Washingtonpost に、これから必要なのは、資本主義でも福祉国家とも違うものであり、どちらか一方を選ぼうとする議論の無意味さを語ったものがあった。
以前も書いたように今国家もしくは行政府に必要とされているのは、一見正反対にみえるバックアップであるが、別にこれは正反対ではなく、以前から政府のすることで問題はなかったのだ。
今これが問題にみえるのは、その両輪が同時にまわらないことで、経済成長の方がにっちもさっちもいかなくて困っている。
ところで日米文化圏上の差で面白いと思うのは、前回も書いた、全体と部分のバランスを西洋では考えるから、アメリカでは、部分が正反対のベクトルであることを同居させる全体の枠組みを模索する必要があるといっているのに、日本の国会ではそんなことは全く意に介してない風にみえること。
もちろんこの差は優劣の問題ではない。日本が維新時に近代欧米に対応できたのは、まさにこの無節操さによったわけだからだ(同時に現在の不景気をもたらしたのも全体をみなお無節操さだが)。
しかし全体と部分どちらで攻めても最終的に足かせとして見出されるのは近代国家制度(?)という枠組みになるはずである。
さてここで面白い問いかけがしたい。
宗教と国、どちらが普遍的な、より大きな枠組みといえるのか。
そんなことに触れていたのが、こちらのWashingtonpostの記事。Obama が今度カソリック系の大学でスピーチをすることに対し、Abortion と Embryo の問題で反対しているカソリック保守派が疑問符をつけたが、同記事は、認めるべきだという論を張ったもの。
Catholic がProtestant も所詮我々の中の一派と呼ぶような議論の持って行き方かな、と予想して読んでいたら予想に反し、宗教より国の方が大事、我々はCatholic やProtestant、あるいはAbortion に反対・賛成よりもまずアメリカ人なんだから、と来た。
しかも大学は、これも以前引用したローマ法王が述べていたように、そのような学際的な場であるわけだから、むしろ光栄なこととして受けいれろ、と。
家康の手を焼かせた宗教一揆集団は、所詮家康は現世のボスに過ぎないとして果敢な抵抗(というより全く恭順を示さなかった)をし、家康に2度と宗教がらみに手は出すまいと考えさせたのとエライ違いである。
もちろんこれは日米の差ではなく時代の違いだが、国という区画の扱いに国内外で差が出ていることがわかる。
その矛盾を放っておく(現実的には放っておく以外ない)わけだから、今回の経済会議で大事なのは、世界経済全体の成長、ということになってくるが、これは、その矛盾を解消するのと同じくらい実現性に乏しく思うのは僕だけだろうか。
かくして国外で競争、国内で福祉、ということになり、国単位で会社になることが求められるが、これも以前も書いたように、経済の高低差がすぐにならされてしまう今日では長続きしない。
しかも問題は長続きしないことではなく、そのときにしぶとく生き残るかどうかというフルイにかけられることだ。
そんな意味でブラウン首相がさっきTVでいっていた金融機関に資金を与えるより規制が重要とする見解には賛同する。
金融機関に資金をつぎ込んだり不良債権を肩代わりすることは動脈に血をながすことだが、以前も書いたように、今血液が流れないのは、血液がないからではなく、既存の血管が役立たなくなっていることだからだ。
ここでメタファーを植物に換えよう。
既存の血管を植物の根と仮定してほしい。そうすると、既存の根が水を吸い上げなくなっているから木が成長しない、ということになる。
木の場合根がダメになる一歩手前ですることは、逆に根を陽にあてて水をぬくことである。
そうすると、逆に既存の根から細い糸みたいなのが出てきて新たな根をつくる。
この新しい根が出るかどうかがフルイである。
以前も書いたように今国家もしくは行政府に必要とされているのは、一見正反対にみえるバックアップであるが、別にこれは正反対ではなく、以前から政府のすることで問題はなかったのだ。
今これが問題にみえるのは、その両輪が同時にまわらないことで、経済成長の方がにっちもさっちもいかなくて困っている。
ところで日米文化圏上の差で面白いと思うのは、前回も書いた、全体と部分のバランスを西洋では考えるから、アメリカでは、部分が正反対のベクトルであることを同居させる全体の枠組みを模索する必要があるといっているのに、日本の国会ではそんなことは全く意に介してない風にみえること。
もちろんこの差は優劣の問題ではない。日本が維新時に近代欧米に対応できたのは、まさにこの無節操さによったわけだからだ(同時に現在の不景気をもたらしたのも全体をみなお無節操さだが)。
しかし全体と部分どちらで攻めても最終的に足かせとして見出されるのは近代国家制度(?)という枠組みになるはずである。
さてここで面白い問いかけがしたい。
宗教と国、どちらが普遍的な、より大きな枠組みといえるのか。
そんなことに触れていたのが、こちらのWashingtonpostの記事。Obama が今度カソリック系の大学でスピーチをすることに対し、Abortion と Embryo の問題で反対しているカソリック保守派が疑問符をつけたが、同記事は、認めるべきだという論を張ったもの。
Catholic がProtestant も所詮我々の中の一派と呼ぶような議論の持って行き方かな、と予想して読んでいたら予想に反し、宗教より国の方が大事、我々はCatholic やProtestant、あるいはAbortion に反対・賛成よりもまずアメリカ人なんだから、と来た。
しかも大学は、これも以前引用したローマ法王が述べていたように、そのような学際的な場であるわけだから、むしろ光栄なこととして受けいれろ、と。
家康の手を焼かせた宗教一揆集団は、所詮家康は現世のボスに過ぎないとして果敢な抵抗(というより全く恭順を示さなかった)をし、家康に2度と宗教がらみに手は出すまいと考えさせたのとエライ違いである。
もちろんこれは日米の差ではなく時代の違いだが、国という区画の扱いに国内外で差が出ていることがわかる。
その矛盾を放っておく(現実的には放っておく以外ない)わけだから、今回の経済会議で大事なのは、世界経済全体の成長、ということになってくるが、これは、その矛盾を解消するのと同じくらい実現性に乏しく思うのは僕だけだろうか。
かくして国外で競争、国内で福祉、ということになり、国単位で会社になることが求められるが、これも以前も書いたように、経済の高低差がすぐにならされてしまう今日では長続きしない。
しかも問題は長続きしないことではなく、そのときにしぶとく生き残るかどうかというフルイにかけられることだ。
そんな意味でブラウン首相がさっきTVでいっていた金融機関に資金を与えるより規制が重要とする見解には賛同する。
金融機関に資金をつぎ込んだり不良債権を肩代わりすることは動脈に血をながすことだが、以前も書いたように、今血液が流れないのは、血液がないからではなく、既存の血管が役立たなくなっていることだからだ。
ここでメタファーを植物に換えよう。
既存の血管を植物の根と仮定してほしい。そうすると、既存の根が水を吸い上げなくなっているから木が成長しない、ということになる。
木の場合根がダメになる一歩手前ですることは、逆に根を陽にあてて水をぬくことである。
そうすると、逆に既存の根から細い糸みたいなのが出てきて新たな根をつくる。
この新しい根が出るかどうかがフルイである。