娘の音楽教育(といってもただ楽しませようとしているだけだが)の成果か、期待した通りの音楽に娘が好感を示すようになった(洗脳?)。
ズバリ、気の入った音楽である。
ただ旋律が美しいだけの軽いものには目もくれない。
が、演奏に真摯で気力が充実していれば、はじめて聞いたものでも、何もかも中断して聴いてくれる。
例えばフルヴェンの45年のブラームス1番(第4楽章のみ)。
特に前半(6分前後)が素晴らしく、娘はそれまで僕とじゃれあっていたのだが、曲がかかると、急に立ち上がって指揮を始めた(ただ手をたゆたたせていただけだが)。
更に先日 Miyu-Miyu がよかったので、もう一枚買ってみたのだが、今回はすぐに耳をすませて聴いたのち、「ちょっと気に入った」とつき返した。
僕も同感で、先日の作品の数年前に出来ただけあって、ヒットはしたらしいが洗練度に欠け、作品の密度が薄い。このアルバムより、サザン桑田の『ひとり紅白歌合戦』の方が評価しているみたいだった。
僕はとてもこの結果に満足している。
別に音楽を教えたいわけではなく(実際教えられないが)、要は、その濃密さのあるものを識別できるようになってもらいたかったからだ(娘にはもともと英語のsensible の悪い意味をとった日本語の言葉をその名に選びました)。
だから音楽にこだわっているわけではない。
たまたま赤ん坊の五感のなかで最初に突出するのが聴覚だからというだけだ。
しかし今娘は2歳をあと2ヵ月に控え、言葉と映像、数ほかの指標を使えるようになってきた。
それらすべてを使って「状況」を「感じる」のだ。
筒井康隆の言い方を借りれば「臨場感」で、大江さんなら「想像力」、僕なら realization ということになる。
音楽も「ライブ」がいいといわれるのもその臨場感があるからだろう。
というのももともと音楽も「音」(旋律)のみで存在するわけではない。
音楽がある場所に行き(おそらくそれ相応の場所が設定されているだろう)、ミュージシャンがいろいろな表情で演奏し、そのまるごとを体感して「音楽」だったはずで、その「音響」を統括するミュージシャンの力量に感服するわけである。
しかし蓄音機によって音響の中の「音」だけが抽出されるようになり、20世紀の音楽媒体の多くは、音による臨場感で勝負するようになった。
そして音楽が音のみを重視する伝統があるから、ヘビメタなんぞは・・・という「偏見」(?)がなんとなく存在したわけだ。
が、現在は音のほかに映像、特にCGを加えたDVDが普及しているわけだからその臨場感の精度は上がっていないとおかしい。
そんな場合子供用DVDはとてもポイントが高い。NHKだけでなく海外の子供用番組もとてもCatchyであるが、ここのところ新たな展開をしたくて、ジブリの海外版を購入した。
海外版にしたのは、もちろん英語教育のためではなく、単に日本より価格が安いのに日本語のほかに外国語が2、3ついているから、日本で買うより断然お買い得だからである。
しかも僕の場合通訳が仕事の一部だから、ジブリ作品の英訳に非常に興味がある。
例えば『耳をすませば』。
この作品はとても日本的で、先日オシムがいっていたようにいわゆる西洋で認定される「対話」がない。
それこそが「売り」だと思うのだが、英訳ではそうはいかないから、かなり登場人物たちは喋らされている。
英訳のタイトルは、Whisper of the Heart、つまり「心のささやき」で素晴らしい訳だと思ったが、果たして「心のささやき」を完全に言葉にして登場人物に語らせてしまったのだ(もちろん編集できるのはそこしかないわけだから仕方がないが)。
ちなみに英語圏で「心」は少なくとも3つには分かれ、感情を司るHeart、知的意図がMind、魂が住むSpiritであるから、「感情を司る心のささやき」でまさにそういう話であることに合点がゆくだろう(日本語の『耳をすませば』もそういう意味で使われているのだろうが、直接それが伝わるわけではないところにまた面白みがある)。
娘もそれを知ってか知らずか、「耳をすませて」みていた。
言葉がわからないから、登場人物たちの「感情の心のささやき」を映像と声音だけで追い続けていた。
僕は満足し、これもわかるのか、と感心していたのだが、天沢の祖父が骨董品の時計を覗くためにハシゴをもってきたとき、
「金柑とるんだっ、おじいちゃん、金柑とるんだっ!」(ずるいっ)
と叫んだときには「ずっこけた」(思春期の悩みはまだ早かったらしかった)。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16。
ズバリ、気の入った音楽である。
ただ旋律が美しいだけの軽いものには目もくれない。
が、演奏に真摯で気力が充実していれば、はじめて聞いたものでも、何もかも中断して聴いてくれる。
例えばフルヴェンの45年のブラームス1番(第4楽章のみ)。
特に前半(6分前後)が素晴らしく、娘はそれまで僕とじゃれあっていたのだが、曲がかかると、急に立ち上がって指揮を始めた(ただ手をたゆたたせていただけだが)。
更に先日 Miyu-Miyu がよかったので、もう一枚買ってみたのだが、今回はすぐに耳をすませて聴いたのち、「ちょっと気に入った」とつき返した。
僕も同感で、先日の作品の数年前に出来ただけあって、ヒットはしたらしいが洗練度に欠け、作品の密度が薄い。このアルバムより、サザン桑田の『ひとり紅白歌合戦』の方が評価しているみたいだった。
僕はとてもこの結果に満足している。
別に音楽を教えたいわけではなく(実際教えられないが)、要は、その濃密さのあるものを識別できるようになってもらいたかったからだ(娘にはもともと英語のsensible の悪い意味をとった日本語の言葉をその名に選びました)。
だから音楽にこだわっているわけではない。
たまたま赤ん坊の五感のなかで最初に突出するのが聴覚だからというだけだ。
しかし今娘は2歳をあと2ヵ月に控え、言葉と映像、数ほかの指標を使えるようになってきた。
それらすべてを使って「状況」を「感じる」のだ。
筒井康隆の言い方を借りれば「臨場感」で、大江さんなら「想像力」、僕なら realization ということになる。
音楽も「ライブ」がいいといわれるのもその臨場感があるからだろう。
というのももともと音楽も「音」(旋律)のみで存在するわけではない。
音楽がある場所に行き(おそらくそれ相応の場所が設定されているだろう)、ミュージシャンがいろいろな表情で演奏し、そのまるごとを体感して「音楽」だったはずで、その「音響」を統括するミュージシャンの力量に感服するわけである。
しかし蓄音機によって音響の中の「音」だけが抽出されるようになり、20世紀の音楽媒体の多くは、音による臨場感で勝負するようになった。
そして音楽が音のみを重視する伝統があるから、ヘビメタなんぞは・・・という「偏見」(?)がなんとなく存在したわけだ。
が、現在は音のほかに映像、特にCGを加えたDVDが普及しているわけだからその臨場感の精度は上がっていないとおかしい。
そんな場合子供用DVDはとてもポイントが高い。NHKだけでなく海外の子供用番組もとてもCatchyであるが、ここのところ新たな展開をしたくて、ジブリの海外版を購入した。
海外版にしたのは、もちろん英語教育のためではなく、単に日本より価格が安いのに日本語のほかに外国語が2、3ついているから、日本で買うより断然お買い得だからである。
しかも僕の場合通訳が仕事の一部だから、ジブリ作品の英訳に非常に興味がある。
例えば『耳をすませば』。
この作品はとても日本的で、先日オシムがいっていたようにいわゆる西洋で認定される「対話」がない。
それこそが「売り」だと思うのだが、英訳ではそうはいかないから、かなり登場人物たちは喋らされている。
英訳のタイトルは、Whisper of the Heart、つまり「心のささやき」で素晴らしい訳だと思ったが、果たして「心のささやき」を完全に言葉にして登場人物に語らせてしまったのだ(もちろん編集できるのはそこしかないわけだから仕方がないが)。
ちなみに英語圏で「心」は少なくとも3つには分かれ、感情を司るHeart、知的意図がMind、魂が住むSpiritであるから、「感情を司る心のささやき」でまさにそういう話であることに合点がゆくだろう(日本語の『耳をすませば』もそういう意味で使われているのだろうが、直接それが伝わるわけではないところにまた面白みがある)。
娘もそれを知ってか知らずか、「耳をすませて」みていた。
言葉がわからないから、登場人物たちの「感情の心のささやき」を映像と声音だけで追い続けていた。
僕は満足し、これもわかるのか、と感心していたのだが、天沢の祖父が骨董品の時計を覗くためにハシゴをもってきたとき、
「金柑とるんだっ、おじいちゃん、金柑とるんだっ!」(ずるいっ)
と叫んだときには「ずっこけた」(思春期の悩みはまだ早かったらしかった)。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16。