雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

フルイ

2009-03-31 09:25:40 | 時事
Washingtonpost に、これから必要なのは、資本主義でも福祉国家とも違うものであり、どちらか一方を選ぼうとする議論の無意味さを語ったものがあった。

以前も書いたように今国家もしくは行政府に必要とされているのは、一見正反対にみえるバックアップであるが、別にこれは正反対ではなく、以前から政府のすることで問題はなかったのだ。

今これが問題にみえるのは、その両輪が同時にまわらないことで、経済成長の方がにっちもさっちもいかなくて困っている。

ところで日米文化圏上の差で面白いと思うのは、前回も書いた、全体と部分のバランスを西洋では考えるから、アメリカでは、部分が正反対のベクトルであることを同居させる全体の枠組みを模索する必要があるといっているのに、日本の国会ではそんなことは全く意に介してない風にみえること。

もちろんこの差は優劣の問題ではない。日本が維新時に近代欧米に対応できたのは、まさにこの無節操さによったわけだからだ(同時に現在の不景気をもたらしたのも全体をみなお無節操さだが)。

しかし全体と部分どちらで攻めても最終的に足かせとして見出されるのは近代国家制度(?)という枠組みになるはずである。

さてここで面白い問いかけがしたい。

宗教と国、どちらが普遍的な、より大きな枠組みといえるのか。

そんなことに触れていたのが、こちらのWashingtonpostの記事。Obama が今度カソリック系の大学でスピーチをすることに対し、Abortion と Embryo の問題で反対しているカソリック保守派が疑問符をつけたが、同記事は、認めるべきだという論を張ったもの。

Catholic がProtestant も所詮我々の中の一派と呼ぶような議論の持って行き方かな、と予想して読んでいたら予想に反し、宗教より国の方が大事、我々はCatholic やProtestant、あるいはAbortion に反対・賛成よりもまずアメリカ人なんだから、と来た。

しかも大学は、これも以前引用したローマ法王が述べていたように、そのような学際的な場であるわけだから、むしろ光栄なこととして受けいれろ、と。

家康の手を焼かせた宗教一揆集団は、所詮家康は現世のボスに過ぎないとして果敢な抵抗(というより全く恭順を示さなかった)をし、家康に2度と宗教がらみに手は出すまいと考えさせたのとエライ違いである。

もちろんこれは日米の差ではなく時代の違いだが、国という区画の扱いに国内外で差が出ていることがわかる。

その矛盾を放っておく(現実的には放っておく以外ない)わけだから、今回の経済会議で大事なのは、世界経済全体の成長、ということになってくるが、これは、その矛盾を解消するのと同じくらい実現性に乏しく思うのは僕だけだろうか。

かくして国外で競争、国内で福祉、ということになり、国単位で会社になることが求められるが、これも以前も書いたように、経済の高低差がすぐにならされてしまう今日では長続きしない。

しかも問題は長続きしないことではなく、そのときにしぶとく生き残るかどうかというフルイにかけられることだ。

そんな意味でブラウン首相がさっきTVでいっていた金融機関に資金を与えるより規制が重要とする見解には賛同する。

金融機関に資金をつぎ込んだり不良債権を肩代わりすることは動脈に血をながすことだが、以前も書いたように、今血液が流れないのは、血液がないからではなく、既存の血管が役立たなくなっていることだからだ。

ここでメタファーを植物に換えよう。

既存の血管を植物の根と仮定してほしい。そうすると、既存の根が水を吸い上げなくなっているから木が成長しない、ということになる。

木の場合根がダメになる一歩手前ですることは、逆に根を陽にあてて水をぬくことである。

そうすると、逆に既存の根から細い糸みたいなのが出てきて新たな根をつくる。

この新しい根が出るかどうかがフルイである。

全体と部分

2009-03-23 18:00:59 | 将棋・スポーツ
昨日NHK杯は羽生が森内を下して優勝した。

勝負事というのは、ルールが決まっている以上、全体の枠組みと細部から成り立つことになる。

先日床屋さんと、人生の基本となる力について話した。

彼いわく25歳くらいまでにそれはつくられる、といったが、僕は30とかじゃないスかね、といった。

僕が考える基盤の力とは、細部というか部分から全体を見通す力のことだが、それがなかなか得られないと思ったからだ(30でも早いと思っている、孔子は40だといっているのだから)。

だから一般の社会生活は学業成績の結果という、人生の基盤の力ではなく、基本的な構造を題材にした青田買いで各人の仕事が分割されることになる。

この辺が人間が肉体に縛られるといわれる所以だろう。だから司馬さんなんかは、40から出てくる人間の方がすごい、といっていたわけだ。

僕が文部科学省担当大臣なら、そうした力を蓄えられるように編成しなおし、肉体のクビキを取り除くが(ただし就任後3年はほしいが)、教員免許更新制を新たな課税制度の隠れ蓑にするのが現実の行政者である以上、とても実現しそうにないだろう。

とにもかくにもそうした力をつける方法について話して楽しかった。

今回の決勝戦はそんな意味で、全体の枠組みと細部がコンパクトにまとめられたよいハイテク戦だった。

互いの玉がみえないところで、戦いが起こり、その後はいきなり互いの玉頭にピンポイント攻撃した。

そしてその細部の戦いで紙一重の差で羽生がかわして勝利した。

渋めだった。

不純

2009-03-21 22:48:25 | 音楽
音というのは、生まれてすぐに感応可能と先日NHKでやっていた。

それは娘の反応をみていればかなり実感できる。

単語の意味がわからなくても音で覚える。

先日もいろいろなひとに会って帰宅してから、ある言葉を連発していた。

「かわいい」である。

確かにどこにいっても赤ん坊が一番いわれるのはこの形容詞だろう。

そして面白いことに、彼女が感応する音もしくはメロディーは僕の頭からも離れなかったりするだけでなく、音楽というものが根源に持っているのは、やはり共同意識なんだな、と教えてくれる。

単にCatchy なだけでなく、他人とそれを介してつながった気分になる。

彼女がよく耳を傾けるのは、NHKの「おかあさんといっしょ」ほか、連続テレビ小説の「だんだん」の主題歌などだが、付き合って聴いているうちに、僕の頭の中でもこだまするようになってきた。

しかし彼女と違って大人の僕がいやしいなぁと思うのは、副作用で、『だんだん』主演のふたご、マナ・カナの区別がつくようになったことだけで終わらず、マナの方が僕のタイプだとわかったことだ。

しかも先日あるTV番組で、マナの好きなタイプの男性は、「みんなとあまり仲良くやれず、ちょっと影があるような、孤独な感じのひとがいい」(言ったとおりではありません)といっていた。

「やった」と喜び、その後は以前にも増して真剣に『だんだん』を観はじめたなどとは口が裂けても娘にはいえない、と思った。

酒と言葉と音楽の渾然7

2009-03-19 09:58:47 | 音楽
数日前、Cerebral と題する文章を書くきっかけになったドラマーと呑んだ。

デビュー作のCDも発売間近で、ラジオ出演やライブなど忙しそうだった。

なんでこんなミュージシャンが僕と知り合ったかといえば、僕がある講座で担当する米南部文化を受講してくれたためだ。

彼がまだNYにいたころ、アメリカではそれなりに知名度のあるドラマーの個人レッスンを受けた。

そこで、日本人である彼には全くアフリカ系アメリカ人が背負っているものを感じない、となかば罵倒されたらしい。

日本に帰り、十数年やってきたドラムをあきらめかけていたとき、僕の講座が目にとまり受講した結果、そのアフリカ系アメリカ人ドラマーに知らないと指摘された背景はこれだったか、と開眼したらしい。

その後数年彼は実学としてドラムを更に勉強し、今回デビューにいたったわけだが、その間もいろいろ会う機会があり、これまで親交が続いてきたわけだ。

なんでも僕の魅力は、どうしてそこまでこだわるかと思えるくらいの直球勝負にあるらしい(笑)。

僕は僕で、折角プロのミュージシャンに会うのだから、音楽について話をしたいとその約束をしたときからずっと考えていた。

そこでかねてから疑問だったことを考えることになった。

なぜブラームスとブルックナーが数奇か、ということだ。

以前も書いたが、人間の表現手段として普遍的な感じなのは、言葉、数、音、絵である(日本人としては味覚もいれたいが)。

そしてそれぞれが共有および固有の表現範囲を持っている。

音の場合、なんというのだろう、自分のなかに沸き返る力や感情そのもの、思想などを動的に表現する独特な力があると思う。

そうだとすると、僕はなぜ彼らにほれ込んだのだったか。

特にブラームスの場合、細かなところまでが心と感応し官能的な結びつきさえ感じさせるのはなぜか。

何を構築していたのか。

音楽のアマチュアである以上、彼らが何を描いていたのかを知る手段がないから、フルヴェンに頼ろう。

フルヴェンいわく、ブラームスは時代と対決し時代から自分を守らなければならなかった作曲家である。

はじめてこれを読んだとき「へぇ」と感心した程度でよくわからなかった。

しかし幸か不幸かわかる気がしてきた。

時代との価値観がズレている。

ということを痛烈に感じるようになったのは、以前からあったような気がする。

政治や社会を改変するような(大きなことをいうようだが)、そうした関わりさえバカバカしく思えてくるような根本的な違いがある、と。

もしそうであれば、どのようにして時代と付き合うか。

時代に通用する表現形態を用いてそうした自分を表現するしかない。

もしブラームスがフルヴェンのいう通りなら、今こそ理解できる気がした。

フルヴェンいわくそうしたブラームスの行為は「即物的」とかなんとかだったかと思うが、今僕がそれをして日々過ごしているからだ。

結局ミュージシャンに質問するのではなく自問自答して終わる形になったが、そんな思索の経緯は説明した。

お店は、以前乙女といった日本料理店で、今回も酒、肴ともに充実していた。

アナゴの稚魚とか、ニシンの握りとか、なかなか喰えぬものが並んだ。

ライブは音楽だけの特権ではなく、料理もそうだということをわかってもらえてうれしかった。