3号機建屋で毎時1600ミリ=14日にも高線量―福島第1原発(時事通信) - goo ニュース
文章からそのひととなりがわかるのか、と行きつけの理髪店店主に訊かれたことがある。
まだ彼と知り合って間もないころ、空海の文章から彼は「一石三(四)鳥」という言葉が好きだと思う、といったことがあって、それに興味を持ったらしい。
空海は仏教というよりは宗教、宗教というよりは人間が求めるものが5種類あるといった。
ご利益がなければならない(=奇跡の実現)とか、人間とは何かという問いに答えられなければならないなどだが、空海はそれら全部に応えて初めて宗教と言えるものになると考えた。
だから仏教にもその力を与えたかった。
そして密教にその可能性を見出し、完成させた。
だが空海は仏教だけではなかった。
当時の日本仏教と言えば単なる官僚がその階段を登るための主要科目であり、宗教としては護国のまじないに過ぎなかったが、その仏教の革新によって個人的な成功、地方の一豪族を中央に進出させる期待を見事に実現した。
この辺りが空海がいやらしい奴だといわれる所以だが、空海にしてみればそんな矛盾はない。なぜなら密教は、人間の生に対するどうしようもない執着とその生を謳歌する喜びを包含したものだからだ。彼にとって宗教は人間が自然に宿した感情を否定することであるはずがないと思っていた。
こんな話をしたかもしれない。
で、なぜこんなことを久しぶりに思い出したかと言えば、金曜日に空海と紫式部にゆかりがある石山寺(滋賀)を訪れたから。空海は40歳過ぎにここに来て3月ほど修行し、そのときに座った岩と、彼が彫った大黒天があり、紫式部はここで『源氏物語』を着想し、書いたといわれる。
そして僕は理髪店主に、YESと答えつつ、しかし自分を消すこともできる、と答えた。
Yesの例には、たとえば司馬さんがいる。
司馬さんのファンとして解せないのは、最初の奥さんや息子さんに対する仕打ちだ。
しかも当の本人はそうした自覚が全くなかったらしい(なかったからできるのだろうが)。
しかし司馬さんの作品をみると、合点がゆく。司馬さんが描く日本の推進力となる男たちの多くは女子供に対して自分勝手だからだ(司馬さんがというよりは書く内容が司馬さんの私生活に反映されてきたいのかもしれないが)。
消すことができる例はなんといっても一級品の虚構である。
言葉を書き慣れていない方が書くと、みるも無残に嘘がばれる。Websiteというのは結局誰でも書けるわけだから拙い文章も目にするわけだが、こうした方々が自作自演をしたりしていると、わからないと思って書いているそのひとに同情が湧くほど滑稽である(「ばればれですよ」といってやりたいひとがいる)。
僕ができるだけ嘘をつかないようにしているのは、嘘をつくには技術が必要だからだ。
黒澤だったか、たとえ主要な登場人物でなくてもその一生を大学ノートに書いて、実在させる。
でないと、脇役といえど、リアリティが出ないからだ。
その点超一流と言われる作家の作品に出てくる登場人物はどうだ。さもあろうという説得力はその挙動にではなくその存在自体にある。例えば生きながらえていることと、自宅がみすぼらしいことを並べて恥ずかしいと述べる桐壺更衣の母には絶対的な個性というか存在感があると思う。
その存在感は放射性物質も同様。上記記事の高濃度汚染水が原因と思われる高放射線量は、石山寺でも感じられた。その後数日高いままの状態が続き、昨日、おとといとトレーニングができなかった。
また上記記事によると、14日にも高濃度が検出されたとあるが、確かに前回のポストでも書いたように感じた(このときは神奈川で)。
いずれにせよ汚染水は低濃度にしたとしても海に流したりしてほしくない。
文章からそのひととなりがわかるのか、と行きつけの理髪店店主に訊かれたことがある。
まだ彼と知り合って間もないころ、空海の文章から彼は「一石三(四)鳥」という言葉が好きだと思う、といったことがあって、それに興味を持ったらしい。
空海は仏教というよりは宗教、宗教というよりは人間が求めるものが5種類あるといった。
ご利益がなければならない(=奇跡の実現)とか、人間とは何かという問いに答えられなければならないなどだが、空海はそれら全部に応えて初めて宗教と言えるものになると考えた。
だから仏教にもその力を与えたかった。
そして密教にその可能性を見出し、完成させた。
だが空海は仏教だけではなかった。
当時の日本仏教と言えば単なる官僚がその階段を登るための主要科目であり、宗教としては護国のまじないに過ぎなかったが、その仏教の革新によって個人的な成功、地方の一豪族を中央に進出させる期待を見事に実現した。
この辺りが空海がいやらしい奴だといわれる所以だが、空海にしてみればそんな矛盾はない。なぜなら密教は、人間の生に対するどうしようもない執着とその生を謳歌する喜びを包含したものだからだ。彼にとって宗教は人間が自然に宿した感情を否定することであるはずがないと思っていた。
こんな話をしたかもしれない。
で、なぜこんなことを久しぶりに思い出したかと言えば、金曜日に空海と紫式部にゆかりがある石山寺(滋賀)を訪れたから。空海は40歳過ぎにここに来て3月ほど修行し、そのときに座った岩と、彼が彫った大黒天があり、紫式部はここで『源氏物語』を着想し、書いたといわれる。
そして僕は理髪店主に、YESと答えつつ、しかし自分を消すこともできる、と答えた。
Yesの例には、たとえば司馬さんがいる。
司馬さんのファンとして解せないのは、最初の奥さんや息子さんに対する仕打ちだ。
しかも当の本人はそうした自覚が全くなかったらしい(なかったからできるのだろうが)。
しかし司馬さんの作品をみると、合点がゆく。司馬さんが描く日本の推進力となる男たちの多くは女子供に対して自分勝手だからだ(司馬さんがというよりは書く内容が司馬さんの私生活に反映されてきたいのかもしれないが)。
消すことができる例はなんといっても一級品の虚構である。
言葉を書き慣れていない方が書くと、みるも無残に嘘がばれる。Websiteというのは結局誰でも書けるわけだから拙い文章も目にするわけだが、こうした方々が自作自演をしたりしていると、わからないと思って書いているそのひとに同情が湧くほど滑稽である(「ばればれですよ」といってやりたいひとがいる)。
僕ができるだけ嘘をつかないようにしているのは、嘘をつくには技術が必要だからだ。
黒澤だったか、たとえ主要な登場人物でなくてもその一生を大学ノートに書いて、実在させる。
でないと、脇役といえど、リアリティが出ないからだ。
その点超一流と言われる作家の作品に出てくる登場人物はどうだ。さもあろうという説得力はその挙動にではなくその存在自体にある。例えば生きながらえていることと、自宅がみすぼらしいことを並べて恥ずかしいと述べる桐壺更衣の母には絶対的な個性というか存在感があると思う。
その存在感は放射性物質も同様。上記記事の高濃度汚染水が原因と思われる高放射線量は、石山寺でも感じられた。その後数日高いままの状態が続き、昨日、おとといとトレーニングができなかった。
また上記記事によると、14日にも高濃度が検出されたとあるが、確かに前回のポストでも書いたように感じた(このときは神奈川で)。
いずれにせよ汚染水は低濃度にしたとしても海に流したりしてほしくない。