雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

D. I. Y.

2009-01-31 23:48:15 | 宗教
通勤途中にみかけるお店の看板に、お店の名前(固有名詞)+D.I.Y.とあった。

このD.I.Y.は何の略だろうと探した。第一感で思いついたのは、「ドンと行けよ Donto, IkeYo」だったが、同時に間違いなくそれはないと思った。

しばらくそこを通るたびにいろいろ思案をめぐらした。「どんぐりころころ…」でもだめだし、「ドッチボール、アイスホッケー、…」でもつづかなかったからあきらめていたが、木のテーブルを探しあてて、やっとその意味を知った。

Do It Yourselfだった。

写真のテーブルにしても椅子にしてもサンド・ペーパーをかけたりオイルを塗ったりといろいろケアが必要で行くようになった。

近頃では毎週行ってる気がする。

と同時に彫刻を始めた。

湯斗のご主人には「年をとった証拠です、しまいには仏像かなんか彫り出すんじゃないですか?」といわれたが、すでに仏像を彫り始めてるとはとてもいえなかった。

追伸:写真は欅のテーブルと、手前が山桜、奥が吉野杉の椅子。

Updike

2009-01-29 00:00:37 | 文学
John Updike が76歳で亡くなった。

Bostonglobe(12)、NY TimesWashingtonpostしかみてないが、それぞれにUpdike を語る言葉を提示している。

共通するのは、先日なくなったHarold Pinter 同様、彼が多作で多方面から飽くことなく書き続けたことと、すごくありふれたことを描き続けたこと、で、概してこれらに少しずつ味をつけた言葉を選んだといえる。

僕の感想も大して違わないが、挙げさせてもらうと、「生きることを選ぶひと」としたい。

人間というのはなぜか生きることを前提にしている。

死ぬことがわかっているのだから途中で投げ出したりするひとがもっといてもよさそうだが(つまり絶望したから死ぬのではなく、別に理由もなく死を選ぶという意)、生きることをなぜか暗黙の了解にしている人間を描く。

だからありふれた人間を書くことになるのだし、生きることで付録としてついてくるような、例えばグルメとかセックスとか野球とか、を書くのだが、そうしたことを書く意味を本当にわかっていて書いていた作家だと思っている。

残念ながら上記4つの記事にはそうした言及はなかったが、僕は文学ほど「生きることを前提にしている人間が作り出したもの」を感じさせるものはないと思う。

でなければこれだけ語彙がある説明ができない。文学の歴史は神話や叙事詩に始まるのだが、人類は総体としてすすんでいく、これを伝えようとした作家は、僕が知る限りでは、彼のほかにはメルビルくらいだろうか。

ほかの作家はすぐ主題をみつけていろいろ書き、文学史ほかをみれば、時代が経つにつれて、個人的なものになっていくわけだが、そうした偏った人間を描いているようでいて、人間の総体を描ききっていたのがUpdikeだった。

彼も偉大だった。

子守唄

2009-01-27 23:57:13 | 音楽
さっき Star Parker Responsibility (2) について書いてる、と記事を読んでいたら、母乳を与えていた妻が、「(赤ん坊が)寝ないから寝かせて」というので、「よしっ、神奈川の眠りの小五郎とはオレのことよっ!」と立ち上がった。

スクワットを使う選択肢もあったが、それは最後の手段だったので、小手先のテクニックと歌でなんとかすることにした。

しょっぱなに、坂本九の「上を向いて歩こう」、次に間違えないように「犬のおまわりさん」を歌ったところで、すでに娘は腕のなかで寝息を立てて寝ていたが、僕の方が歌い足りなかったので、そのまま歌い続けた。

でも全然満足できなかった。「やぎさんゆうびん」を歌っても「瞬きをせず」でもなんか歌い足りなかった。

そして何気なしに竹内まりやの歌(タイトル忘れた)に突入した。

♪見覚えのあるレインコート。。。昔愛してたあのひとなのね♪

これがなんだかはまった、というか、僕が発散したいものを吐き出すのにぴったりのメロディーだった!

♪懐かしさの一歩手前で、こみあげるにがい思い出にぃ♪

このサビの部分では完全に赤ん坊が腕のなかにいることは忘れ目をつぶって思いっきり歌い、以下の部分のときには歌詞に感情移入して涙が出そうだった。

♪あのひとの気持ち今ならわかるのぉ、痛いほど♪
♪わたしだけ、愛してたことぉ♪

歌い終わって満足しつつ目をあけると、腕のなかの赤ん坊が「何してるの?」という顔で見上げていた。

音楽は偉大だ。

リスペクト

2009-01-25 20:13:27 | 将棋・スポーツ
朝青龍が復活優勝 引退の危機はねのける(共同通信) - goo ニュース

何はともあれ両者ともいい相撲だった。

緊迫した強者の争いにはグッと来るものがある。

なんというか相撲というものときちんと付き合ってる、という感じ。

そういえば昨晩サッカーのカズがインタビューを受けていた。

武田に「大事にしていることは?」と訊かれて、

「サッカーに対するリスペクト、おろそかにしない気持ち」

と答えていた。

今自分の職業にしろ何にしろリスペクトをもってやってるひとはどれくらいいるんだろう。

朝青龍と白鳳にも同じものを感じた。

Responsibility2

2009-01-24 23:45:58 | 時事
Charles Krauthammer がObamaの演説について書いていた。

この忙しいのに彼の記事を読む気になったのは彼の記事の冒頭から、Obama もしくは彼のブレーンたちの意図が分析されると思ったからだ。

TVしかみていないが、Obama の今後に、人種差別問題のことなど期待してはいけないことはNAACPの仕事がないことからもわかるし、このリンク先記事からもわかるように、問題は経済格差で、どうしてHarvard を卒業するようなObama がAfrican American の代表とは笑わせる。

大統領、president、つまり「あらかじめ脇にいて」先導することが役割であれば、人種差別のような過去のスキャンダルをひきずった問題の立て方こそ、葬り去らなければならない。

そこで何をいうべきか。何をいって国民を鼓舞すべきか。

政治の演説でまず避けられるべきは、消極的、および規制的なものだ。轡をはめるのでは、人間は鼓舞されない。前向きな、積極的な路線を提示すべきだった。

が、それがみつからない。そもそも現状がそれだけ厳しいから、国民各自でそれぞれ対応せよ、としかいえないし、実際にそうとしかいってない。

しかし「金融にはルールを」と「国民それぞれガンバレ」では、国民を後押しする流れは作れない。

そこで、new era of responsibility というアメリカの歴史を全体的なテーマを置いて、演説全体の流れを最終的にプラスに持っていこうとした。

これはこれで評価できる。

問題はこの論旨を発見したことで満足したためか演説全体の各部分が冗長であることだ。

そこが少なくともKrauthammer に非難の糸口を見出させたのだろう。

僕に任せてくれたら、この手の内容なら、半分には縮められるだろう。というよりアメリカの大学でこのペーパーを出したら、成績は、B以上にはならないだろう。もちろんケムに巻くことが目的ならそれでいいかもしれないが、だとしても、Obama のライターたちよりはうまくやれる気がする。

もちろん僕は日本人だから問題はアメリカより日本だ。

麻生さんは僕を雇うつもりはないだろうか。もちろん小沢さんでもいいし、ほかの野党でもいい。

現在政治家に論じられている問題は本質的なものではないので、どこに入ってもおなじことだ。

政治家はその本質上言葉の技術が不可欠だ。なぜなら言葉を使うということは分類であり、分類の仕方を換えることでしか可能性を探しえないからだ。

その意味で税制ほか富の再分配を一生懸命算数で頑張っても回答は出てこない。

先日竹中さんが政治の現場は、目の前の問題への対策を考える現実的な場だといっていた。

僕もそう思う。そうであればこそ、日本も同様にnew era of responsibility という認識は不可欠である。

今日ははからずもリクルートになった。

百聞も一見も当てにならず

2009-01-23 23:14:55 | 宗教
子供ができたことで、僕はともかく妻は人間関係が広がった。

数十人単位で拡大され、妻によるとそのなかには「菊池桃子」とか「長澤まさみ」そっくりなひともいると言う。

「菊池桃子」とか「長澤まさみ」なら1度は会っておかなくてはなるまい。

というわけで偶然を装って、その女神たちがいるはずの地に赴いたが、そこには「菊池桃子」も「長澤まさみ」もいなかった。

そんなとき僕は妻を睨みつつ思う、あれが菊池桃子や長澤まさみならお前はオードリー・ヘップバーンだっ!と。

「百聞は一見にしかず」というが、聴覚だけでなく視覚も全然当てにならないことを人間は認めなくてはならない。

が、そんなことばかりじゃなく、啓発されることもあった。

一番忘れられないのは僕らより早く親になったひとの言葉で、僕らに、「親というのは自分の都合はなくなって一方的に子供に合わせるものだ」といった。

僕はこの言葉にひどく感銘を受けた。

実際これまでの10ヶ月以上、子供を自分に合わさせることはできなかった。

それまでは自分というものと他者との折り合いでいろいろなことが決まってきたが、子供との関係でそれは成立しない。

子供が睡眠時間が足りないと思えばこちらはトイレも我慢するし、子供が大便中であればこっちが食事だろうが一緒にフンバル。

しかもそれが苦じゃない。

よく通りがかりのひとに「(子供がいると)大変でしょう」とかいわれるが、そんなことはない。

睡眠時間が削られたり、湯斗の食事を味わう余裕が損なわれても、それを十分に補う満足を頂いている。

だから「大変でしょう?」などというひとに会うと思わず「あなたは自分の当てにならない聴覚と視覚を信じたIdler (怠け者)っ」といいたくなる。

Samuel Johnson によれば、「怠け者」とは自分の知らないことを知っていることのなかで処理するひとのことである。

あなたが子育てが大変だったからといってオレまでそう感じると決め込むのは怠け者である。

大体大変だと感じるのは、自分がしている労働が報われていないと感じるからだろうが、僕はそんな風に感じたことはない。

子供の存在だけで何か温かいものを感じる。

もちろん僕のこうした感情も当てにならない聴覚と視覚のなせるわざかもしれない。

先日おむつをはずしていたときに、娘が便を始めた。

お尻の穴から、ニョロニョロと出てきた。

思わず手で受け止めたが、よくよく考えてみればソフト・クリームが機械から出てくるのと大差ないじゃないかと思った。

いずれにしろ、百聞も一見も当てにならない。

Responsibility

2009-01-22 23:11:06 | アメリカ
努力と責任感で「どんな嵐にも耐えよう」オバマ大統領の就任演説 全文翻訳 <特集・オバマのアメリカ>(gooニュース) - goo ニュース

メディア各局が、Obamaの演説を集約した言葉に、New Era of Responsibility を選んでいるように思う。

確かにこの言葉が彼の演説の主題だと思う。が、これを「新しい責任の時代」と訳すのはどうなんだろう。

というよりresponsibility は、日本では平然と「責任」と訳されることが多いが、いつも違和感があった。今回も同様でそのように訳したら、Obamaの演説全体の意味もぼやけてしまうと思う。

つまりObama の演説に一本筋を通すのは、「責任」という日本語ではないということである。

昔一緒に仕事した外国人に、「日本人は責任感がない」といわれたことがある。

「なぜ?」と問うと、「例えば新宿で道に迷って助けを求めたとき、手を振って逃げてしまうんだよ。英語がわかるとかわからないとかじゃなく、行きたいところなんて指差せばわかるはずだし、不親切だよ」という答えが返ってきた。

すでに「責任」という言葉の輪郭が異なることにお気づきだろう。

Responsibility とは、able と ity がついているが、語幹はrespond で、「予期されるものを返す」という意味である。予期できるということは、対等の、同じ価値観を共有するもの同士が互いを尊重して応じあう意である。

アメリカが戦争する理由が、Voiceでの渡辺昇一と養老猛司かなんかの対話でいわれていたような、価値観を共有しない他者と対話しても無駄だから respond しないで、生き物全体が共有する伝達手段である「暴力」に訴えたからだとすると、今回の演説で new era of responsibility はそれを否定していることになる。

イスラム世界に対してもその価値を認め、共生するパートナーとするというのだ。

Obama がいっているのは、アメリカの歴史は、まさに共生する相手の幅を広げるた過程にあるといっている。

これはObamaに限らずアメリカの歴代大統領がほぼ必ずいうことだが、ひとつのアメリカ、共生する他者の集合体としてのアメリカを強調する。

もともと多様な人間が集まってひとつを作るというのが合衆国の意であることはずっと以前に書いたが、個々の人間がその共同体のなかにいるメンバーでいることを認識するところからアメリカが始まったわけだ。

しかしそうした理想にもかかわらず現実にはそうできなかった。人種問題をはじめ、イデオロギーでも相容れない相手には容赦ない対応をしてきた。

これはアメリカがまだ若く未熟だからであって、これからは一段階進んだ responsibility の時代だといっているわけだ。

しかし日本語の「責任」はそういうものではないから、あたかもアメリカが今までは負っていなかった負荷としての責務を「何か」背負おうとしているかのようにしかみえず、しかもその「何か」が何かさっぱりわからない。

「責任」ではなく、「新しい対話の時代」とか「新しい共生の時代」とでも訳した方がしっくりくるだろう。

ちなみに僕はこのアメリカの respond はとても好きで、というかもともとこれはアメリカの専売特許でもないと思っている。

ひとはもともと違い、そうした他人同士がつきあっていくには、相手としっかり対峙し、反応しあっていくことは必須である。

アメリカで使役動詞 make が避けられたり、無視や I don’t care. が嫌がられるのも同根の理由で、強制や何も応答しないことは相手に暴力を投げかけているに等しい。

更にいえば日本には「responsibility」自体の観念がない。「責任」という日本語は responsibility を可算名詞にした場合の一例でしかなく、しかも日本では「担当」を義務化したものにすぎない。(だから国際連盟の席を怒って立ったり、プラザ合意などをする)。

酒と言葉と音楽の渾然6:わざおぎ

2009-01-19 20:21:41 | 宗教
他人から認められるということは嬉しいことである。

なぜ認めてくれるかといえば、優れている(=excellent)点を見出したからだと思う。

一昨年だったか、イギリスで、過去にいじめられっ子だったのに、オペラの歌唱力で脚光を浴びたポール・ポットもさぞうれしかったろう(彼の魅力はよくいわれるように仕事としてではない音楽にあると思う)。

福沢諭吉っつぁんがいっていた、自らの仕事をみつけられるということは幸運である、というのは、自分の優れたところと仕事が一致していることでもあると思う。とすると、ポール・ポットが本当にプロのオペラ・歌手になったのだとすれば、自分が優れている点と仕事を一致させることができた幸運なひと、といってもいいのではないだろうか(たとえそれまでが不運であっても)。

が、僕も含めて仕事と優れている点が一致する方は少ない。

僕の場合それ以前に優れている点があるかどうかが問題で、そこから探らなければならない。

しかし今年は僕を「優秀」といってくれるひとが早くもふたりも出た。

ひとりがPさんPさん。今年はじめてPさんから年賀状を頂いた(というか僕が初めて出したから返事がきた)。

ここ3年、正月の最初に会うのがPさんだったから年賀状を書く必要はないと思って出さなかったが、かなりの有名人だけあって同僚はみな定期的に年賀状を書いていたらしことが今年わかった。

権威から守られている」僕としてはSさんの権威は眼中になかったので、お会いした当初はつまらないコミュニケーション上の問題でぶつかって一時口を利かなかった。口うるさいじいさんだ、と思っていた。

スペースいっぱいに文字が入るだけ入れたという感じの年賀状には「君のように優れた若者と出会えたことは貴重な経験だったと思っています」とあった。「だから毎年忘年会やろう」と(笑)。「なんで去年は電話してこなかったんだっ!待ってたのにっ!」と。

ここで問題になるのはPさんが「優れている」と認めた点がどこかということである。

それは、酒が問題なのではなく話ができる、ということだけだった(僕にとってもしたい話ができるひとはこのひとくらいしか現在いないかもしれない)。

いってくれたもうひとりは、僕にとって姉御肌の情熱的な女性。そのひとも僕に会うたびに「優秀」といってくれたが、そのひとのいう優れている点は、「やさしい」という意味でいわゆる「頭が切れる」という意味ではなかった。

日本語の「優秀」が excellent と同義なら、「傑出している」ことを表しているわけだから、ふたりともその用法に間違いはない(ただしどちらの意味で僕が優秀でも職に結びつかないように思うが)。

ついでながら今年の正月は僕が「優れている」酒造会社をみつけた。

和歌山の黒牛である。

何がいいって、今年の干支が牛だからではなく、後払いで商品を送ってくれるところ。

以前も書いたが僕は流通の会社をあまり信用していないので(皆無ではないが)、直接酒蔵から購入するのだが、直接連絡してみると、もともと地産地消で県外には出荷しないが、ほしいのでしたらお譲りします、ということで、商品を先に送ってよこした。

イロハという酒は飲みやすさを売りにしてるだけあってあっという間に飲めたが、室町みたいな治安がちぐはぐな時代に、後払いとは天晴れだった。

ちなみに「優秀」と excellent とは似ていても意味の成り立ちは少なからず違う。

Excellent は上記の通りその意味でいいのだが、「優」は、人偏に「憂」で、「憂」とは「頭も心も足も滞る」から「憂い」になり、「憂うひと」ということになる。

僕はそれなら「優れている」かもしれない。

カシミヤ

2009-01-17 17:04:28 | 宗教
僕は冬は顔まですっぽりくるまって眠る習性がある(顔をつめたい空気に曝したくないから)。

そのためかすでに布団をかぶっているのに布団を頭の方に引き上げてしまう(たぶん顔に布団がかかっていないと安心しないのだろう)。

だから結果的に夜半を過ぎると、足が出てしまって、寒い。

が、今年はその悪癖を克服する防御策を購入した。

サイズがダブルの毛布を購入したのだっ。

きっかけは、毛布が古くなってきたので新しいのをみにいったときのこと(昨年秋)。

先日の木のテーブルの話じゃないが、毛布というものはどれほど奥が深いのだろうと店員さんに聞いてみた。

一番いい毛布どれですか?

取り敢えずお店で一番というやつをみせてくれた。が、僕にはそれがどの程度よいか知る方法が価格しかない。

しかたなくチラリと値札をみた。3万円とあった。

ほお、まあ高いといえば高いし、こんなものかともいえるし、というか結局なぜ安いものと高いものとの差がわからないことに気づいた。

そこで「どうしてこんな差が?」と訊いてみた。

「素材ですね」と店員さん。「カシミヤなんですよ」

カシミヤの名は知っているけど、具体的にどこがすごいのか知らなかったので訊いてみた。

店員さんは仕方ないという顔をして、奥に入り、毛布を持ってきた。「これならわかるでしょう。」という。それがこの店で本当の一番らしかった。値札をちらとみると、5万とあったような気がした。

あったような気がしたとは、本当によくみたら、50万でそのまえにみていたのが30万円だったからだ。30万のを触ってもよさがわからなかったからきっと50万を持ってきたわけだ(まだまだ上には上があるそうです)。

触ってみると、なんという手触りだろう!CMである洗剤を使って洗ったタオルに顔をこすりつけてうっとりするのがあるが、あれの感じに似ていた。

へぇ、カシミヤってこんななんだ、と驚き、これが「カシミヤの凄さなんですね」というと、店員さんが「それもそうですが、一番はやっぱり温度調整をしてくれることですね」という。「動物の毛なんで。」と付け加えた。

「温度調整するんですか?」

「暑いときは抜いてくれるし、寒いときは保温性が高まります」

しかしどんなによくても買えないなぁこんなの、という気持ちがつい顔に出てしまったらしい。店員さんがすかさず「ま、無理ですよね」といった。

ここで「無理とはなんだ無理とは!別に買えないことはないぞっ!そのかわり明日から当分日本の本来の食糧自給率で用意できるお米1膳とメザシになるけど」とイラッと来たのは若気のなんとかであった。

僕のそんな感情を無視して、店員は奥に引っ込んでまたなんか持ってきて、これならなんとかなるというかお買い得な商品があるんですよ、といった。

カシミヤと普通のウールが50%ずつのもので、定価5万が8千円だった。

なんでこんなに安くなってるのかと訊くと、なんでもダブルの規格の毛布が終わりなので処分用ということだった。

毛布が温度調節というのがなんとなく信じがたかったが、モノはためしなので、買ってみた。

すると秋の時点ではかなりスースーして涼しいというより涼しすぎる感じで、冬は大丈夫だろうかと心配していたのだが、冬になってみると、確かにすごい保温性でヌクさが尋常でなかった。とにかく熱さまでが感じられるほどだった。

しかも上記の通りダブルで僕の悪癖も克服してくれる。

いい買い物をした(次買うときは、カシミヤ100%にしたいとまじめに思った)。