雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

report 44(加筆)

2011-11-22 01:06:26 | 震災
3号機建屋で毎時1600ミリ=14日にも高線量―福島第1原発(時事通信) - goo ニュース

文章からそのひととなりがわかるのか、と行きつけの理髪店店主に訊かれたことがある。

まだ彼と知り合って間もないころ、空海の文章から彼は「一石三(四)鳥」という言葉が好きだと思う、といったことがあって、それに興味を持ったらしい。

空海は仏教というよりは宗教、宗教というよりは人間が求めるものが5種類あるといった。

ご利益がなければならない(=奇跡の実現)とか、人間とは何かという問いに答えられなければならないなどだが、空海はそれら全部に応えて初めて宗教と言えるものになると考えた。

だから仏教にもその力を与えたかった。

そして密教にその可能性を見出し、完成させた。

だが空海は仏教だけではなかった。

当時の日本仏教と言えば単なる官僚がその階段を登るための主要科目であり、宗教としては護国のまじないに過ぎなかったが、その仏教の革新によって個人的な成功、地方の一豪族を中央に進出させる期待を見事に実現した。

この辺りが空海がいやらしい奴だといわれる所以だが、空海にしてみればそんな矛盾はない。なぜなら密教は、人間の生に対するどうしようもない執着とその生を謳歌する喜びを包含したものだからだ。彼にとって宗教は人間が自然に宿した感情を否定することであるはずがないと思っていた。

こんな話をしたかもしれない。

で、なぜこんなことを久しぶりに思い出したかと言えば、金曜日に空海と紫式部にゆかりがある石山寺(滋賀)を訪れたから。空海は40歳過ぎにここに来て3月ほど修行し、そのときに座った岩と、彼が彫った大黒天があり、紫式部はここで『源氏物語』を着想し、書いたといわれる。

そして僕は理髪店主に、YESと答えつつ、しかし自分を消すこともできる、と答えた。

Yesの例には、たとえば司馬さんがいる。

司馬さんのファンとして解せないのは、最初の奥さんや息子さんに対する仕打ちだ。

しかも当の本人はそうした自覚が全くなかったらしい(なかったからできるのだろうが)。

しかし司馬さんの作品をみると、合点がゆく。司馬さんが描く日本の推進力となる男たちの多くは女子供に対して自分勝手だからだ(司馬さんがというよりは書く内容が司馬さんの私生活に反映されてきたいのかもしれないが)。

消すことができる例はなんといっても一級品の虚構である。

言葉を書き慣れていない方が書くと、みるも無残に嘘がばれる。Websiteというのは結局誰でも書けるわけだから拙い文章も目にするわけだが、こうした方々が自作自演をしたりしていると、わからないと思って書いているそのひとに同情が湧くほど滑稽である(「ばればれですよ」といってやりたいひとがいる)。

僕ができるだけ嘘をつかないようにしているのは、嘘をつくには技術が必要だからだ。

黒澤だったか、たとえ主要な登場人物でなくてもその一生を大学ノートに書いて、実在させる。

でないと、脇役といえど、リアリティが出ないからだ。

その点超一流と言われる作家の作品に出てくる登場人物はどうだ。さもあろうという説得力はその挙動にではなくその存在自体にある。例えば生きながらえていることと、自宅がみすぼらしいことを並べて恥ずかしいと述べる桐壺更衣の母には絶対的な個性というか存在感があると思う。

その存在感は放射性物質も同様。上記記事の高濃度汚染水が原因と思われる高放射線量は、石山寺でも感じられた。その後数日高いままの状態が続き、昨日、おとといとトレーニングができなかった。

また上記記事によると、14日にも高濃度が検出されたとあるが、確かに前回のポストでも書いたように感じた(このときは神奈川で)。

いずれにせよ汚染水は低濃度にしたとしても海に流したりしてほしくない。

report 43

2011-11-14 19:41:07 | 震災
放射性物質、風で再浮遊か 風向きで放射能濃度変化(朝日新聞) - goo ニュース

このニュースをみて、放射性物質の動きが全くとらえられていないんだなと思った。

科学に限らないが、対象にせまるにはみえるところからいくしかない。

こうしたアプローチは仕方ないことであり、当然のことだ。

例えば気功の場合も一生懸命科学的にその存在をつかみとろうとしている方がいる。

気功師の脳波が、αなのかθなのか、心拍数はどうなのか。

確かそのひとの二冊目の本での結論は、気功師の呼吸がすべてのスイッチになっているとあった。

この方の著作に違和感が残るのは、人間にしか注目しないこと。

人間は大自然の一部であり、僕としては以前も書いたように星との関係にまで視野に入れないわけにはいかないのだ。

だからといってもちろんそうした狭さを責めるつもりはない。

感じられないのだから仕方なかろう。

感じるということは、以前も書いたように合っていようと間違っていようととにかくとらえることだから、どうしても全体像に触れないわけにはいかないのだ。

だから感じられる僕にとっては、呼吸がすべての気功のスイッチとは思えない。

もともと気功では胎息といって呼吸をしているのか・いないのかわからない状態のときにいろいろなことがなされる。

流派の違いもあるから一概にはいえないが、自身の経験から言うと呼吸はほとんど関係ない。

断っておくが、僕はこうした重箱の隅をつつくような研究が無意味だと思っているわけではない。

すでに書いたように文系の大雑把な理解はあっていようといまいと関係なくなされるから、その把握が正しいかどうかを試す機会になるからだ。

D. J. Harraway が書いていたように科学の進歩もまたそのようなパラダイムとメタファーの進歩であり、その把握(メタファーの選択)が間違っているかどうかはその試験に耐えなければならない。

だからチリなどに交じる放射性物質が飛ぶという事実は僕にとってはこれまで築いてきたパラダイムを脅かすものではなく、よくわかるものである。

例えば夜寝ていている間に口の中にはチリがたまっている。

当然放射性物質もたまっているから水などを口に含むと放射性物質の感知度は上昇する。

だから起床時うがいを必ずするわけだが、その事実と上記ニュースは矛盾しない。

というわけで僕も物理やら生化学やら本を読んでいるのだが、まだまだトンネルの中にいる感じ。

つまり全体像がみえてこない。

追伸:今日お昼前後に急激に中の上くらいまで感知が上がったがあれがどういう理由で起きたのかはわからない。

選択

2011-11-09 20:40:26 | 時事
『ニュースにだまされるな』の冒頭5分をみた。

メインキャスターが「責任の所在が明らかでなく、責任者であるべき人間は何事もなかったかのようにルーチンの仕事をやってる、これでは増税に説得力がない」(実際に述べた言葉そのままではありません)みたいなことを繰り返し述べていたと思う(娘と息子が僕の腕の中にいてきちんと聞けなかった)。

僕も report 29 で書いたが大賛成で、世界大戦同様、全く日本は反省せず、総括が全くない。

ひとが忙しくて最近まつりごとに口を出さないのをいいことに、相変わらずここ1世紀近く続く日本的な政治を続けるとは言語道断である。

年金の問題も同様で、誰がA級戦犯か明確にし、責任をとらせたうえで増税なら増税に進まなければならない。

現職の議員はもちろんその張本人ではないかもしれないし、民主党も過去の自民党の尻拭いをするのは大変だろう。

しかし民主党が政権をとった意味は、これまでの日本に惜別することを国民が選択したことであって、そのためにうらまれて殺されることも厭うてはならないのだ。

にもかかわらず責任の所在を明らかにしないで先に進むのなら、政権交代に意味はない。

そして残念ながら今のところあるようには見えない。

そのためTPPへの参加も本当に考えた結果選択されたのかどうか判断に迷う。

肯定的にみれば日本が所詮貿易でやっていくしかないことと、結局改革は外圧でしかできないと考えているのかもしれない。そして地震後の日本を支える工業系の会社に対する便宜も必要であろう。

そして何よりそうした事実を直視することが求められる。

が、これが難しい。

前回のPostで紹介した動物園や自然食品店に僕が鼓舞されたのは、自分で枠を作らずにあくまでも現実を見据え続けていた点にある。

しかし日本社会の多くの会社が、少なくとも僕が関わってきた組織にそうした視点はなかった。

これまでの慣例か自分たちで勝手に線引きをしたルールから出ずルーティンの仕事をこなしているだけで、客や世の流れをみていない。

みていないだけでなく、ルーティンの仕事に忙殺され、みていないという事実にもしている仕事がルーティンでしかなないことにも気づいていない。

例えば僕の著作がしばらくすると書店に並ぶのだが、出版社との折衝がうまくいかなかった。その理由は僕の書いた内容が従来のものととあまりにかけ離れていたためだった。

しかし現実を受け入れることは、児玉さんのいう20世紀型の事実認定にはないし、既存の規定に従うことでもない。事実に帳尻を合わせることだ。

戦国時代に、今川などを除く旧時代の名家は、生きていかれなくなったが、僕に言わせれば多くの出版社もそうした名家のみなさんだった。

だから僕は第一感TPPの受け入れには賛成だった。

しかし竹中平蔵さんも賛成と聞いて反対したくなった(だから一番事実をみていなのは僕ということになるが)、結局賛成になった。

もちろん誰かが言っていたように失業者が多く出るだろう。

農業も食に意識がある品質重視の農家のごく一部しか生き残れまい。

しかしこれは、もともと国として重要なこと、交戦権や農業の問題を後回しにしてきた日本人自身にこそ原因がある(だからといって淘汰されてほしいわけではない)。

唯一問題といえば時期の問題がある。

今の日本は地震や原発事故のために分が悪いことは否めないからだ。

日本自身が過渡期にあり、いろいろな産業が落ち着いていない。

しかし先ほどあげた肯定的な理由などに加え、過渡期であればこそきちんとした戦略目標をたてやすいともいえる。

そこで積極的に賛成したいと思うようになった。

上記リンク先をみてもわかるようにTPPの枠組みは、WTOとGATT(1994)を下敷きにした交渉で決まっていく。早く動くに越したことはない。

追伸:『ニュースにだまされるな』の前・中盤をみた。税制の抜本改革は、80年代以前との決別にあることはよくわかったが

report 42

2011-11-06 13:45:28 | 震災
京都から帰宅。

放射線量は京都も神奈川も前回のPost以降二日は落ち着いていた。

しかし今日になってやや高くなった。

ただし出所がわからない。神奈川でならともかく京都で感じた放射線は福島発ではない可能性もある。

さて京都の話。

今回は動物園にも行った。

以前行った動物園があまりにもひどかったためか、今回の京都市立動物園はとてもよかった。

何が良かったかと言えば、結局は客のことをよく考えているということだろう。

まず動物の表情がよくみえた。

以前行ったところは、例えばライオンが少なくとも5匹以上は置いとけるスペースにたった一匹で大げさに悪くいえばライオンかトラかはたてがみと縞模様で判別するしかない感じだったが、ここでは表情がよくみえ、動物園で人に飼われるのも悪くないみたいな顔をしていた。

そして何より動物たちが健全であることがみてとれた。

そのため各動物がそれぞれらしさを伝えていたと思う。

例えば娘はトラが檻の中にいるにもかかわらずいつ襲ってくるかわからない恐怖を感じてあとずさったし、小高いところに横たわるライオンの堂々とした姿に王者の風格を感じ、「かっこいい」と嘆息した。

それから動物園全体もこぢんまりとまとめられていて、全部回るのに時間もかからないし疲れないし、適度にちりばめられた遊具やアトラクションも少なくとも我が家族にはちょうど良かった。

公の施設だからと期待していなかったが、無駄遣いという印象はなく、むしろ質朴なのに抑えるところは抑えているというこれからの日本に最も必要な選択をしているように感じた。

そのおかげもあってか娘はとてもいい顔を取り戻した。

そんなわけで気分を良くした僕らは帰宅早々食料を買い込みに行った。

最近みつけた良質な自然食品店二軒である。

何が良質かといえばとにかくこの二軒も客のことを考えている。

魚は原発事故以前にとれて水産会社の冷凍庫にあったものを引っ張り出し、牛乳類も原発事故後すぐ放牧をやめて屋内に隔離し出来る限り安全な飼料を与え、もちろん公の機関での検査結果もシロだったものを集めたとのことだった。

もちろん僕は科学的な測定は不要だからかたっぱしから感知してみたが、煙があがった食品はなかった。

僕も頑張ろうと思った。

Report 41

2011-11-03 23:32:27 | 料理
「臨界なかった」と断定 キセノンは自発核分裂 東電(朝日新聞) - goo ニュース

なかったとしてもかなり来た。

TVで東京電力の方が、臨界に達していたら一万倍になると説明していたが、1日は神奈川にいて、感知で0.08、普段の三倍弱。

2日から京都にいるが、通常の二倍以上はあると思う。

つまり今回の京都避難は避難になっていないということだ。

しかもホテルの風呂の水からは少なくとも自宅と同レベルの放射線があって娘とともに歯が痛かった。

僕の身体が複数あって、同時に東京、神奈川、福島にいられれば、放射線量の比較や放射線の波及の仕方がもう少し細やかにわかるのだが、少なくとも1日の神奈川と、2、3日の京都滞在を比較すると、あまり差がない。

一定以上の量の時はあっという間に放射線はかけめぐるようだ(予想していたことだが)。

そして京都の水がこれだけ汚染されることがかなりショックだった。

ただし今回も料理人たちが素晴らしい料理を披露してくれた。

先日触れたチョコレートは、前回は車で移動中に購入したため作り立てを頂かないで帰宅してから頂いたチョコについての感想だったが、今回はその場でいただいた。

まぎれもない逸品でそののびやかな感じと涼やかさに感服した。

チョコレートはやはり生ものなのだと痛感させられた。

しかし今回最も感動したのはそば。



身体がすいつくように求めた料理は何年ぶりだったろう。

我が家族は僕以外は基本的に肉が嫌いだが、嫌いなのに、「うまいうまい」と僕のをとった(汗)。

最も驚いたのは、肉を毛嫌いする妻が、僕の好物の軍鶏のモツをうまいうまいととったこと。

食べ終わって「これ肉なの?」と驚いていたが、驚いたのは僕の方だった。