雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

依存(再加筆)

2008-11-30 20:51:49 | 歴史
竹中平蔵 特別インタビュー(後編)「日本が落ちぶれた本当の理由を語ろう」【岸博幸コラム】(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

今回の竹中さんのいってることにはほぼ全部同意できた。

というのも自画自賛だが、僕がこのブログで書いてきたことだからだ(福沢さんを例に出すところまで同じだった)。

結局日本の問題は個々の日本人の依存心に尽きる。

みながぶらさがって拠るべきところがないため共倒れになる。

歴史上では、依存できないとわかると目先の利益に目がくらんで突っ走った(90年代の終わりに韓国の大学の教員が日本の経済成長も戦争の初期段階での勝利はそれがたまたま機能しただけだといったが、はずれてない。何も戦争のことなんか反省していないのに反省したつもりになっている。そこまで竹中さんがいってたわけじゃないけど。。。)。

竹中さんの言葉の使いまわしのなかで曖昧というか多義なのは「改革」だと思う。

竹中さん自身はシカゴ派だけども改革の中身が今ひとつ明かでないから国の未来図も曖昧で、おそらく社会保障はヨーロッパ諸国のように手厚くしつつ競争力を高めることを念頭においているのだろうと予想される。

だからこそ世界のシステムの安定と刷新が不可欠で日本はそれに関与しなければならない、というわけだ。

そういえば先日Bostonglobe に、かつては絵空事だった核兵器全廃が、アメリカの歴代の政策責任者たちの間で真剣に議論されるようになったという記事があった。

問題はそれをどのように実行に移すかだが、その有力な案として世界をひとつとして扱う強力な権限を持つ組織作りが挙げられていた。

日本人としては、日本がそうした考えをずっと主張してきたにもかかわらず、そうした考えを主張してきた団体としてその名前さえ挙げられていないことにイラっときたが、金融危機問題同様、世界一国家というカントがいってたIdeaがそれなりにまともに議論の的になったことは喜ばしいことだ。

が、更にいえば、世界が共有できるイデオロギーの創出にも思いを致してほしいと思った。

昔Band Aidというイギリスの80年代の人気ミュージシャンたちで結成したグループの歌に、Do they know it's Christmas? という曲があった。

その歌詞は、Christmas というChristianity 文化圏での取り合えず戦争はやめるEvent を他の文化圏は知っているのか、我々は知っているから平和で豊かだが、彼らにもそれを教えてあげようじゃありませんか、という内容で、こういうある文化圏に偏った視点では、ほかの多文化圏の人間は受け入れるどころか憤ることにしかならないだろう。

話をモトに戻そう。

そんな依存をしない人間の典型として、ドイツの Ernst Wiechert を思い出した。

Thomas Mann などにナチス協力者の作家と称され、歴史上もそのような烙印を押されてしまったひとだ。

しかし二度にわたってミュンヘンかどっかでナチスの批判をやり、一方で多くの文化人や知識人が祖国を離れて文化人としての役割をドイツ国民に対して果たさなかったのに彼自身は国内でドイツ国民のためにモノカキを続けて慰めた。

つまり国から出て言論活動を続けるのと、国内で作家活動を続けるうちのどちらがドイツの作家といえるか、という選択だ(もちろんWiechert は後者だというわけだ)。

もちろん賛否両論あるだろうが、彼の言にはどこか綱渡りではあるけれども保守・革新の別ではくくれない(依存しない)ものがある。

面白いのは彼が以前書いたような意味での根っからの教員だったということ。

ケーニヒスベルク(カントの生地)で教員をやり、40歳のとき妻帯していながら恋に落ちてそのままベルリンに逃げ出してからも教員だったが、作家として活躍するようになっても、彼には教師らしい保守・革新の間の、というより第3の道としての「自然」が頭から離れなかった。

もともと11歳まで田舎で自然児として過ごしたことがその背景にあるのだろうけど、そうした教師歴伝としてはルソー(ルソーの後半の著作は、ただ文明批判のみをやるので好きではない)にも通じる。

諭吉っつぁんや漱石もそうだったけど、彼ら教師には独特の、個人主義を理想とした像があるような気がする。

そもそもWiechert はワイマール憲法に対しても違和感を持っていたのだから。

idiosyncrasy という言葉がFaulkner にもよく使われたが、彼にもそれを送りたい。

宝物

2008-11-22 16:34:27 | 宗教
以前も書いたが、赤ん坊を抱いているとよく声をかけられる。

今日も何気なく近くのスーパーに買い物に行くと、50くらいのおばさんが娘をみるなり、「かわいいっ!」と叫んだ。

あまりの唐突振りに僕も娘も驚いたが、その驚きを確認する時間も与えずに、そのおばさんは娘の手をとって、更にほっぺたを触った。

そして

「しあわせそぉっ!」

と叫んだのだが、その音量がちょっと大きすぎたので、僕もびっくりしてまわりを見渡した。大丈夫そうだったので、おばさんの顔にもう1度視点を戻すと、目にうっすら涙を浮かべていた。

「よかったね、いいお父さんとお母さんで。。。」

涙はとめどなく流れ、僕は「ありがとうございます」というしかなかった。

最後は自分の頬を娘のほほにこすりつけ、涙をぬぐいながら、「宝物って感じ。すみませんね、突然。でも今日はなんだかいいことありそうだわ」といって去っていった。

悪い気は全然しなかった。

探すことと見出すこと

2008-11-21 23:01:05 | 宗教
Washingtonpost に、日本の若者について書いてあった。

野心というかドシドシやったる、といった向上心がない、みなほどほどがいいと思っている無気力な「オタリーマン(オタクとサラリーマンの混成語)」だそうな(記事を書いたのは同誌の記者だが情報提供者は日本人らしい)。

なんでもなんとかという調査によると、日本人労働者のなかで残業バリバリやりたいと考えているのは3%で、世界の平均が21%だという(アメリカは29%)。

同記事によると、日本の若者は結婚生活もしたくない、のだそうだが、その理由は「ほどほど」でいられなくなるからだそうな。

この手の分析はよく目にするが、本当にそうなのだろうか。

そういう場合もあるだろうけど、同時にこれは、探した結果で見出したのではないのでは?といつも思う。

私見をいえば、そうしたオタリーマン的性格は現代の若者固有というより歴史体にみて日本人と呼ばれる民族にありがちなものだと思うが、とりあえず「探すな、見出せ」というピカソの言葉に注目したい。

確かにキュービズムの典型的な作品では、部分的には「探す」ことによって見出されたFactsが描かれているが、作品全体としてはそれらを統合した主観的な洞察が見出されたものとして提示される。

この発見が、つまり絵画の伝統的な役割だったミメーシスを超えて主観を客観的に表現する、という表現というものの本質に立った作品を描いていく。

僕はピカソをみているといつもフォークナーと重ねたくなるのだが(単にフォークナーを先に知ったから考える基準になっているだけだが)、両者ともその主観的な洞察が見出されるギリギリの1点を視点に選ぶところにその才がある(といってピカソとフォークナーの作品のすべてを理解しているわけじゃないが)。

そしてその視点はひとつの「探した」ものというより、いくつかの指標を統合した「見出した」ものから生まれる。

その点、日本の若者をみる視点はあまりに数字と言葉に偏りすぎていないだろうか。彼らが無気力にみえるのは、単に無気力だと感じるひとが指標とする事柄に魅力を感じていないだけだと思う。

だからそういうひとたちに問いたい、あなたはバリバリやることが楽しいのか、結婚生活が魅力的なのか、と。フォークナーやピカソほどではなくても、そんなことをいう大人たちがバリバリやることや結婚生活の魅力をみせてやってほしいものだ。

気の持ちよう 9

2008-11-20 00:00:01 | 将棋・スポーツ
1度燃費26.1キロをマークしてから上がったり下がったりが続き、素人の腕では限界かと思っていた。

おそらく稼ぎどころの高速で、つい一番右側を走らないとモトがとれないという貧乏人根性があるからかもしれない。

が、このたびめでたく26.2キロをマークした。

その数値をみたのは、ある山を下っていたときのこと。

今日も木をみてきたのだ。

その木材店で、「若いのになんでそんなに無垢一枚にこだわるの?」と訊かれ、「好きなんですよ」と受け流したがもちろんちゃんとした理由があった。

気が大量に出るからだ。

特にある特徴を備えた木が放出する気の量は、僕の全開時の20倍は出る。

その特徴は大体輪郭がはっきりしてきているのだが、一応調べたいので今日は黒杉をみにいった。

凄まじかったが、価格が一考する範囲を遠くはみでていた(180万円)。

面白いのは、我が夫婦は、電気にかかったようにその木の放出の程度がわかるのだが、木材屋さんも含めてほとんどのひとがそれを測れないこと(感じられないこと)。

いってみれば木の力を十分に見出しえてないのである。

黒杉がくれたジンジンするような気を手のひらに感じながら、山道をくだり家路についた。

追伸:これまでの「気のもちよう」12345678

罪と罰2

2008-11-19 09:48:13 | 文学
年金のプロ標的?年金局長経験者の吉原さんと山口さん(読売新聞) - goo ニュース

この問題も秋葉原事件同様の室町ふたたび18風な暴発事件かと思ったが、いまだに犯行声明が出ないところに、犯行者のインテリがかいまみえる。

「いわなくてもわかるだろう」と。

以前も書いたように物事の是非は暴力を使うかどうかではない。不均衡な配分はすでに暴力である。

もちろん第三者は、「これはよくない」とはいえるが、当事者はそうはいっていられない。

罪と罰』に以下のような箇所があるのを思い出した。

"Ah, well, man holds the remedy in his own hands, and lets everyting go its own way, simply through cowardice --- that is an axiom. I should like to know what people fear most: whatever is contrary to their usual habits, I imagine. (人間てのは解決策は持っているから、すべてをなすがままにさせる。単に臆病だからだ。これは決まっている。僕は知りたい、人間が最も怖れるもの、すなわちいつもやっていることの反対を)

多くの人間は臆病だから、何もせずに日々を送る。

ラスコーリニコフ自身もそうした自分を自戒する。

But I'm talking too much. I talk and so I do nothing, though I might just as well say, I do nothing and so I talk.(しかし僕はあまりに話しすぎる。話すから何もしない。いやむしろ何もしないから話すといった方がいい)。

僕もブログを書くこと自体に、その種の自戒を感じ、その際には書くことを行動とみなして留保してきたわけだが、Faulkner の登場人物なんかの場合、全く説明がなく行動ばっかりで、その胸のうちに秘めたものが全く描かれないところにこそ、文学の真髄である時代の主観を客観的に表明するものだったのだと思う。

犯行者がここで犯行声明ではなく、あらゆる厚生省および役人を人質に匂わせて、国に対して妥当な法案を提案したら、ラスコーリニコフとは異なり、単なる貧困に打ちのめされた人間の殺人ではなくなる。

文化と文明 7

2008-11-17 22:20:57 | 宗教
女王陛下、それは良いご質問です なぜ誰も金融危機に気づかなかったのか――フィナンシャル・タイムズ(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース

Interesting, but you can be more insightful.

大元の問題は、金ですべての価値を表わすことの脆弱さだと思うな。

人間の表現基準は、ことば、数、音、絵だけども、そのうち、数もしくは自然科学が20世紀後半から猛威を振るった。

サルトルが負けたのはいってみればレビストロースの背景にある自然科学といってよかった。

言語学者までが文字通り父親は自然科学者で、その手法で、20世紀後半を席巻した。

それが可能だったのは、文化圏(常識)が固定していたからだ。

数は、もともと抽象概念でしかない、つまりとても文化的なもので、多文化的な環境でそれをやれば、ある紙幣は同時に1でもあり100にもなるはずだ。

以前はそれを使って儲けたわけだが、今は違う。

僕はやはり経済の unstability 、もしくは多文化圏にまたがった価格差が問題になったのだと思う。

もちろんそんなことはもう4~500年も続いているが、それまでと違うのは、以前も書いたが、近代化の一特徴である特権化の廃止に向かっているからだ。

少なくとも19世紀以前の段階で欧州に特権がなかったはずはないが、今はかなり特権化が薄れている。

それからこの問題についてはもうひとついいたいことがある。

なぜこの世界規模の喪失感を嘆いたり謳う人文系の人間がいないのだろう。

毎日育児に追われて忙しい男の耳に入る世界が共有する感情を文学者か哲学者の言葉でいまだに叫ばれないのだろう。

僕はそのことも同様に問題視すべきだと思う。

Contradictions

2008-11-16 22:29:16 | 歴史
宮崎あおい主演のNHK大河ドラマ『篤姫』をみた。

幕末の賑わいは、志士や幕府役人たちによってつくられるものだが、興味深いのは、維新がそうした活動をしていた階層自体を消滅させる革命だったこと。

その矛盾に気づいている志士は当時何人いたのだろう。。。

そしてそれは現在にもいえる。

今不要なのは、まさに改革をしている階層である。

無政府主義を主張したいわけではなく、今あるものとは違った組織が必要だといいたい。

江戸幕府では当時の国際的な状況を踏まえた金融問題を対処できなかったから維新が必要だったのと同様、高齢化、多様な価値観といった現代に合わせた組織である。

そうした認識から以下の記事にあるようなObamaの活動が生まれてきたのなら、Obamaに期待ができる。

「チームオバマ」がウェブサイト…政策PR、求人コーナーも(読売新聞) - goo ニュース

というのも、アメリカも同じように公務員が宙ぶらりんになっていた(Washingtonpost)。

今ある組織で違う仕事は難しいから、新たに組織体系をつくり、人材も育てた上で、既存の組織を解体する以外にないと思うから、まずリクルートは不可欠だろう(日本の民主党もあれだけ政権交代と役人非難を謳うのだから当然そうした準備は進んでいるだろう)。

いうまでもなく「組織 orgnaization」は有機体であることが望ましいから、有機体内のある部分が他の部分を搾取する形態であれば長続きはしない。いずれにせよ公務員は、国という組織の一部であることを忘れてはならないわけである。

だから以下のような記事を読んでいると悲しくなる。

団塊公務員の退職金は借金頼み 44道府県4200億円(朝日新聞) - goo ニュース

判断丸投げに反発=給付金の所得制限-市町村(時事通信) - goo ニュース

とにかく日本の問題はやはり、革命をもたらす芽がない、ということに尽きる。

つまり現状把握とそれに対する処方箋をみつけさらに実行に移すまでの process management が全く念頭にない。

結局あの戦争のときもこんな感じで進んだのだろうと思った。いきあたりばったりで本当に責任感のあるひとはいなかった。

あの戦争の反省は、アジア諸国への謝罪や武力行使の是非といった部分的なもので終わらせず、自分の選択した言動が一体どういう結果および波紋をもたらすか、を真剣に考えることだった、とは思わないのだろうか(「反省」の英語はreflectionで「熟考」の意)。

「丸投げ」とか「所得制限額がいくら?」という観点で今回の問題を論じるのであれば議論のための議論にしかならず現状は変わらない。とにかくコメントを見る限りでは、知事も全く真剣に受けとめていないみたいだし(実務上の問題しか考えてない)、総理大臣が漢字の読みを間違えたことをとやかくいうマスコミも同様に非難を楽しんでいるに過ぎない。

今一番の問題である政府と国民の貸借関係を是正する案を少しは考えて発表してほしい。

以前も教育基本法に関連して書いたが、国という単位は欠くべからざるものである。その国に属すがゆえに命まで投げ出すことになるやもしれぬ運命共同体の関係が国と国民の関係だと思う。

しかし運命共同体の義務をお互い踏み出そうとせず、中福祉中負担で落ち着こうというのが今の総理大臣の言だ。

これではどこぞの非正規雇用社員と同じである。国民が本当に期待したいことをやらないなら、国に属す意識も薄らぎ、国を愛すことなどありえないどころか、つきあいたくもない。

たとえ給付金が数万円あったとしても健康保険料が何十万とあるのではあまり意味があるようには思われない。しかもその何十万の金をこれから何年も徴収されるのである。

自分が勤める会社からインチキな商品をつかまされてるようなものだ。

しかも一般の経済活動でなら、そうした信頼のおけない会社の商品は買わないとかやめることができるのに、政府からは一方的に国民の義務という言葉で縛られるわけである。

もう時間がないので無理矢理締めくくりたいのだが、朝鮮の李朝時代を思い出した次第。

The Teacher(補足)

2008-11-15 22:51:26 | 宗教
昨日は半日の教える仕事の日だった。

講師室で早弁してると、次のような会話が聞こえてきた。

「最近の学生は時事問題に関心がありませんな、今日Obamaのことを話しましたが誰も関心を持ちませんでした。」

「そんなのいい方ですよ、今不景気になりつつあるのに、その話にもノって来ないんですから」

どのツラ下げてこんなことをいってるのだろうと振り向いてみた。

大体不景気がこれから始まるなんて認識は教員として相応しいのだろうか。この不景気は構造上の失陥なんだから以前からこうなることはわかっていたことだろうがっ、ノれてないのはあんただっ!

と心の中では怒鳴ったが、弁当を食べる時間があと2分を切っていたから、現実的に出来なかった。

子供が生まれると、子供の教育について考えざるをえなくなる。

世の親御さんたちはどの幼稚園に、どの学校に、といろいろ考え、その結果が妻を介して僕の耳にも入る。

しかし本当に真剣に考えているのだろうかといぶかざるをえない。

ルソーがいうように、自分の子をたくせると思える教育者に出会うより自分がやる方が容易である。

教育は知識を与えることではない。

もとい。

正しくは「教育」ではなく、Educationというべきだった。

「教育」は社会的な慣習ほか知識を年長者が若い人間に与えることである。儒教圏の国々では妥当な「教育」の定義だといっていい。

しかしEducation は違う。Educe と同根で、発展するために導くことをいう。

もちろん儒教圏と異なり、個性を大事にする文化圏での言葉だからみなが同じ知識を共有して同じような人間になることを目的とした「教育」ではなく、各人によってその発展の仕方や行方が異なることが含意されている。

だから世の親御さんたちが熱を上げているのはまさに「教育」である。

しかしそうした限定的な世界に飼いならされる「教育」は本来親が考えることではく、むしろどこに飼いならされるかは本人が決めることで、親の責任は Education にかかっているはずである。

つまり今いる段階から次にステップアップさせる導き手がEducator だから、限られた時間ではなく子供が大人になるまでずっと付き添う親にしかできない。

このようなEducator の条件としてルソーが挙げている最も重要なものは、Educator の金銭での利益に関わらないことというのは面白い表現である。

僕は教える仕事はしているけれどもそれを本職にしたくないとずっと考えてきた理由が最近ルソーを読んでわかったような気がした(フランス語の学習のためにここ10ヶ月ほど日課にしている:全然進まないが)。

Educator になれなくなるからである(その理由は簡単にいえば「金」のことを考えていたのではできない、全身全霊で行うものだからだ)。

といって実際には仕事としてやっているわけだからEducateより「教育」をしている時間の方が多いし、Educate を本当にやっちゃった学生はたったひとりで(もともとEducatior とEducateされる側の関係は親子のように相互に無償の愛に近い感情が生まれなければならない、ルソーによると:納得できる)、しかもEducatorとしての僕の判断が正しかったかどうかわからない。

なにせ僕が下した判断は、僕を否定させることがその学生の次のステップになると考えたのだから(その判断はきわめてCreativeである)。。。

Teacher は、「示すひと」という意味だが、Education をするための「示すひと」だという認識があれば、知らなかったり関心がない学生にあきれたりする必要はないはずである。

かくしてEducatorであるために、とまたReseauを開く秋の夜長であった。

Rules

2008-11-02 22:56:30 | 将棋・スポーツ
巨人・ラミレスがサヨナラ本塁打…日本シリーズ第2戦(読売新聞) - goo ニュース

気持ちよかった。

9回表裏は、西武、巨人共に同じような打順で、互いの主砲にまわっていた。

ただし解説者もいっていたが、両主砲とも当たっていないから、逆にソロソロ目が合いそうな気がして、西武の中村が打席に立ったときは嫌な予感がしたが、中村ではなくラミレスにその目が出た。

その後気持ちよく風呂に入れたが、つくづく野球は確率のスポーツだと思った。

一方午前中のNHK将棋トーナメントは、郷田9段対糸谷5段だったが、終始糸谷が郷田を上回る指し手で、完勝した。

郷田は9段としてはみっともない負けだったが、つくづく将棋は結局コルトイデレチョだと思った。

午後は村主のスケートと、石川のゴルフをみた。

今日の村主も素晴らしかったが、どうしても前回の冬季五輪の村主の見事な演技を思い出してしまう。あのときは荒川ではなく村主が金だと思ったが、なぜか村主が4位でメダルにさえ届かなかった。

石川の方はまだプロと呼ぶには安定した力が発揮されないと思っていたが、勢いに乗って初優勝した。

つくづくスケートは採点基準によるのだと思ったし、つくづくゴルフは勢いだと思った。

夜は、Washingtonpostで、Al-Quaeda ほかのテロリストを支援するグループのブラックリストが事実上無意味だということになったという記事を読んだ。

なんでも各国で法律上の制約ほかテロリストとみなすターゲットに差があったりするためで、その記事の副題にもGlobal System Faces Multiple Challenges とあったが、つくづく国際問題は複数のルールを同時に頭にいれなければいけないのだと思った。