雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

業と原罪

2014-06-21 05:48:23 | 料理
子供に善悪を教えるのは難しい。

その根源が業、原罪だろう。

他者を傷つけてはいけないといいながら、毎日殺して食べている。

この罪は菜食主義者でも免れない。

『みいちゃんがお肉になる日』を読んだところで、原罪意識までの話である。

そこでまた無私を取り入れることにしたい。

「私」をなくせば「私」は何億もの細胞や寄生虫が暮らす「国」か「惑星」になる。

もちろんこれまで食べてきた動物や植物も同じように考えるから「屠る」対象としての一個の多細胞生物が消え、「食べる」行為は、惑星間の細胞の移動になる。

この移動が行われる限りにおいて「食べる」は「殺す」とは異なることになる。

詭弁といわれるかもしれない。

惑星や国が壊れれば死滅する細胞もいるし、多細胞生物という単位を都合よく省略して、考え方によれば、国家間の武力衝突も是認されるやもしれない。

そこで更に気功師として条件を限定させてもらいたい。「適切に」食べれば、その食べられたものを殺したことにならない、と。

気功でいう「気」とは、多細胞生物の生命活動を可能にする「力」のことである。

身体には、窒素、鉄などいろいろな物質があるが、それら必要なものを摂取して、生命活動を可能にする総務課が存在するはずで、その力のこと。

僕が素粒子に注目するのは、その働きが、分子レベルで、物質の体裁、例えばエイチツーオーは、H二つとOをずっとくっつけたままにする「弱い力」と似ているからである。

死は、その力がなくなることで、「適切に」食べるということは、生命体を糧として取り込むときに、その力も頂くことである。

その力は、死んでも少しの間は残存している。

だから「気」は「生命力」などと呼ばれるわけだが、もし「適切に」食べられればその生命力は、捕食者の生命力に加わるから、単に殺したり消滅させたことにならない(実際生命体が消滅しても生命力は消滅するのではなく、この物質世界が非物資世界と袂を分けた瞬間から存在する力に還元されるだけだ)。

だから「適切に」食べるとはその力が残るうちに食べるということで、完全に死んではいない。完全に死んだものになると、いろんな化学物質が必要になり、多くの地球人は、本当に死んだものに化学物質を振りかけて食べている。

そんななかまたいいお店をみつけた。



アメリカン・イタリアンの店で、いい肉だった。

ごちそうさまでした。

自分のサッカー

2014-06-18 05:40:41 | 将棋・スポーツ
2014年World Cup一次予選で御存知のように日本が負けた。

引越しを間近に控えて観戦する時間はなかったが、本田のゴールまでみた。

あのゴールは芸術的で感動した。これまでの日本人のゴールではない。

自分たちのサッカーだけじゃないじゃないか、と、涙さえ出てきた。

「自分たちのサッカー」。

これは素人(僕だけ?)にはわかりにくい。

例えば将棋でいうと、僕は居飛車が得意というかそれしか指せないので、ゲームのときは居飛車を採用したいが、相手の出方次第では、苦手でも振飛車や角換わりを選ばざるを得ない。

こういうのを「自分の将棋が指せなかった」というのだろうか。

言わない。単に指し回せない未熟ということになる。

だから毎年TV中継される小学生の将棋全国大会決勝で、解説者が「○○君はどの陣形も指せる」というとき(毎年言うのだが)、愕然とするわけだ。

さてWorld Cupサッカー。

素人のために試合前夜にNHKで監督ザッケローニが「日本のサッカー」について説明してくれた。

ザッケローニが挙げた、日本の素晴らしさは、1人3役とでもいう器用さだった。

これは異文化理解として興味深い指摘で、サッカーに限らず、垣間見られるという。

だからザッケローニは日本が最後まで走りきれれば勝てる、といっていた。

確かに本田が点を取る前幾度ものピンチを救ったのは、攻撃陣で、岡崎、香川、本田だった。

しかしザッケローニの説明を聞いたときから嫌な予感がした。

既に負けているのでは、と。

将棋で守備陣が攻撃に参加するときはかなりヤバイ。そうしなければならないときは既に敗色濃厚だ(攻防の妙手はないわけではないが)。

しかも相手が身体能力が高い場合は尚更だ。

それはコートジボワールとやる前に練習試合でアフリカのチームとやったときにも明らかだった。

内田の脇からヘッドで叩きこまれたときの驚愕は、内田の表情からもわかろう。

ザッケローニが口にしない日本の問題点は、日本人全体にみられる精神的な臆病さだ。世界の舞台でそれを克服出来たのは、魔裟斗ほか数名でしかない。

だから自分たちのサッカーで勝てるという自信を与えることは重要だが、客観的な勝利が必要な大会ではそれでは難しかろう。

「相手の分析も重要だが、攻めなければ勝てない」というザッケローニが監督を生業にしてからずっとモットーにしてきたことをやればいいのだ。

そこに日本人の良さ(器用ではなく無理になる)を付け足す必要はない。というかザッケローニが選んだ日本代表はどうみても攻撃的なひとばかりだ。かつて日本が不得意とされた分野にこれ程タレントが揃ったことはない。

作戦は、ジャンケンのようにしてはいけない。

相手がグーを出すと思えばパーを出し、それを予測してチョキを出すという風に拡大すると、かつての日本軍のように自滅する。

今回の戦争では初めからみなが全開で動き回り過ぎていた。先取点取られても結構。しかしそれを上回る得点能力がある。

それが現チームの日本のサッカーではないだろうか。

もちろん時に攻防の妙手が出ていい(将棋で攻防の妙手が出るのは一試合に一度だ)が、ザッケローニには自信を持って日本にくる前から実践してきた攻撃重視のサッカーを展開してほしい。

繰り返しだが、現在の日本チームは、攻撃に特化したチームだ。ザッケローニが小学生相手に最初に気をつけた、長所を延ばすというモットーを思い出してほしい。

Ray Donovan

2014-06-07 06:24:49 | 宗教
ここのところ楽しみにみていたTV番組が終わってしまった。

RAY DONOVAN と KINGDOM で、前者がハリウッドのもみ消し屋とその一家を題材にしたアメリカのドラマ、後者がNHKのアニメで中国の戦国時代に奴隷から将軍に成り上がろうとする少年の話。

舞台は似てもにつかないが、主題は「リーダー」。

人間は歴史的に社会性を身につけなければならなかった生き物であること、そして大なり小なりグループを率いる役割の難しさ。個人の限界と、集団になって初めて生の推進力が出ることが示され、その上で、リーダーの資質を問う。

つまり全員を守りぬこうとするこだわりと、自己犠牲(集団内での自己の位置把握)、そして力量が問われるというわけだ。。

一見500年前に退行したかのようにもみえるが、20世紀の知識人は、数千年レベルでの一時代の終わりを指摘していたことを考えると、進歩的といえなくもない。

例えばJames Joyceは、神、王や貴族、民主主義を経て混乱期という四つのプロセスが時代のサイクルであり、現代(20世紀)は混沌で、次代は、新たな宗教(神)の出現が不可欠とした。

そして現代は、混沌で、Binary Thinkingの対立軸中妥当な着地点を各個人で見出さなければならない時代になるが、その着地点の一例を2つのTV番組は示しているとも言えた。

自分勝手な守るべきものと正義あるいは公平性の折衷で、正義がないと、自分が守るべき家族がついて来ない、という結論だ。

これは21世紀というよりは20世紀的結論だけれど、ここのところ新しい物語を読んでいない僕にとっては新しく感じられた。新たな時代へ向けて経験しなければならないプロセスとして。

エネルギーを奪い合い、金の流動性にひとがついていかれなくなり、カントがいう世界一国家の時代の到来が三百年以内に実現するのではとさえ思うこの頃の混迷ぶりは、新たな時代に向かう必要な過程なのだろう。

ではどんな「神」が出てくるのだろう。

手垢のついたものだし、これが新たな宗教になると思っているわけではないが、「無私」を挙げたい。

新見南吉の「牛をつないだ椿の木」を思い出してほしい。

物語は、ずっと歩きっ放しで、ノドが乾いたために牛を椿の木につないで、湧き水を飲みに行くのだが、湧き水と椿の木が離れているため時間がかかり、水を飲んで戻るまでに牛が椿の葉を食べてしまうところから始まる。

この牛飼いは、地主に子供のように叱られて、道路脇に井戸があれば、こんなことは起こらないどころか、ほかのたくさんの人々が助かるだろうと、牛飼いと一緒にいた男Aが思いつく。

しかし当時の金で三十円という大金はない。

そこで金のあるひとに頼みに行く。

すると小金を持つその男は、なんでオラがみんなで使う井戸作りをしなければならない?と一蹴される。

Aは思う。こういうのは他人に任せてはダメだ、と。

そこでAは募金箱を設置する。みんながこれで助かるのだから、少しずつ喜捨してもらおうというわけだ。

しかしいっこうに金は集まらず、またAは思う。他人に任せてはダメだ、と。

そこでAは生活を切り詰めて二年後に必要な金をためるが、いざ井戸を掘る時に問題に出くわす。

あの地主が、自分のことしか考えない権化が、許可を出さない。

Aは何度も頼むが、無碍に断られる。死んでも許さん、と。

すると本当に地主が死にそうになる。シャックリが何日も続いて。

しかしうなだれるAに救いの手が差しのべられる。地主の跡継ぎの息子が、親父は頑固だけど、死んだら許可を出します、と言ってくれる。

Aは喜び、早く死んでほしいと思う。

が、その話を聞いたAの母親が怒る。自分の願いのために他人の死を望むならお前も自分のことしか考えてない、と。

Aは反省して地主に謝りに行く。他人のためにと頑張ってきたが、地主の死を願った時点でAも同じだった、申し訳ない、と。どこかほかの場所に井戸を計画するから死なないでくれ、と。

すると地主の氷が溶け、井戸を造る。Aはその後日露戦争で亡くなるが、みんなのための井戸は残った、という話。

則天去私は、確かに宗教にはみえない。

しかし、またかといわれそうだが、昨今則天去私が気功にも新たな壱頁を与えてくれることが分かった。

不思議なことだが、自分の気を全部吐き出すと逆に早く充満するのだ。

リーダーが無私になったら、それはリーダーとはいえないかもしれない。また、ひとでさえないかもしれない。しかし今の僕には「無私」が一番の近道にみえる。

6月の放射線感知情報

2014-06-06 21:50:15 | 震災
21日: 14時過ぎから「中の中」かな。力がいるというよりは通過させるしかない。

20日: 「弱の上」か「中の下」、結構強い(0:07)。

17日: 23時前には「中の中」。久しぶりにこらえるのに力が必要だった。

9日: 8日は22:50前後から「弱の上」、今日9日はお昼前くらいからかな、「中の下」。

7日:23:00前かな、「弱の上」に上がったのは(23:39)。

6日:季節の変わり目に風邪をひくというのはよくあることだが、最近の風邪の原因は被曝かもと思われるひとがとても多い。咳の仕方や症状(長引き方)に大いに特徴がある。僕が除染できることなど信じてもらわなくてもいいが、もしつらいようなら丸一日絶食するといい。かなり抜けるから。さて、六月にはいって約一週間だが、多くて「中」どまり。今も雨にまぎれて21:30頃から「弱の上」くらいになっている。そうそう、放射線感知者をもうひとりみつけました。世の中は広い。