雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

民主主義という宗教4

2010-06-27 00:32:20 | アメリカ
以前示したように、竜馬とはもともと対立すべき人間ではないのに、なぜあんなにも反感を覚えたのかが最近やっとわかった。

今という時代に「竜馬」が求められる不適切さが気に入らなかったのだ(竜馬の所為では全然なかった)。

確かに「竜馬」は現在必要にみえるかもしれない。

というのも現在の問題は過去の遺物処理にあり、その点竜馬の遺物に縛られない振舞は一見合致するようにみえる。

なんといっても昨今の政治家の言葉を聞いていると、彼ら自身が遺物である。

にもかかわらず一生懸命自分たちは遺物ではない、私たちにはまだ存在意義があると言い張って税金と称して金を集めている。

もちろん彼らだけでなく、いわゆる自民党の戦後60年体制を支えたほぼあらゆるシステムがそうした遺物であり、異物として排除すべきなわけだ。

しかしそんな絵空事をいっている場合ではない。

だからといってすべてをご破算にするわけにもいかないという、竜馬がいた維新以前ではなく、維新達成以降に問題は移っている。

西郷隆盛がいったように1度焦土と化す方が手っ取り早いわけだが、現実的にはそれが難しいわけだ。

つまり室町時代は世界との関係をそれほど切実に考えなくてもよかったから、ご破算にするための戦国時代に突入できたが、現在そうした無秩序を受け入れる余裕がない。

だからこそ次点の策として、国内外の治安と老後補償以外は国民に権限を復古させることが必要だと思うのだが、それが阻まれる。

つまり既存のシステム全体が「吏党」なのである。

その「吏党」を温存させているのが、昨今の民主主義が引き起こす錯覚だ。

室町ふたたび7」で引用した、Putin の演説にその「民主主義」の本質が描かれている。

democracy is the power of the majority in light of the interests and opinions of the minority. 民主主義とは、マイノリティの利益と意見を考慮に入れた大多数の力。

一見卓見にみえるが、ここにも書いたように、認定された「マイノリティ」は「マイノリティ」ではない。

このマイノリティが民主主義の「民」を擬似的に作り出しているところに問題がある。

彼らも「吏党」なのだ。

今は、板垣のいう「民党」や「私擬憲法」を思い出すべきだ。

対待

2010-06-15 23:18:45 | 将棋・スポーツ
サムライに屈した不屈のライオン…カメルーン報道(読売新聞) - goo ニュース

日本勝利の報はもちろん嬉しかったが、ビジネスの上でも今日はこの話題があれば、最初の会話の糸口はつくれる。

口下手な僕としてはその方が嬉しくて、弁当箱を持っていなかったから、きっとスキップしたろうと思う(スキップすると弁当の中身がぐちゃぐちゃになるから)。

てなわけで、今朝も開口一番、「いやぁ、日本勝ちましたね」と始めた。

が、予想に反して先方は、明らかにムッとした。

「昨今じゃサッカーに興味がないといけないみたいですよね」

汗。。。

そのあとの話によると、サッカーはともかくお祭り騒ぎをするこの喧騒が好きでないらしい。

渋谷界隈で大騒ぎなど、単に乗せられているのがわからないのか、バッカみたい、なそうな。

別に僕はFIFAの弁護士でもないので反論せず、そんな社交上の一挨拶にそんな反発されても、と思った。

相手もちょっと申し訳なかったかと考えた模様だったので、親切心から今度は車の話にした。

レーザー溶接のことである。

欧州車なんかにはよくみられるが、車のバランスなどが矯正され、走り心地が違う。

ワーゲンなんかがエンジンを2000から1200にDownsizeしてもその力が変わらないとか、エンジン以外の仕様の工夫で、効率をアップするというのは素晴らしいですよね、といった。

するとその方はまた一瞬とまり、「男の話題といえば、車、次は時計かなんかですか?」という顔をしていた。

僕は、サッカーも車も人並み以下にしか関心がないから、関心が高い方に出くわして辟易することもあったが、マイナスの関心が高いのも困ったものだ、と苦笑せざるをえなかった。

いずれにせよこうした話題提供は必要なのだから、今度からもうちょっと無難な話題にしようと心に誓って次ぎに行った。

が、次ぎにいく途中で考え直した。

よく考えてみれば、World Cupというトピックは、それほど間違った話題選択とは思えなかった。

日本人であれば結構最大公約数的な話題ではあるまいか。

気を取り直して2人めもWorld Cupでいった。

が、今度はサッカー自体が「低俗」で「不愉快」といわれた。

今度も別にFIFAの弁護士に雇われたわけではないから、一応笑顔で「なぜですか?」ときくと、「スポーツマンシップのカケラもない」といわれた。

ここまでくるともう笑顔がうまく作れないようにも感じたが、反論する以前に、この方々は、日本人ではないと思った。

好きか嫌いか、そんなの個人的な問題だから、サッカーにスポーツマンシップがあるないで泥仕合をしても始まらないが、こうした2人の対応の仕方に、悪い意味での西洋的二項対立を感じた。

一方をとると他方が切り捨てられるのだ。

その点、陰陽の二元論というのはいわゆる「対待」である。

例えば男と女は異なるが、互いに魅かれ合うが故に「男女」とくっつけるのである。

逆に「人」と「ライオン」というカップリングは動物園かカメルーンくらいにしか現れない。

ほかにも「生死」や「日夜」のように違うけれどもお互いの存在があってはじめてその意義が強調されるといった東洋的受けとめ方はないものだろうか。

「尺蠖(せきかく)の屈(まが)るは、信(の)びんことを求むるなり」(『繋辞』)

とは、尺取虫が身を縮めるのは伸びるためだということだが、そうした関係のことである。

もちろん社交上でなく本当に近しい関係を築きたいなら主観をドシドシ出してよいとは思うが(もちろんエチケットは必要だが)。

いずれにせよ、サッカーの試合をみていて、こういう有機的な組織つくりを余儀なくされる場合は、いかに対待をその組織内につくるべきかが大事になるように思った。

存疑

2010-06-06 10:01:31 | アメリカ
竹中平蔵氏「世界的変化を直視することが日本再生の第一歩」(GLOBIS.JP) - goo ニュース

竹中さんの弱点は結局自民党寄りということだろうか。

法人税減税と規制緩和に不賛成ではないが、一面的であるように思う(そうした指摘を受けて「もちろんそのほかのこともやる」みたいな答弁をしたことがあるようにも記憶しているが)。

つまり竹中さんの案は、1に競争、2に競争で、消費者がいかにのびのびとするか、に触れていないのだ。

経済活動というのは、企業だけがよければいいわけではない。

客としての個人に、購買意欲を駆り立てるようなお得感と安心が必要である。

例えば、これは竹中さんの所為ではなく、舛添元厚生労働大臣の仕業だが、産婦人科に金が集まるような政策がとられた。

3千円を最小単位とする補助券で、国が費用の肩代わりをしてくれるという制度だが、僕が知る限りでは、産科が必要以上に妊婦に来院を要求して、しかも肩代わりをするはずなのだから減額されるはずの請求額が以前より高くなっている。

もちろんそこで文句を言おうものなら、専門家を嵩に押さえ込む。

~の疑いがあるから~の血液検査をなどと、それまでの出産ではいわれたことがないような可能性に言及してさも検査が必要であるかのように押さえ込むのだ。

こうした対応に当然妊婦は心配を余儀なくされるわけで、これが妊婦が穏やかに出産する環境作りといえるのだろうか。

企業はもちろん強くしなければならないが、同時にそれを下支えするはずの、企業人としてではない無名の購買者を優遇する措置も同時に講じるべきではないだろうか。

そういえば今日は竜馬の奥さんだったお龍さんの誕生日だが、彼女の手記をみていると、幕末の志士たちも所詮若者だったことがわかる。

お龍さんが、池田屋だったかで、仲居の仕事をしているとき、竜馬の奥さんであることを隠していたこともあったが、かなり志士たちがちょっかいを出してきた。

桐野利秋(薩摩藩士)は夜這いに入って、お龍さんの懐の短刀に驚き、その短刀から竜馬の奥さんだということがわかって、「坂本龍馬さんには黙っていてください」と頼んだらしいし、新選組の近藤もいれあげて、かんざしなどを送っていたそうな。

経済活動を活発にするとは、こうした表の顔でない、人間的な営みを円滑にすることではないのか。

竹中さんの「金持ちはマイノリティ」などという発言までみると、所詮彼は、大企業を支援者に持つ自民党の手先とみざるをえない。

お龍さんの一生、特に竜馬と死に別れてからの一見「寂しい」一生に興味が湧くのは、そうした表側では無名の購買者としての人間だからだ。

竜馬の正妻として名を馳せた彼女だが、その馳せ振りが仇となって海援隊からの援助はなく(横柄に見えたそうな)、土佐(竜馬の実家)にいけば煙たがられ(竜馬が頂くべき賞金の貰い手が坂本家ではなくお龍になってしまうため)、挙句再婚した相手の男が自らの妹かなんかと同棲され、ひとり寂しく死んでいく。

これがいわゆる有名なひとびとを支える購買者の一生なのだ。

僕がいうと単なる「ひがみ」といわれるかもしれないから、勝海舟の名を挙げよう。

勝海舟が面白いと思うのは、僕同様(僕と並べることに違和感があるひとは多かろうが)まず歴史が好きだということだが、そうした彼が好きな人物がそうした無名の購買者を安んじさせようとした政治家としての早雲、信長らであることだ。

僕は何も公明党のように金をばらまけといっているのではない。

たとえ無名の購買者でもお龍さんのように誰の世話にもならず、誇りを持って、虫けらのように死んでいく覚悟は誰でも持つべきだ。

そのために国は、災厄の面倒をみるにしてもいちいち介入すべきではない。

不運に見舞われている人間はいくらでもいて、どうしても不平等になり、国に対する信頼感が失せる。

少なくとも早急に基準をつくり、セールスマンや弁士がいるところだけ優遇されるような現状は変更すべきだ(どれだけの人間が自殺していると思っている?)。

竹中さんがいうように経済学の誕生は、自由な経済活動が可能になってはじめて生まれた。

それなら企業だけでなく、購買者側の自由も同時に考えるべきではないのか。

つまり高速道路の無料化といった特定のひとにしか恩恵を与えないような政策でなく、限りなく税を軽減して、個人の裁量を増やすべきだ。

追伸:カテゴリーの分類が「アメリカ」なのは、結局勝もそれに影響をうけた竜馬もいっていることは結局アメリカ的であるように思えるからです。

No Progress

2010-06-02 20:23:27 | 時事
沖縄「怒り頂点」、宮崎「断固戦う」 鳩山首相辞任で厳しい反応(産経新聞) - goo ニュース

ここに書いたことが杞憂に終わらなかったのが残念だ。

普天間基地移設問題郵政民営化問題などの個別の問題より、民主党には反自民的キャッチフレーズという地に足のつかない尊王攘夷運動みたいなものだから、実際をみる目など全くなかった。

しかし今回もっと悲しかったのは、鳩山さんに対するみんなのコメント。

非難するだけで、「私ならこうした」といったアイディアを披露するひとが全くいない。

相変わらず一億総批評家の国で、政治が変わるのは、政治家が変わることではないことが依然としてわからぬらしい。

政治が変わるには国民が変わらなければならず、民主党の勝利でやっと日本も二大政党制による西洋的議会政治がなどといっているのでは尊王攘夷運動をした幕末の若者と変わらない。

こういうひとにはまず岡倉(『渡る世間は鬼ばかり』の岡倉ではない)の『茶の本』を読んでほしい。

いずれにしろ国民の変化がなければ普天間移設問題は永遠に紛糾するだろう。

それから宮崎県知事の発言には、竜馬を思い出した。

例の紀州藩船との沈没事件のとき、竜馬はさかんに世論操作を利用した。

相変わらず宮崎の営業マンだ。