雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

気の持ちよう17:耳をすませば

2010-01-31 18:18:16 | 音楽
娘の音楽教育(といってもただ楽しませようとしているだけだが)の成果か、期待した通りの音楽に娘が好感を示すようになった(洗脳?)。

ズバリ、気の入った音楽である。

ただ旋律が美しいだけの軽いものには目もくれない。

が、演奏に真摯で気力が充実していれば、はじめて聞いたものでも、何もかも中断して聴いてくれる。

例えばフルヴェンの45年のブラームス1番(第4楽章のみ)。

特に前半(6分前後)が素晴らしく、娘はそれまで僕とじゃれあっていたのだが、曲がかかると、急に立ち上がって指揮を始めた(ただ手をたゆたたせていただけだが)。

更に先日 Miyu-Miyu がよかったので、もう一枚買ってみたのだが、今回はすぐに耳をすませて聴いたのち、「ちょっと気に入った」とつき返した。

僕も同感で、先日の作品の数年前に出来ただけあって、ヒットはしたらしいが洗練度に欠け、作品の密度が薄い。このアルバムより、サザン桑田の『ひとり紅白歌合戦』の方が評価しているみたいだった。

僕はとてもこの結果に満足している。

別に音楽を教えたいわけではなく(実際教えられないが)、要は、その濃密さのあるものを識別できるようになってもらいたかったからだ(娘にはもともと英語のsensible の悪い意味をとった日本語の言葉をその名に選びました)。

だから音楽にこだわっているわけではない。

たまたま赤ん坊の五感のなかで最初に突出するのが聴覚だからというだけだ。

しかし今娘は2歳をあと2ヵ月に控え、言葉と映像、数ほかの指標を使えるようになってきた。

それらすべてを使って「状況」を「感じる」のだ。

筒井康隆の言い方を借りれば「臨場感」で、大江さんなら「想像力」、僕なら realization ということになる。

音楽も「ライブ」がいいといわれるのもその臨場感があるからだろう。

というのももともと音楽も「音」(旋律)のみで存在するわけではない。

音楽がある場所に行き(おそらくそれ相応の場所が設定されているだろう)、ミュージシャンがいろいろな表情で演奏し、そのまるごとを体感して「音楽」だったはずで、その「音響」を統括するミュージシャンの力量に感服するわけである。

しかし蓄音機によって音響の中の「音」だけが抽出されるようになり、20世紀の音楽媒体の多くは、音による臨場感で勝負するようになった。

そして音楽が音のみを重視する伝統があるから、ヘビメタなんぞは・・・という「偏見」(?)がなんとなく存在したわけだ。

が、現在は音のほかに映像、特にCGを加えたDVDが普及しているわけだからその臨場感の精度は上がっていないとおかしい。

そんな場合子供用DVDはとてもポイントが高い。NHKだけでなく海外の子供用番組もとてもCatchyであるが、ここのところ新たな展開をしたくて、ジブリの海外版を購入した。

海外版にしたのは、もちろん英語教育のためではなく、単に日本より価格が安いのに日本語のほかに外国語が2、3ついているから、日本で買うより断然お買い得だからである。

しかも僕の場合通訳が仕事の一部だから、ジブリ作品の英訳に非常に興味がある。

例えば『耳をすませば』。

この作品はとても日本的で、先日オシムがいっていたようにいわゆる西洋で認定される「対話」がない。

それこそが「売り」だと思うのだが、英訳ではそうはいかないから、かなり登場人物たちは喋らされている。

英訳のタイトルは、Whisper of the Heart、つまり「心のささやき」で素晴らしい訳だと思ったが、果たして「心のささやき」を完全に言葉にして登場人物に語らせてしまったのだ(もちろん編集できるのはそこしかないわけだから仕方がないが)。

ちなみに英語圏で「心」は少なくとも3つには分かれ、感情を司るHeart、知的意図がMind、魂が住むSpiritであるから、「感情を司る心のささやき」でまさにそういう話であることに合点がゆくだろう(日本語の『耳をすませば』もそういう意味で使われているのだろうが、直接それが伝わるわけではないところにまた面白みがある)。

娘もそれを知ってか知らずか、「耳をすませて」みていた。

言葉がわからないから、登場人物たちの「感情の心のささやき」を映像と声音だけで追い続けていた。

僕は満足し、これもわかるのか、と感心していたのだが、天沢の祖父が骨董品の時計を覗くためにハシゴをもってきたとき、

「金柑とるんだっ、おじいちゃん、金柑とるんだっ!」(ずるいっ)

と叫んだときには「ずっこけた」(思春期の悩みはまだ早かったらしかった)。

追伸:これまでの「気のもちよう」123456789101112、13、141516

大番狂わせ

2010-01-30 11:27:08 | 雑談(ジョーク)
前回の追伸に、

<あと数日で2月であり、2月といえばバレンタインデーである。自分が愚かだなぁと思うのは、全くもらえる予定はないのに、なぜかウキウキしてしまうところ。「ひょっとしたら」と、大番狂わせを期待してしまう。>

と書いた。

そうしたら今日、その大番狂わせが起きた。

値段的には高くはなさそうだし、別に何かが始まるわけではないのだが、なぜかすごく嬉しくなってしまうところが僕の愚かしいところだ。

これも気功講座での話で、講座中いつも熱心な目をしているひとりではあった。

まだ講座は残っているのだが、本業の大学生の方が忙しくなったのでもう来ることはないから、と僕にチョコレートをくれた。

僕の愚かしさというか、喜びようは、僕の応答、「ありがとうっ!いやぁ、わるいなぁ、わるいなぁ、どこか体調悪いところある?いやぁ、悪いなぁ、悪いなぁ」と講師とは思えない同じ言葉の繰り返しからもわかろう(「悪いなぁ」を「嬉しいなぁ」に換えて読んでも一向に差し支えない)。

乙女はちょっと驚いたようだったが、「じゃ、そういえば喉が・・・」といった。「風邪引いたみたいで」と。

そこで椅子に座らせると以前やったように痛みをとった。

その乙女もほかのひと同様かなり驚いた。

その証拠に「これ冗談ですか、嘘ですか?」と訊いた。

僕は「あなたの症状がなくなったりすることに僕が嘘をつくことはできないでしょう」と落ち着き払った講師口調でいった。

「そ、そうですよね、先生が嘘つけるわけないですねっ、すごいですねっ」

彼女が upset したことに満足してエンターテイナーと化した僕は、「ほかに何かありませんか?」と訊いた。

乙女は少し考えてから「・・・ありません」といった。

「じゃぼくがさがしてあげましょう」とお腹を気でさぐらせてもらった。

するとおへその九時と四時半の方向にいわゆる硬結が発見された。

脾臓と小腸だね、風邪とかの場合はよくありますけど、しっかり野菜とか繊維のあるもの食べた方がいいですよ、といった。

すると乙女が「なんであたしが肉しか食べないの知ってるんですか!」と驚いた。

一応確認させてください、君のお腹の二点を今から押します。すごく痛いはずです。

乙女は「そんなはずはない」という顔をしながらもどうぞといった。

こういうときにそろそろと触るといやらしいからズブっといった。

乙女は激痛に声が出ず涙が出た。

僕はそのまま容赦なく硬結の頭を抑えた。

乙女は、すごく痛いですね、といいつつ耐えていた。

硬結にだんだん邪気が集まってそれを抜いた。

どうですか、すっきりしたでしょう?

乙女は少し自分を点検したあと、「ほんとだ、お腹から下が軽いです!」と呆然として自分の身体なのに自分の身体じゃないみたいに確認してから、「有難うございましたっ」と叫んだ。

僕は「こちらこそチョコレート有難うございました」と応じると、乙女がいった。

「やっぱりすごいものなんですね気功は!私、精神世界に興味があってこの講座をとったんですけど、なかなかそういうところのお話は聞けなかったので、就職活動もありますし、失礼だとは思ったんですけど、やめようと思ったんです、でもやっぱり出たくなりました。チョコレートは、バレンタインのときにもっとちゃんとしたのを持ってきます!」

ちゃんとした?

僕は彼女が出て行くのを見送り、軽薄なピンクと黒の紙袋の「ちゃんとしていない」チョコをみながら、「所詮オレのバレンタインなんかこんなものだ、2週間も早く渡されるバレンタインなんてこんなものだ」と心の中でつぶやいた。

朝までOK(加筆)

2010-01-27 13:45:10 | 文学
久しぶりに湯斗に誘いたくなるような乙女に出会った。

そこで日時の打ち合わせをしたとき、「何時ごろまで大丈夫かな?」と訊いた(住む場所によっては終電がなくなるとか、いろいろあるから)。

すると「Stoneさん次第で、朝までOKです」といわれた。

思わず「朝までといわれてもこっちは体力が。。。」といいかけたがやめた。

はたで聞いてて、あまりに意味深な解釈がありえるからだ。

もちろん彼女がいいたいのは、この時間をとても貴重と考えているのでできるかぎりあけてあります、だが、ひとによっては解釈は異なろう。

ちなみにこの解釈複数存在がフェミニズムの淵源だと思う。

個々の経験や条件によって解釈が異なるのに、それをひとつにしようとして問題が生じた。

足で顔を踏まれて怒るやつもいれば泣いて喜ぶのもいるらしいし、若くして乳がんで亡くなる女性を涙なしにみられないひともいれば羨望の眼差しを送るひともいるということだ。

そのためソーシャリスト・フェミニズムは解釈複数存在すなわち pluralism を理想として選んだ。

すなわちフェミニズムは文学なのである。

どういうことかというと、文学は回答をくぐりぬけるものなのだ。

社会学や脳科学が昨今幅を利かせているようだが、どんな回答を出したにせよ、そこにはない回答が必ずみつかる。

例えば社会学はデュルケムが最初だそうだが、彼が何をしたかといえば自殺の動機の統計をとった。

が、彼がみつけた自殺にいたる原因はすべてではないのだ。

もちろん社会学的な統計で十分かもしれないが、「その他もろもろ」に属す気持ちが大切にされるべきなのが文学なのだ。

今思うと恥ずかしいのだが、僕が大学の時某文芸誌に投稿してボツになった小説『日記を殺す』は自殺とは何かに回答を探そうとして自殺する人間を描いた。

彼にとって自殺は人間が唯一神に反逆する手段だった。

本来個人的な問題で解釈が末広がりになるはずの問題を社会学は現世に限定させて、人間の視界をせばめる効果を持つ。

もちろん現世に生きる人間にとってはそのような視界で十分かもしれないが、僕は精神世界やニューエイジに読者を誘導しようという意図も興味もない。ただ僕は、文学愛好者として視界が狭まることを窮屈に思うだけだ。

なぜなら文学は『水死』がそうだったように自分ひとりの結論を自分でみつけることだからだ(その結論の見方の幅がリアリズムでは面白くもなんともない、昨今は文学部の教授さえ世界はパワー戦争だという結論でそこから先にいこうとしない)。

フェミニズムの場合も本来とても私的な状況でのコミュニケーションで不快な思いから始まったはずである。

だが昇華されない情念は、行き場を失って社会に出てきた。その結果法的な公正さや社会進出の度合いばかりが問題になっているが、本来のフェミニズムの機縁となったはずのプライヴェートな状況は放って置かれている。

というか放っておかざるをえず、文学が扱わざるを得ないのだが、いかんせん文学の解釈も社会学か政治学の立場ばかりである。

つまり二項対立を中心にした批評でありそれとて旧世界の既知の指標から出ようとしない。

例えば子育ては母親が、つまり女性が大変であり、男は楽だという。

既知の指標ではそこで終わる。

だから例えば赤ん坊が黄昏泣きをした場合母親はその赤ん坊を放っといて隣の部屋にいた方がいいといったりする。赤ん坊の癇癪につきあっていたら母親がノイローゼになる、と。

しかし黄昏泣きを実際にみれば一番つらいのは赤ん坊だとわかる。

そんなときに隣の部屋にいる母親など、親ではない(親というのはとことん子供に付き合うものだ)。

嘆かわしいといわざるをえない。

追伸1:性欲も脳科学によって説明されるがこれについては別稿で。

追伸2:あと数日で2月であり、2月といえばバレンタインデーである。自分が愚かだなぁと思うのは、全くもらえる予定はないのに、なぜかウキウキしてしまうところ。「ひょっとしたら」と、大番狂わせを期待してしまう。

追伸3:加筆につぐ加筆なので、更なる加筆を呼ぶかもしれません。

奇襲

2010-01-24 00:29:38 | 将棋・スポーツ
僕は男のたしなみとしてシャンプーと歯磨き粉と髭剃りには「うるさい(picky)」男である。

シャンプーはいまだにみつかっていないが、この夏最高の歯磨き粉はみつけた。

いわゆるナスを焦がしたやつである。

これで磨くと、歯がキュッキュッとして気持ちよい。

その後なんとかシャンプーと髭剃りがみつからないものかと思ってきたが、このほど髭剃りに素晴らしいものがみつかった。

深く剃れて、それでいてヒリヒリしない。

素晴らしいと感心しながら、風呂場の鏡に映る自分の口まわりをみた。

あまりにも滑らかな剃り具合だったのでちょっとした冒険心が生まれた。

今思えばこの冒険心がいけなかった。

おそらくここで冒険心が出てしまった原因のひとつは、先週の日曜日にみたNHK杯での先崎 対 羽生 戦だったろう。

このカードは、羽生 対 森内ほかの対戦にはないクリエイティブ(悪くいえば奇をてらった)なもので、先崎が仕掛ける奇に羽生が更なる奇で応戦する面白さがある。

もうひとつ考えられる原因は、信長の桶狭間の「奇襲」である。

数日前、TOEIC講座をやっていたとき、学生のひとり(某大学院生)に歴史の質問をされた。

「奇貨」という言葉の説明のために桶狭間を例に出した。

ポイントは、歴史上の事件は、人力と運命の関わりの割合をみるところまでみなければいけない、桶狭間では信長のミス・ジャッジが結果として功を奏した、といった。

そうしたらその話を詳しく、とリクエスト(「質問」ではない)が出て、桶狭間の戦いを延々35分間も語った。

種明かしをすれば、藤本正行さんが書いてたことで、要は信長のミスジャッジ(相手は疲れている)を真に受けた信長の精鋭たちがドーンとぶつかって今川本隊に穴をあけ、もともと横綱相撲をとるつもりの今川本陣に食らいついた、というものだったのだが、その大学院生は巷の小説やドラマでやってるような、早朝起きた信長がただ一騎で走り出し、最終的に雨にまぎれて義元を討ち取ったという話しか知らなかったため、城の位置関係、信長の出陣経路などを久しぶりに我を忘れて(本来の業務を忘れて)とり付かれたようにひとに語ったのだ。

このふたつのエピソードに共通するのはなんといっても常識では計れないレベルまでの突っ込みで、僕はこのかみそりはどのくらい切れるのか、髭以外で試してみたくなったのだ。

そこでまゆを剃ったのだが、今まで使ってきたかみそりと異なり、なんの痛みもひっかかりもなくスパッと右側の眉、5分の1が消えた。

鏡を見るとあきらかにアンバランスで、左もそったが、結局そりすぎで両者を合わせるために結局両方のまゆから4分の1が消えた。

寝る前に妻にそれを伝えると、僕のまゆをみて、更に30分間爆笑し、「かみそりの奇襲だね」と捨て台詞を残して寝てしまった。

うまいことをいう、と思ったが、今日仕事で誰かに指摘されやしないかとヒヤヒヤしていた。

対岸の火事8

2010-01-16 22:47:52 | アメリカ
アメリカのメディアで、Al-Quaeda のテロ対策に触れぬ日はない。

アメリカが後手後手に回っているとか、Al-Quaedaはおそるるに足りないが過小評価はやめようなど様々で、その甲論乙駁さが、いかに事態が難しくなっているかを示すものである。

こういうのをみていると、先月行われた大江さんとル・クレジオのノーベル文学賞対談での、大江さんの言葉、「戦争は負けるための戦うこと」を思い出す。

この戦いは一体なんだろう。

アメリカはすぐに「民主主義のため」を口にするが、テロ・グループに言わせれば、逆に民主主義のために戦っているということになるかもしれない。

以前も書いたが、「合衆国」とは「多から一、一から多」という意味で、国家全体を一とすることも大事だが、国家の成員である個も大事にする、というきわどい調整を念頭に置いた名称で、米で民主主義を大事にするということは、個を大事にすることだからである。

そう主張したものとしてもちろん南部人Thomas Nelson Page をあげたい(南北戦争がまさにそうした戦争だったからだ)。

まず前提として、ほとんどの国家では、国民全員の幸せは約束されず、必ず何某かの理由をつけて(イデオロギーという)犠牲者が出ることを是とする。

国民の例えば70%が幸せなら30%がたとえ不遇でも致し方ない、とするわけだ。

以前も書いたが、人間の歴史は、王(プラス貴族)、封建制度、近代、と幸せな人間の割合がだんだん増えるシステム作りに励んできたわけだが、それは、政治がうまくいっているかどうかは、幸せな人間と不遇の人間の割合はもとより、幸せと不遇自体の程度の差も少なければ少ないほどいいということを前提にしているからだろう。

しかしヘーゲルが理想のシステムが出来上がったといってから200年、幸せな人間の割合は上昇しているのだろうか。

先日ある気功講習会で雑談混じりに今この日本という国で幸せなひとの割合をアンケートしてみたら、50%いないのでは、というのが大半だった。

もちろん個重視がテロ集団になるというのではあまりに短絡的だろう。

不満足であったとしても無秩序になる方がさらに困るひと(例えば娘がいるとか)はテロに走らないだろうし、ある意味自身の身はどうなってもいいという前提がなければテロ集団には入れない。

ちなみにWashingtonpostによると、10万人あたりの自殺率は、アメリカが10人強なのに対し日本はその倍だが、とにかくそうしたひとたちの集団が、テロリストや犯罪者の温床になりやすいことにそれほど異論はあるまい。

だからテロは決して常軌を逸した異常者が引き起こす事件ではない。

むしろこれまでの歴史に連なる起こるべくして起こる事件であり、アメリカは、近代国家間戦争を制した民主主義国家として、この戦いを戦うべくして戦っているように思うのだ。

そして日本でのそうした相克の顕れが毎年コンスタントに出ている自殺だ。

にもかかわらず「自殺はよくない」とか「まわりに相談すれば」とか表面的で道徳的問題に終始し、構造上の問題と考えないのではなく考えないようにしている日本に本当のテロ対策など考え付くはずがない。

ただし逆に言うと、そうした不徹底さが、二項対立で突き詰めている国々で起こるような事件は少ないようには思うから結局一長一短なのだろう。

ちなみに先日(Bostonglobeに載っていた女性の顔写真には驚いた。

パキスタンで20代前半の女性が求婚を断ったら、その求婚者(とその仲間)がその女性の鼻や耳をそぎ落とし、求婚者も自分がしたのと同じ罰を受ける判決が下ったが、こういうのをみると、ハラウェイなどがフェミニズムはまだ終わらないと述べる理由や、『水死』にも書かれていたが、ピカソが描くような、女性と子供に逆に未来が託されている気もする。

追伸:これまでの「対岸の火事」1234567

退行6もしくは気の持ちよう16

2010-01-14 22:36:08 | 宗教
昨日の夜、『清水の次郎長』(正確なタイトルは未確認)がやっていた。

まずどうして親分役が中村雅敏なのかが理解できなかった。

それ以前にあのひとにさむらいのカツラが似合わないと思うひとがスタッフにいなかったのだろうか。

また、Matrix ばりの特殊効果といい、CMに流れるパチンコの宣伝といい、陳腐だったが、めげずに最後までみた。

というのも僕はこの話ほど、つまり森の石松の仁義ほど、好きなものはないからだ。

資料によって異なるが、この映画では次郎長親分との刀を抜かないという約束を守って石松は頓死するのだが、現実になりつつある死より親分との約束を優先させる愚かしさにジーンと来るのだ。

おそらく「なぜ現実の死より約束という抽象的なものを選ぶことが美しいんだ?死んじまったら約束もなにもないだろ、ボケ?」と問いかける人がいよう。

その理由は、そこにある種の「畏怖」があるからだと思う。

無限を数えることに挑戦する数学の美しさも同様で、例えば地球の人口が何十億といるわけだが、兆、京といった単位を問題にすることは少なくとも文系の人間にはない。

つまり現在の僕にとって、最も大きな数は、プラスでもマイナスでも「億」どまりであり、その幅が現在の人間が設けた限界といえるものだ。

無限を数えようとする試みは、現在知っている世界を超えようとする試みなのである。

ここで数学という枠を科学にまで拡げてみよう。

現在環境汚染が叫ばれているが、物理とか化学ではこうした現象をエネルギーとかエントロピーといった概念でとらえる。

純粋に科学すると、ある作用がマイナスに起こっているとすると、全く異なるところでプラスの作用が起こっていると考え、エネルギーの動きはとどまらない。

例えば僕が息を思いっきり吐き出しても、その息は数メートルとんで霧散すると思われるが、純粋な科学では、霧散後の僕の息はなんらかのものにかかわりをもち、生かされ、伝達され続けて消滅することはない。

たとえ微小なものになっても年月をかけて集まると、Big Bang のような大きな力をもたらすと考えられている。

つまり「霧散して消滅」とみなすのは単に人間の可視範囲というだけに過ぎないのである。

だから環境破壊がマイナスにすすんでいるとしてもどこかにプラスに蓄積されているところがあるはずであり、純粋な科学者は環境破壊を心配しない。

環境破壊は、石松が今殺されつつあることを心配するのと同じ次元でしかないからだ。

「目の前の現実をみよ」とはよくいわれるし本ブログでもよく書くが、上記のような視点に立てば単に自分にみえるものを見ているに過ぎない。

そんなこんなで気にかかるのが昨今の質より安価という傾向である。

数日前の日本農業新聞に、食品を選ぶときの指標ランクが載っていた。

昨年に引き続き、1位は「おいしさ」、2、3位に「安全」と「安さ」が並んでいた。

ちなみに1位から3位までは僅差で、昨年から大きく変化したのは、「安さ」の大躍進である。

以前Moneyに振り回される愚について書いたが、別に悪いことばかりではなく、よい方向で考えることができる。

ものの価値を金銭の量で表わすことは、何百億円もする絵画があるように無限を数えるのに似ているからだ。

たとえ同じものにみえても、そこに違いを見出せるからこそ、ワインにもあのような価格の違いがある(もとよりIntelligenceとはそうした識別する力をいうはずである)。

しかし物体は確かにエントロピー、ゼロである状態を求めるとはいえ、現在のWindowsのような1と0という二項対立的な短絡思考はなんだっ!

人間が物体でしかないことをまざまざとみせつけられている気がしてイライラする。

ちなみに数学や科学は確かに畏怖があって素晴らしいが、僕にはどうしてもそうした理系の力を疑ってしまう。

その原因となってるのが気功との出会いである。

昨年ついに気が目で見えるようになったのだが、例えば「化け学」ではエネルギーが起こるには媒体の存在を前提とする。

例えば太陽の熱が地球上に届くのは太陽が燃えているだけでなく、その間に媒体があると考えるためだが、気功では遠隔操作が可能で、一般に言われる地球上の媒体である空気がそれを伝えているとは思えないからだ(「思えない」だけかもしれないが)。

つまりすでに数や科学自体が人間の可視範囲でしかないように思われるからだ(もちろんその通りなのだが)。

追伸:これまでの「気のもちよう」123456789101112、13、1415

水死

2010-01-12 23:08:04 | 文学
水死』読了。

大江文学の魅力は、ひとつの詩句に喚起され誘われるままに辿って行くと、詩句の新たな理解とともに現実問題を昇華し、乗り越える力を与えられる現場を描くところだが、『水死』を牽引した詩句は、エリオットの、これから水死するシーンを描いた以下の一節。

>海底の潮の流れがささやきながらその骨を拾った。
>浮きつ沈みつ齢の若さのさまざまの段階を通り過ぎ
>やがて渦巻きに巻き込まれた。

つまり人生のいろいろな時期を経て今老い、まさに渦巻きに呑み込まれるように死のうとしているというわけだ。

「水死」は俗に、水面で苦しみ足掻いて海底(川底でも湖底でもいいのだが)に沈み藻屑と消え、ある意味水と一体化してなくなるわけだから、「一見荒らしているようでいて最終的に調和する象徴」に使われるらしい。

が、この小説ではとても「調和」とは呼べない結末が待っている。

強姦され堕胎も強制された過去があるウナイコという女性演劇家がラストでまた強姦されるからだ。

一見小説前半とは一致しないこうしたイビツさが前景化される機縁に Said のいう「晩年の作品(late work)」がある。

「晩年の作品」であれば「調和」で締めくくるはずなのに、そのように落ち着くのではなく、むしろ更に進化を遂げようとし、逆にイビツさを孕むというものだからである。

そしてそのイビツさのメッセージは明瞭で、ウナイコ自身の言葉を借りれば、国家によって強姦され堕胎を強制し、かつそうした出来事を封印されてきたことを表わす、まさしく「戦後民主主義のアピール」であり、エリオットの詩の「水死」に照らしていえば、「水死」もまた「最終的な調和」ではなく、「迎合の強制」という新たな解釈がなされたということだ。

秦さんがいうように確かに大江さんが伝える敗戦直後の描写には無理があり、またアメリカの核を非難しつつ中国の核実験成功を賛美するような、一見矛盾する共産主義礼賛としか受け取れないものもあった。

しかし「矛盾する」とする見方は、長江古義人(作品の主人公である語り部)という個人全体をとらえていないからであり、そうした長江の個人的統合を補う部分としての「水死」が立ち上がってくる。

長江の父は敗戦後川で水死するのだが、その原因がわからない(その川の流れは激しいため当然水死するわけだから自殺にもみえる)。

長江自身は父が船出するとき少年で父に随行できなかったことをその後ずっと後悔してきたのだが、その原因を突き止める。

『金枝篇』にある共同体復活のために「人間神」を殺害が必要という記述に啓発されて、天皇のために殉死した、というもので、『こころ』の「先生」がウナイコらの演劇の題材になるのもその伏線であったことに気づかされる。

大江さんの作品の場合は、エッセイにしても細部が全体と密接に絡み合うという点で論文のようなところがあるが、『水死』もエリオットの詩句によって、自身が息子さんを残して死ぬ現状と、戦後民主主義、故郷への帰属、といったテーマが収斂し、「周縁」が長江の全体像であることを示して結ぶところに、大江さんらしさ、を感じ、満足した。

懐疑と独断

2010-01-10 19:08:18 | 宗教
正月などのやや宗教色のある節目になると、「ほんとに信仰心ないよね」とよくいわれる。

そういえば手相をみる知人にも「信仰心がないんだね」といわれたことがあった(「手相」に出るらしい)が、僕は、僕に「信仰心がない」というひとたちよりは少なくとも信仰心があるとそのたびに心の中でつぶやいてきた。

まず「宗教」というものについて、「不動明王」ほかでも書いたように、「宗教」という日本語より英語の religion の方の意味で認識しているのだが、「宗教」とは「畏怖」だと思っている。

自分の力が及ばないものがある、という認識である。

及ばないものは認識できるはずがないから、人間が知覚しうる「神」などという存在は信じられない。

人間の無力を感じていれば、いわゆる一般的に使われている意味での宗教などという妥協はできるはずがないと考えるからだ。

だから宗教(この場合も一般に言われる)を否定する輩に対しても切り込む。

宗教にしても気功にしても理性による客観主義を楯に否定するなら、僕に言わせればそれは単なる「理性信仰」に過ぎない。

また仏事をするのは所詮慣習や世間体を重視したためで、宗教なんてと否定する輩も同様で、「世間体」はまさしく「自分の力が及ばない」ことを示しているから気にするのであり、僕に言わせれば、一般的な意味での宗教を持つ人間と変わらない。

「世間体」も「理性」も「宗教」も自分勝手に「畏怖」すべき相手を特定している点で同じなのだ。

もとより「信仰」という言葉にも自身の定義がある。

間違っていないことに執着する」ことだ。

したがって「世間でそうだから」とか「神がそういっているから」とか「私の宗教が一番」とか「科学で証明されていない」とかいう言葉で軽々しく正否の決着をつける人間に「信仰心」があるとはとても思えない。

だから僕にとってはいつも数学や音楽の方がよっぽど「宗教的」である。

例えばカントールは「無限」を数えようとした。

数学をやる人間で「無限」から逃げるのは、僕にいわせれば「非信仰的」である。

また、ベートーベンは、音楽という捉えがたいものを更なる高みに達するための入り口、といった。

あの「動的な力」に畏怖がなければあのように飽くことなく追求はできないと思う。

まあ、これは懐疑主義という独断主義なんだけど、自分がいる世界に疑いを持たなければ新しい一歩はない。

追伸:Tiger Woods はキリスト教に改宗すべき?(NYTimes)

酒と言葉と音楽の渾然9

2010-01-06 22:09:54 | 音楽
今年の正月は、昨年同様気合が入っていて、元旦の朝から、年の暮れに発売された大江さんの新作『水死』を読み始めた。

本作は、エリオットの詩に触発された作品で、相変わらず大江さんらしい文学作品だった。

「大江らしい文学作品」とは、大江作品の主題である故郷に根ざした個人的な帰属性と、息子さんの障害と、サイードのいうlate work、そして歴史家・秦さんに非難される戦後民主主義者としての側面が全部混合されている、という意味である。

文学が人間の探求といったのは、Alexander Pope だが、人間が探求の対象となるということは人間を最小単位としてとらえるわけだから、上記問題は別個に存在するとは考えない。

大江さんがそれぞれの問題を一個の人間という枠組みのなかでどのように収斂させ回答を与える過程が、まさに文学という意味である(余談だが、大江さんが裁判に負けなかったのは意外だった。現在の司法では、罪というのは、罪を犯した側に決定的な指示が明白な場合に有罪となるはずなのだからそこをつけばよかったのに。つまり大江さんを攻撃するのではなく、将兵の名誉を回復するための裁判にすべきだった)。

そんなわけで一気に読了といきたかったが、なかなか浮世がそうさせてくれない。

まず障害になったのが酒。

今年は、黒牛(和歌山)と金寶自然酒(福島)を用意したが、いずれも郁々たる生井という感じで、こんなのがあるから多くの人間が酔生夢死してしまうのではないかと心配になったほどだ。

しかも今年は日頃ジェンダーなんぞを考えているからかそんな視点で宴に参加しつつ観察してしまったのだが、ひとつ気になった観察結果があった。

親族の男たちと酒を呑んでいて、ある男が酔っ払って自分の4歳になる娘を抱きすくめた。

父親としてかわいい娘を抱きしめるのだから、どおってことない、と思われるかもしれないが、これが逆だったら起こる確率は下がる。

女が酔っ払っていくらかわいいと思っている男に対してでも力ずくで押さえ込むことが出来ないからだ。

4歳の娘は自分の自由を完全に奪われる恐怖から泣いた。

と同時に四肢の自由を奪われる恐怖が僕に飛び火し、おぞましく思った。

これが女の恐怖だ、と。

もちろんこうした金縛りのような恐怖は女にも男に与える可能性はある。

このブログで何度も紹介したが来て、僕の娘と遊んでいてくれたのだが、そのときも僕は『水死』ばかり読んでいた。

するとそこにやってきて、「なんで(あたしが折角来ているのに)本なんか読んでるの?」と詰め寄られた。

「ごめんごめん」といって一通り遊び、また、こたつで読み始めると、再び姪がやってきて、「どうしてっ!」と今度は怒気をはらんでつめよってきた。

すごい剣幕だったので、「い、いや、ちょっとお正月で疲れちゃってさ」といいわけすると、その部屋に誰もいないのをいいことに部屋のドアを全部締め切ってふたりきりにして、「じゃあ、チューしてあげよっか」といわれた。

生まれてはじめて貞操の危機を感じた僕は、その部屋を出て、みながいるところに逃げた。「みんなで遊ぼう!」と叫びながら(声が裏返っていたかもしれない)、男女が2人きりになるのはよくないものだ、と心から思った。

あともうひとつが音楽。

なかなか普段時間がとれないので、娘にクラシックを教えるためにも、この年末年始はベートーベンを聴いたのだが、そうしたら『水死』にもサイードが大江さんに弾いてくれた、ピアノ・ソナタのグールド風2番の話が出てきて、そのCDおよびレコードがみつからず、家中を引っ掻き回してやっとのことで探し、心行くまで聴くにはどうしてもまとまった時間が必要なため、『水死』より優先させてしまったのだ。

そんなわけで読了にはもう少しかかる見通し。

とりあえず、あけましておめでとうございます。