雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

一網打尽

2008-07-25 23:01:59 | 文学
布団にダニがいるのではという疑いがあり、1日布団をほした。

この暑い中7時間は干しただろうか。

これがホントの一網ダニン

皮をやぶれ

2008-07-24 23:13:35 | 宗教
Did you know that your safety and security depend on gay men and lesbians?
(あなたの安全が同性愛者に依存していることをご存知ですか?)

Washingtonpost の今日の引用句である。

同記事によると、アメリカ軍の65000人が同性愛者で、重要なポストについていて、米軍にとっては不可欠なわけだが、いわゆるそれを隠しているため、同性愛者が軍務につく期間が伸び悩み、米軍にとって大きな痛手になっている。米軍は有能な兵士が必要なのだから、そのような自分にとって最も動かしがたいことにフタをするような、いわゆる Don't Ask, Don't Tell Policy はやめるべきだというのだ。

以前「皮に切りかかる」話を書いた。

これは悪い側面を書いたものだが、やぶることにいい側面もある。

というより、僕自身いつも「皮をやぶって」付き合えるひとを探している。

中島みゆきの歌の一節、「瞬きひとつの間の一生僕たちはみんな一瞬の星、瞬きもせずに、息をすることさえ惜しむかのように求め合」ってるわけだ(ここのコメント欄参照)

Donald Keene が以前、日本人がほかの国に負けないと思っている(もしくは思いたい)ことは、この真剣に向かい合うこと、だと書いていたことがある。

こうした問いに対する答えは、本来各人各様だが、自分がそれを大事にしていただけに(何より一番よく知っている日本人が自分なわけだから)、Donald Keene さんは本当に日本のことを知ってるんだなぁと感心したのを覚えている(ちなみに僕はアメリカ南部人に、「君は本当に僕らより南部のことを知っているかもしれない、本当にそう思えてきた」といってもらえたことがある:自慢)。

とにかく日本の茶道という奴は、まさにそうした空間と時間をつくるための舞台で、どんな奴でもにじり口から入るときは身をかがめ、娑婆での相対的な立場が消滅させられるのである。

確かに作法自体は中国の秘密結社で行われていたものらしいが、これが日本的な美意識にまでなったのは、日本人がもともとひととの「美しい」付き合いはそうした「皮をやぶる」ところにあると考えているからではなかろうか(だからこそ日本の宗教は俗世間から離れ、現実に力を持たないのだ:僕は真剣につきあうこととこの厭世観は似て非なるものだと思うから日本の大部分の宗教は嫌いだ。空海に魅かれるのは彼やその信奉者は少なくとも現実に作用するものとして考えていたからだ)。

といって何もかも喋ればいいというわけではない。

まして米軍はまさに娑婆の組織なのだから、娑婆臭くなって当然で意見は分かれるところだし、井上靖や野上弥生子が描く、利休と秀吉の関係を思い出せばその微妙さもわかるだろう。

ただし利休たちのそれは決して娑婆臭いだけのものではない。

村田珠光が「茶」の真髄に「質素」を上げ、利休も「質素」を口にした(と記憶する)が、両者の意味するところは異なる。

岡本太郎がうまい例を出したが、本来の侘び茶は、コンビニにロールスロイスでかけつけるような組み合わせをいう(すみません、この組み合わせを口にしたのは清原和博でした、でも大した差はないと思うのでこのまま行きます)。

つまり簡単にいえば利休のいう「質素」は「慎ましさ」、どんなに手をかけても、どんなに金を払って得たものでも、それが最高ではない、と思う慎ましさである。

その慎ましさがなんといっても湯斗にはある(だからこそ「皮をやぶってつきあいたいひと」を連れて行くわけだ)。

が、最近赤ん坊がいて湯斗に行く機会がなかなかつくれない。

もう3日もいってない。

追伸:Prius、リッター25.9で上がらなくなった。少なくとも僕の運転レベルでは限界だろうか。Priusの全国のドライバーさんたちによると、29とか30なんてのがあるから僕もいけると思ってたのに。。。いや、あきらめまい。

女の武器

2008-07-23 23:24:31 | 将棋・スポーツ
子供が生まれて以来、女体が性欲の対象でなくなった(ような気がする)。

これまで女性の cleavages は、男の視線を煩わすためにあるのだと思ってきたが、全然そんな風には思えない。

乳を飲むわが子をみて、これが本来の使い方かと思った。

しかし僕にとって武器ではなくなったものの、赤ん坊には強力な武器である。

赤ん坊がぐずるときでも、乳房を咥えさせれば、ナントカなることが多い。

が、僕にはないから、なんらかの技術が必要になる(こんな台詞を女性の同性愛者が口にするのをみたことがある)。

つまり女性は乳房という強力な武器のおかげで努力を怠るといいたいのだ。

そこへいくと僕は赤ん坊に快適な空間を提示しようと研究を怠らない。

といって赤ん坊も日々変わっているので一週間前と同じ抱き方をしていたのでは飽きる(毎日鯛の刺身を食べていれば飽きるように)ため、日々調整している。

そんなこんなで、乳房を使わずに眠らせることにかけては、神奈川県西部地区代表くらいのレベルにはなってるかもしれない。

ないものねだりはいけないし、それを精神論でカバーするのもよくない。

技術によるプラス・アルファ、これが京商人のやり方(自画自賛)!!

嵐を呼ぶ男

2008-07-17 09:39:01 | 雑談(ジョーク)
今朝仕事に行くとき、僕の前を二十歳前後の青年が寡黙に、何かを念じながら歩いていた。

その念じぶりにただごとならぬものを感じ、その念の行き先を探った。

彼の目の先には、スカートがやけに短い女子高生が歩いていた。

。。。。

どうやら、風よ吹けー、いや、嵐よ吹き荒れよー、と念じているらしかった。

それじゃあ、僕が高校生のときと変わらんじゃないかっ!

退行3

2008-07-16 15:56:54 | 将棋・スポーツ
僕はよくけむたがれる。格別悪いことをしたことはないと思っていても反感を買う。

なぜそうなるのかわからなかったが、ヘッセの作品によると、精神的な人間がそうなるらしい。

精神的な人間とは「肉」(Faulkner は flesh をあてた)としての人間ではなく、そこに宿る精神を重視する人間であり、「」を追い求めようとする人間である。

その無は「肉」としての生活とある種対照的にみえるから、反感を買い、同時に精神生活者は、現実の生活との葛藤に悩む。

ヘッセによると、その妥協というか折り合いの結果のひとつが、「教育」とりわけ「高等教育」だった。

浮世の雑事と密接な関係を持つ教育は本来初等教育で、読み書きそろばんをやる。

人間の「肉」としての社会生活の基盤が、「言葉」と「数」に依存したものだからである。

一方中等教育を経て、高等教育は、西洋の場合、ギリシャ時代の「教養」をやる。

人生全体を俯瞰するような立場のもので、目先のものにとらわれない視点の育成が主たる目的だろう。

だから「高等教育」を経たものが社会生活のなかの指導者層につくという慣行がある。

しかしそうした「教養」も時を経てシステム化されれば単なる liberal arts か、みなが共有する単語のひとつにしかならない(先日大学を卒業した人間の優秀性を口にするひとをみたが、そのひとからは何の優秀性も感じたことはない、ただそのひとはことばを他人より多く知っているだけだ)。

またそれを一歩先んじさせて、『ガラス玉遊戯』に出てくるカスターリエンのように contemplation を重視する機関に進化させても結局社会全体に寄与するものではない。

そのためヘッセのいう「高等教育」は上記のような意味でのシステム化された教育ではなく、精神的な人間が関わる教育をいう。

それをクネヒトに嘆かせたのである。

僕も不遜ながらそうした認識がずっとあった。

Obama のことも原油高騰も、面白い記事はたくさんあったが、敢えて書きたい気にならないのは、そうした精神みたいなものがないからだった。

僕にとっては、教員になるために金を払うことも、システム化された liberal Arts の試験で教員の採用を決定することも同程度にバカバカしい。

教育は今や完全にFlesh の領域なのである。

クネヒトが少年の教育にこだわったのは、現在の教育が flesh にのみ関わっていることを糾弾するためではない。

本来の教育は親が実子に対してするもののようなもので、どんなひとであれ直面する可能性の高い課題だといいたいのだろう。

我が子の生涯をトータルにみて、数十年ほど長く人間社会を生きた成人として、我が子にどのように生きてほしいと思うか。

そこにFlesh としての喜びだけではないものが少なからず挿入されるのではないだろうか(Flesh としての喜びを僕は全く否定しないし、否定するだけならただのカスターリエンになる)。

例えば昨日のNHKの『プロフェッショナル』には棋士羽生と森内が出てきた。

彼らいわく、10代の頃は、単なる勝敗だけにこだわっていたが、30代になってそれができなくなった。

森内いわく、将棋は確かに理詰めで推測するものだが、理詰めだけの勝負ではなく、そこに「自分」が加味できたときに満足する。

その「満足」のことをいっているのである。

僕のような凡人には、「無」までは手に入れられそうにない。だから文字や数字、音、色をつかって、一生懸命それに手をのばす。そして各々が自分に見合った手段を用いてそこに挑戦し、自分の「無」への道筋を見出せたらそこに第一歩があると思う。

追伸:Prius、25.8キロ突破。

黄昏泣き

2008-07-13 21:58:32 | 宗教
今朝爽快な朝を迎えたのち、子供のおしめを換えようとしたら、

おむつから大がはみ出て、背中にまわっていた。

仕方なく僕はパンツとTシャツを着たまま風呂に駆け込み、

一緒にシャワーを浴びてその運を落としたわけだが、

そのときまたもや乳首を吸われ、今日は更なる快感を感じた。

思えばこのようにひとに乳首を求められたことはなかったし、

乳首の快感もこれまで味わったことはなかった。

そののち、最近赤ん坊が宵闇の頃になると、ぐずりはじめ、

ひどいときは1時間も火がついたように泣き、

何をしても泣き止んでくれないという、

いわゆる「黄昏泣き」というやつになるので(ある種この時間帯には恐怖を感じる、こっちが虐待しているかのようななき方をするから)、

今日はその対策を講じた。

一般に原因は神経過敏やアレルギーといわれるが、

あるひとから「黄昏時になると寂しくなるから」という見解を聞き、

それなら「侘び寂び」の日本文化継承者として克服してやらねば、と思い、

こういうときこそ「対峙」を教えることにした。

「対峙」といってもなんのことはない、泣きにはいりそうになると、

『巨人の星』の主題歌をかけつつ、

「オレをみろ!父ちゃんはここにいるぞ」とがなりたてるのだ。

そうするとわれに返って僕の顔をみて、笑い、

今日初めて「黄昏泣き」がなかった(さっき寝た) 祝!

秋山君

2008-07-10 09:34:45 | 雑談(ジョーク)
先日実家に行って、実家最寄の駅から実家まで歩いていく途中でのこと。

小学校と中学校で同級生だった女性に遭遇した。

お互い名前は忘れていたが、

お互い「あっ」という声を出して、指をさしあった。

問題はどちらが先に互いの名前を思い出すかだったが、

僕はまったく出てこず、先に思い出したのは、その女性。

「思い出したっ」という顔をして、

「秋山君!」と叫んだ。

僕は「違う」とサラリといって立ち去った。

追伸1:秋山君は僕の家の真向かい。

追伸2:Prius、リッター25.7キロ。もう限界だと思ってたのに。

海辺の母子像

2008-07-09 15:47:46 | 宗教

和室にいた乳児、庭のたらいで死亡 京都(朝日新聞) - goo ニュース

以前にも紹介した、ピカソの「海辺の母子像」という絵画を思い出した。


(買った絵葉書)

早朝誰もいない浜辺で母が赤子を抱いている(ように思う)。

なぜ早朝かといえば、おそらく安全な時間帯だからかもしれない。

主題は、人間の希望は未来にしかない、だと思う。

現状にはよいところがないとはいえないが、

絶望としかいえない部分もあるから、

それが消えるのは未来でしか期待できない。

それをこれほど如実に描写するオブジェとして、

自分では何もできない赤ん坊とそれを守ろうとする母親、

これ以上のものがあろうか。

あたかも人間が生まれながらに、

未来にのみ期待して生きていくように定められたかのようだ。

その赤ん坊がどんなやつになるかはわからないが、

母親の健気なほどの赤ん坊への献身と、

誰かの手がかからなければ絶対に生きていかれない赤ん坊の無力さ(ゆえの未来の可能性)がすごく大事に思えてくる。

といってその可能性は大なるものではない。

その母親が手にしている真紅の花ほどに微細なものだ。


そんなエピソードが先の中国の大地震であった。

母親が生後三ヶ月の赤ん坊を抱いて亡くなっていたが、

赤ん坊は毛布に包まれて無事だった。

傍らの携帯電話に、母は永遠に赤ん坊を愛する、とメッセージが残されていたという。

泣けた。。。

赤ん坊は母親がいなくて悲しい思いをするだろうし、

きちんと育つかはわからないが、

この母親の献身と無力な赤子が残された事実にこそ、人間がキレイゴトをする意義だと思ったりした。

追伸:Prius、リッター25.6突破。


室町ふたたび18

2008-07-08 23:59:59 | 文学
秋葉原事件、加藤容疑者を精神鑑定へ(朝日新聞) - goo ニュース

洞爺湖でのサミットに対し、抗議をしているひとたちの言い分をテレビでみた。

そこに集まっている世界主要国のリーダーたちがなぜ世界のトップといえるのか、という。

洞爺湖サミットに先立ち京都で行われた世界宗教会議でも、同様の趣旨のことが述べられていた。

世界の中心はやつらじゃない、と。

加藤容疑者はこう思うだろう、だからといってあんたたちでもない、と。

世界の中心は、一皮向けば自分である。

それが女性であるからとか、肌の色がどうだからとか、偏差値がいくつだからとか、そういった理由で、自分の言動が制限されることが、その一皮をかぶせられる社会化だとしたら、そんなものない方がいい。

それまで自分は完全ではなかったにせよそれなりに一生懸命やってきたのに、その皮をかぶった社会化した人間として生きていこうとした瞬間なぜこんなにもみえないカベにぶちあたるのかと考えたのなら、そんな皮は破り捨てたくなる。

彼は個人に切りかかったのではなく、その皮に切りかかったのである。

ただしその皮を切ることは社会のなかにはいられなくなることでもある。

にもかかわらずそのように自らを世界の中心に据えることをはばからない衝動に覆われたとき「精神異常」といわれるらしい。

Jonathan Swift も『ガリバー旅行記』のなかで、アリストテレス以降の西洋でのこうした「異常」視による切り捨て方は、なんと都合のいい、真実に目をつぶり、人間の無知を隠すことであるか、と嘆いていたが、Postmodernは、そうした「異常」や「Abnormal」が単なる「異常」や「Abnormal」といういわば「例外 error 」として切り捨てられることに疑問を呈したものだった。

いい加減、こうした問題を個人の「異常」という問題で片付けるのはやめてほしい。

これだけ皮をやぶることをはばからないひとたちが出ているのだからこれは error ではない(Error とはあるシステムでは説明のつけられない問題で、異常として片付けるしかない問題)。

それを彼に精神鑑定を受けさせて異常と判定して終わりにするなら、現存のシステムは際限なくこの手の「異常」を生産しつづける。

そして室町の足軽のように、「不遇」だと考えるひとたちは、「命知らず(にみえるもの)」として時代に切りかかり、皮をかぶった社会化したひとたちから一目置くだけではすまないような存在感を持つまで増殖しつづける。

追伸:これまでの「室町ふたたび」1234567891011121314151617

退行2

2008-07-07 21:44:38 | 宗教
コンビニの深夜営業自粛 名古屋市長は「考えていない」(朝日新聞) - goo ニュース

本当に地球温暖化を止めたいなら、やめるべき。

それからTV局の深夜放送も。

あれだけ口うるさく温暖化をやめようと口にしているメディアが排出量の上位に名をつらねているのでは説得力がない。少なくともできるだけのことはしないと。

それから携帯電話も。

あのようにエリアのあるところならどこにでも電波をまきちらしているなんて、エネルギーのムダがはなはだしい。

生物学でいうと、進化は、本来数うちゃあたる式から特化に向けてに移行するもの。

亀はたくさんの子を産むし、虫媒花の方が風媒花より進化しているとみなされる。

そこへいくと、Globarization をはじめ携帯など昨今の進化がみな「特化」というよりは数撃ちゃあたる式が多い。

あの戦争の失敗も「特化」していた連中が数うちゃあたる式を決行したからともいえる。

人間は進化しているのか退化しているのか。

もちろん動物がそうだからとか生物がそうだからとかいったことが進化や退化の基準になるわけではないし、progress という単語は本来「よくなる」ことを含意するわけでもない。

また最近アメリカの一極支配が終わって喜ぶやからがいるが、一極支配が終われば、よい時代がくると決まってるわけではない。

アメリカがあのまま強引だったら原油高が起こったかどうか。。。

日本のように食糧自給率が低く他国に依存せざるをえない国にとってどちらがベターか考えての結論ならいいが。。。

ただ桜はあれほどの花を咲かせて種をその木のまわりに落とすが発芽せず、間伐を自主的にやっているところをみると、津村喬のいう「礼」、すなわち最適の緊張感の体現ではないか、とただただ感心させられる。