起きたSt. Valentine's Day Massacreの話を思い出した。この事件は、当時の二大ギャング、アル・カポネ率いるイタリアマフィアと、ジョージ・モラン率いるアイリッシュとドイツ系のマフィアの名だたる対決で7人が射殺された事件だが、こういったマフィア映画はなんだかスカッとする。