以前示したように、竜馬とはもともと対立すべき人間ではないのに、なぜあんなにも反感を覚えたのかが最近やっとわかった。
今という時代に「竜馬」が求められる不適切さが気に入らなかったのだ(竜馬の所為では全然なかった)。
確かに「竜馬」は現在必要にみえるかもしれない。
というのも現在の問題は過去の遺物処理にあり、その点竜馬の遺物に縛られない振舞は一見合致するようにみえる。
なんといっても昨今の政治家の言葉を聞いていると、彼ら自身が遺物である。
にもかかわらず一生懸命自分たちは遺物ではない、私たちにはまだ存在意義があると言い張って税金と称して金を集めている。
もちろん彼らだけでなく、いわゆる自民党の戦後60年体制を支えたほぼあらゆるシステムがそうした遺物であり、異物として排除すべきなわけだ。
しかしそんな絵空事をいっている場合ではない。
だからといってすべてをご破算にするわけにもいかないという、竜馬がいた維新以前ではなく、維新達成以降に問題は移っている。
西郷隆盛がいったように1度焦土と化す方が手っ取り早いわけだが、現実的にはそれが難しいわけだ。
つまり室町時代は世界との関係をそれほど切実に考えなくてもよかったから、ご破算にするための戦国時代に突入できたが、現在そうした無秩序を受け入れる余裕がない。
だからこそ次点の策として、国内外の治安と老後補償以外は国民に権限を復古させることが必要だと思うのだが、それが阻まれる。
つまり既存のシステム全体が「吏党」なのである。
その「吏党」を温存させているのが、昨今の民主主義が引き起こす錯覚だ。
「室町ふたたび7」で引用した、Putin の演説にその「民主主義」の本質が描かれている。
democracy is the power of the majority in light of the interests and opinions of the minority. 民主主義とは、マイノリティの利益と意見を考慮に入れた大多数の力。
一見卓見にみえるが、ここにも書いたように、認定された「マイノリティ」は「マイノリティ」ではない。
このマイノリティが民主主義の「民」を擬似的に作り出しているところに問題がある。
彼らも「吏党」なのだ。
今は、板垣のいう「民党」や「私擬憲法」を思い出すべきだ。
今という時代に「竜馬」が求められる不適切さが気に入らなかったのだ(竜馬の所為では全然なかった)。
確かに「竜馬」は現在必要にみえるかもしれない。
というのも現在の問題は過去の遺物処理にあり、その点竜馬の遺物に縛られない振舞は一見合致するようにみえる。
なんといっても昨今の政治家の言葉を聞いていると、彼ら自身が遺物である。
にもかかわらず一生懸命自分たちは遺物ではない、私たちにはまだ存在意義があると言い張って税金と称して金を集めている。
もちろん彼らだけでなく、いわゆる自民党の戦後60年体制を支えたほぼあらゆるシステムがそうした遺物であり、異物として排除すべきなわけだ。
しかしそんな絵空事をいっている場合ではない。
だからといってすべてをご破算にするわけにもいかないという、竜馬がいた維新以前ではなく、維新達成以降に問題は移っている。
西郷隆盛がいったように1度焦土と化す方が手っ取り早いわけだが、現実的にはそれが難しいわけだ。
つまり室町時代は世界との関係をそれほど切実に考えなくてもよかったから、ご破算にするための戦国時代に突入できたが、現在そうした無秩序を受け入れる余裕がない。
だからこそ次点の策として、国内外の治安と老後補償以外は国民に権限を復古させることが必要だと思うのだが、それが阻まれる。
つまり既存のシステム全体が「吏党」なのである。
その「吏党」を温存させているのが、昨今の民主主義が引き起こす錯覚だ。
「室町ふたたび7」で引用した、Putin の演説にその「民主主義」の本質が描かれている。
democracy is the power of the majority in light of the interests and opinions of the minority. 民主主義とは、マイノリティの利益と意見を考慮に入れた大多数の力。
一見卓見にみえるが、ここにも書いたように、認定された「マイノリティ」は「マイノリティ」ではない。
このマイノリティが民主主義の「民」を擬似的に作り出しているところに問題がある。
彼らも「吏党」なのだ。
今は、板垣のいう「民党」や「私擬憲法」を思い出すべきだ。