竹中平蔵 特別インタビュー(後編)「日本が落ちぶれた本当の理由を語ろう」【岸博幸コラム】(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
今回の竹中さんのいってることにはほぼ全部同意できた。
というのも自画自賛だが、僕がこのブログで書いてきたことだからだ(福沢さんを例に出すところまで同じだった)。
結局日本の問題は個々の日本人の依存心に尽きる。
みながぶらさがって拠るべきところがないため共倒れになる。
歴史上では、依存できないとわかると目先の利益に目がくらんで突っ走った(90年代の終わりに韓国の大学の教員が日本の経済成長も戦争の初期段階での勝利はそれがたまたま機能しただけだといったが、はずれてない。何も戦争のことなんか反省していないのに反省したつもりになっている。そこまで竹中さんがいってたわけじゃないけど。。。)。
竹中さんの言葉の使いまわしのなかで曖昧というか多義なのは「改革」だと思う。
竹中さん自身はシカゴ派だけども改革の中身が今ひとつ明かでないから国の未来図も曖昧で、おそらく社会保障はヨーロッパ諸国のように手厚くしつつ競争力を高めることを念頭においているのだろうと予想される。
だからこそ世界のシステムの安定と刷新が不可欠で日本はそれに関与しなければならない、というわけだ。
そういえば先日Bostonglobe に、かつては絵空事だった核兵器全廃が、アメリカの歴代の政策責任者たちの間で真剣に議論されるようになったという記事があった。
問題はそれをどのように実行に移すかだが、その有力な案として世界をひとつとして扱う強力な権限を持つ組織作りが挙げられていた。
日本人としては、日本がそうした考えをずっと主張してきたにもかかわらず、そうした考えを主張してきた団体としてその名前さえ挙げられていないことにイラっときたが、金融危機問題同様、世界一国家というカントがいってたIdeaがそれなりにまともに議論の的になったことは喜ばしいことだ。
が、更にいえば、世界が共有できるイデオロギーの創出にも思いを致してほしいと思った。
昔Band Aidというイギリスの80年代の人気ミュージシャンたちで結成したグループの歌に、Do they know it's Christmas? という曲があった。
その歌詞は、Christmas というChristianity 文化圏での取り合えず戦争はやめるEvent を他の文化圏は知っているのか、我々は知っているから平和で豊かだが、彼らにもそれを教えてあげようじゃありませんか、という内容で、こういうある文化圏に偏った視点では、ほかの多文化圏の人間は受け入れるどころか憤ることにしかならないだろう。
話をモトに戻そう。
そんな依存をしない人間の典型として、ドイツの Ernst Wiechert を思い出した。
Thomas Mann などにナチス協力者の作家と称され、歴史上もそのような烙印を押されてしまったひとだ。
しかし二度にわたってミュンヘンかどっかでナチスの批判をやり、一方で多くの文化人や知識人が祖国を離れて文化人としての役割をドイツ国民に対して果たさなかったのに彼自身は国内でドイツ国民のためにモノカキを続けて慰めた。
つまり国から出て言論活動を続けるのと、国内で作家活動を続けるうちのどちらがドイツの作家といえるか、という選択だ(もちろんWiechert は後者だというわけだ)。
もちろん賛否両論あるだろうが、彼の言にはどこか綱渡りではあるけれども保守・革新の別ではくくれない(依存しない)ものがある。
面白いのは彼が以前書いたような意味での根っからの教員だったということ。
ケーニヒスベルク(カントの生地)で教員をやり、40歳のとき妻帯していながら恋に落ちてそのままベルリンに逃げ出してからも教員だったが、作家として活躍するようになっても、彼には教師らしい保守・革新の間の、というより第3の道としての「自然」が頭から離れなかった。
もともと11歳まで田舎で自然児として過ごしたことがその背景にあるのだろうけど、そうした教師歴伝としてはルソー(ルソーの後半の著作は、ただ文明批判のみをやるので好きではない)にも通じる。
諭吉っつぁんや漱石もそうだったけど、彼ら教師には独特の、個人主義を理想とした像があるような気がする。
そもそもWiechert はワイマール憲法に対しても違和感を持っていたのだから。
idiosyncrasy という言葉がFaulkner にもよく使われたが、彼にもそれを送りたい。
今回の竹中さんのいってることにはほぼ全部同意できた。
というのも自画自賛だが、僕がこのブログで書いてきたことだからだ(福沢さんを例に出すところまで同じだった)。
結局日本の問題は個々の日本人の依存心に尽きる。
みながぶらさがって拠るべきところがないため共倒れになる。
歴史上では、依存できないとわかると目先の利益に目がくらんで突っ走った(90年代の終わりに韓国の大学の教員が日本の経済成長も戦争の初期段階での勝利はそれがたまたま機能しただけだといったが、はずれてない。何も戦争のことなんか反省していないのに反省したつもりになっている。そこまで竹中さんがいってたわけじゃないけど。。。)。
竹中さんの言葉の使いまわしのなかで曖昧というか多義なのは「改革」だと思う。
竹中さん自身はシカゴ派だけども改革の中身が今ひとつ明かでないから国の未来図も曖昧で、おそらく社会保障はヨーロッパ諸国のように手厚くしつつ競争力を高めることを念頭においているのだろうと予想される。
だからこそ世界のシステムの安定と刷新が不可欠で日本はそれに関与しなければならない、というわけだ。
そういえば先日Bostonglobe に、かつては絵空事だった核兵器全廃が、アメリカの歴代の政策責任者たちの間で真剣に議論されるようになったという記事があった。
問題はそれをどのように実行に移すかだが、その有力な案として世界をひとつとして扱う強力な権限を持つ組織作りが挙げられていた。
日本人としては、日本がそうした考えをずっと主張してきたにもかかわらず、そうした考えを主張してきた団体としてその名前さえ挙げられていないことにイラっときたが、金融危機問題同様、世界一国家というカントがいってたIdeaがそれなりにまともに議論の的になったことは喜ばしいことだ。
が、更にいえば、世界が共有できるイデオロギーの創出にも思いを致してほしいと思った。
昔Band Aidというイギリスの80年代の人気ミュージシャンたちで結成したグループの歌に、Do they know it's Christmas? という曲があった。
その歌詞は、Christmas というChristianity 文化圏での取り合えず戦争はやめるEvent を他の文化圏は知っているのか、我々は知っているから平和で豊かだが、彼らにもそれを教えてあげようじゃありませんか、という内容で、こういうある文化圏に偏った視点では、ほかの多文化圏の人間は受け入れるどころか憤ることにしかならないだろう。
話をモトに戻そう。
そんな依存をしない人間の典型として、ドイツの Ernst Wiechert を思い出した。
Thomas Mann などにナチス協力者の作家と称され、歴史上もそのような烙印を押されてしまったひとだ。
しかし二度にわたってミュンヘンかどっかでナチスの批判をやり、一方で多くの文化人や知識人が祖国を離れて文化人としての役割をドイツ国民に対して果たさなかったのに彼自身は国内でドイツ国民のためにモノカキを続けて慰めた。
つまり国から出て言論活動を続けるのと、国内で作家活動を続けるうちのどちらがドイツの作家といえるか、という選択だ(もちろんWiechert は後者だというわけだ)。
もちろん賛否両論あるだろうが、彼の言にはどこか綱渡りではあるけれども保守・革新の別ではくくれない(依存しない)ものがある。
面白いのは彼が以前書いたような意味での根っからの教員だったということ。
ケーニヒスベルク(カントの生地)で教員をやり、40歳のとき妻帯していながら恋に落ちてそのままベルリンに逃げ出してからも教員だったが、作家として活躍するようになっても、彼には教師らしい保守・革新の間の、というより第3の道としての「自然」が頭から離れなかった。
もともと11歳まで田舎で自然児として過ごしたことがその背景にあるのだろうけど、そうした教師歴伝としてはルソー(ルソーの後半の著作は、ただ文明批判のみをやるので好きではない)にも通じる。
諭吉っつぁんや漱石もそうだったけど、彼ら教師には独特の、個人主義を理想とした像があるような気がする。
そもそもWiechert はワイマール憲法に対しても違和感を持っていたのだから。
idiosyncrasy という言葉がFaulkner にもよく使われたが、彼にもそれを送りたい。